言葉の知らない草原で 〜未知の言語の世界で生きる〜
ケンタ~
第1話 知らない言葉の草原で
「トゥルサキ、トゥルサキ」
ん……呼ばれてる。
この、妙にうまくいっていない俺の名前の呼び方も、ずいぶんと慣れてきたものだ。
「あー、はいはい、起きますよ」
そう言って、俺は伝わっていないことを分かっていながらも、自分の体の上にかかっている黄色いシーツを押しのけた。
目を覚ますと、白い布に囲まれた空間の中。
部屋の中心には、パチパチと音を立てる暖炉がある。
そして、それを中心に囲むように配置された、木製の小さな家具の数々。
奥に見える、青い不死鳥をかたどった刺繡による荘厳な芸術作品。
これで、この景色を見るのも何度目だろうか。
木製のベッドから足を下ろして、俺は大きく伸びをした。
ぱきっ、と小さな音が一つなるだけ。
ここで生き始めたころから、体中の調子がすこぶるよくなっている。
肩こりだってとれたのだ。それに、日々の生活はとてもゆっくりで、それでいて充実している。
「まあ、でも、ちょっと暇すぎるかなぁ……」
うーん、と一息をついて、俺はそう言った。
すると、どんどんっ、と木の扉を強く叩く声が聞こえた。
「トゥルサキ!
「ああはいはい、
そう言って、俺はガチャリと扉を開いた。
最初は問答無用で突っ込んできたのに、今ではノック(かなり強め)で済ませてくれるのは、この人なりの温情というものなのだろう。
出てきたのは、黄色い装束に身を包んだ女の人だった。
「トゥルサキ、
「
とても綺麗な女の人だ。ただし、年は俺より二十も上である。
そんな彼女は、手にしていたものをばっと俺の方に向けて見せた。
「
「はいよ。
そう軽く返事をして、俺は彼女から、木製の縦長の筒を受け取った。
すると、ばっと振り返って、彼女はもう歩いて行ってしまう。
それについて、俺も歩いて行った。
雪解け後の、寒い春先の空気。思わず、空気が白くなってしまう。
この肌に染みる寒さも慣れてきた。
この民族に貰ったふかふかのブーツでそんな草原をじゃっじゃっと踏み歩きながら、俺はそんなことを思う。
周りには、円形の白い布に囲まれた、大きなテントのようなものがいくつも立っていた。
俺がここに来たのは、三か月前のことだった。三か月と言ってももうあいまいだ。一カ月が過ぎたころから、もう数えるのもやめている。それに、ここに居る人たちも暦らしい暦を使っていないから。
なんでこんなところに来たのか。それはよくわからない。ただ、ここが俺の住んでいた場所とも、時代とも全く違うという事は、はっきりわかっているだけだった。
「トゥルサキ、
「ねえ、
「おーう、
向こうの方から、薄手の防寒具に身を包んだ子供たちがきゃいきゃいと走ってくる。
その子たちに向かって、もう慣れた決まり文句を口にする。
「
「
「
そんなふうにして、子どもが去って行って、俺と先導してくれる女の人は目的の場所についた。
そこは草原の中で、多くの人々が集まる場所だった。
老若男女、頬に皺を蓄えた老人から、まだ成人式もしていない女の子まで、その場に座っている。
そして、皆糸と棒と金属片を手にして、細やかな作業を白い息を吐きながら行っていた。
俺を先導した女の人は、そこにさっさと座って作業を始めてしまう。
「オー、トゥルサキ!
誰かがそんなことを言った。
それに一斉に気が付いた人たちが、俺の方に一斉に顔を向けて、ばっと手を振ってくれる。
そして、そんなことをするみんなはとても笑顔だった。
「トゥルサキ!
「
「あー、
そんな集団の中の一つに俺は腰を下ろして、皆と一緒に作業を始めた。
動物の皮膚や腱から編んだ太い糸、それから森から折って削った棒、それにどこかからか仕入れた金属片。それらを結んで束ねて、一本の矢を作る。
「ヤッ、トゥルサキ!
