新説・コトリバコ

花柳響

新説・コトリバコ

 圭一が消えてから、もう半年が経つ。

 僕は昔から、輪郭の曖昧なものが苦手だった。空に浮かぶ雲のかたち、人の掌に何の法則もなく刻まれた皺、あるいは、コーヒーカップの底に残る、乾いた染みの模様。それらは僕の意識の表面を不快に逆撫でした。だから僕の部屋では、本も、ペンも、リモコンさえも、すべてが棚や机の縁と平行に、定規で測ったかのように置かれていないと落ち着かなかった。埃一つない床に落ちた一本の髪の毛が、完璧な平面に走った亀裂のように見えて息が詰まる。圭一の失踪は、僕のその小さな世界の秩序に、決して塞ぐことのできない、不格好な「穴」を開けた。それは、純白の画用紙に落ちた、取り返しのつかないインクの染みだった。

 警察は家出として早々に捜査を打ち切り、彼の家族はただ、その帰りを待っている。だが僕は知っている。彼が自らの意志でいなくなったのではないことを。彼が、一つの「物語」に呑み込まれてしまったことを。すべての始まりは、あの黒い寄木細工の箱だった。僕の脳裏には今も、圭一の最後のメールの文面と、もぬけの殻となった部屋の、冷蔵庫のモーター音だけが永遠に時を刻むかのような、あの静寂がこびりついている。

 都内の大学で民俗学を専攻していた圭一は、近代化がゴミ箱に捨ててきた迷信や禁忌といった「物語」の残骸に、病的なまでの執着を見せていた。彼の目的は、それらをフィールドワークによって採集し、物語の背骨を抜き取り、その脆弱な構造を嘲笑うことだった。神話を解体し、呪詛を分析し、禁忌を分類する。それは、この世界のあらゆる非合理を自らの知性の下に平定しようとする、若く傲慢な支配欲そのものだった。

 その根源は、幼い頃に彼が経験した、一つの死にあった。理由も分からず死んでしまった飼い犬。彼はその亡骸を執念で庭から掘り起こし、小さな骨の一つ一つを丁寧に繋ぎ合わせ、完璧な骨格標本に組み上げてガラスケースに収めた。理解できない「死」という理不尽な現象を、分解し、再構築し、理解可能な「モノ」へと変換すること。それだけが、世界の裂け目を塞ぐ唯一の方法だと、彼は信じていた。

 卒論のテーマに「辺境における禁忌と呪物の伝播様式」を選んだのは、必然だった。

 そのフィールドワークとして、圭一は八月の初めに、母方の実家がある島根の山間部へと赴いた。そこは、東京という都市の過剰な光と情報から隔絶された、時間の澱が粘性を帯びて溜まる土地だった。

 彼が例の木箱を発見したのは、帰京を二日後に控えた、すべてが白んで見えるような蒸し暑い午後だったという。祖母の家の離れにある、今は物置として使われる蔵。一歩足を踏み入れると、光だけでなく、音さえも吸い込むような、粘り気のある闇が全身に絡みついた。空気そのものが、何十年も澱み、圧縮された結果、質量を持っているかのように重い。呼吸をするたびに、埃と乾いた木材の匂いに混じって、干からびたカブトムシの死骸が土に還るような微かに甘い腐臭と、もっと古い、獣の脂が腐り落ちたような生臭さが肺を満たした。その奥、古い桐箪笥の一番下の引き出しに、それは、まるで闇そのものが自らの重みで凝固したかのように、眠っていた。

「あれは、呪いというより、一つの完成された沈黙だった。それ自体が、問いも答えも拒絶しているような、絶対的な存在感があった」

 後に僕のアパートで、彼はそう語った。その顔には、学問的な発見者の持つ昂奮と、美しいものに触れた者の陶酔が危ういバランスで同居していた。指先が、何かに取り憑かれたように微かに震えていたのを覚えている。

 一辺が二十センチほどの、黒柿と思われる深い黒褐色の地に、欅、桜、楓といった様々な木材が、複雑怪奇な文様を描き出す寄木細工の箱。その文様は、静止しているはずなのに、視界の端で僅かに蠢くように見え、凝視しようとすると、目の焦点だけを奪い取られていくような、奇妙な感覚をもたらした。表面は長年の時を経ているにもかかわらず、まるで濡れているかのように滑らかで、その冷ややかさは生物の体温を吸い上げていくようだった。指先が触れると、そこだけが局所的に凍傷にかかったかのように、感覚が麻痺するのだという。蓋と本体は完全に密着し、合わせ目を見つけることすら難しい。それは工芸品というより、ある種の執念が凝縮し、自己完結した、完璧なオブジェだった。

 圭一は、その沈黙の塊を、自らの知性でこじ開けられると信じた。

 彼はそれを埃まみれの腕で抱え、蔵の暗闇から引きずり出した。箱は、見た目の大きさに反して、ずしりと重かった。まるで、中身が木材や空洞ではなく、湿った粘土か、あるいは鉛のような高密度の物質で満たされているかのように。表面の冷たさは、蔵の湿った闇の中よりも、外光の下で一層際立った。じっとりと汗が噴き出す真夏の午後であるにもかかわらず、箱に触れている指先だけが、まるで死んだように感覚を失っていく。

 母屋へと戻る短い道のり、蝉の声が頭上からシャワーのように降り注いでいたが、圭一の耳には、その音が奇妙に遠く、薄い膜を一枚隔てた向こう側で鳴っているかのように響いた。彼の意識は、腕の中にある黒い箱に集中していた。太陽の直射光の下でさえ、その黒柿の表面は光を反射するというより、むしろ周囲の光を吸い込んでいるように見えた。そして、あの幾何学的な文様が、目の錯覚だと分かってはいても、まるで呼吸をするように、微かに、ゆっくりと隆起と沈降を繰り返しているように思えた。

 縁側で、編み物をする手を休め、麦茶を飲んでいた祖母が、彼の姿を認め、皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべた。

 「なんね、圭一。蔵でまた変なもんでも見つけたんか。埃だらけじゃ」

 その声が、圭一の耳に届いた瞬間、まるで別世界から引き戻されたような感覚があった。彼は昂奮を隠しきれないまま、祖母の前に歩み寄り、腕の中のオブジェを誇らしげに掲げてみせた。

「ばあちゃん、これ。蔵の奥の箪笥に……」

 そこまで言いかけた時だった。

 祖母の顔から、色が抜け落ちた。

 穏やかだった目が見開かれ、その黒い瞳が、圭一が抱える箱に釘付けになる。皮膚が、まるで古紙のように乾いて強張り、指先が細かく痙攣を始めた。祖母の唇が、何かを言おうとして、声にならない空気だけを漏らす。

