僕が世界を統治するまでの話

木村 もくそん

灰の国に生まれた子

この世界には、かつて十の国があった。


天翼族〈セラフィム〉の国――ルミナス。

魔族〈デーモン〉の国――ディアボロス。

竜血族〈ドラゴニアン〉の国――バハルザード。

森精族〈エルフ〉の国――エルヴァーン。

氷精族〈フロストエルフ〉の国――フロースベルグ。

鍛鋼族〈ドワーフ〉の国――ドランデル。

獣人族〈ビーストマン〉の国――ガルズィア。

死者族〈アンデッド〉の国――ネクルディア。

そして、あらゆる技を模倣し、各国の橋渡しとして栄えたヒューマンの国――アストレア。


九つの種族に九つの国。

そしてその端に、もうひとつの土地があった。


国境線の外れに押し込められた、灰色の土地。

罪人と、他国で生きる場所を失った弱者たち、

そして戦後に追放されたヒューマンたちが集められる流刑地。


人々は、それをこう呼ぶ。


**灰の国〈ノルズ〉**と。


かつて、天翼族〈セラフィム〉と魔族〈デーモン〉は、

光と闇という相反する力を持ちながらも、

長いあいだ、かろうじて均衡を保っていた。


セラフィムには──ごく稀に、

“堕天使化”という現象が起きると言われていた。


光が歪み、祝福が呪いへと反転し、

ひとりのセラフィムが、災厄そのものになる。


だがここ数百年、堕天使は一度も現れていなかった。

その事実が、世界中に「均衡は安定している」という油断を生んでいた。


……ただ一つを除いて。


ディアボロスの一部の者たちは、

光と並び立つ現状をよしとしていなかった。


「均衡など、ごまかしにすぎん。

 光が歪めば、世界は闇を必要とするはずだ」


そう信じる者たちが、

長い年月のあいだ、静かに機会を待ち続けていた。


そんな折――

ある夜、ひとりのヒューマンの貴族が、ひそかにディアボロスのもとを訪れる。


「光を、ほんの少しだけ狂わせる薬がある」


そう囁いた、と言われている。


その薬は、飲んだ者の心を乱し、

理性と感情の均衡を壊す“禁忌の産物”だった。


「セラフィムに飲ませれば……

 堕天使が、また生まれるかもしれませんな」


真相を知る者はごくわずかだ。

その場で何が交わされたのか、どんな代価が払われたのかも、

今となってはもう分からない。


ただ――ある日を境に、

ひとりのセラフィムが、狂ったように光を放ち始めた。


天翼が黒く染まりかけ、

祝福は灼熱の裁きへと変わり、

まさに“堕天”の一歩手前。


それは、ディアボロスにとって待ち望んだ瞬間であり、

世界にとっては最悪の引き金だった。


光と闇が激突し、

セラフィムとデーモンの全面戦争が始まった。


空は裂け、大地は割れ、

炎と光と闇が世界中を焼いた。

他の七つの国までも戦火に巻き込まれ、

世界は本当に滅びかけた。


その混乱の中で、

戦火と戦火のあいだを駆け回り、

割に合わない火消し役を押しつけられ続けたのがヒューマンの国――

アストレアだった。


戦場の間を駆け回り、

条約を結び、

停戦の橋を架けようとした。


しかし、戦争は止まらなかった。


