いもうと

櫻庭ぬる

空にならない皿

わたしは犬を飼っている。

名前はレオ。


わたしが辛い時や寂しい時、誰とも一緒にいたくないとき。

レオはいつもそばにいてくれる。


レオだけは、そばにいて良かった。


レオは普通の犬とは少し違う。

どんなときでも駆けつけてくれる。

信じてもらえないだろうけれど、わたしがどんな場所にいたって現れるのだ。


金の毛並みの、優しい潤んだ目をした大きなゴールデンレトリバー。

レオはわたしにとって最高のパートナーだ。


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「ねぇ、アイ。アリスを連れて公園に行ってきてくれない?」

土曜日の朝。お母さんがそう言った。


「いいよ」わたしは笑顔で答える。

「結構寒いから、暖かくしてあげてね」

わたしがそう言うと、母はアリスの支度をしにいった。


わたしには妹がいる。


名前はアリス。

2つ年下の、明るく元気で甘ったれな、わたしの妹。


わたしは玄関でアリスの支度が整うのを待つ。


「いってらっしゃい。夕方には帰ってきてね。お腹ぺこぺこにして、晩ご飯ちゃんと食べてね。」

母に見送られ、わたしは母に手を振ってから背を向けた。

扉の閉まる音がする。


しばらく進んでから振り返って我が家をじっと見つめた後、わたしは公園とは逆の方向に足を向けた。レオもついてきた。


別に行く当てはない。

公園に行くと言った手前、しばらくは家にも戻れないし。


わたしはショッピングモールに行くことにした。

アリスは一緒には行かない。

レオがクゥンと鳴いた。


ショッピングモールに着くと、ドーナツショップでドリンクとドーナツ一つを買い

、ちょうど目の前で空いた席を見つけて座った。


土曜のショッピングモールのフードコートのお昼時は陣取り合戦が繰り広げられる。


レオがわたしの横でクンクンとドーナツの匂いを嗅いでいる。

周りの人はレオのことはまったく気にしない。


家に居たくないなぁ。わたしは思った。

「家に居たくないなぁ。」

声に出してみた。

とても小さな声にしたけれど、レオが心配そうにわたしを見た。


家のリビングには、アリスの写真がたくさん飾ってある。

アリスのぬいぐるみ。アリスのおもちゃ。

どこもかしこもアリス。


母の心を占めているのはアリス。

母は、アリスがいなくては生きていけないのだろう。


わたしにとってもアリスはかわいい妹だ。

よくわたしの真似をして後をついてきた。

わたしのほうが先に小学生になると、わたしのランドセルをうらやましがって、よく背負っていた。


でも今は、アリスのことが大事かと言われたらわからなくなってしまった。

わたしは酷い人間なのだろうか。


「わたしが、お母さんのアリスを消さなくっちゃ。ね、レオ。」

わたしが言うと、レオがバゥと吠えた。


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「おかえりなさい」


帰宅すると、母が笑顔で迎えてくれた。

「もうすぐごはんができるからね。」


「アリス、手を洗ってらっしゃい」

母はそう言ってアリスを洗面所に向かわせてから、わたしに言った。


「ねぇ、今度アリスにこの服を買ってあげようと思うんだけど、アイはどう思う?」

母はスマホの画面をわたしに見せてきた。


インスタの子供服のアカウントの投稿画面が開かれている。

それは結構高価な子供服で、袖やポケットに、淡い色のリボンが上品にあしらわれている。

わたしも小学生の頃は憧れたブランドだ。


「かわいいよ。すごく。でもおかあさん。アリス、今幾つだと思ってるの?」

自分の声がとても冷たいのがわかる。

「え…?」

母がきょとんとした顔でわたしを見返す。


「アリスは…わたしと2つしか違わないんだよ」

わたしは自分の声が震えているのに気づいた。

顔をそむけたときに見えた母の顔には、動揺がはしっていた。


本当は声を荒げてしまいそうだったが、なんとか落ち着けることができた。

代わりに、目から涙がぽろぽろと溢れてきた。


わたしは、涙を見られないように2階の自分の部屋に向かった。

それに、これ以上ここにいると何を言ってしまうか自分でもわからない。

レオも後からついてきた。


大きな声で、子供のように泣けたらすっきりするだろうか。

でもわたしは声を押し殺して、クッションを抱きしめて、唸り声のような声を漏らして泣いた。


この部屋も、アリスが小学生になったら二人で使うはずだったが、結局アイが一人部屋として使っている。

部屋の端には、アリスのためのものが入った同じような大きさの箱が8つ、積み重なっている。


わたしだって、アリスが嫌いなわけじゃない。

どうしてこうなってしまったんだろう。


レオがアイの顔をペロペロと舐め、膝と胸との間のクッションに頭をねじ込んだ。

レオはいつもこうしてわたしの心配をしてくれる。


「ありがとう、レオ」

レオは少し頭をあげると、上目遣いにわたしを見た。

そしてまたクッションの上に頭を戻した。


わたしは、レオの毛並みに顔をうずめた。


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ある日の夜。

下のリビングから、お母さんの甲高い声が聞こえた。

わたしは食事を終えて自分の部屋で過ごしていたが、びっくりして下に降りた。