 カシャン、と乾いた音がした。

 指先の力が抜け、持っていた湯呑みが手から滑り落ち、乾いた音を立てて畳の上に転がった。溢れた茶が、染みとなってじわりと広がっていく。しかし、祖母はそれに見向きもしなかった。彼女の全身が、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。それは恐怖というより、彼女の身体の奥底に刻まれた、世代を超えて受け継がれてきた記憶が、最大級の警鐘を鳴らしているかのような、根源的な拒絶の色だった。

「……なんね、それ……どこにあった」

 絞り出すような声は、普段の穏やかな祖母からは想像もつかない、硬く、冷たい響きを帯びていた。その声の異様さに、圭一の昂奮もわずかに冷や水を浴びせられる。

「え……? いや、だから、離れの蔵の、古い箪笥の一番下の引き出しに……」

 圭一が戸惑いながら答えると、祖母は「馬鹿たれが」と、これまで聞いたこともないような低い声で吐き捨てた。

「それは……『コトリバコ』じゃ」

 その名を、祖母はまるで石でも吐き出すかのように言った。

「家の女ども、子を産む腹、生まれ出る赤子に仇なすもんじゃ。開けちゃならん。触ってもならん。家の中に置いとくだけで、禍を呼ぶ」

 祖母は縁側から這うようにして立ち上がると、圭一からひったくるようにしてその呪物を取り上げようとした。だが、その皺だらけの指先が、箱の表面に触れる寸前、まるで灼熱の鉄に触れたかのように鋭く手を引っ込めた。

「熱っ……!」

 実際には、箱は氷のように冷たいはずだった。だが、祖母にはそう感じられたらしい。彼女はまるで汚物でも見るかのような目で箱を睨みつけ、圭一に厳しく命じた。

「明日、朝一番で、山の神社に持って行け。宮司さんに事情を話して、お祓いしてもらうんじゃ。ええか、絶対に中を見ようと思うな。お前のためじゃない。……柚月のためにじゃ」

 柚月。圭一の五歳年下の妹。春から都内の専門学校に通うため、彼のアパートで同居を始めていた。その名前が出たことに、圭一は一瞬、眉をひそめた。

 だが、圭一は、祖母の言葉を、近代化から取り残された古い迷信として処理した。むしろ、「コトリバコ」という、民俗学徒の彼でさえネットの都市伝説で聞きかじったことのある名を与えられたことで、彼の知的好奇心は猛烈に掻き立てられた。まさか、あのネット怪談の原型ともいえる「本物」に遭遇するとは。

 彼はこの貴重なサンプルを、その禁忌の構造ごと解体し、論文という形で白日の下に晒したかったのだ。

「わかったよ、ばあちゃん。明日、必ず持って行くから」

 彼はそう言って祖母を安心させようとしたが、その目は笑っていなかった。学問的探求心という名の傲慢さが、彼の理性を完全に支配していた。

 その夜、圭一は自室で帰京の荷造りをしていた。祖母はまだ、居間でぶつぶつと何かを唱えているようだった。彼は衣類の底に、あの黒い箱をそっと忍び込ませた。部屋の豆電球の薄明かりの中で、箱の文様が、暗闇そのものよりも深く、濃く見えた。

 それは、古代の憎悪が、近代という無菌室へ侵入した瞬間だった。

 東京に戻った日、アパートの自室のドアを開けた瞬間、圭一は島根の家とはまったく異なる空気の「軽さ」に、わずかな眩暈のようなものを感じた。むせ返るような土と植物の匂い、時間の澱。そういったものが一切希釈された、乾いた埃と排気ガスの匂い。それこそが彼の日常だったはずなのに、数日ぶりに触れたそれは、ひどく表層的で、頼りないものに感じられた。

「あ、おかえりー。お疲れサマ」

 リビングのソファで、ヘッドフォンをつけてスマホをいじっていた妹の柚月が、彼の気配に気づいて顔を上げた。春から同居を始めた彼女は、明るい茶色に染めた髪を揺らし、屈託なく笑う。その現代的な、何の陰もない笑顔は、圭一が島根から持ち帰った「モノ」とはあまりにも対極にあった。

「おう。ただいま。ちゃんと食ってたか?」

「コンビニ飯だけどね。あ、ばあちゃん元気だった?」

「ああ、ピンピンしてたよ」

 圭一は曖昧に答えながら、重いボストンバッグを自室に運び込んだ。その重さの大半は、あの黒い箱が占めている。祖母のあの尋常ではない怯えようを思い出すと、さすがに胸の奥がわずかにざわついたが、それも東京の空気に触れればすぐに霧散していく迷信の類に思えた。

 彼はバッグの奥底から、衣類に包まれた箱を取り出した。アパートの白い蛍光灯の下で見るそれは、蔵の闇の中で見た時よりも、その黒さを一層際立たせていた。人工的な光を頑なに拒絶し、自らの内に沈黙を溜め込んでいる。そして、あの複雑怪奇な寄木細工の文様。

 圭一は、自分の研究机の一番下の、鍵のかかる引き出しにそれを収めた。これでいい。まずは、このオブジェの「来歴」と「構造」を徹底的に分析する。祖母が口にした「コトリバコ」というキーワード。ネットの都市伝説。それらと、目の前にある「現物」との関連性を解き明かす。それこそが、民俗学徒としての彼がやるべきことだった。彼は高揚していた。これは、卒論どころか、学会を揺るがす大発見になるかもしれない。

 その日から、圭一の二重生活が始まった。昼間は大学で講義を受け、夜はアパートで箱の研究に没頭する。彼は箱を詳細に写真に撮り、文様を精密にスケッチしようと試みた。だが、奇妙なことが起きた。あの文様は、定規とコンパスを使っても、正確に紙の上に写し取ることができないのだ。描いているうちに、必ず線がズレる。直線が僅かに湾曲し、円が歪な楕円になる。まるで、文様そのものが、二次元的な平面への「翻訳」を拒絶しているかのようだった。

「……クソ。どうなってやがる」

 何度目かの失敗に苛立ち、鉛筆を投げ出した時だった。

 ――……き、し。……きし……。

 壁の向こう、柚月の部屋から、微かな音が聞こえた。最初は、彼女が何か音楽でも聴いているのかと思った。だが、ヘッドフォンを愛用している彼女が、部屋で音を外に出すことは珍しい。

 耳を澄ます。それは音楽ではなかった。

 歌でもない。誰かが、何かを口遊むような声。だが、メロディと呼べるような旋律はなく、高低の定まらない、意味をなさない音の断片が、ただ繰り返されている。古いラジオのチューニングが合わない時のような、ざらついたノイズ混じりの音。

(……なんだ? 電話か?)

