風変りなステーキ
きょうじゅ
本文
そこは一軒の古めかしい洋食屋だった。どうということもない、都内の古い街にある古い洋食屋。カレーだのハンバーグだのカツレツだの。そんなどうということもないメニューの中に、それがあった。
羊のステーキ。
普通、この手の洋食屋でステーキを見かけること自体が稀である。たといあるとしても、普通はステーキというのなら牛肉、ビフテキだろう。それが、この店にあるのは、羊のステーキだったのである。
「羊のステーキを」
水を持ってきた初老の店主に、注文を通す。ランチもディナータイムも外れているということもあるが、ほかに客はおらず、店内は薄暗い。静謐な空間に、ただ厨房で肉の焼かれる音だけがかすかに届いてくる。
なんでこんな時間に昼飯を食う場所を探していたかって、仕事が忙しいからだ。この近くにある出版社に勤務している。そんなに昔からではない。転職して、今の会社に入り直した。まだそれから一年にもならない。だからこんな表通りを外れた裏道に、こんな洋食屋があるということも今日まで知らなかった。
この平成の世、出版界には不況の風が吹き荒れており、先行きは不透明で、未来に明るい展望はない。果たして十年後、二十年後はどうなっていることだろうか。
などと考えている間に、料理が届いた。鉄板のプレートではない。普通の、洋食用の大きな平たい皿の上に、焼き上げられた羊の肉のステーキ。特に『羊である』という以外の解説は無かったが、まあ常識的に考えて肉は
ものを食べるときというのは、とある人が言った。救われていなければいけないのだ、という。自由で。誰にも邪魔されず。静かで。豊かで。だから、今だけは抱えている締め切りのことも、出版の世界の未来のことも、約束を守らない下請け達のことも忘れて、ただ食おう。これを。羊のステーキとやらを。
ナイフとフォークが添えられている。ナイフを、肉に切り込ませる。肉は決して柔らかくはなかった。この店のメニューの中では高い部類に入るとはいえ、高い肉でもなければ高い料理でもないのである。そんな高級な、箸で切れるステーキみたいなものが出てくるわけはない。肉は、決して柔らかくはなかった。むしろ、妙に存在感を主張して、切れるものなら切ってみろ、食えるものなら食ってみろ、とでも言わんげに、ナイフを入れる指先に、反作用でもって応じた。
味付けは既にされている。あとは一口分切り分けたステーキを、口に運ぶだけだ。
静かな味がした。
その肉は静かだった。
決して高雅な味がするわけではない。雅、というのではなかった。むしろ、朴訥で、静かで、それでいて豊潤な味わいがあった。硬いのだが、味わいが深かった。
そのまま、フォークでライスをすくって、口に運ぶ。フォークの背にライスを載せる、なんていう面倒くさい真似は嫌いだ。ライスなんてものは、ただ『頬張れ』ばいい。それだけでいいものだ。
飯は正しく、硬くふっくらと炊き上げられていた。わが国におけるこういった店の基本中の基本。米は、おいしく炊いて、それもマメに炊き直して、いつだって最適な状態で提供されなければならない。この店は、それをちゃんと分かっている店だった。
キコ、キコとナイフで羊の肉を刻んでいく。少しずつ口に運ぶ。合間合間に、付け合わせの野菜を減らしていく。肉の味で、米が進む。『洋食』と呼ばれる種類の、日本人の食事のかたち。おそらくは『西洋の食事の模倣』ですらない、我々の文化。我々の暮らし。我々の、救いのかたち。
ふと気が付けば、肉はあと三切れ分ほどになっている。だが、そこでナイフを休めたりはしない。夢中だった。いつしか、夢中になっていた。肉にもう二筋の切り込みを入れ、フォークを指して口へと運び、かみしめる。既に冷めているが、冷めてなお、肉汁の芳しい香りが口いっぱいに広がる。羊の、味だ。牛肉の柔らかなうまみとは異なる、少し癖のある、どこかよそよそしい、羊というものの、味がした。
食事を終え、店主を呼ぶ。勘定を済ませ、荷物を取って、出る。
救済の時間はこれで終わりだ。あとはいつもの時間、いつもの暮らしの中に還らなければならない。抱えている締め切りのことも、出版の世界の未来のことも、約束を守らない下請け達のことも、みんなみんな思い出して、あいつらの世界の中を生きるのだ。
だが、いいかもしれない。あの一枚のステーキが、その世界へ戻っていくための、片道切符であったかのようだ。もしもまた、あの世界に戻ることが嫌になったら。何度でも、またあの店に行って。また、あの羊のステーキというのを、食ってやろうじゃないか。
そう思い、埃っぽい道を歩いて。店を去り、日常へと戻っていく。
風変りなステーキ きょうじゅ @Fake_Proffesor
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