傷の論説

天然えび

第1話 傷の論説

※登場人物

 ・雅 有珠(ミヤビ・アリス)

 ・三井 幸(ミツイ・コウ)


以下本編

↓↓↓


その日。


幸は買ったばかりの中古車で、近所のモールに来ていた。


駐車場に入った幸は、そのまま黒い車両の右隣にバックで慎重に車を停める。


……免許取りたてのハンドル捌きは、まだまだ拙い。


無事に駐車が完了した──そう思った幸は、助手席の鞄を取ると、運転席のドアを開け、

その足で店内へと向かった。


すると、帰り際、書店で有珠を見かける。


彼女は、本の背表紙に手を伸ばしていた。


本のタイトルは──知能テストの展望と数理的な理論……?


──なるほど、一定以上の知能を持つ者が読むには、ぴったりの題名だ。


幸は彼女に歩み寄り、そして声をかける。


「知能テストに興味があるのか?」


突然の声に驚いたらしい。有珠は一瞬、肩をビクリと振るわせた後、ゆっくりと振り返る。


そして、幸の顔を確認すると、ほっと息を吐いて言った。


「…驚かさないで欲しいわ。……まあ、そうね」


幸は軽く謝って、話を続ける。


「ごめんごめん。…それで興味があるのは、知能の方?それとも、テストの方?」


有珠は答える。


「……あえて言うなら、まず知能に興味を持って、それからテストに興味を持ったわ。でも学ぶうちに、テストの方が重要に思えてきた…ってところ」


それは、明確な返答ではない。


彼女はいつも、こうやって情報を開示したら、その解釈をこちらに委ねてくる。


「有珠。君は知能が高いよね」


幸は、そう語りかける。


「ええ、あなたの定義によればそうなるでしょうね」


彼女は、何でもなさそうに答えた。


幸は聞き返す。


「…自分から言っといて、なんだけどさ。

恥ずかしくならない?」


「“あなたの定義によれば”と言ったのよ? むしろ、あなたの判断を信頼しているの」


幸が質問する。


「じゃあ、知能の定義って、何だと思う?」


彼女は即答する。


「……知能を定義するうえで、それをモデル化するのは、なかなか難しいと思うわ。あえて言うなら、真理に到達するまでのスピードかしら?」


「真理に到達するまでのスピード?」


幸の疑問をよそに、有珠は続ける。


「──でも、そうなると、日常言語における知能という定義からは外れるでしょうね。…いえ、“人々を納得させることはできても、普段使いはされない”…といった感じかしら?」


こうなると、彼女は止まらない。…幸は大人しく、話を聞く。


「ただし、ある結果に到達するまでのスピードであるとすれば、それはきっと複合的であると言えるわ。

筋肉量が多いほうが足が速いと思えるかもしれないけど、そうじゃないように。

…あなたと私の決定的な違いである『遺伝的な差異』が、択一的なものであるように」


彼女の言葉が切れると、幸は気になっていた事を口に出す。


「賢いことによるメリットはなんだい?」


「道徳的でいられるわ」


「賢くっても、性格が悪いとか、悪事に手を染めたりするような人間はいるだろう?」


…当然の疑問に、有珠はこう答えた。


「ええ…確かに。……でも不正確な頭脳を持った人は、繊細な人にも、幾何学的な人にもなれないのよ」



**



去り際、有珠は幸に予定を尋ねてきた。


「わたしは帰るわ。あなたは?」


「俺も。もう帰るところだ」


「そう… バス?徒歩?」


「いや? 車だよ」


──そう答えると、有珠は興味を持ったらしい……駐車場まで、着いてくることになった。


二人は、並んで駐車場まで歩いた。


(……別に、見せる程のものでは無いんだけどな…)


幸は、有珠を案内しながら、そんな事を考える。


……しかし、車に近づくと、妙な人影が立っているのに気が付いた。──警官?


明らかに、幸の車を確認している。


幸は何事かと話しかける。


「あの? 俺の車になにか…?」


警官が言う。


「隣の車の持ち主さんが、『右側のドアを擦られた』と言っているんですよ」


その瞬間、頭が真っ白になる。この車は右ハンドルであり、降りる際も、幸はまったく隣の車を確認していなかった。


有珠が警官に聞く。


「その車が駐車場内に入ってきた時間は?駐車券は確認しましたか?」


警官は、怪訝な顔で答える。


「…それは確認しました。八時ちょうどです」


「なるほど、私たちの三十分前ね」


彼女がそう言うと、警官は、幸のクルマの左テールランプの傷を指差した。


「…この傷は、高さも一致しますし、相手側の車の色とも一致します」


そして、続ける。


「なので、これは擦った際に、相手方の車の塗装がついたのではないかと。

…詳しくは分かりませんが」


「そうですか、では──」


有珠は言葉を続けようとするが、それを遮るように警官が言う。


「…とりあえず、鑑定の専門官が来ますので、それからで良いですか?

