招き猫の沈黙
はらほろひろし
招き猫の沈黙
雨は、夕方から降り始めていた。
部長室を出てから三時間。田村は、新宿駅東口のルミネ前を通り過ぎ、雑踏の中を当てもなく歩いていた。スマートフォンには着信履歴が十数件。実家の母からだ。だが、今は出られない。
三十二歳。貯金は三十万円を切っている。
退職届は、まだ提出していない。だが、もう選択肢は残されていなかった。
二年近く前から、徐々に始まっていた。まず営業の最前線から外され、企画部門へ。半年後には総務へ。そしてついには、誰も座らない会議室の隅の席へ。「リソース整理担当」という、意味のわからない肩書きだけが与えられた。
同僚たちの視線が変わった。最初は同情、次に好奇、やがて軽蔑へ。
田村は必死だった。金曜の夜、神楽坂の居酒屋「串八」で後輩たちに酒を奢った。一次会で一万五千円、二次会のカラオケで八千円。「いや、実は重要なプロジェクトを任されていて」と、存在しない仕事の話をした。
翌週、彼らの目はさらに冷たくなっていた。
見栄を張るための出費は増えた。ユニクロで買っていたシャツを、伊勢丹でポール・スミスに変えた。Apple Watchを買った。ランチは必ず千円以上の店を選んだ。誰も誘ってくれなくても。
貯金が、静かに溶けていった。
そして先週、些細なことで総務の女性社員と口論になった。書類の処理が遅れていることを指摘されて、田村は激昂した。書類の束を床に叩きつけた。
部長室に呼ばれた。「今週中に結論を出してくれ」。
雨脚が強くなり、田村は歌舞伎町の路地裏へと逃げ込んだ。靖国通りから一本入った、古いビルが建ち並ぶ通り。看板のネオンは半分消えかけている。「カラオケ」「バー」「麻雀」。その奥に、妙に新しい看板があった。
「ハウスリンク不動産 賃貸・売買・管理」
窓からは明かりが漏れている。三階建ての雑居ビル。一階は閉まったスナック、二階がその不動産屋らしい。
ふと、何かに引き寄せられるように、田村は階段を上がった。理由はわからない。ただ、雨宿りがしたかったのかもしれない。
二階の踊り場まで来たとき、ドアの隙間から声が聞こえた。
「ええ、ええ。そうですか、お嬢さんが就職されたんですね。おめでとうございます」
女の声。老いた、しかし妙に明るい声だった。
「それで、保証人のお父様の会社なんですが……少し調べさせていただいたんですよ。ええ、念のためにね。そうしましたら、どうも経営状況が……ええ、ちょっと心配でして」
田村は息を潜めた。
「いえいえ、契約違反だなんて。ただ、万が一のことがございますから。更新の際に、保証会社を通していただくか、あるいは……そうですね、少し保証金を積み増していただくとか」
沈黙。
「そうですか……ご検討いただけますか。ありがとうございます。それでは失礼いたします」
電話が切れる音。
そして、今度は男の声がした。
「おばさん、例の件、やっといたよ」
「ご苦労様。504号室のやつ?」
「ああ。Instagram見つけた。彼氏とのラブラブ写真上げまくってる。で、彼氏の方も調べたら、既婚者だった。学習塾経営者」
「あらまあ」老婆は、楽しそうに笑った。
「連絡するか?」
「いいえ。まずは彼氏の奥さんに匿名で。それから504号室の保証人……父親ね。その会社にも通報。半年もすれば家賃が払えなくなる。そしたら退去させて、次を入れる」
「わかった。それと、もう一件。307号室の女、水商売始めたっぽい」
「あら、それは好都合ね」
「どうする?」
「泳がせておいて、タイミングを見て大家に報告。契約違反で退去。でもその前に、店の方にも情報を流しておいて」
男の笑い声。
「おばさん、えげつないね」
「商売だからね。ああ、それと報酬は?」
「今日もらってく。現金で」
「はいはい」
田村は、背筋が凍った。
「じゃ、俺は行くわ」
足音。ドアが開く気配。
田村は慌てて階段を降りようとしたが、足がもつれた。手すりに手をついた音が、静かな廊下に響いた。
男が出てきた。三十代半ば、紺色のスーツ。雑な言葉の割には整った身なり。べっ甲柄のサングラスをかけている。男は田村を一瞥し、一瞬、サングラスの位置を直すように手をやった。それから事務所の中に向かって言った。
「おい、聞かれちまったぞ」
そして男は、田村の脇をすり抜けて階段を降りていった。他人事のように。自分は悪くない、とでも言いたげに。
