287人目の楽園

影森 蒼

287人目の楽園

「おはよう」

 知らない声に目覚めた俺は幻想的な世界に息を呑んだ。

 明るいと言えば月がくっきりと顔を覗かせ、暗いと言えば陽の主張が強い場所。すぐ近くには透明で透き通った湖があり、側には俺に声を掛けたであろう、全身が純白で今にも消えてしまいそうな儚げな少女がいる。

「ここは楽園」

 ここを楽園と呼ぶにはあまりにも色彩なき虚無が塗り広げられている。自分が生きているのか、死んでいるのかも分からない。浅く息を吸ってみると肺が少し膨らむ。これだけが俺を生へ繋ぎ止める縄の様なものだった。

「楽園と呼ぶには何も無さすぎないか?まるで祝福も裁きも受けない辺獄の様だよ」

 彼女は何度も同じ問答をした事があるかの様な呆れた目をして微笑んだ。

「そうだね。でも、君が望む世界そのものだよ?痛みの無い世界。停滞する事を赦した静寂なる世界。だからここでは何も考えなくていいの」

 彼女の目はどこまでも澄んでいて何もかも見通せそうなのに何も映っていない様に思えてしまうのは何故だろうか。

「君は何者なんだ?」

「私はノア。53人目がつけた名前だよ。ここに訪れた人の話し相手みたいな感じかな」

 今まで何人もの人たちがここに訪れた様な言い草だった。

「君で287人目だね。何か覚えていることはある?」

 指を一人一人折り曲げて楽園に訪れた人を数える仕草に見覚えがある様な気がするが、はっきりとは思い出せない。

「いや、何も覚えていない。一つ教えてくれないか。俺は死んだのか?」

「死んでいるとも言えるし、死んでいないとも言えるね。少なくとも肉体的な死を迎えたらここには来れないよ」

 俺が何も覚えていないことに少し不満げな顔を浮かべたが質問には答えてくれた。

 死んでいるが、死んでいない。

 肉体的な死。

 彼女が楽園と呼ぶ辺獄では私は理解出来そうな事など一つも無い。

 それでも不思議と不安は無かった。

「こっちに来て」

 ノアは俺を澄んだ湖の側に連れてきた。

 底に沈んでいたのは見慣れた顔。

 水面を隔てた向こう側には無数の俺が眠っていたのだ。

「これは...」

「そう、底にいるのはみんな君だよ。いや、君だった物かな」

 ここでノアと会話し、静かに呼吸をしている自分こそが287人目だという事が改めて分かった。

 俺以外の俺が大勢いたという事実にどのような顔をして良いのか分からない。

「驚くのも無理ないよ。ここは心の奥深くの世界だからね。昨日の君と今日の君、そして明日の君も少しずつ精神状態が違うでしょ?それと同じ事だよ」

 難解だったが、俺であって俺で無いものが沈んでいるという事は分かった。

「この湖は君の涙だからね。目を凝らして見ると現実が見えるよ。あまり見ない方がいいと思うけどね」

 忠告を聞かなかった事にして、恐る恐る手で掬って覗き込むと、おそらく今までの人生で体験したであろう怒りと絶望が顔を覗かせた。

「君さ、何回言ったら出来る様になるの?」

「先輩って本当に3年目ですか?新人の彼女の方が仕事を取って来ますよ」

「もういいよ」

「何も喋らないで」

 家に帰って誰かの遺影を眺めながら啜り泣く俺が写った所で湖に帰した。

「これが君の生きてきた証だよ。幸いここなら君は辛かったことも悲しかったことも淋しかったことも何も覚えていない。だから、最後までここで過ごすといいよ」

 どこかに消えてしまいそうな霧に似た自我はノアの言葉を受け入れようとしていた。

 その時、雨は降った。

 雲一つない空からの暖かい雨。

 苦しく感じる様な心地よさがそこにはあった。

「珍しいね。君がここにいながら雨が降るなんて」

 少しだけ表情が柔らかくなったノアを見て首を傾げる。

「ここでは君の涙が溜まるって言ったよね?空から雨みたいに降ってくるのは嬉しい時に流れるやつだと思う。私にはそれがどういう物なのかよく分からないけどね」

 心が洗われるという言葉を体現した様な夢の様な体験だった。

 心地よさに時間を忘れていると、ぴたりと雨が止まった。

 その代わりに紙粘土の様な純白で柔い地面を割って水が噴き出た。

「これがいつもの君だよ。この湖は殆どこの噴き出た涙から出来ているよ。雨が降った直後にこんな事があるなんて今までは無かったけどね」

 噴き上がった水は雨の様に降り注いだ。

 冷たく、一粒一粒が皮膚に穴を開けそうな勢いの雨は暖まった体温を一瞬にして奪い去った。

「君はもう限界に近いのかも知れない。きっと現実では裏切られる様な事があったのかも」

 俺以外に286人の俺を見届けてきたノアがそう言っているという事はそうなのだろうと煮え切らない納得をする振りをした。

「どうすれば向こうに帰れるんだ?」

「教えない。ここに訪れた全ての君は同じ事を口にした。そして何もかも忘れてまたここに戻ってくる。だから教えない」

 静寂の中、雨粒が弾ける音だけが鼓膜を震わせる。

 心が、ノアが、向こうの俺のせいで消えてしまいそうなのが悔しかった。

「それでも俺は、自分の心を、ノアを生かしたい。自分の為なんかじゃあない。現実を受け止めてきた心に、待ち続けてくれたノアに俺は報いたい...」

 冷え切った体を伝う一筋の暖かい生きた証。

「湖に身を沈めれば意識が戻る」

「分かった。ありがとうノア」

 ノアの表情を見ない様にして湖に向かおうとした時、俺の手を引き留める物があった。

「ありがとう、マサミチ。私はいつでもここで待ってるから」

 ノアの表情には雨が上がった後の虹が咲いていた。

 涙で満たされた湖に身を投げた。

 体温とほぼ変わらない様な温度の湖に体がゆっくりと沈み込んでいく。

 凪いだ水面に映ったのは太陽と月、そして手を振るノアの姿だった。

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