 圭一は訝しんだ。だが、その声は会話にしては抑揚がなさすぎた。彼は席を立ち、リビングを通って柚月の部屋のドアをノックした。

「柚月? 起きてるか?」

 音は、ぴたりと止んだ。数秒の間の後、ガチャリとドアが開き、眠そうな顔をした柚月が顔を覗かせた。

「んー? なに、お兄ちゃん。まだ起きてたの」

「いや……今、なんか歌ってたか?」

「歌? ううん、別に。もう寝ようとしてたけど」

 柚月は怪訝そうな顔で首を傾げる。その様子に、圭一は自分の聞き間違いか、と首を捻った。

「そうか……? いや、なんでもない。おやすみ」

「おやすみー」

 パタン、とドアが閉まる。圭一は自室に戻り、再び机に向かった。気のせいか。最近、フィールドワークの疲れと、箱への昂奮で神経が過敏になっているのかもしれない。

 だが、その夜を境に、異変は静かに、しかし確実に始まった。

 最初は、音だった。

 深夜、圭一が資料を読んでいると、必ず、あの音が聞こえてくる。

 ――……キシ、キシ……キシ……。

 それは、喉の奥でガラスの破片を転がしているような、あるいは、湿った粘土を引き裂くときのような、生命の律動から外れた音だった。人間の発声器官が生み出す音というより、空間そのものが軋んでいるような、不快な響き。

 圭一は再び柚月の部屋を訪ねたが、彼女は眠っているか、あるいは「何も聞こえない」と答えるだけだった。

(俺にしか、聞こえていないのか……?)

 その疑念は、彼の合理的な思考に、初めて冷たい楔を打ち込んだ。彼は、自室の机の引き出しに収めた、あの黒い箱に視線をやった。

 箱は、沈黙している。

 だが、あの「キシキシ」という音は、まるで、あの箱の複雑な文様が、音という形で具現化しようとしているかのように、圭一の耳には響いていた。

 数日が過ぎた。あの不快な軋み音は、夜ごと、その存在感を増していった。最初は壁の向こうから微かに聞こえる程度だったものが、今や圭一の部屋の中に直接響いているかのように明瞭になりつつあった。それはもはや聞き間違いでは済まされない、物理的な存在感を伴う「音」だった。そして、圭一の集中力と睡眠は、確実にその音によって削り取られていった。

 彼は疲弊していた。大学の講義中も、耳の奥であの「キシキシ」という音が反響し、教授の声が頭に入ってこない。彼は、あの箱が発しているのではないかと疑い、引き出しを開けて箱に耳を当ててみた。だが、箱そのものは、相変わらずの冷たい沈黙を守っている。

(じゃあ、どこからだ? 幻聴か? 俺がおかしくなったのか?)

 その疑念こそが、合理性を信奉する彼にとって最大の恐怖だった。

 そんなある夜、圭一は資料の海に沈み込んだまま、机の上で仮眠をとってしまっていた。深夜、尿意を覚えてふと目を覚ます。午前三時を回ったところだった。アパート全体が深い静寂に包まれている。あの軋み音も、今は聞こえない。

 彼は重い体を起こし、音を立てないように自室のドアを開け、廊下に出た。月明かりが、リビングの窓から青白く差し込んでいる。トイレに向かおうとした彼の足が、不意に止まった。

 廊下の隅。リビングの入り口の手前の暗がりに、誰かが蹲っている。

「……柚月?」

 圭一は声を潜めて呼びかけた。それは間違いなく妹だった。彼女はパジャマ姿のまま、体育座りのように膝を抱え、ただ、じっと床の一点を見つめている。

 月明かりが彼女の背中をぼんやりと照らし出していたが、その姿は異様だった。眠っているのではない。かといって、何かをしているわけでもない。まるで、古い置物か何かのように、彼女はそこに「固定」されていた。

「おい、柚月。こんなところで何してるんだ。風邪ひくぞ」

 圭一は近づき、その肩に手をかけようとした。その瞬間、彼女の体がピクリと微かに震えた。だが、彼女は顔を上げない。

 彼女の視線は、床の一点に注がれていた。圭一も、その視線の先を追う。

 そこには何もない。ただ、安物のフローリングの板が続いているだけだ。いや、よく見ると、フローリングの継ぎ目と、そこに浮かぶ木目が、月明かりの下で奇妙な模様を描き出している。

 それは、どこか、あの寄木細工の文様に似ていた。

 ぞわり、と圭一の背筋を冷たいものが走った。

「柚月!」

 今度は少し強く、彼女の肩を揺さぶった。柚月は、まるでゼンマイ仕掛けの人形がゆっくりと動き出すかのように、ぎこちない動きで顔を上げた。

 その顔は、無表情だった。焦点の合わない、虚ろな目が、圭一を捉える。

「……あ……お兄、ちゃん……?」

「どうしたんだ、こんなとこで。夢遊病か?」

「……わかんない……」

 柚月は、まだ夢の中にいるかのように、ゆっくりと瞬きをした。「……なんか、呼ばれた、気がして……」

「呼ばれた?」

「……うん。……音が、したから……」

 圭一は息を呑んだ。「音……? あの、『キシキシ』って音か?」

 彼は思わずそう尋ねていた。だが、柚月はゆるゆると首を振った。

「ううん……違う……。もっと……きれいな、音……。木の、笛、みたいな……」

(音が、違う?)

 圭一は混乱した。俺に聞こえる音と、柚月に聞こえる音が違うというのか? それとも、彼女はまだ寝ぼけているだけなのか?

「……寒い」

 柚月が小さく呟いた。彼女の体は、パジャマ越しにも分かるほど冷え切っていた。

「立てるか? ベッドに戻れ」

 圭一は彼女の腕を掴んで立たせた。柚月は、まるで自分の足の動かし方を忘れてしまったかのように、おぼつかない足取りで自分の部屋に戻っていく。

 パタン、とドアが閉まる音を聞き届け、圭一は再び、彼女が蹲っていた場所を見た。

 フローリングの木目。

 それは、ただの木目だ。そうに決まっている。だが、一度意識してしまうと、もう駄目だった。その線が、あの黒い箱の文様と、不気味なほどに共鳴しているように見えてならなかった。

 彼は自室に戻り、鍵のかかった引き出しを睨みつけた。

 あの箱が、何かを始めている。

 それはもう、学問的な好奇心の対象などではなかった。それは、彼の日常を、彼の愛する妹を、静かに侵食し始めている、明確な「敵意」だった。

 祖母の、「柚月のためにじゃ」という切迫した声が、耳の奥で蘇った。

(まずい。これは、まずいことになった)

 圭一の額に、冷たい汗が滲み出ていた。

 その夜、圭一は眠れなかった。

 自室のベッドに横たわっても、意識は机の引き出し、その一枚の板を隔てた先にある「黒い箱」に引きずられていく。あの箱がここに来てから、部屋の空気が変わった。いや、空気の「密度」が変わった気がする。それは比喩ではなく、物理的な圧迫感だった。まるで、あの小さな箱が、周囲の空間を自らの内側にある暗闇と同じ性質のものに作り替えようとしているかのように。

 祖母の警告。「柚月のためにじゃ」

 あの言葉は、迷信などではなかった。あの老婆は、あの箱が「女性」、特に「子を産む性」に対して特異的な害をなすことを、経験則として知っていたのだ。そして俺は、その最悪の呪物を、妹が暮らすテリトリーのど真ん中に持ち込んでしまった。