どれほど言葉を尽くしても、

一度燃え上がった憎しみは、それを飲み込んでなお燃え続ける。


やがて、光と闇はようやく疲弊し、

戦争は“終わったことにされた”。


世界が次に求めたのは――

真実ではなく、“責任を負わせる相手”だった。


光は言う。「あれは闇の陰謀だ」

闇は言う。「狂気を呼んだのは光の傲慢だ」


どちらも罪を認めない。


ならば、こう言えばいい。


「戦争を止められなかったあいつらこそ、元凶だ」と。


その“あいつら”に、ヒューマンが選ばれた。


戦争の裏でどんな取引があったのか。

誰がどこで、どんな薬を渡したのか。

ヒューマンの中で何が起きていたのか。


真相を知る者は極わずかで、

その言葉は灰のように風に散っていった。


ただ結果だけが、はっきりと世界に刻まれた。


各国のあいだを行き来し、

橋渡し役を担ってきたヒューマンの国――アストレアは炎に包まれ、

その紋章は旗から引き裂かれ、

地図からも塗りつぶされた。


アストレアという名前そのものが、世界から消えた。


生き残ったヒューマンたちは皆、

「戦争を招いた不要な民族」として、

例外なく灰の流刑地〈ノルズ〉へと追放された。


もう、ヒューマンだけの国はどこにもない。


こうして世界は、


ルミナス、ディアボロス、バハルザード、エルヴァーン、

フロースベルグ、ドランデル、ガルズィア、ネクルディア――


八つの国と、ひとつの灰の隔離地〈ノルズ〉だけになった。


ノルズには、国旗がない。

独自の通貨もない。

王も、軍も、行政もない。


ここに暮らす者たちの身体には、

それぞれ生まれ持った“種族刻印スティグマ”だけが残っていた。


光の輪、竜の紅鱗、葉冠、雪片、黒い契約輪、鍛冶槌、牙の影、骨の輪。

そして、今は亡きアストレアを示す均衡の星の刻印。


だがノルズそのものには、

ひとつの紋章も与えられていない。


国と呼ばれながら、

国の象徴を何ひとつ持たない灰色の土地。


それが、灰の国〈ノルズ〉だった。


灰を含んだ雨が黒い泥をつくり、

腐臭を帯びた風が狭い路地を吹き抜ける。

昼でも薄闇が漂い、

夜になると灯りよりも呻き声のほうが多い。


世界から「不要」とされた命だけが送られる場所。


そこで、ひとりの少年が息を潜めるように生きていた。



◆ 禁忌の子


「見ろ、“禁忌の子”だ」

「また隅っこに隠れてやがる」

「近づくなよ。呪われるぞ」


乾いた声と笑い。

次の瞬間、小石が飛んだ。


頬に当たった石が、皮膚を裂く。

熱いものが一筋、こめかみを伝って落ちた。


「うっ……」


腕で顔をかばっても、

むき出しの膝に別の石が当たる。

土と灰が混ざった泥水が跳ね、服を汚した。


少年には、いじめの理由がよく分からない。


エルフとヒューマンの混血だからではない。

ここノルズでは、混血など珍しくもないからだ。

弱ければ、罪があろうとなかろうと踏みつけられる――

それがこの国の理だった。


ただ――

少年の父親が、かつてこの地に落とされた


“最大級の罪人”


