いつか夢見た白に告ぐ

文鳥

いつか夢見た白に告ぐ

 本当の幸福には、それが誰のものであっても思わず笑んでしまうような魔力がある。その証拠に、柔らかな光に満ちたこの場の誰もが嬉しげに目を細めていた。例外といえば、真白い花嫁と腕を組み、これまた白いバージンロードを歩く父親くらいだろうけれど、それだって幸福の別の形でしかない。晴れやかな笑みを覆う淡いベールも、飾りがなくシンプルながら可憐なシルエットのドレスも、花嫁たる彼女によく似合っている。白を基調としたチャペルの中に在ってなお輝かしく滑らかなサテン。きっとこれがこの瞬間、世界で一番眩い白だ。うるさい心臓の音を煩わしく思いながら彼女を見つめるうちに、ベールが映える栗色の髪と記憶の中の黒い髪、その間隙に絡め取られ、かつての光景が脳裏を駆け抜けた。




 その日はいつも通りに、彼女の家の居間の床に二人で座っていた。テレビドラマを聞き流しながら、手元のゲーム機に向けていた顔を挙げると、画面の中で、純白のドレスを身にまとった女性が綺麗に笑っている。先ほどまで手に汗を握りながら展開を見守っていた彼女は感極まったように目を潤ませていた。どうやら物語は文句なしのハッピーエンドだったらしい。

「もう最終回って思うと寂しいけど、面白かったなあ。特に最後の結婚式のシーン、すっごく素敵だった」

 あそこがよかった、あれが素晴らしかったと興奮のままに言い募っていた彼女が、ひときわ弾んだ声で口にした言葉になぜだか心臓が跳ねた。

「お前も、ああいうの着たいの」

 心臓の動きに釣られて奇妙にぎこちない言葉が口から零れ落ちる。こちらに体を向けた彼女の顔を見られなくて、止まったままのゲーム画面に視線を落とした。

「もうっ、お前なんて言っちゃ駄目でしょ。あーあ、ついこの間まではお姉ちゃんって呼んでくれてたのになあ」

「なっ、いつの話してるんだよっ」

 カッと顔が熱くなり、思わず大きな声が出た。弾けるように顔を挙げると、彼女は目を瞬かせた後にくすくすと笑った。いたたまれなくなって目をそらすと、まったく悪びれない様子で謝られる。

「ごめんごめん、でも、そうだなあ、うん」

 珍しく歯切れの悪い言葉の続きを待つ。彼女が軽く俯いた拍子に黒い髪が肩から零れ落ちた。

「やっぱり、憧れるよねえ」

 そっと長い睫毛が伏せられて、はにかむように唇が緩く弧を描いた。仄かに染まった頬に気がついた途端、訳もわからぬままに鼓動が速くなる。

「まあ、似合うんじゃないの、たぶん」

 本当は他に言うべき言葉があるように思えたけれど、彼女があんまり嬉しそうに笑うものだから、俺はすっかり気を取られてしまって、終ぞ何を言うべきだったのかわからなかった。



 

 小さな花束を手にした花嫁が招待客に背を向ける。青と白で纏められた幸福の象徴は今日の空によく似ていた。皆が思い思いにわかりやすく気合を入れては、あちこちから笑い声が上がる。未婚の女性だけでなく、男性も、既婚者も、幼子も、老人も、たった一人の一挙手一投足を見守っていた。そしてその時は訪れる。しなやかな腕が振り上げられて、花束が一瞬、晴天に紛れた。軽いそれは風に乗って、花嫁に比較的近い位置にいた集団の上を通り越す。そして、少し離れたところに立っていた、降ってきた。腕の中に納まったそれを呆然と見つめてから前方に目をやると、みなこちらを振り返って目を丸くしている。動揺したまま花束を投げた今日の主役のほうを向くと、彼女も少し目を見開いて、いつかの面影のままに笑った。その笑みを、瞳を見た瞬間に、あの日、早鐘のように心臓が鳴ったわけを理解する。


 恋をしていた。ひどく身勝手で拙くて、とても幸福な、恋をしていた。


 知らず胸をなでおろす。

 気づくのは今でよかったのだ。目を逸らしたり、駄々をこねたりするほどの幼さからは脱していて、たらればに固執するほど年を重ねたわけでもない。だからこそ俺はきっと、この人をきちんと思い出にできる。惚れた人の顔を曇らせずに失恋できる。

 嗚呼なんと幸運なことか!

 目を輝かせながら寄ってきた少女に花束を譲り渡し、降り積もる祝福の中心を眺める。あの日かけるべきだった言葉が見つかっても、それが日の目を見ることは永遠にない。それでいいのだ。きっといずれ、今日という日のことを笑って話せる時が来るだろう。気づいた瞬間に失った恋を、世界一幸福な失恋の話を。いつか、彼女も、彼も、俺も、すっかり髪が白くなるころに。


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いつか夢見た白に告ぐ 文鳥 @ayatori5101

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