田村は立ちすくんだ。逃げるべきか。
「……そこの方」
ドアの向こうから、老婆の声がした。
「もう聞いてしまったんでしょう? どうぞ、お入りなさい」
田村は、引き寄せられるように事務所の中に入った。
狭い事務所。古いスチールの机、パイプ椅子。壁には賃貸物件の写真が貼られている。「新宿駅徒歩5分 1K 7.5万円」「初期費用ゼロ!」「敷金礼金なし!」
そして、机の上には、無数の書類が広げられていた。
A4の紙に印刷された、SNSのスクリーンショット。Instagram、Twitter、Facebook。笑顔の写真。旅行の写真。友人との食事の写真。それぞれの写真に、赤いペンで書き込みがある。「要注意」「保証人:父親・自営業」「勤務先:不安定」。
別の書類には、履歴書のコピー。身辺調査の報告書。クレジットカードの利用履歴らしきもの。
窓際には、白い招き猫が十数個、並んでいた。大小さまざま、しかしすべて白一色。それらは雨に濡れた窓ガラスの向こうで、歌舞伎町のネオンを反射している。
老婆は、田村を見た。七十代だろうか。痩せこけた顔に、深い皺。しかし目だけは、妙に鋭かった。
「座りなさい」
田村は、言われるままに椅子に座った。
老婆は、しばらく田村を観察していた。値踏みするように。
「……あなた、何か抱えてるわね」
田村は黙っていた。
「まあいいわ。聞いてしまったものは仕方ない」老婆は、ため息をついた。「で、どうするつもり?」
田村は何も答えられなかった。
老婆は机の引き出しから、古い写真を取り出した。若い女性が、小さな不動産屋の前で笑っている。
「これが四十年前の私さ。夫と二人で始めた店だった」
老婆は写真を机に置いた。
「真面目にやってたわよ。でもね、人は裏切るのよ。家賃を滞納して、夜逃げして。最後には夫が……」
老婆は、それ以上は言わず、視界の端で田村の顔を見た。
ただ黙って机の上の書類を見ているだけだった。
老婆は、小さくため息をついた。
「それからよ。気づいたの。信用なんて、所詮は幻想だって。人はみんな、自分が可愛い。自分さえよければ、他人なんてどうでもいい。だったら、こっちも同じようにやるしかない」
田村は、机の上の書類を見た。
そして、一枚の写真に目が留まった。
見覚えのある顔だ。
総務の、あの女性だ。先週、口論になった相手。
写真には、彼女が高級レストランで誰かと食事をしている姿が写っていた。相手の男の顔は見えない。
田村の表情が、わずかに変わった。
老婆は、それを見逃さなかった。
「……知り合い?」
田村は慌てて視線を逸らした。
「いや、別に」
「嘘ね」老婆は笑った。「顔に出てるわよ。しかも、いい思い出じゃなさそうね」
老婆は、その写真を手に取った。
「この女性ね、面白いのよ。一見、真面目な会社員。でも実は、上司と不倫中」
田村は息を呑んだ。
「上司って……」
「ああ、名前は……」老婆は別の書類を確認した。「藤井、って人。部長職らしいわね」
藤井部長。
田村の直属の上司だ。田村を閑職に追いやった、あの部長。
「まさか……」
「あら、知ってるの?」老婆の目が光った。
田村は後悔した。言葉が勝手に出てしまった。
「……同じ会社です」
「へえ」老婆は興味深そうに身を乗り出した。「それは面白いわね。じゃあ、この女性のことも詳しく知ってるんじゃない?」
田村は黙り込んだ。
老婆は、さらに書類をめくった。
「この女性ね、社内でも情報通として有名らしいわ。人事の噂、予算の動き、誰が誰と揉めてる、そういうのを全部把握してる。そして、それを藤井部長に報告してる」
田村の拳が、握りしめられた。
「それだけじゃないのよ」老婆は続けた。「調べたところ、この二人、裏金も受け取ってる可能性が高い。取引先からのキックバック。まだ確証はないけどね」
田村の頭の中で、何かが繋がった。
あの二人が。
自分を追い詰めた、あの二人が。
「……許せない」
田村の声は、震えていた。
老婆は、静かに笑った。
「でもね、あなた一人じゃ何もできない。証拠もない。訴えたところで、誰が信じてくれる?」
真っすぐに田村の目を見た。
「私には調査のネットワークがある。証拠を集められる。そして……適切なタイミングで、適切な場所に、その情報を流せる」
田村は、老婆を見た。
「何が、言いたいんですか」
「簡単よ」老婆は言った。「私と組まない? あなたは社内の情報を提供する。私はそれを使って、彼らを追い詰める。Win-Winでしょう?」
