李亜山高校、第二音楽室

abeユキオ

音楽室の幽霊

 ◇


 朝、目が覚めるたびに、どこか借り物の身体に入ってしまったような違和感がある。


 僕の名前は狩野栄一かりのえいいち

 李亜山高校りあやまこうこうに通う、ごく普通の――と、自分で言っておかないと、輪郭が溶けてしまいそうな男子高校生だ。


 洗面台の鏡に映る顔は、よく見ればそこそこ人間らしい形をしている。

 寝癖はいつも通り左に跳ねていて、目の下の薄いクマも昨日と同じ位置にある。

 それなのに、鏡越しの視線が、ほんの少しだけ他人のものに見える瞬間がある。


 その違和感を長く見つめていると、遅刻する。


 歯を磨き、制服に袖を通し、玄関を出る。

 通学路は、毎日ほぼ同じ記号で構成されている。コンビニの袋を提げて歩くサラリーマン、踏切の遮断機の音、アスファルトの割れ目から伸びる雑草。

 それらは僕を認識していないし、僕もそれらを覚えようとしない。


 世界の方から話しかけてくることは、あまりない。


 ◇


 二年生になってからの教室は、ひと冬分の空気を薄めたみたいに、中途半端にあたたかい。


 春の陽射しが窓から差し込み、黒板の前をゆっくりと埃が泳いでいる。

 先生の声は、教科書の活字と同じくらい遠くにある。ノートの罫線は、眠気を上手に誘導してくる。


 平凡、という言葉がある。

 その平らな音の上に、自分の人生を寝かせてしまえば、きっと楽なのだろうと思う。

 実際、僕の一日はなめらかに流れていき、どこにも尖ったところはない。


 尖らない代わりに、何かが引っかかっている。

 胸の奥のあたりで、小さな音も立てないまま、ひとつだけ押されない鍵盤みたいなものがある感じ。


 それを押してしまうと、何かが変わってしまいそうで。

 押さなければ、何も変わらないまま終わってしまいそうで。


 どちらもあまり、気が進まない。


 ◇


「なあ栄一。幽霊って信じる?」


 放課後の教室で、机に突っ伏していた僕の背を、小さく叩く指があった。

 寿ことぶきだ。小学校からの付き合いで、僕の平坦な人生にちょくちょく余計な起伏をつけてくる役割の人間。


「その入りで話しかけてくるの、人生で何回目だよ」


「真面目な話なんだって。今回だけは」


 寿は、教卓の前に歩いていって、誰もいない教室を一周見渡した。

 いつになく真剣な顔をしている。

 そういうときの寿は、大抵くだらないことを口にする。


「音楽室な。最近、放課後にピアノが鳴るらしい」


「ふうん」


「誰もいないはずなのに、だ。で、それ聞いた奴が一人いてさ」


 寿は、窓際の席の背もたれに腰を預けた。

 西日が、彼の頭の後ろで少しだけ眩しく光る。


皆木樹みなきいつきって名前、知ってるか?」


 知っていた。

 隣のクラスの小柄な女子。黒髪で、いつも静かな顔をしている。

 大声を出しているところを見たことがないかわりに、何度か、誰かの話をじっと聞いている横顔を見たことがある。


 気にしたことがない、というほど無関心だったわけでもない。


「その子が――聞いたらしい。誰もいない音楽室で、ピアノを弾いてる誰かの音を」


「……誰か?」


「さあ。幽霊か、人か、そうじゃない何かか。面白そうだろ?」


 寿はわざとらしく笑った。

 幽霊という単語より、「面白そう」という言葉の方が、僕の胸のどこかに引っかかった。


 押されない鍵盤が、わずかに揺れた気がした。


 ◇


 翌日の昼休み、僕は隣のクラスの前に立っていた。


 自分の行動力を、一番疑っているのは多分僕自身だ。

 こういうとき、人は大抵「勇気を出して」とか言うけれど、僕には勇気があるわけじゃない。ただ、放っておくと何も変わらないということを、なんとなく想像できてしまっただけだ。


 皆木は、廊下側の席で文庫本を読んでいた。

 声をかけると、少し驚いたように顔を上げる。目が合う。思ったより、目の色が淡い。


「あの。少し、いいかな」


「……うん」


 空き教室を借りて、向かい合って座る。

 窓の外からは、運動部の掛け声が遠く聞こえていた。ここまで届く間に、いくつかの音が削れている。


「音楽室のこと、聞いたんだ。……放課後にピアノが鳴ったって。君が、聞いたって」


 皆木は、机の上のペットボトルのキャップを軽く指で押し込んだ。かすかな空気の音だけがした。

 何かを思い出すように、ほんの少しだけ視線が揺れる。


「――うん。聞いたよ。……はっきり」


 最後の言葉を口にするときだけ、彼女の声にわずかな重さがあった。


「誰もいないはずなのに、鍵盤を押す音がしたの。……一回じゃなくて、何音か続けて。普通に、第二音楽室で誰かが練習してるみたいに」


「そっか。じゃあ……気のせい、とかじゃなくて?」


「気のせいならよかったんだけどね」


 皆木は小さく息を吐き、目を伏せた。


「そのあと、変だったの。音は止んだんだけど、部屋の空気が……なんて言えばいいのかな。そこに“誰かが立ってる”みたいに、妙に重くなってた。私、そういうの感じるタイプじゃないんだけど」