「どうしてまた残すの!?いつも頑張って作ってるのに!」


母がヒステリーを起こしていた。

母はときおり、酷く情緒が不安定になることがある。


母の言葉で状況はすぐにつかめた。

アリスが食事を食べないからだ。


「お母さん、大丈夫よ。わたしが見てるから。アリスは全部食べるから。」

できるだけ、なんでもないような声で優しく母に言う。

怖いことなどなにも起きていないと、言い聞かせるように。


母の呼吸を落ち着かせ、寝室に連れて行った。

リビングに戻って、アリスの食事と向き合う。


アリスは何にも手を付けていない。

すでに一人分を食べたわたしは、アリスの分を少し食べ、残りをタッパーに詰めて冷蔵庫に入れた。


『気にしないで byアイ』そうメモに書いてタッパーに貼り付けた。

そう書いておけば、母はタッパーの中のことは気にしない。

もしかしたら気にしているのかもしれなけれど、そうであれば気づいていないふりをしているのだろう。いつものことだ。


わたしはやりきれない気持ちになる。

この家族は、とても不安定な均衡の上で成り立っているのだ。


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ある日、学校から帰ると大き目の箱がリビングにあった。

母はキッチンで鼻歌を歌っている。

ずいぶんと機嫌がよさそうだった。


その箱は、ランドセルだった。

ラベンダー色をした、かわいいランドセルの写真が、箱に印刷されている。

これを背負ったアリスは、さぞかわいいだろう。

でもわたしは、それを見た瞬間、頭に血が上るのを感じた。


「もうやめてよ…」

母は、振り返って戸惑った顔をする。

「どうしたの?アイ。」

「なに?このランドセル。」

自分でも、声が強く、鋭くなっているのがわかる。

「なにって、アリスが今年から小学校だから…」

「アリスは小学校には行けない!行けるはずないの!」


わたしは怒鳴った。こんなに大きな声を出したのは生まれて初めてな気がする。


「やめて…」

母は力が抜けたようにその場に座り込み、細く震える声を絞り出した。

「やめて…やめて…」

でもわたしは容赦しない。

もう、ここまでなのだ。


「ランドセルだって、もう8個もうちにあるよね。知ってるでしょ?わかってるんでしょ?いつまでこんなことを続けるの!?」

涙がどんどん流れてくる。怒ってるのか、悲しんでるのか、なんの涙か自分でもわからない。

「やめて、アイ。お願い。ほらアリスが泣いてるわ。アリス。大丈夫よ。アリス…。」


捲し立てるようにわたしは荒げた声で、言葉を母にぶつける。

「いつまで新しい服を買い続けるの?いつまでアリスのご飯をつくり続けるの?」

「アリス。アリス…。」

母はアリスの名前を繰り返しながら、耳をふさぐ。

わたしは母の手を耳から引っぺがして、声を荒げた。


「アリスは公園にはいかない。アリスはご飯を食べない。アリスは…。」

普段はおとなしいレオが、なにかの警告のように吠える。


もうぐちゃぐちゃだ。

わたしの感情も。この、たった二人きりの家族も。


「アリスはもういないの!」

わたしのその声をかき消すように、母が大きな声で「やめて!」と叫んだ。


次の瞬間、家の中は、シンと静まり返った。

わたしの耳には、わたしの荒い呼吸と心臓の音が大きく響いて聞こえる。

レオの泣き声は止み、呼吸が整うにつれ、母のすすり泣く声が聞こえてきた。


「ちゃんと、二人で生きようよ。…お母さん」

わたしの言葉に、返ってくる言葉はなかった。


足に、レオの毛並みが寄り添うような気配を感じた。

でも足元を見ても、レオはいない。


その日以来、レオの姿を見ることは二度となかった。


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アリス。私の妹。

あの子は、小学校に上がる前に、事故で亡くなった。


母がアリスの幻を見るようになったのは、それから1年ほど経ってからだった。

「アリスに、ランドセルを買ってあげなくっちゃ。」

ずっと憔悴しきっていた母が、久しぶりに元気に過ごすのを見て、わたしもその幻に付き合った。


やがて、母がわたしのことなどほとんど見ておらず、アリスばかりを追っていることに気が付いた。

アリスのものを増やせば増やすほど、アリスの存在が確かなものになっていくかのように、母はアリスのものばかりを買い続けた。


そして、毎年冬の終わりに必ずランドセルを買ってくる。

その異常さに気づいたときには、簡単には引き返せなくなっていた。


レオがわたしの前に現れたのはそれから少し経ってからだった。

レオはわたしの心が壊れないように、ずっとそばにいてくれたのだろう。


母にとってのアリスのように。


-----------------

わたしには妹がいる。


名前はアリス。

2つ年下の、明るく元気で甘ったれな、わたしの妹。

あの子はもう存在していない。


でも。あの子は今日も、母の横で笑っているのだろう。


母は今日も、妹に食事を作っている。

そして、空にならない皿を、テーブルに並べるのだ。

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いもうと 櫻庭ぬる @sakuraba_null_shi

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