水の小径

水の小径

 目的もなく街を歩くのが好きだ。


 普段は歩かない道、はじめて気づいた水路、下からしか見たことがなかった歩道橋。わたしの生活のすぐ隣に当たり前に存在していて、でも暮らしているだけじゃ触れることのないものたち。それらに出会うとき、わたしは生活と世界の境界を簡単に踏み越えられる。それを自分のなかで地図にしていくのが楽しい。


 風が吹いた。パンの匂いをどこからか運んできているみたい。いい匂い。クルミのパンが食べたい、売っていたら嬉しいな。匂いを辿って辿り着いたそこには目当てのものがあるんだろうか。

 造成された小池が薄く濁っている。中にいるのはメダカ?似た外来種かもしれない。この水はどこに行くんだろうか。田畑に流れて、作物が飲み下すんだろうか。わたしがまだ知らない場所に注いで、どこかで別の川と繋がったり途切れたりするのかな。わからないけれど、その旅路を想像するのはちょっと楽しい。

 肌はすこし湿気を感じている。でも半袖にするには少し寒いかな。もうそろそろ初夏になる。そうすればもっと全身で風を心地よく感じられるのに。今年の夏は何をしようか。この街で何ができるかな。小さな楽しみが増えた。

 小学校の校庭から子供たちの高い声が聞こえる。チャイムが鳴った。業間休みはもうおしまいだって。急がないと怒られちゃうよ?わたしが小学生のとき、ドッチボールで派手にこけたのを思い出した。わたしはどんくさくて、いつもすぐに当てられちゃうからドッチボールはあまり好きじゃなかった。でもみんなが私を誘ってくれるのが幼心にとても嬉しくて、そんなの関係ないって一緒に遊んだっけ。彼らは今何をしているんだろう?立派な大人になっているのかな。彼らの輝かしい近況を聞いたことはないけれど、訃報や悲しい話も聞いたことがない。どこかで生きているんだろう。無理せず楽しく暮らしてくれていればいいな。


 わたしの身体が街に馴染んでいくのを感じる。ただ生きているだけじゃわたしはこの街にうまく溶け込めないように感じて、少し居心地が悪い。わたしが住んでいる街なのに、なんだかお客さんとして扱われているみたいで。

 けど、ぶらぶらと当てもなく街を歩いていれば、ここはわたしを拒んでいるわけじゃないとわかる。ただわたしが何も知らなかっただけなんだって思える。世界がわたしを肯定してくれているような気がする。


 わたしの生活とこの街の世界はたしかに繋がっていて、それに気づくと境界は色水みたいにだんだん滲んでいく。そうしてわたしは、この街に暮らしているわたしになっていく。一つずつ知っていくたびに、わたしが暮らす、わたしの街になっていく。繰り返しの生活ですり減っていった帰属意識が立ち戻っていく感覚。わたしにとって好ましくて、とても嬉しい感覚。大丈夫。地図のなかにはわたしもいる。


 赤信号だ。ここだけ切り取られて時間が止まったみたい。歩道橋を歩く。ふわふわしている。幸せなのかな。わからないけれど、怖くはない。眼下には街の営みが見える。わたしがいなくたって続く流れ。でも、その中にはわたしもいて、生活を享受している。それがたまらなく嬉しくて、足取りが軽くなる。歩道橋を下りきったとき、信号は青くなった。

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水の小径 @rize_

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