だったと、噂されている。


誰も真実を知らない。

けれど、噂は形のない怪物のように膨れ上がり、

少年の輪郭を塗りつぶしていった。


「関わるなよ。お前まで呪われる」


石を投げた子どもが、怯えたように笑いながら言う。

怖いのは本当なのだ。

怖いから、笑ってごまかす。


倒れたまま、少年は泥にまみれた手を見つめた。


――なんで、僕なんだろう。


声に出すことはできない。

胸の奥で小さく問いかけるだけ。


泣けば笑われる。

反抗すれば蹴られる。

逃げれば追いかけてくる。


それを、何度も繰り返してきた。


だから少年は、何も言わずに立ち上がる。

痛みを飲み込み、視線を地面に落とし、

ただ“ここではないどこか”へ向かうように歩き出した。


家に辿り着く頃には、

膝からにじんだ血は固まりかけ、

服は泥と灰でまだらに黒く染まっていた。


それでも少年は、扉の前で一度立ち止まる。


袖で涙の跡をぬぐい、

深く息を吸って、顔をつくる。


母に心配をかけたくなかった。


きぃ、ときしむ音を立てて扉を開けると、

奥から、柔らかな声が飛んできた。


「おかえり。……転んじゃったの?」


銀の糸を束ねたような髪が、薄暗い室内でほのかに光る。

この国には似合わないほど澄んだ瞳の女性――

それが少年の母だった。


彼女は鍋の前から小走りで近づき、

少年の頬に手を添える。


指先が傷に触れた瞬間、

わずかに息を呑む気配が伝わった。


「また、なのね……」


小さくこぼれたその言葉には、

怒りでも、悲しみでもなく、

どうしようもない無力さが滲んでいる。


少年は、そちらのほうがよほど痛いと知っていた。


でも、母はそれ以上何も聞かない。


「ご飯にしよ? 今日はね、ちょっとだけいいものがあるの」


すぐにいつもの声に戻る。

“日常”の形を、あえて崩さない。


それが、母の優しさの形だった。


テーブルの上に並んだのは、干からびた芋と、

具のほとんど見えない薄いスープだけだ。


けれど母は、少しだけ得意げに笑う。


「ほら、今日は塩があるのよ。舌がびっくりしちゃうわ」


「……すごいね」


少年は、さっきまで石をぶつけてきた子たちの声を思い出さないようにしながら、

一生懸命スープをすする。


正直、しょっぱいというより、少し喉がひりついた。

でも、言葉はこうなる。


「……おいしいよ」


その一言で、母の表情がふっと和らぐ。

それでよかった。

たとえ、少し嘘が混じっていても。


食事のあと、湯を張った木桶に身を沈める。

灰まみれだった手が、少しずつ本来の肌の色に戻っていく。


湯から上がり、簡単な寝間着に着替えて布団に潜り込むと、

少年はいつもの問いを口にした。


「ねえ、母さん。……エルフの国って、どんなところ?」


母は布団の端を直しながら、少し遠くを見るように目を細める。


「森が深くてね。昼でも光が木漏れ日になるくらい。

 木々の間を風が通ると、葉がさわさわって歌うの」


声が、温かい記憶をなぞるように柔らかくなる。


「夜になるとね、花が光るの。

 冷たい空気の中で、小さな光がふわふわ浮かんで……

 星が地面に降りてきたみたいで、本当にきれいだったわ」


少年は目を閉じ、その景色を思い描く。


灰の匂いの代わりに、澄んだ風。

腐臭の代わりに、草と土の匂い。

薄闇の代わりに、光る花と星の群れ。


――そんな場所が、本当にあるんだろうか。


「……母さんは、戻りたい?」


ぽつりと出た言葉に、母は少しだけ黙り込んだ。


やがて、少年の髪にそっと手を置く。


「私はもう戻れないわ」


その声は、どこか寂しげで、

それでも不思議と穏やかだった。


「でもね。あなたが大きくなったら――」


掌に、ほんの少しだけ力がこもる。


「一緒に行きましょう。

 森も、光る花も、全部、あなたの目で見てほしい」


「……うん」


少年は小さくうなずき、

母の手の温もりに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。


母がいる。それだけで、この世界は、ほんの少し優しくなる。



◆ 世界の話


翌朝。

少年は、仕事へ向かう母を見送り、

路地裏の奥にある小さな家の扉を叩いた。


「……誰だ」


しわがれた声とともに、扉の隙間から片目が覗く。


「ぼく」


「ぼく、じゃ分からん。……おお、お前か」


がらり、と扉が開く。


出てきたのは四十前後の男だった。

ぼさぼさの髪、伸びっぱなしの無精ひげ。

着ている服もくたびれているのに、

どこか“戦場の匂い”のようなものをまとっている。


少年が一歩中へ入ると、

男は顔をしかめた。


「……またやられたのか」


頬の青あざと、固まりかけた血に目をやる。


「いつまでもやられっぱなしじゃダメだぞ」


叱りつけるような声ではない。