田村の心臓が、激しく鼓動した。
「それは……」
「悪いこと?」老婆は笑った。「あなたはずいぶん疲れて、なにかを削られてしまっているようだけど、どうして?」
田村は、言葉に詰まった。
そして、気づけば話していた。
二年近く前からの、配置転換のこと。営業から企画へ、企画から総務へ、そして誰も座らない席へ。同僚たちの視線が変わっていったこと。
必死で信用を守ろうとしたこと。後輩に酒を奢って、存在しない仕事の話をしたこと。高い服を買ったこと。Apple Watchを買ったこと。誰も誘ってくれないのに、千円以上のランチを選び続けたこと。
そうやって、貯金が溶けていったこと。
「……自分でも、馬鹿だと思います」
田村は、うつむいた。
「でも、やめられなかった。認めたくなかったんです。自分が、もう終わってるって」
老婆は、静かに頷いた。
「そうね。人はみんな、信用を作って、守って、それで生きてるのよ。あなたも、私も、この女性も、藤井部長も。違いは、それが上手いか下手かだけ」
老婆は立ち上がり、窓際の招き猫を一つ、手に取った。
「私はね、上手くやってるだけ。それだけよ」
田村は、机の上の書類を見た。総務の女性の笑顔。藤井部長との食事。
自分を追い詰めた人間たち。
「……考えさせてください」
田村は、立ち上がった。
「もちろん」老婆は笑った。「でも、あまり時間はないわよ。情報は鮮度が大事だから」
田村は、何も答えず、事務所を出た。
階段を降り、雨の中へ。
歌舞伎町のネオンが、雨に反射している。
田村は、ただ歩いた。
---
三か月後。
「田村さん、これ、例の案件の資料です」
若手社員が、田村の机に書類を置いた。
「ああ、ありがとう」
田村は、にこやかに答えた。
三か月前、田村は退職を思いとどまった。そして、藤井部長に直談判した。「もう一度、チャンスをください」と。
部長は驚いた顔をした。そして、数日後、田村に新しいプロジェクトが割り当てられた。
「重要な案件だ。君にしか任せられない」
部長は、そう言った。
田村の席も、会議室の隅から、オフィスの中央へと移された。
同僚たちは、戸惑っていた。突然の復活。何があったのか、誰も理解できていない。
金曜の夜、田村は後輩たちを誘った。
「今日は、俺が奢るよ。店を予約してある」
コース料理にワインも頼んだ。会計は十万円に届きそうだった。
しかし、後輩たちの表情は、以前よりもさらに硬かった。
「田村さん、最近、何かあったんですか?」
一人が、恐る恐る聞いた。
「いや、別に。ただ、ちょっと運が向いてきただけだよ」
田村は笑った。
しかし、誰も笑い返さなかった。
二次会に誘っても、全員が断った。
「すみません、明日、用事があって」
「私も、ちょっと……」
田村は一人、タクシーで帰った。
---
同じ夜。
ハウスリンク不動産の事務所。
老婆は机に向かっていた。
ドアが開き、べっこう柄のサングラスの男が入ってきた。
「おばさん、例の件」
男は、分厚い書類の束を机に置いた。
「田村、か」老婆は書類を開いた。
「ああ。会社の知り合いに頼んで、色々調べてもらった」
書類には、田村の銀行口座の記録。毎月の入金と出金。そして、二か月前から始まった、不自然な入金。
「裏金ね」老婆は呟いた。
「みたいだな。それと、これ」
男は、別の書類を取り出した。田村のSNSのスクリーンショット。
高級レストランでの食事。新しく買ったスーツ。「仕事が充実してます!」というキャプション。
「必死ね」老婆は笑った。
「それと、両親の資産状況も調べた。父親は定年退職済み。母親はパート。地方だが持ち家とは別に一等地に駐車場あり。金融資産は五千万以上は固い。田村は一人息子」
「なるほどね」
老婆は、書類をまとめた。
「いいタイミングで使えそうね、この情報」
「どうするんだ?」
「まだよ」老婆は言った。「もう少し泳がせる。勝手に沈んでいくから。それから……一気に締め上げる」
男は笑った。
「おばさん、相変わらずだな」
「商売だからね」
老婆は、窓際の招き猫を見た。
外では、また雨が降り始めていた。
招き猫だけが、全てを見ていた。
沈黙したまま。
右手を上げたまま。
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