(俺が……俺が、柚月を危険に晒した)

 学問的探求心という名の傲慢さが、今や、焼け付くような自己嫌悪と恐怖に変わっていた。

 彼はベッドから跳ね起き、机の引き出しに手をかけた。鍵はかけてある。だが、まるで鍵穴から、あの箱の冷気が染み出してくるようだった。

(捨てなければ)

 今すぐにでも、この箱をどこかへ持って行き、土に埋めるか、川に沈めるか……いや、それでは駄目だ。祖母は「神社でお祓いしろ」と言った。この呪いは、物理的に破壊したり隠蔽したりして済む類のものではない。

 だが、東京のどこの神社が、こんな得体の知れない呪物を受け入れてくれる? 下手に持ち込めば、この呪いを拡散させるだけかもしれない。

 八方塞がりだった。彼の近代的な知性は、この古代の憎悪の前では何の役にも立たない。

(……違う。まだだ)

 圭一は、震える手で自分の額を叩いた。

(まだ、俺の理性が負けたわけじゃない。敵を理解することこそが、最大の防御だ。俺は民俗学者だ。この呪いの「構造」を解明し、その「ルール」を見つけ出せば、必ず、解除する方法も、あるいは封じ込める方法も見つかるはずだ)

 恐怖に駆られて闇雲に捨てるのは、思考の放棄だ。それこそが、あの箱の……この「物語」の思う壺だ。

 彼は再び、自らを奮い立かせた。動機は、論文のための好奇心から、妹を守るための「闘い」へと変質していた。

 彼は机の鍵を開け、引き出しから、布に包んだ箱を、今度は儀式のように厳かに取り出した。

 決定的な出来事が起きたのは、さらに数日後のことだった。

 圭一は、あの夜以来、箱を自室に置くことをやめた。彼は大学の研究室に、私物という名目で箱を持ち込み、スチール製のロッカーの奥深くに鍵をかけて封印した。物理的に距離を取ることで、柚月への影響が弱まることを期待したのだ。

 事実、それから数日、アパートは静けさを取り戻したように見えた。あの「キシキシ」という音も聞こえなくなり、柚月が夜中に徘徊することもなくなった。彼女は普段通りの、明るい妹に戻ったように見えた。

(……やはり、距離が関係していたのか)

 圭一はわずかに安堵していた。このまま、箱を大学の研究室に隔離し、自分だけが、厳重な管理下で研究を進めればいい。

 その油断が、命取りだった。

 その日、彼は大学の講義を終え、アパートに帰宅した。時刻は午後六時過ぎ。ドアを開けた瞬間、彼は立ち尽くした。

 空気が、異常だった。

 鼻をつく、甘ったるいような、それでいて何か生臭いような……腐敗した果実と、錆びた鉄が混じり合ったような、強烈な匂い。それは、島根の蔵で感じた、あの古い獣の脂と腐臭を、さらに濃縮したような匂いだった。

「柚月? ただいま!」

 彼は靴を脱ぎ捨てるようにしてリビングに駆け込んだ。シンクには洗い物が溜まっており、彼女が日中、部屋にいたことは明らかだった。

 そして、獣の唸り声のような、低い音が聞こえてきた。

「ぐるるる……。ぐるる……」

 音は、柚月の部屋からだった。

 圭一は、心臓が氷の塊に握り潰されたように収縮するのを感じた。ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。

「柚月!」

 彼は勢いよくドアを開けた。

 部屋は薄暗かった。カーテンが閉め切られ、真夏の夕方とは思えないほどの闇が澱んでいる。そして、あの甘く錆びた腐臭が、息苦しいほどに充満していた。

 柚月は、ベッドの上にいた。

 だが、四つん這いになっていた。

 髪は乱れ、その顔は圭一の方を向いていない。彼女はただ、喉の奥から「ぐるるる……」という、乾いた木と肉が擦れるような音を漏らしながら、ベッドのシーツを、爪でがりがりと引っ掻いていた。その音は、まるで硬い木材を必死に削ろうとしているかのようだった。

「柚月! どうしたんだ!」

 圭一が叫ぶと、彼女の動きが止まった。

 ゆっくりと、ぎこちない、まるで錆びついた人形のような動きで、彼女が振り返る。

 その顔には、何の表情もなかった。

 感情というものが抜け落ち、ただ、そこに顔というパーツが存在しているだけのように見えた。大きな黒い瞳は、焦点が合っておらず、圭一のことを見ているのか、彼の背後にある何かを見ているのかも分からない。

 (箱は、ここにない。大学にあるんだぞ!)

 圭一は内心で叫んだ。物理的な距離など、無意味だったのだ。呪いは、すでに「門」を開けていた。

 そして、その表情のない柚月の唇が、ゆっくりと開いた。

「……キ……シ……キシ……」

 それは言葉ではなかった。歯と歯が軋むような、乾いた音。

 彼が聞いていた、あの音。

「……キシ……キシ、キシキシキシキシ……」

 その音は次第に早くなり、甲高い、鳥の鳴き声のようにも、無数の虫の羽音のようにも聞こえる、耳障りな不協和音へと変わっていった。

 柚月は、その音を喉から発しながら、ゆっくりと四つん這いのまま、ベッドから這い降りてくる。

 その動きは、赤ん坊のハイハイのようでありながら、どこか異質だった。それは、妹という個体を構成していた生命の文法が、内側から未知の言語によって「翻訳」されていく、そのおぞましい過程そのものだった。時折、彼女の肩の関節が、あり得ない方向に僅かに捻じれては、音もなく元に戻るのが見えた。

「やめろ……やめてくれ、柚月……」

 圭一は後ずさった。背中が冷たい壁にぶつかる。

 彼の知性が拠り所としてきた近代という地盤が、音を立てて足元から崩れ去っていく。

 柚月は、這い寄ってくる。その焦点の合わない目で、圭一の足元を……いや、圭一の背後、彼がさっきまでいた「玄関」の方角を、じっと見つめながら。

「キシキシキシキシ……」

 彼女は、何かを「探し」ている。あるいは、何かを「待って」いるかのようだった。

「やめろ……やめろ、柚月……!」

 圭一の声は、恐怖で乾ききった喉に張り付き、まともな音にならなかった。彼の背中は冷たい壁に押し付けられ、逃げ場はない。

 だが、柚月は彼を襲おうとはしなかった。

「キシキシキシキシ……」

 甲高い軋み音を喉から漏らしながら、彼女は四つん這いのまま、圭一の足元を這い抜けていった。その時、彼女の肩の関節が「こきり」と乾いた音を立て、あり得ない角度に僅かに捻じれるのを、圭一は間近で見てしまった。

柚月は、彼には目もくれず、まっすぐに玄関のタタキへと這い進んでいく。そして、そこで動きを止めた。

 まるで、獣が縄張りの入り口を守るかのように。あるいは、主人の帰りを待つ犬のように。

 彼女は、閉ざされたドアを、じっと見上げていた。

 (何をしている……? 外に、出たいのか?)