車の中でお待ちください」


──鑑定。

…まあ、それならハッキリするだろう。


幸は言われた通り、車内で待機することにした。


そして、議論するより良いと思ったのか、有珠も後部シートで待機する。


──数分後、二人組の警官が到着した。


彼らは、メジャーなどを持ち出して、傷の高さを測っている。…そして、先程の警官に対し、何か言っているようだ。


話を聞き終えたのか、警官が車のドアを叩く。


「やっぱり、擦ったのではないか…ということです。説明があるみたいなので、降りていただけますか?」


幸は、憂鬱そうに車から降り、鑑定の二人組のところまで行った。そのうちの一人が、軽く会釈して、説明を始める。


「えー、まずですね、色が一致しています。相手の車は『黒』。この車についた傷も『黒色』ですね。そして、傷の高さも一致……いやまあ、この傷のほうが、やや高いですが、人が乗っていると車高は下がりますから…」


そして、彼らが導いた結論を口にした。


「つまり、この出っ張りの部分で擦った可能性は、高いと思います」


幸は大きくため息を吐きそうになった。


これといって、身に覚えはないが、ここまで言われては仕方ない。


──そのときだった。


「そうかしら?」


幸が納得しかかったところで、背後から声がする。


──見ると、有珠が立っていた。


彼女は、話を一通り聞いていたらしく……語り始めた。


「まず、この車の傷跡についてだけど…反対側を見ていただける?」


そう言って、有珠は警官たちを反対側に誘導した。


警官が反対側に着くと、有珠は、赤いテールランプを指差した。…左右は反対だが、先程からずっと話題になっている部分だ。


皆が、その指先に視線を向けると同時に、彼女は言う。


「この黒い傷は何かしら?」


そこには──反対側と同じ高さ、同じ位置に、黒い傷跡があった。


「同様の傷が、左右にあるなら、現在できたものである可能性は低いと思うのだけど?」


確かに、もっともだ。

だが、彼女の意見に対して、警官は反論する。


「しかしね、色と高さが一致しているんだよ?それじゃあ──」


しかし、有珠は言い終える前に、言葉を被せた。


「こっちの傷も黒いのだから、その指摘は的はずれよ。それに、あなた達が言ったのよ? 

──“わずかだけど高さに差がある”…と」


有珠は続けた。


「つまり、完璧な一致ではないのよね? …第一、あなた達が測っている間、私たちは車に乗っていたじゃない」


警官達は言葉に詰まった。

論理展開では、彼女の方が上だと判断したらしい。


しかし、幸はふと思い出した。


(…そういえば、この車を後ろから撮ったかもしれない……)


幸はスマホを開き、その写真を探した。


(確かあれは、数日前の──)

ふと、幸の手が止まる。


写真はあった──しかし。


(これは…)


映し出された写真には、傷のない、車の後ろ姿があった。


…写真は少し離れて撮られている。もしかしたら、傷が小さすぎて映っていないだけかもしれないが、それを証明する手段が幸には思いつかなかった。


何故なら、辺りは既に暗く、光の感じを再現できるとも思えなかったためだ。


──もし、『車を二台とも回収して調べる』という話になったら、もっとややこしくなる…。


幸は素直に、警官に写真を見せることにした。


写真を見た警官は、どこかホッとした様子だ。

面倒にならずに済んだためだろう。


「…こういう事みたいだよ?」


警官はそう言って、有珠に対して、スマホを渡す。


しかし、彼女は一瞥しただけで画像を閉じ、写真アプリを起動する。


──そして、傷跡の間近で、はっきりと写るように、テールランプの傷を撮った。


(…いったい、何をしているんだ?)


幸は、一瞬、彼女が悔しがるかと思ったが、その迷いがない動作に目が離せなかった。


やがて彼女は、スマホを掲げて、撮った写真を全員に見せて言う。


「…傷は写っているわね?」


当然ながら、黒い傷跡がバッチリ写っている。


全員の確認が取れたと思うと、彼女は画像をスライドして、切り替える。


幸が見つけた、傷がない後ろ姿を捉えた写真だ。


「この写真に写ったテールランプの大きさを、覚えておいて」


彼女はそう言うと、画面をスライドし、彼女がいま撮った写真に切り替える。


そして、画像を小さく縮小させ──言った。


「──ランプの大きさを覚えておいて……そう言ったわよね?」


彼女は、言葉を続ける。


「……どうかしら?

今しがた間近で撮ったテールランプを、例の写真に写ったテールランプと、ピッタリ重なるぐらいの大きさに縮小させてみたのだけど」


「──傷は写っているかしら?」


……はっきりと写っていたはずの傷跡は、完全に潰されて、見えなくなっていた。


***


結局。警官達は、幸の車両を署まで連れ帰り、後日しっかりとした鑑定を行うことになった。


…また、幸が危惧していたような、自分と相手の車両が、二台とも連れていかれる事態は避けられた。


そして。今日、幸は警察からの連絡を受け取った。


──結論から言うと、相手のクルマの傷は、車両が擦れ合わさったものではなかったらしい。

『誰かが悪戯で削ったものではないか…』との事だ。


その事を、幸は電話で有珠に伝える。


彼女は言う。


「……あの時、言ったこと、覚えてる?

不正確な脳の存在について、私は懐疑的よ。だから、こう言い直すわ──」


「──より正確な脳を持った人間が、より繊細で、より幾何学的な人間になれる……と」

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