 彼女は自嘲するようにかすかに笑ったが、すぐに真顔に戻った。


「思い違い、とかじゃなくて。ただ、確かに“そこにいた”って感じだった。音より、その感じのほうが強く記憶に残っていたよ」


「……なるほどね」


 答えながら、僕の背中にゆっくりと冷たいものが降りてくる。


 皆木は窓の外に視線を向け、淡い光を受けながら小さく言った。


「もしかしたら、狩野君も行けば何かあるかもよ、夕方の音楽室に。私は何度も確認しても、もう何も起こらなかったけど……あれは、聞き間違えじゃない――と思うから」


「そんなことがあって、怖くは、ないの?」


「思い悩むほど怖かったら、人に話さないよ」


 そう言って、皆木は窓の外に視線を向けた。

 そこには何も特別なものはなくて、ただ、よくある校庭の風景が広がっているだけだった。


 ◇


 放課後の校舎は、昼間より音が少ない。


 人の声が減る代わりに、建物そのものの軋む音や、風が窓枠を擦る音が、少しだけ大きくなる。


 第二音楽室は四階の突き当たりにある。

 近づくほど、心臓の鼓動と階段を上る足音が混ざり合って、どちらがどちらか分からなくなっていく。


 扉の前で、ひと呼吸おく。

 理由もなく、ノックはしなかった。


 ドアノブを回して、中に入る。


 誰もいなかった。

 机は整然と並べられ、黒光りするグランドピアノが部屋の奥で黙っている。

 窓の外では、陽が沈みかけていて、カーテンの端がゆっくり揺れている。


 拍子抜けしたような安堵と、どこか物足りない感情とが、同時に胸の中に広がる。


(ただの噂、か)