 圭一は混乱しながらも、壁から背中を離し、一歩、リビングへと踏み出した。その瞬間、柚月が再び、ゆっくりと振り返った。

 あの焦点の合わない、虚ろな目が、暗闇の中で圭一を捉える。

「キシ……」

 音が、止んだ。

 あの腐臭と生臭さが、粘性を帯びた霧のように、彼女の体から立ち昇っている。

 柚月の表情のない唇が、わずかに動いた。

「……お……にい……ちゃん……」

 それは、妹の声だった。だが、ひどく掠れ、水底から響いてくるかのように、異様に反響していた。

「柚月! しっかりしろ! 俺だ!」

 圭一が呼びかけると、彼女は、まるで「お兄ちゃん」という言葉の意味を探るかのように、小さく首を傾げた。その動きもまた、人形のようにぎこちない。

「……あ……け……て……」

「開ける? 何をだ! ドアか?」

 彼は、彼女が外に出たいのだと、その一心でドアノブに手をかけようとした。

「……ちがう……」

 柚月は、ゆっくりと否定した。

「……は……こ……を……」

 箱。

 圭一の全身の血が、一瞬で凍りついた。

「な……」

「……はこを……あけて……」

「馬鹿を言うな! 箱はここにはない! 大学に、俺が……!」

「キシキシキシキシキシキシキシキシ!」

 圭一の言葉を遮り、柚月が突如、甲高い音を爆発させた。彼女は両手で自分の頭を掴み、床に何度も額を打ち付け始めた。

ゴン、ゴン、ゴン、と鈍い音が響く。

「やめろ! 柚月! やめろ!」

 圭一は我に返り、彼女に駆け寄った。その細い両腕を掴んで、自傷行為を止めさせる。

 掴んだ細腕は、信じられないほど冷たかった。真夏の熱気が篭る部屋だというのに、その肌は生者の熱を一切宿していない。触れた手のひらが、まるで濡れた大理石でも掴んだかのように、芯から冷えていく。血の巡りを止めた、生命活動の痕跡が消え失せた『モノ』の感触だった。

「ぐるるる……」

 柚月は、圭一に腕を拘束されたまま、獣のように喉を鳴らした。そして、その虚ろな目が、初めて、はっきりと圭一の目を捉えた。

 ぞくり、とした。

 見ているのは、柚月ではなかった。

 妹の瞳の奥、その暗闇のさらに奥から、数百年を生きた「何か」が、冷たく、値踏みするように、圭一を「観察」していた。

(……こいつ、俺が箱を動かしたことを、知っている)

 物理的な距離は、呪いの前では何の意味もなかった。いや、むしろ、彼が箱を「安全な場所」へ隔離しようとした行為そのものが、何かの「引き金」を引いてしまったのだ。

「……おまえが……」

 柚月の唇から、再び、あの水底のような声が漏れた。

「……おまえが、『もん』……」

「門……? 何のことだ……」

「キシ……」

 柚月は、その拘束された腕のまま、不意に、無垢な赤ん坊のような笑みを浮かべた。

「……おまえが、あけた……」

 その言葉を最後に、柚月は、ふっと糸が切れたように意識を失い、圭一の腕の中に崩れ落ちた。

 残されたのは、意識のない妹の冷たい体と、部屋に充満する甘く錆びた腐臭、そして、圭一の耳の奥にこびりついた「門」という言葉だけだった。

 その日を境に、柚月の衰弱は急激に進んだ。

 圭一は、あの夜、救急車を呼んだ。だが、病院での診断は「原因不明の極度の衰弱。および、精神的な錯乱」という、近代医学が名付けられる、最も無力な病名だけだった。

 数日で退院させられた柚月は、もう人語を解さなくなっていた。焦点の合わない目で虚空を見つめ、呼びかけに応じることもない。かつて明るく笑っていた妹は、生きたまま中身だけが失われた、冷たい人形のようだった。

 食事も水も受け付けず、ただベッドの上で横たわっている。時折、彼女の体が、骨が軋むような、あの「キシ」という音を立てて小さく身動ぎする。それは、彼女の内部で、何かが、彼女の肉体を「苗床」にして、ゆっくりと作り替えを進めているかのようだった。

 圭一は大学を休学した。学問という日常は、もはや遠い世界の出来事だった。すべての時間を、柚月の看病と、そして「呪い」の解明に費やした。彼は大学の研究室から、あの黒い箱をアパートに持ち帰った。

(敵は、ここにいる)

 もう、逃げることはできない。彼は、箱を自室の机の上に、まるで神棚にでも祀るかのように鎮座させた。逃避ではなく、対峙を選んだのだ。そして、その前で、寝る間も惜しんで文献を漁り始めた。

 万策尽きた圭一は、震える手で、島根の祖母に電話をかけた。民俗学者としてのちっぽけなプライドは、妹の命が失われていく現実の前では何の役にも立たなかった。迷信と切り捨てた古の知恵に、今はすがるしかなかった。

 すすり泣きながら事の経緯を……柚月が、もう人間ではなくなってしまったことを話す彼に、祖母は電話口で長く、長く絶句していた。沈黙が、受話器越しにも死のように重く圧し掛かる。そして、やがて漏らしたのは、諦念と、わずかな怒りの滲む声だった。

「……だから、言うたのに……。あれは、人の手に負えるもんじゃない」

 祖母は、コトリバコの真の由来を語り始めた。

 それは、圭一がネットで知っていたような、曖昧な都市伝説ではなかった。かつてこの国に存在したタタラ師と呼ばれた製鉄民の、凄絶な復讐の物語だった。里の者に虐げられ、すべてを奪われた彼らが、自らの手で殺めた我が子の、指、髪、歯、涙、そして最後の息を、この世で最も硬い木で作った箱に封じ込め、永遠に解けぬ呪詛をかけたのだという。

「――殺められた、我が子の体の一部。……じゃから、『子取り箱』。子供を“取る”ための箱なんじゃ。人の手で作られた、神さえも触れられん穢れなんじゃ」

 圭一が対峙していたのは、学問の対象などではなかった。生々しい血と肉と憎悪が、数百年という時を超えて、今まさに隣の部屋で眠る妹の体を蝕んでいる、現在進行形の現実だった。

「どうすればいい、ばあちゃん! 柚月を助けるには!」

「……もう、遅い」

 祖母の答えは、非情なほどに静かだった。

「箱は、もう『苗床』を見つけてしもうた。柚月ちゃんを依り代にして、力を蓄えとる。……そして、次の『門』を開こうとしとる」

「門……?」

 あの夜、柚月が口にした言葉が蘇る。

「……箱を、最初にあの蔵から持ち出したのは、誰じゃ?」

「……俺だ」

「……お前さんじゃ。お前さんが、禁忌を破り、あの憎悪を『外』に連れ出してしもうた。……箱は、柚月ちゃんを喰ろうて、次はお前さんを喰らう。……お前さんを『門』にして、この世に、あふれ出すんじゃ」

 電話の向こうで、祖母が小さく息を呑む音がした。

「……圭一。お前、今、鏡、見れるか……?」

 鉛を引きずるような足取りで、圭一は、言われるがままに、洗面所の鏡の前に立った。心臓が嫌な音を立てている。そこに映っていたのは、数日間眠らず、研究に没頭した、青白い自分の顔。死人のような色だった。

「見た。ひどい顔だ……」

「……違う。そうじゃない……。お前の、その……目……。瞳の、中……。何か、黒い、点のようなもんは、ないか……?」

 圭一は、鏡の中の自分の瞳を、凝視した。息を詰める。

 (黒い点……?)