静かな怒りと、自分自身への苛立ちが混じった響き。


少年は視線を落とし、小さな声でつぶやいた。


「……こわい、もん」


その一言に、男は口を閉ざした。

返すべき言葉を探しあぐねる大人の沈黙。


重い空気を振り払うように、

男は棚へ向かい、古びた本を一冊引き抜いた。


「……ほれ。本でも読むか」


表紙は焼け焦げ、角は擦り切れ、

何度も修繕した跡が縫い目のように残っている。


「それ……どんな本?」


「世界がまだ十の国だった頃の記録だ」


男は椅子に腰かけ、ページをめくりながら語り出す。


「この世界には四つの“基本魔法”がある。

 土、風、水、火だ」


少年は身を乗り出す。


男は続ける。


「それに、種族ごとの“固有の属性”が加わる。

 ドラゴニアンは炎を好み、セラフィムは光。

 エルフは自然と精霊、フロストエルフは氷と静寂。

 デーモンは闇に愛され、ドワーフは鉄と技術。

 ビーストマンは獣の勘と身体能力、アンデッドは死と再生。

 ヒューマンは――何も持たん」


淡々とした口調だった。


「何も?」


「生まれつき持つ“属性”はな。

 だが奴らは、他のすべてを“真似る”ことに長けていた。

 剣、魔法、技術、政治。

 そのうえ、まれに“固有スキル”とやらを授かる者もいたらしい」


少年は目を瞬く。


「……じゃあ、魔法を使えるのは、その種族だけ?」


男は首を横に振った。


「いいや。魔力そのものは、どの種族の身体にも最初から流れてる。

 生まれたときからな」


「でも、ぼくは……何も出せないよ?」


「それが普通だ」


男は自分の肩を軽く叩いた。


「魔力は、刻印が浮かぶまでは“内側に閉じ込められてる”だけだ。

 刻印ってのはな……言ってみりゃ“魔力の扉”だ」


「……扉?」


「ああ。

 扉が開いて刻印が現れたとき、初めて魔力は外へ漏れ出して、

 形になって“魔法”になる。

 刻印が出てないガキが火を吹けないのは、当たり前だ」


少年は、自分の肩や胸元をじっと見下ろした。

そこには、まだ何の紋もない。

ただ、いじめられてできた痣と傷だけが残っている。


「おじさんは? 固有スキル、持ってる?」


「俺か? 残念ながら、なんもねえよ」


男は短く笑い、少年の目をまっすぐ見た。


「ただのヒューマン上がりだ。

 けど基本魔法は全部使えるし、剣も振れる。

 昔は……名前くらいは知られてた」


その言い方には、誇りと、少しだけ諦めが混ざっていた。


少年の胸に、小さな火がともる。


「ぼく……強くなりたい。教えてほしい」


男は本を閉じ、少年をじっと見つめた。

軽い返事を許さない眼差しだった。


「……本気か?」


「本気」


「そうか」


短く答え、男は立ち上がる。


「じゃあ、覚悟が決まったときにもう一度来い。

 そのときは手加減なしで叩き込んでやる」


「今じゃダメなの?」


「今のお前は、“怖い”って言った顔をしてる。

 それを忘れろとは言わん。

 それでも前に出たいって思ったときが、始まりだ」


少年は、何と返していいか分からなかった。

けれど、その言葉は確かに胸に残った。


いつもより少し長く、本の話を聞いてから、

少年はおじさんの家をあとにした。



◆ 世界が壊れた日


路地を歩いていると、

また、あの声が耳に刺さる。


「おい、禁忌の子だ」

「まだ生きてたんだ」

「早くどっか行けばいいのにな」


石が飛ぶ。

泥が跳ねる。


けれど、少年は涙をこらえた。


――いつまでもやられっぱなしじゃダメだぞ。


おじさんの声が頭の中で響く。


拳をぎゅっと握る。

殴り返したいわけじゃない。

ただ、自分が“消えてしまいたい”と思うのを、

自分で止めたかった。


一度だけ振り返り、少年は目を細めた。


「……」


何も言わない。

ただ、彼らの顔を、はっきりと記憶に刻む。


それから、背を向けて歩いた。


家の前まで戻ってくると、

扉が半分ほど開いたままになっていることに気づく。


いつもなら、母は鍵をかけて出て行く。

こんなふうに開いたままということは――ない。


「……母さん?」


嫌な予感が首筋をなぞる。

喉が勝手に乾く。


軋む音を立てて扉を押し開け、

薄暗い室内に足を踏み入れた瞬間、

鼻を刺すような鉄の匂いが一気に押し寄せた。


胸がぎゅっと縮まる。

足が勝手に奥へ進む。


「母さん?」


返事はない。


一歩。

また一歩。


視界の端で、赤いものが床を染めているのが見えた。

それを認めたくなくて、

脳が必死に“別のものだ”と言い張る。


だが、現実は残酷だった。


そこには、母が倒れていた。


胸を大剣に貫かれたまま。

白銀の髪が、こぼれた血に染まって赤くなっている。


目は半ば開いたまま、

口元には、笑みとも苦悶ともつかない形が残っていた。