「あ、
若い一人の仲間が、俺にそんなことを言ってくれて、どうやら矢じりに間違いがあることを伝えてくれる。
ふう、とそれを修正してそこに置いて、俺はみんなを見回した。
総勢、三十人以上の人々だった。
俺の、いるこの民族。
彼らは、ターテイェと言うらしい。
彼らの意味で、『地を歩くもの』。
どことなくモンゴル民族に似ていて、そして遊牧民族である彼らは、馬と羊を飼育して暮らしているらしい。
そんな彼らに、俺は拾われた。
拾われたと言っても、冬の雪の中で死にかけているのを何とか助けてもらった立場だが。
そんな彼らは、まず言葉も通じなければ、文化も全く分からなかった。モンゴル民族に似ているとは言うが、そもそも俺はモンゴル民族なんてN〇Kで紹介番組を見たことしかないし、そもそもモンゴル語も知らない。
ていうか、そもそも彼らがモンゴル民族なのか、しゃべっているのがモンゴル語なのかも、全く分からないのだ。
彼らの話す言葉は、『ヘーメ』。これで、『話すこと』を意味するらしい。
まあ、彼らの言葉に接して三か月。その中で生きていて、何とかいろいろと言葉は習得した。もちろんわからないことも多い。それに、彼らには文字もない。
だからかつて慣れ親しんだ文字によるお勉強もできなければ、文字による意思伝達、ある程度の意味推測もできなかった。
だから、彼らの言葉を習うには彼らと話すしかないのだった。
一人ひとり、話し方の癖も早さも抑揚も違うなかで、何とか共通性を見つけて学ぶ作業。
単語の区切りとか格変化とかも全く未知。
そんな中で、よくも三か月持ちこたえたものである。
しかしまあ、逆に言えば、分からなくとも三カ月はマトモにやっていける状況だったという事である。こんな、現代社会でくすぶった俺みたいな人間でも、生きている時間。
でも、これからは、どうもそうでないらしい。
今は、どうやら有事であるらしかった。
今、この矢を作っているのがその証拠だ。
戦が近いのだ。
戦、彼らの言葉では『ティーディ』。
激しく走りぶつかり合うことを意味するこの言葉が、先ほども何度か出てきた。
『ティーディ』は、子どもの小競り合いから大人の競争まで幅広い意味を持つ。だから最初は、『ティーディをする』と言われても、あまり重い意味ではないのではないかと思っていた。
しかし実際は違った。
これからするのは、その中でも『グーティーディ』。『グー』は悪い事や暗いことを意味する言葉。つまり、悪い争いと言えばもう戦争である。
せめてまあ、戦争が悪いということを意味する民族にいてよかったというべきか。
古代ギリシャのスパルタ的な場所に来ていたら、三か月も生きていたかわからないだろう。
そしてどうやらそれに、俺も参加する流れであるらしい。
あまり戦争の概要はつかめていない。
あまりにも、その説明は俺にはなじみのない言葉ばかりだったのだから。
しかしどうにも、『アーターヤ』というかなり高貴な身分の人がいて、その人が決めたことであるらしい。
まあ、たぶんどこかしらの民族との闘争とかだろう。
そして、その下準備を、俺たちはしているのだ。
三本目の矢を作り終わったところ(三十分くらいかかった)で、再び俺に声がかかった。
またさっきの女の人だ。
そう言えば、この人の名前は『モサ』。まあモサっていうのは『お母さん』的な立場の意味合いらしいんだけども、そう呼べと言われたのでそう呼んでいる。
「トゥルサキ、
「
「
「わかった」
こくりと俺はうなずいて、その場を立ち上がった。
「トゥルサキ、
「ああ、
「オオ、
さっき俺に矢の不備を教えてくれたヤツ(名前はケーヨ)が、にやりと笑って手を振ってくる。
この手を振るという行為、実は俺が持ち込んだ動作で、もともとこの人たちはしない。
しかしなぜかどうにも流行ってしまったようで、こんなふうに手を振るときは、何か含みがあるやり方なのだ。
ていうか、面白がって広めたのはこいつみたいなものなのだけれども。
俺も適当に手を振り返して、目的の存在がいるであろう場所に向かって歩いて行った。
向かう場所は、草原の奥、かすかに褐色が群がっているのが見える場所。
俺は唇を舐めて、そしてそこに、自らの人差し指を曲げて差し込んだ。
そして、一気に思いっきり、息を拭く。
「ピュイ―――――ッ! ピュイウイウ―――――ッ」
すると、そこに見える褐色が、一斉に動き出す。
そのうちのほんの小さな一つが、俺の方へ向かって、素早い速度でやってくるのだ。
それは、この民族の言葉で『セティーリリ』と呼ばれ、『強き四本足の動くもの』というかっこいいネーミングを冠する生き物。
とどのつまり、まあ、馬だった。
「ぶるるっ」
そんなふうに口を鳴らす褐色肌のそいつは、俺がこの民族から貰った一頭の馬。
褐色肌に、白い鬣の黒い目の馬。
名前は『モーターカー』。
思いつかなかったのでとりあえずその場で着けた一時的な名前だったのだが、変えるタイミングが見つからず、ていうか変えなくとも誰も意味が分からないので、なぜかそのままになってしまった。
それに意味を教えろと言っても全くムリということくらいしかデメリットもないので、こいつの名前はおそらく今生ずっと『モーターカー』ということになる。ごめんなモーターカー。
せめてもうちょい日本語っぽい名前を付けたほうがよかったかもしれない、と今になって後悔している。
「じゃあ、今日も頼むぞモーターカー」
そう言って、俺はそいつの背に手を付けた。
馬、とは言っても、俺の見たことのある馬よりはよっぽど小さい。
サラブレッドはとても一人で乗れる大きさじゃないほどデッカイが、こいつの背は俺の胸くらいしかない。ので、何とか自分で乗れる。
ひどいことに、この民族には鞍というものすらない。馬の背を全力で脚で挟み込んで、思いっきり踏ん張るしか乗る方法がないのだ。
おかげでマトモに乗るのに一か月以上かかった。それと股下の皮膚がものっすごく分厚くなった。最初は皮膚が擦れて毎晩男の尊厳を失うような思いをして苦しんで寝ていた。
「ピュイっ、行けっ」
背の上に乗り指をくわえて小さく鳴らし、ポンと首筋を叩いてやる。
すると、モーターカーはとことこっと軽い足取りで発進をしてくれる。
「こっちだ」
そう言って、鬣の根元を軽くを右の方に引っ張ってやると、モーターカーの方もそれに合わせて曲がってくれる。
「よし、行けっ! ピュイゥーッ」
すると、今度は全力で馬体が胎動して、びゅうっと頬に風が吹きつけてきた。
これで襲歩だ。
小さな体が大きく飛んで、おそらくこの世界の中では最高速の速度で草原をかけていく。
どどっどどっ、と音がする。
最初の方はこの速度にビビりまくっていた記憶があるのに、不思議なものだ。今では股関節がものすごく頼もしく俺の体を支えてくれている。
心地の良い風の音を感じながら、俺はモーターカーと一緒に、東の方角へと駆けて行った。
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