 そんなものは、ない。

 そう思った、瞬間だった。

 鏡の中の自分の左目の、その瞳孔の、中心。

 そこにあるはずのない、墨を垂らしたような、小さな、小さな黒い点が、まるで生き物のように、僅かに、脈打った。

「あ……」

 声にならない声が、漏れた。

「……あったんじゃな」

 祖母の声は、すべての希望が断たれた者の声だった。

「もう、手遅れじゃ。……それは、『印』じゃ。……お前さんが、次の『箱』に選ばれたという、印なんじゃよ」

 ガチャン。

 圭一は、受話器を落とした。

 洗面台に両手をつき、鏡の中の自分の顔を睨みつける。

 左目の瞳孔。その中心。

 それは、あった。

 インクの染みのような、小さな黒い点。

 それは、じっと見つめていると、まるでレンズの絞りが動くように、僅かに収縮し、また膨張した。それは異物ではなかった。最初からそこにあったかのように、彼の視神経と、彼の意識と、完璧に癒合しようとしていた。

「……ああ……あ……」

 喉から、意味のない呻きが漏れた。

 手遅れだ。

 祖母の言葉が、彼の頭蓋骨の中で反響する。

 柚月は「苗床」。

 俺は、次の「箱」。

 あの呪詛は、俺の肉体という新しい「容器」を得て、この東京という地で、再び解き放たれようとしている。

 圭一は、隣の部屋で虚ろに横たわる妹を思った。あの冷たい体。あの「キシキシ」という音。あれは、柚月という「殻」を内側から食い破り、新しい「何か」が生まれ出ようとする、その「産声」だったのだ。

 そして今、その「何か」が、俺の瞳を通して、俺を見ている。

(ふざけるな……!)

 圭一は、鏡を拳で殴りつけた。

 鋭い痛みが走り、新たな血が滴る。鏡面に放射状の亀裂が走り、歪んだ自分の顔がいくつにも分裂した。

 その生々しい感覚だけが、彼がまだ「彼自身」であることの、唯一の証だった。

(まだだ。まだ、終わらせない)

 彼は、近代医学や民俗学という「表」の知性を捨てた。残された道は、この呪いを、同じ「力」でねじ伏せることだけだ。

 圭一は、最後の藁にもすがる思いで、裏社会の人間を介して見つけ出した、ある祈祷師に連絡を取った。法外な金を要求されたが、彼は迷わず、親から送られてきていた学費のすべてを振り込んだ。

 翌日、アパートに現れたのは、痩せた、目の落ち窪んだ初老の男だった。彼は部屋に入るなり、充満する甘く錆びた腐臭に顔を歪め、柚月が横たわる部屋を覗き込んだ。

 そして、数秒後。

 祈祷師は、顔面蒼白になって後ずさった。

「……駄目だ。こいつは、駄目だ」

「何が駄目なんだ! 祓えるんだろう!」

 圭一が掴みかかると、男は脂汗を流しながら、必死で彼の手を振り払った。

「祓う? 馬鹿を言え! あれはもう、この世のもんじゃない! 娘さんは……いや、あの『ナニカ』は、もう『殻』を破る寸前だ! あれは、あんたを待ってるんだよ!」

「俺を……?」

「そうだ! 呪いは、娘さんを苗床に力を蓄え、次の『門』を開こうとしとる。……門を開いた張本人、あんたを喰らうためにな!」

 その言葉は、祖母が言ったことと、不気味なまでに一致していた。

 祈祷師は、圭一の顔を、特にその左目を、恐怖に引き攣った目で見つめた。

「……あんた、もう『印』を付けられてやがる。手遅れだ。関わればこっちが喰われる!」

 男は、受け取ったはずの金を圭一の足元に叩きつけると、「近づくな! 化け物!」と叫びながら、転がるようにしてアパートから逃げ帰っていった。

 くしゃくしゃになった紙幣が、汚れた床に虚しく散らばる。それが、妹の命を救うために彼が差し出せた、近代社会における最後の「価値」だった。

 絶望。

 すべての道が、断たれた。

 圭一は、散らばった紙幣を見つめたまま、崩れるようにその場に座り込んだ。

 その三日後の夜明け前。

 隣の部屋から、それまでか細く続いていた柚月の呼吸が、ふと途切れた。

 静寂。

 そして、

 ――ぽきり。

 乾いた、小さな、何かが折れるような音。

 圭一は、弾かれたように立ち上がり、柚月の部屋のドアを開けた。

 腐臭が、以前にも増して濃く鼻をつく。

 ベッドの上。柚月は、ゆっくりと、体を起こそうとしていた。

 いや、違う。

 彼女は、奇妙な角度に体を折り曲げていた。まるで、全身の骨が、意志を持たずに勝手に動いているかのように。

「ぽきり」

「こきり」

 彼女は、表情一つ変えずに、自らの小指を、逆方向に折っていた。

 そして、その虚ろな目が、圭一を捉えた。

 彼と目が合うと、彼女は、初めて、笑った。

 それは、赤ん坊の無垢な笑顔によく似ていた。

「……あ……け……て……」

 最後の言葉。

 その笑顔を最後に、柚月の体から、すべての「力」が抜けていった。

 いや、抜けたのではない。

 柚月の体は、まるで乾燥した粘土細工のように、ゆっくりと、その輪郭を失い始めた。肌が乾き、ひび割れ、そこから、黒い、木屑のようなものが、はらはらとシーツの上にこぼれ落ちていく。

「あ……あ……」

 圭一は、声も出せずに、その光景を見ていた。

 妹の体が、内側から「箱」の材料に作り替えられ、そして、崩壊していく。

 数分のうちに、ベッドの上には、人ひとり分のかたちをした、黒い木屑と、乾いた「何か」の欠片だけが残された。

 それが柚月の最期だった。

 彼女という「苗床」の役目は、終わったのだ。

 そして、その瞬間、圭一の左目の奥で、「ブツリ」と、何かが繋がる音がした。

 部屋に充満していた腐臭が、一瞬で、圭一の体内に吸い込まれていく。

 (……ああ)