時間が、その場で止まった。


世界が音を失う。

息の仕方を忘れる。


喉の奥から、ひゅう、と空気が漏れただけだった。


「………………ぁ」


声が出ない。


叫ばなければいけない。

駆け寄らなければいけない。

大剣を抜いて、母の身体を抱きしめなければいけない。


頭では分かっているのに、

身体がまったく動かなかった。


胸の奥で、何かがゆっくりとひび割れていく。


悲しみとか、怒りとか、恐怖とか。

名前のつく感情が全部混ざり合って、

ひとつの、形のない“叫び”になった。


その瞬間――


少年の身体の内側から、光が漏れ出した。


白金。

紅。

翠。

蒼銀。

黒紫。

鈍色。

琥珀。

深い藍。

そして、本来色を持たないはずの、かすかな無色の輝き。


九つの種族に対応するはずの色彩が、

ありえないほど混ざり合い、渦を巻く。


少年の周囲の空気ごと震えた。


「や……めろ……っ!!」


誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。


ただ、世界そのものに向かってそう叫んだ。


眩しい閃光がはじけ、

家の壁を突き抜ける。


外で何かが崩れる音と、

誰かの悲鳴が聞こえた。


次に意識が向いたとき、

少年は家の外に立っていた。


視線の先には、

いつも石を投げてきた子どもたちが倒れている。


全員、地面に伏してぴくりとも動かない。


胸が凍りつく。


「……殺し、た……?」


足が震える。

膝が笑う。


だが、よく見ると、かろうじて胸は上下している。

息はある。

けれど、誰も目を開けない。


自分の手を見た。

さっきまで泥で汚れていたそれは、

今も震え続けている。


――僕が、やったのか。


理解した瞬間、

吐き気と罪悪感と恐怖が同時に押し寄せた。


そこへ、怒鳴り声が飛んできた。


「坊主――っ!!」


さっき別れたばかりのおじさんが、

血相を変えて駆け寄ってくる。


少年の周囲を包む光が、まだ暴れ続けていた。


「やめろ!! そのままじゃ、お前のほうが壊れる!」


おじさんは少年を抱きしめる。

光が爆ぜ、

彼の腕の皮膚が焼け焦げる匂いがした。


それでも、おじさんは離さなかった。


「いいから、こっちに戻ってこい……!

 お前まで、いなくなったら……!」


耳元で、かすれた声が震える。


少年は、泣きながら暴れた。

振りほどけば、また何かを壊してしまいそうで怖かった。

でも、止まれなかった。


涙で滲んだ視界の中で、

母の倒れた姿だけが焼き付いて離れない。


「母さん、母さん……っ!!」


叫びが枯れ、

光が次第に弱くなっていく。


やがて、限界が来た。


力も、声も、何もかも使い果たして、

少年の身体は、おじさんの腕の中でぐったりと崩れ落ちた。



◆ 世界を変えるということ


目を開けると、見慣れた天井があった。

おじさんの家の天井だ。


身体中が重く、少し動くだけで全身が軋む。

それでも、上半身を起こそうとした。


「起きたか」


椅子に座っていたおじさんが、

包帯だらけの腕を組んでこちらを見る。


その腕の巻かれ方で、

少年は自分がどれだけ暴れたのかを知った。


「母さんは……」


問いの続きを、口にするまでもない。


おじさんは、目を閉じて首を振った。


「……すまん。俺が見つけたときには、もう息をしてなかった」


その言葉で、

もう一度世界が音を失う。


枕元に置かれた布――

見慣れたエプロンだった。

血の跡は、必死に洗われたのだろう。

それでも、完全には落ちていない。


「あ……ああ……っ」


喉から漏れた声は、声とも嗚咽ともつかない。


堰を切ったように涙が溢れた。

少年は布を胸に抱きしめ、

身体を折り曲げる。


「なんで……なんで……っ」


問いかけても、答える者はいない。


強くなりたいと願った。

誰も傷つけられないようにと、

胸の奥で小さく思った。


なのに、守りたい人は守れず、

憎んでもいなかった子どもたちを傷つけた。


「どうしたら……よかったの……?」


おじさんは、黙って隣に座った。

背中をさすりもしない。

ただそこにいて、泣き止むのを待つ。


どれくらい時間が経ったのか分からない。

涙がようやく途切れかけた頃、

少年は、掠れた声で言った。


「ねえ、おじさん」


「なんだ」


「……どうしたら、こんな世界を変えられる?」


おじさんの目が、わずかに揺れた。


「いじめられて、捨てられて、

 罪人だって決めつけられて……

 母さんみたいに、何も悪くない人が殺される世界なんて……

 間違ってるよ」


拳を握る。

爪が食い込んで痛い。

でも、その痛みが、今はちょうどよかった。


「どうしたら、誰もこんな目に遭わない世界にできる?

