新種の感情

逆三角形坊や

新種の感情

AI生成コンテンツで世界が飽和した西暦20XX年。

エンタメ市場はついに、別の方向へ舵を切り始めた。

それは、人間が感じることのできる「感情の種類」そのものを増やす、精神のサブスクリプションサービスだった。


かつての産業は、泣ける映画、ホラーゲーム、笑える漫画など「感情を誘発するための物語」をパッケージ化して売っていた。その時代では、小説家や漫画家、ありとあらゆるクリエイターが、特定の感情への導線を設計するデザイナーとして、市場で求められていた。


しかしAIの登場によって、その設計プロセスは不要になった。

日々の行動履歴や感情の揺れ幅、思考の遷移など、ありとあらゆる個人データを吸い上げて、自動生成AIが最適な物語を「その人の脳内専用コンテンツ」として生成するようになったからだ。


この世界の人々にとって、「映画」や「ゲーム」は、観るものでも遊ぶものでもない。

それらは、ふと心に浮かぶ記憶や妄想と区別がつかず、

コンテンツは「感覚として脳内で発生する現象」に変化していた。


もはやエンタメはお金を払って得るものではない。

道路や公共施設と変わらないインフラであり、空気のように吸っていることすら忘れてしまうほど、当たり前のものになっていたのだ。


だが、人間の欲望はそれでも満たされることはなかった。

常に面白い情報に触れている状態が当たり前になった世界では、「最高のエンタメ」すら退屈な日常の一部として飽きられはじめていたのだ。


そうした流れの中で、求められるようになったのが、「未知の情動」である。



心理学者ロバート・プルチックが提唱した心理構造モデルでは、人間の感情は8つの基本感情と、そこから派生する40種ほどの副次的感情で構成されると説明されている。

つまり、合計48種類の感情が、人類がこれまで扱ってきた「心の色数」だったのだ。


長らくコンテンツ市場は、この限られた感情スペクトラムを刺激するための装置を売ってきた。

しかし、消費者はその色数だけでは満足できなくなっていた。


メーカーは、人間がまだ感じ取ったことのない、49種目以降の未知の感情を人工的に発火させる技術の開発に乗り出した。

そうして誕生したのが、新たな感情の追加パックとも言える「新種の感情シリーズ」だった。


最初にリリースされたのは21種類。

いずれも人類史上、誰一人として経験したことのない全く異質な感覚だった。


新種の感情を利用した者の顔には、意図的に再現することが不可能な表情筋のレイアウトが浮かび上がった。

普段使われることのない筋肉の層が、複雑に縦横へ分岐し、模様を描いて動く。

それは、人間が本来持ち合わせていない「未知の表情構造」そのものだった。



新種の感情は爆発的に広まり、若者を中心に「心のアップデート」として一大ムーブメントを巻き起こした。

人々はゲームの追加コンテンツを入れるように、新種の感情を次々と、自分の心の中にインストールしていった。


市場は様々なメーカーの感情追加パックで溢れ、

各メーカーも競うように新しい種類の感情を開発していった。

新種の感情は、各国が国力を注ぐ一大産業となり、

人類が扱える情動の種類は、ついに6万種を超えるところまで来ていた。



そして、その結果として起きたのが、

文明そのものの変質だった。


貨幣、法律、都市機能といった、

文明の土台となるほぼすべてのシステムが、感情の進化に追いつけなくなっていったのだ。


貨幣制度は徐々に機能しなくなり、

法律も、倫理も、価値観も、何もかもが、静かに意味を失っていく。


都市や家という概念も希薄になり、人々は「場所」ではなく「何かの流れ」に沿って移動するようになっていった。



そこにあるのは、秒単位で表情を切り替え続ける、人の形をした「何か」。

彼らは6万種類の感情を使って意思の疎通を図り、

その行動パターンは、もはや旧人類には理解できない。


かつての人間の面影はない。

しかし、その動きは混沌ではない。


おそらく、

あの奇妙な表情パターンの連続は、彼らにとっての合理であり、

隠された新しい思考構造なのだ。


彼らの文明は今も進行している。

我々が理解できる意味とは完全に分岐した、別種の精神空間で。

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