 彼は、理解した。

 次は、俺の番だ。

 俺が、「箱」になる。

 柚月だったものが、ただの黒い木屑の山と化したベッド。

 そのおぞましい残骸を前に、圭一は、ただ、立ち尽くしていた。

 悲しみも、恐怖も、すでに感じなかった。それらの人間的な感情は、彼の内側で起きている、より根源的な「変化」の前に、意味をなさなくなっていた。

 左目の奥。

 祖母と祈祷師が指摘した「印」。あの小さな黒い点が、今や、熱を持っている。

 いや、熱いのではない。冷たいのだ。極点の、絶対零度に近い冷気が、視神経を伝って脳幹に流れ込んでくる。それは、生命活動が内側から停止していく感覚だった。

(……ああ……寒い)

 圭一の最後のメールにあった言葉が、彼の思考として、今、確かに生まれた。

 体の芯が、ずっと寒い。

 柚月という「苗床」で増幅され、完成された憎悪と呪詛のすべてが、今や「門」である圭一の肉体へと注ぎ込まれようとしていた。彼という「個」を器として、彼という理性を「材料」として、新たな「箱」を、この東京の地で再構築するために。

 圭一は、ふらふらと自室に戻った。

 机の上には、あの黒い寄木細工の箱が、まるで勝利を宣言するかのように鎮座している。そのぬらりとした表面は、先ほどまで柚月の部屋に充満していた甘く錆びた腐臭を、まるで呼吸でもするかのように、ゆっくりと吸い込み、そして吐き出しているように見えた。

「……お前の、勝ちか」

 乾ききった唇で呟くと、箱の文様が、ゆっくりと、嘲笑うかのように蠢いた。

 違う。

 蠢いているのは、箱ではない。

 俺の「視界」が、歪んでいるのだ。

 左目の「印」から始まった侵食は、今や彼の網膜全体を覆い尽くそうとしていた。世界のすべてが、あの複雑怪奇な寄木細工の文様を通してしか見えなくなってきている。

 天井の木目。壁のシミ。床に散らばった本。

 そのすべてが、呪われた文様の「一部」として、彼に認識され始めた。かつて彼が拠り所としていた「知性」や「合理性」という名の地盤が、この文様によって、その構造自体を書き換えられていく。

(だめだ)

 彼は、最後の理性を振り絞った。

(分析しろ。理解しろ。俺はまだ、俺だ。この「構造」を解体すれば……)

 彼は、机に向かった。

 壁に、真っ白な模造紙を貼り付けた。

 ペンを握る。だが、その指先は、氷のように冷たく、感覚がなかった。まるで、他人の指を動かしているようだ。

 圭一は、目の前にある「コトリバコ」の文様を、模造紙に描き写し始めた。

(そうだ。これを解体するんだ。このパターンを理解すれば、俺は……)

 だが、描き始めた瞬間、彼は悟ってしまった。

 これは「分析」ではない。

「奉納」だ。

 彼の手は、彼の意志とは無関係に、恐るべき正確さで、あの文様を壁に刻みつけていく。

(違う。俺が描いているんじゃない。俺の腕を、「何か」が使って描いている)

「キシ……キシキシ……」

 彼の喉から、あの柚月が発していたのと同じ、乾いた軋み音が漏れ始めた。自らの声帯が、意志に反して震えている。

(やめろ)

 思考が、分裂していく。

 一方の彼が「やめろ」と叫び、もう一方の「何か」が、ただ歓喜に打ち震えながら、ペンを走らせる。

 壁一面が、文様で埋め尽くされていく。

 部屋が、「箱」の内側に変わっていく。

(助けてくれ)

 彼は、誰かに助けを求めたかった。

(秋彦……)

 唯一、思い浮かんだのは、あの潔癖症で、輪郭の曖昧なものを何よりも嫌う、友人の顔だった。

(秋彦。あいつなら、この「曖昧」な俺を、否定してくれるかもしれない)

 圭一は、最後の力を振り絞り、壁に向かうのをやめ、パソコンの前に座った。

 指が、動かない。

 左目が、もうほとんど視力を失い、ただ、黒い文様だけを映し出している。

 圭一は、残った右目だけでキーボードを見つめ、一本、また一本と、指を叩きつけるようにして、メールを打ち始めた。

『だめだ。秋彦。おれも、もう』

(寒い。寒い。思考が止まる)

『あれは柚月を苗床にして、おれを喰らう。おれが門を開いたから』

(頭の中に、知らない記憶が入ってくる)

『最近、自分の思考じゃない思考が頭に割り込んでくる。知らない子供の頃の記憶。見たこともない山の風景』

(タタラ場だ。炎だ。血の匂いだ。憎悪だ。赤ん坊の泣き声だ)

『寒い。体の芯がずっと寒いんだ』

(鏡を見なければ)

 彼は、ふらつきながら洗面所に向かった。

 そこに映っていたのは、もはや圭一ではなかった。

 割れた鏡の破片に映る顔の半分が、まるで黒柿の木肌のように変色し、そこには寄木細工の文様が、皮膚の下からミミズ腫れのように浮き出ている。

 そして、左目は、完全に黒い「点」に飲み込まれ、そこはただ、虚無の闇が口を開けていた。

(子供……? そうだ。殺された、子供の顔だ)

『さっき鏡を見たら、自分の顔が、知らない子供の顔に見えた』

(助けてくれ。秋彦。お前だけは、来るな)

『助けてくれ。いや、もういい。これを読んだら、僕のことは全部忘れてくれ』

(来るな。この部屋は、もう「箱」だ。お前も取り込まれる)

『絶対に僕たちの部屋を訪ねてくるな』

(俺は、もう、俺じゃない)

『これは、もう、おれの』

 そこで、彼の意識は途切れた。

 送信ボタンを押したのは、彼だったのか、それとも「何か」だったのか。

 彼が最後に見たのは、鏡に映った「それ」が、満足そうに口の端を歪める光景だった。

 それが、僕が彼と交わした最後の「言葉」だった。

 いや、言葉ではない。一方的に送り付けられた、彼の砕け散った精神のかけらだった。

 メールを受け取った二週間後、僕は彼の部屋を訪れた。何度も電話をしたが、繋がらなかったからだ。

 甘ったるい腐臭が微かに漂う部屋で、彼は壁一面に貼った模造紙に、あの寄木細工の文様を狂ったように描き写していた。

「駄目なんだ」と彼は言った。僕の顔を見ようともせず、乾いたペン先を紙に走らせながら。「分析しようとすればするほど、この文様が、俺の思考に入り込んでくる。俺の理性が、この模様に沿って再構築されていくような感覚がするんだ」

 彼の顔は、土気色を通り越し、まるで古い木材のように変色して見えた。そして、左目が、奇妙に……いや、焦点が、定まっていなかった。瞳の奥に、あの黒い箱と同じ、何も映さない闇が広がっているように見えた。