 どうしたら、そんな世界を……“変えられる”?」


おじさんは、すぐには答えなかった。


少年の問いは、あまりにも大きすぎた。

大人である自分でさえ、

答えを持っていない問いだった。


長い沈黙のあとで、

おじさんは深く息を吐いた。


「……一つだけ言えるのはな」


低く、静かな声。


「生半可な覚悟じゃ、絶対に無理だ」


その言葉は、決して突き放すものではなかった。


「世界を変えるってのはな。

 “世界中の誰か”の人生に、口を出すってことだ。

 それは、血を流すし、恨まれるし、

 お前自身も、もう元の場所には戻れなくなる」


おじさんの瞳に、一瞬だけ昔を思い出したような影が差した。


「それでもやるって言う奴にしか、

 世界をどうこうする資格なんて、ない」


少年は、その言葉を飲み込むように聞いていた。


怖かった。

そんなものを本当に望んでいいのか、分からなかった。


それでも、

母の血に染まった光景が、

頭から消えてくれない。


「……それでも」


震える声で、少年は言った。


「それでも、変えたい。

 こんな世界、間違ってる」


おじさんは、少年の目をまっすぐ見た。


そこには、泣きはらした赤い目と、

その奥で燃え始めた小さな炎があった。


「分かった」


静かな答え。


「なら、俺はお前に力を貸す。

 剣も、魔法も、この世界の汚え仕組みも。

 知っていることは全部教える」


その宣言は、大仰なものではなく、

淡々とした、しかし重い約束だった。


少年は涙を拭い、ゆっくりと顔を上げる。


「……教えて」


「何をだ」


少年は、迷わず言った。


「僕が、世界を統治する方法を。」


おじさんの目が、わずかに見開かれた。


世界を“変える”ではなく、

“統治する”と言った。


その言葉に込められた意味を、

少年自身もまだ完全には理解していなかった。


ただ――

誰かに任せておくのではなく、

自分が“世界の形”そのものを握る側に立たなければ、

この不条理は終わらないと、本能で感じていた。


おじさんは、ゆっくりと笑った。


それは、哀しみと期待が入り混じった、

大人の笑みだった。


「……とんでもないこと言いやがる」


そう言いながら、彼は少年の頭に手を置く。


「いいだろう。

 お前がその言葉を忘れない限り、

 俺は全力でお前を“世界を奪える怪物”にしてやる」


少年は、はっきりとうなずいた。


胸の奥で、何かが静かに燃え続けている。


母が語ってくれた、光る花の夜。

おじさんが見せてくれた、十の国の記録。

灰の国の泥と血の匂い。


すべてを、忘れない。


その夜――


少年の左肩甲骨のあたりに、

じわり、と光がにじんだ。


白金の光。炎の紅。森の翠。氷の蒼銀。

闇の黒紫、鉄の鈍色、獣の琥珀、死霊の深い藍。

そして、本来色を持たないはずの、かすかな無色の輝き。


九つの種族に対応するはずの光が、

ひとつの紋章に押し込められるようにして、ゆっくりと形を結ぶ。


それは、どの国の旗にも描かれていない紋。

どの貨幣にも刻まれていない紋。

どの教典にも記されていない紋。


この世界では、

人も国も皆、どこかの紋章のもとに生まれると言われている。


だが、その刻印だけは、

いずれの国にも属していなかった。


背中に浮かんだ“虹色の刻印スティグマ”を、

今この瞬間に見ている者は誰もいない。

本人からも、見えない場所だ。


それがどれほどの“禁忌”なのかを知る者は、

この時点ではまだ、世界のどこにもいない。


――これは、僕が世界を統治するまでの話。


その物語が静かに動き出した、最初の夜だった。

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