夜行少女

さしもぐさ。

プロローグ

 眼前に広がるのは、多くの星々だった。白や赤や青の小さな点が、どこまでも広がる黒の中に刻まれている。うっすらと、白い霧のようなものが見える。天の川だ。これを見たのは、果たしていつぶりだろう——長い時間を屋内で過ごしてきたわたしにとって、星空の観察は一つのやってみたいことだった。

 しかし、なんだか気分が上がらない。天の川がはっきりと見えるほどの澄んだ夜空なのに、なんだか物足りなかった。満足感の無さの原因を追求するために考え込んでいると、わたしの体がとても冷たいことに気づいた。どうしたのだろう。

 とりあえずわたしは寝ころんでいた山の地面から起き上がって、なんともなしに下に目を向けた。そこには、町の明かりがうっすらと見えた。夜空に浮きあがる星の光に呼応するように、町も負けじと輝いている。しかし、この光もまた、なんだかしっくりこなかった。

 わたしはなにが欲しいんだろう。そう首を傾げると、隣から「ねえ」と声をかけられた。わたしは視線を星や町からずらして、隣の人を見た。体育座りの体制を取っているわたしを見下ろす形で、彼女はそこに立っていた。

 わたしは、彼女を知っていた。わたしが入院していた間、定期的にわたしの元を訪れてきてくれた人だ。名前は、たしか——。

 わたしが思い出そうと記憶を探り始めた途端、唐突に彼女に軽やかに左手を掴まれた。そして、「そろそろ行こうか」と、彼女はわたしの手を取ったままどこかへと進んでいった。当然、わたしは彼女の後をついていく。

 わたしは彼女と一緒に、真っ暗な山道を下りていった。

 わたしの身体はまだ、冷たいままだった。


 辿り着いたのは、山のふもとの町を流れる川にかかる、大きな橋だった。

 これまでなにも言わずにずんずん進んできた彼女とわたしだったけど、その橋の入口の前に立つと、ぴたっと止まった。そして、彼女が振り返った。

 大きな目をわたしに向けて、色素の薄い茶色の長い髪をなびかせる彼女は、やはりわたしの知っている人と同じ人だった。名前を呼ぼうとするも、彼女はわたしの口に人差し指を添えて制止した。

「大丈夫、確認しなくていいよ。わたしは、蒔ちゃんが思っているのと同じ人だよ」

 そして彼女は、にっこりとわたしに笑いかけてから、言った。

「今日はね、蒔ちゃんに渡したいものがあったから来たんだ」

 そう言うと、彼女は[◆◆]を差し出した。わたしは、おずおずとそれを受け取る。手に取るとそれはわずかに暖かく、そして、心地よく振動していた。

 わたしはそれを、左胸の辺りに添える。すると、[◆◆]はわたしの身体に浸透していった。

 瞬間、わたしの身体が熱を帯びた。今までは氷柱のように冷たかった体の感覚に、体温が宿っていく。彼女はそれを見届けると、「うん」と呟いた。

「これでよし。今の蒔ちゃんなら、きっとこの橋を渡っていけるよ」

「……わたし、一人で渡るの?」

 率直に口にした疑問に、彼女は「うん」と言う。

「この先へは、わたしはついていけないから」

 わたしの中に、寂しさが敷き詰められていく——だって。せっかく、会えたのに。

「ごめんね。でも、こうしないといけないから」

 そう言った彼女は、急に申し訳なさそうな目をして、わたしに問いかけた。

「——ねえ。最後に一つ、わたしのお願いを聞いてくれないかな」

「……もちろん。聞くよ」

 即答すると、彼女は初めて、心から嬉しそうに笑った。そして、わたしの耳元に顔を寄せて、言った。

「『あの子』のことを、見ていて。それが、わたしのお願い」

 ——『あの子』って、誰のこと?

 そう聞き返そうとしたけれど、彼女はいつの間にか、わたしの前から姿を消していた。わたしの身体は、暖かいままだった。

 わたしは、橋を見た。無骨なコンクリート製の橋は、とても頑丈な作りのはずなのに、なぜだかとても頼りなく見える。

 一歩、また一歩と、その橋の上を渡っていく。どこからともなくやってきた恐怖心が、わたしの胸を満たしていく。

 この橋を渡った先には大きな困難が待ち構えているんだということを、わたしは直感で理解していた。それでも、進むしかない。

 わたしに体温をくれた彼女の、最後の願いのために。

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夜行少女 さしもぐさ。 @sashimo

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