 僕は、それ以上、彼の顔を直視することができなかった。

 この部屋の「秩序」が、狂っている。

 空気そのものが、あの文様によって歪められている。

 僕は、恐怖に駆られ、その部屋を逃げ出した。それが、僕が見た、生きた圭一の最後の姿だった。

 さらに一週間後。

 圭一の家族からの連絡で、警察と共に訪れた彼のアパートは、もぬけの殻だった。

 圭一と、そして、亡くなったはずの柚月の痕跡も。

 二人の姿はどこにもなかった。それだけではない。彼らが生活していたはずの痕跡、衣服や私物、圭一が山のように溜め込んでいた研究資料や本の一冊に至るまで、すべてが綺麗さっぱり消え失せていたのだ。

 まるで、初めから誰も住んでいなかったかのように。

 いや、違う。

 すべてが、「箱」の中に仕舞い込まれてしまったのだ。

 ただ、部屋の空気は、耐え難いほどに冷たく、重く淀んでいた。まるで、そこにいた人間の生気や熱量だけを、根こそぎ吸い取って凝固させたかのようだった。

 そして、床の隅。

 柚月の部屋だった場所の床の隅には、爪で引っ掻いたような、おびただしい数の傷だけが残されていた。その無数の傷は、一見ランダムに刻まれているようで、だが、目を凝らすと、ある種のパターンを……あの寄木細工の文様を描こうとしている途中のように見えて、僕は慌てて視線を逸らした。

 もちろん、あの黒い寄木細工の箱も、どこにもなかった。

 圭一自身が、新しい「箱」となって、すべての痕跡を呑み込み、どこかへ消え去ったのだ。

 神隠し、という古い言葉が、僕の脳裏をよぎった。

 物語は、ここで終わるはずだった。僕は彼の忠告通り、すべてを忘れ、日常に戻るべきだったのだろう。

 だが、できなかった。

 友人が、その知性と自意識もろとも、一つの「物語」に呑み込まれて消え去ったという事実。その事実が、僕の日常に、あの不格好な「穴」を開けてしまったのだ。

 僕の、秩序正しい、完璧に整頓された部屋。

 その空間が、あの日以来、どこか「歪んで」見える。

 圭一が残した数少ない手がかりは、大学の研究室のサーバーに残っていた、コトリバコに関する断片的な考察と、島根の山間部、タタラ製鉄の歴史についての膨大な資料だけだった。

 僕は、あの部屋から逃げ出した自分の臆病さを呪いながら、夜を徹して、そのデータにのめり込んでいった。圭一がやろうとしていたように、この非合理な現象を、知識と言葉で解体しようと試みた。

本当は、僕も圭一と同じだったのだ。

 理解できないという事実そのものが、耐えられなかった。

 未知という暗闇に、知性という名の貧しいランプで光を当て、輪郭を与え、名前をつけなければ、僕自身の存在が脅かされるような気がした。

 彼の狂気は、僕にとって他人事ではなかった。それは、僕が陥るかもしれなかった、あるいはこれから陥るであろう、未来の姿そのものだった。

 圭一の研究資料は、混沌としていた。

 最初は学術的な体裁を保っていた文章が、次第に個人的なメモになり、やがて意味不明な記号や、同じ単語の執拗な繰り返しに変わっていく。

『寒い』『門』『キシキシ』『子供』『印』『黒い点』『箱が俺を見る』

 まるで、理性がゆっくりと侵食されていく過程の地層を見ているようだった。

 僕はその混沌の中から、何か秩序を見つけ出そうと、必死に情報を繋ぎ合わせた。圭一の思考を追体験するうちに、いつしか僕は、彼の最後の視線を追い求めていた。彼が見た恐怖の果てに、何があったのかを。

 季節が移り、夏の熱狂は遠ざかった。

 僕の部屋の壁には、島根県の詳細な地図が貼られ、圭一のメモから抜き出したキーワードが付箋で無数に貼り付けられている。机の上には、関連書籍が山と積まれている。

 床には資料が散乱し、僕が忌み嫌っていたはずの「輪郭の曖昧な」混沌が、部屋を侵食し始めていた。コーヒーの染みがついたままのカップ、数日分の脱ぎ捨てた服、開かれたまま埃をかぶる本。かつての潔癖なまでの秩序は、もうどこにもない。

体の芯が、圭一のメールにあったように、ずっと寒い。

 ある雨の夜、僕はふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 疲れきった、青白い顔。

 その背後に、完璧な平行を保っていたはずの本棚の直線が、一瞬、僅かに歪んで見えた。

 いや、歪んだのではない。

 本棚の木目が、呼吸でもするかのように、あの箱の表面のように、複雑な幾何学模様を描いているように見えたのだ。

 その瞬間、ぞくり、と皮膚の内側を冷たいものが走った。

 ――あの箱の文様に、似ている。

 一度そう思うと、もう駄目だった。天井の木目、アスファルトのひび割れ、自分の掌に刻まれた生命線さえもが、あの不吉な寄木細工の模様の一部に見えてくる。

 圭一が最後に見ていた世界は、これだったのかもしれない。

 僕は、自分の部屋に閉じ込められている。いや、自ら閉じこもっている。

 圭一と同じ、知的好奇心という名の檻の中に。

 その夜、僕は圭一が残した一枚の写真データを、ただ、じっと見つめていた。

 彼が最初に撮った、コトリバコの画像だ。他のどのファイルよりも、そのデータは奇妙に「重く」感じられた。

 ぬらりとした黒柿の表面に、照明の光が反射している。

 その光の中に、何か、人のかたちに似た歪みが映り込んでいるような気がして、僕は無意識に、画像を拡大していた。

圭一が、あの蔵で、決して開けてはならない箪笥の引き出しに手をかけたように。

 祖母の警告を、近代的な迷信と一笑に付したように。

 僕もまた、「知りたい」という純粋で傲慢な衝動に突き動かされていた。

 これ以上は、いけない。そう頭では分かっている。この先に待つのは、友と同じ、取り返しのつかない結末だけだ。理性が、最後の警鐘を鳴らす。

 それでも、僕の指は、止まらなかった。

冷たいスマートフォンの画面の上を、親指が滑っていく。その指先が、妙に冷たいことに気づいた。血が通っていないような、他人の指のような感覚だった。

その時、ふと、僕は自分の親指の爪に、小さな黒い点が一つ、浮かんでいるのに気がついた。

 昨日までは、なかったはずの点だ。

 僕は、拡大しようとしていた指を止め、ただ、自分の爪を見つめていた。

 その小さな黒い点は、美しい白木の板に落ちた、一滴の墨汁のようだった。

それは、箱の表面に使われていた黒柿の、深い闇の色によく似ていた。

そして、その点が、まるで皮膚の下に埋め込まれた木片のように、文様の最初の『始まり』であるかのように、ゆっくりと、……圭一の左目と同じ冷たい闇を宿して、脈打っている気がした。

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新説・コトリバコ 花柳響 @Hibiki_karyuu

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