骨の重さ

志乃亜サク

骨の重さ

 左手の甲に血が滲んでいる。どうしたの? と妻が訊くので、ほら、さっき納棺のときに。と答えて傷口を見せると妻は、ああ、と驚いたような呆れたような何ともいえない声を上げた。

 親父の遺体を持ち上げて棺に納める際、その縁に手の甲を引っ搔いたのだけど、思ったより深く擦りむいていたようだ。


 最後に親父を病院に見舞った時には、親父の体は随分小さくなったなと思った。そして斎場の安置室で見た時には更に小さく見えた。その印象のまま男手6人で布団を持ち上げ棺に移動させようとしたところ、その意外な重さに戸惑ううちに手を擦りむいたのだ。まったく、自分の不器用さにうんざりする。


 もう四月なのに底冷えのする告別室には近親者十人と職員二人。近親者というのは僕と兄と姉の家族、つまり親父の子どもたちのみ。親父の血縁はもうこれだけだ。たしか親父は長男だったはずだけど、兄弟では一番最後に死んだということになる。それが幸せなことなのかそうでないのか、僕にはわからなかった。そういえば親父の若い頃の話は聞いたことがない。たぶん兄も姉もずっと親父とは折り合いが悪かったから、僕と似たようなものだろう。

 これから親父は火葬炉で焼かれて骨になる。そうして親父の証明は役所の書類にだけ残り、僕らの知らない親父の記憶は煙と灰になる。

 いや、僕はおかしな事を言っている。もう親父は数日前から存在しないのだ。これから遺体を焼くのは、ただのプロセスに過ぎない。それでも。

 さっき引っ掻いた手の甲の擦り傷が鈍く疼いている。あの肉体を持ち上げたときの重さの中に、まだ親父という人間を構成する何か大事なものが残っているような気がしていた。それをこれから燃やし尽くしてしまうのか、と思った。いや、これは感傷だ。


 「まもなくご出棺となりますので、最後にお別れをどうぞ」


 各人が棺の窓から顔を覗き込み、手を合わせる。兄貴の嫁さんだけが涙を拭っていた。三年前に死んだ母の晩年からこれまで、ほぼ一人で介護や手続きを担ってきた、血のつながらない義姉ひとりが泣いている。僕はただ神妙な顔を作って、入炉を待った。



 火葬のあいだ、用意された一室で精進落としの弁当を皆で食べる。

 その冒頭に喪主の兄貴から「どうぞ故人の思い出などを語らいながら…」という定型文の挨拶はあったが、誰も親父の話をしなかった。小さい子供たちはトランプをしている。皆、車で来ているのでビールに手を付けることもなく、互いの仕事や子供の進学の話で談笑とともに時間が過ぎるのを待った。


 僕はどうにも居心地の悪さを感じて喫煙所へ行き煙草に火を着けた。ガラス張りの喫煙所から見えるのは駐車場と寂しい禿山だけだ。本当に道の果てのようなところに火葬場は建っている。そうして僕は、この居心地の悪さの正体について考えた。


 親父の死の連絡を受けたとき。

 病院で遺体と対面したとき。

 棺に花を入れるとき。

 そして火葬炉の扉が完全に閉じられたとき。


 どこかで涙のひとつも流すタイミングがあるだろうと自分では思っていたのだけれども、その時はとうとう訪れなかった。


 それは、その死を受け止められないとか、感情のやり場がないとか、そういう青臭いことではなくて。親父の死は突然でもなかったし、若くもなかった。親父に何かやり残しがあったとも思えなかった。悲しみがないわけじゃない。ただそれは親父の死に対しての直接的な悲しみではなく、親父が死んで煙となっていく今この時も、僕も世界もあまりに変わらないという、言いようのない寂しさだった。



 火葬炉から引き出されたワゴンには親父の骨が散らばっていた。

 それを職員が一度人の顔の形に並べて、そのいくつかを参列者が箸で骨壷に移し、あとはまた職員が淀みなく片付けて行くその美しい様式を、僕らはじっと見ていた。

 ぼくは左手の擦り傷を隠すように右手を前に組んで立っている。親父との会話の糸口を隠す癖。それは、むかし親父に反発していた頃からの癖だった。結局、最後の最後まで変わることがなかった。

 

 その後、家路に就く途中で実家に立ち寄った。僕らきょうだいが育ち、親父が晩年をひとりで過ごした古い家に。特に用事があったわけではないのだけれど、落ち着いたらみんな片してしまうそうなので、見知った実家という形でこの家に入るのはたぶん最後になるだろうということでの義姉の配慮だ。


 僕は母親の仏前に手を合わせた後、何とはなしに庭に出て歩いた。長く手入れのされていない樹木が、伸びるままに瑞々しい葉で庭を覆い尽くしている。その一角に、親父の唯一の趣味だった盆栽が並んでいる。といっても、今は鉢も割れてみんな乾いてしまっている。時代遅れの赤いジャージを着て庭先で黙々と草花の手入れをする親父の丸っこい背中が浮かんで消える。

 ここもいずれ草が覆って枯れてを何度か繰り返すうちに土になるのだろう。


 最後に。最後に持たせてもらった骨壺の軽さを思った。

 乾いた風が手の擦り傷をこするようにゆるやかに吹いている。

 遅い桜もすっかり散ってしまった。



<了>

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