 そう思って、窓際に歩み寄る。

 ガラスに映る自分の姿は、朝の洗面台と同じ顔をしていた。

 ここまで来る必要があったのかどうか、考えているとき――


 不意に、音が落ちた。


 一音だけの、ピアノの音。


 誰かが鍵盤に触れた――――ピアノの方向だけが、空気ごと切り取られたみたいな響き。


 続けて、もう一音。

 単音が、ゆっくりと階段を上っていくみたいに重なっていく。


 僕は、体を硬直させた。

 顔を僅かに、ギギギと後ろに向きかけた。

 誰もいないはずの部屋で、ピアノだけが音を生んでいる。


 鍵盤は、勝手には沈まない。


 そう思ったとき。


「――こっち、見なくていいよ」


 やわらかい声が、背中のあたりから聞こえた。


 振り返る。

 窓際の反対側、ピアノの横に、女の子が立っていた。


 白いセーラー服。黒髪。線の細い首。

 西日に縁取られた輪郭は、どこからどう見ても人間だった。


 ただ一つ、普通と違うところがあるとしたら、そこにいるのが、あまりにも当然のような顔をしていたことだ。


「……君、いたんだ」


「――――――………さっきからいたよ。あなたが入ってくる前から……」


 彼女は指先で鍵盤をなぞる。音は鳴らない。


「驚かないんだね」


「いや、驚いてるよ。中身は」


「外身は、落ち着いてる風に見える」


「いつもそう言われる」


 彼女は少しだけ笑った。

 その笑い方が、妙に丁寧だった。誰かに習ったみたいな。


「名前、教えてもらってもいい?」


「狩野栄一。二年B組」


「狩野くん」


 名前を呼ばれる。その響きが、音符みたいに耳の奥に残った。


「じゃあ、私もちゃんと名乗らなきゃね。坂上優紀さかがみゆうき。……この学校の名簿にはいないけど」


「転校?」


「違うよ。もっと、抜本的な感じ」


 彼女は、軽く首を傾げた。


「死んでる」


 その言い方は、驚くほどあっさりしていた。


 まるで、天気予報みたいな調子で、自分の死を告げる。


 言葉の意味が、僕の脳に到達するまで、少し時間がかかった。


「……幽霊、ってこと?」


「言葉としてはそれが一番近いかな」


 坂上は、自分の手のひらを眺めていた。

 光が手のひらを通り抜けているようにも、ちゃんと皮膚に遮られているようにも見えた。


「触ってみる?」


 そう言って、彼女は一歩近づいた。


 僕は反射的に、一歩下がりそうになる足を、ぎりぎりのところで踏みとどまらせる。

 逃げたくないというより、逃げた自分を後から思い出すのが、とても嫌に感じた。


 手を伸ばす。

 指先が、彼女の肩に触れる――はずだった。


 何もなかった。


 通り抜けたことで分かる、“空気とは違う何か”みたいな違和感さえなかった。

 ただ、そこに在るはずの質量だけが、綺麗に抜け落ちている。


「ね。ちゃんと、死んでる」


 坂上は言った。

 僕の手は、彼女の身体をすり抜けて、空中で止まっている。


 重力の方向が、一瞬だけ分からなくなる。


 ◇


「どうして、ここにいるんだ」


 ピアノ椅子に腰掛けた坂上の横に立ちながら、僕は聞いた。


「もしかしたらここが、最後にちゃんと“生きていた”って思える場所だから、かな――たぶん。生前に気に入ったんじゃない?」


 彼女は鍵盤を見下ろした。

 指をおろす。音が鳴る。

 さっきよりも、少しだけ長いフレーズだった。


「その制服って、あの坂上女学院の?」


「そう。丘の上の、白い建物。そこに通っていたはずなんだけど――気づいたら、ここでピアノ弾いてた」


「死んだときのことは」


「よく、覚えてない」


 彼女は淡々と言った。

 その淡々さには、諦めとも、慣れともつかないものが混ざっていた。


「覚えてないまま、ここにいて。誰かが入ってくるたびに、少しだけ期待して、少しだけ疲れて――そんな感じで、何度か季節を見送った気がするよ」


 窓の外を見やる。その視線は、遠くの景色ではなく、もっと手前の空気を眺めているようだった。


「皆木って子にも、会った?」


「うん。小柄な女の子のことなら――ちゃんと“気づいて”くれたから、つい演奏しちゃった」


「幽霊のサービス精神ってやつか」


「退屈なんだよ。死んだあとって」


 坂上は、少し顔をしかめて笑う。


「だから、ありがたいんだ。こうして話してくれるの」


「僕は、特に役に立てそうにないけど」


「それはこれから決めることでしょう?」


 彼女は背筋を伸ばし、こちらを見た。


「ちょっと、お願いしてもいい?」


「……内容による」


「私のこと、覚えていてほしいの」


 その言葉は、意外なほど静かに響いた。


「ここにいるってこと。私が確かにいたってこと。……あなた一人だけでもいいから、ちゃんと覚えていてくれたら、嬉しい」


「それだけ?」


「それだけ、って言えるほど軽い頼みでもないよ」


 坂上は、ピアノの蓋に片手を置いた。


「人ってさ、忘れるじゃない? 自然に。そこにいた人のことも、いなかった人のことも。私、自分でも自分を忘れそうで、ちょっと怖いんだよね」


 幽霊が、怖いと言う。


「だから、もしよければ。あなたの中に、私の居場所を、少しだけ分けてほしい」


 居場所。

 その単語を口にされて、胸の奥の押されない鍵盤が、少し沈んだ気がした。


「……いいよ」


 言葉は、思ったより簡単に口から出てきた。


「代わりに、ひとつだけ条件」


「条件?」


「僕のことも、覚えていて。狩野栄一ってやつが、確かにここに来て、ピアノの幽霊と話したってことを」


「それは、ちゃんとやる」


 坂上は、すぐに頷いた。


「忘れたくても、忘れられないと思う。だって、今まで私に話しかけてくれたの、あなたが初めてだから」


 その言葉は、冗談に聞こえなかった。


 ◇


 それから、何度か放課後の音楽室に行くようになった。


 毎日ではない。

 授業や部活の予定もあるし、寿にどこかへ連れて行かれる日もある。

 それでも、週に何度か、四階の突き当たりの扉を開けると、そこには坂上がいた。


 彼女はいつも、ピアノの横に立っていた。

 ときどき鍵盤を叩き、ときどき窓の外を眺め、ときどき、僕のどうでもいい話を聞いてくれた。


 テストの愚痴とか、寿のくだらない失敗談とか。

 家で見たニュースの、印象に残らない内容とか。


「ねえ、狩野くん」


「なに」


「生きてるって、楽しい?」


「さあ」


 正直に言うと、それがいいのかどうか、いまだによく分かっていない。

 ただ、死んでいるという状態よりは、選択肢が多いような気はする。


「良いときも、悪いときもある」


「曖昧だね」


「世界が曖昧だから」


 坂上は、くすりと笑う。


「でも、あなたの話聞いてると、少なくとも“続いてる感じ”はするよ。――日常が。……それだけで、羨ましい」


 彼女は鍵盤に手を置き、短い旋律を弾いた。


「この曲、知ってる?」


「知らない」


「私も知らない」


「じゃあ、どうして弾けるんだ」


「覚えてるから。身体のどこかが」


 彼女の指は、淀みなく音を紡いでいく。

 懐かしく感じるのは、メロディーそのもののせいなのか、坂上の弾き方のせいなのか、よく分からない。


「ねえ、狩野くん」


「なに」


「もし、私のことを誰かに話したら、信じてくれるかな」


「幽霊が音楽室でピアノを弾いてるって話?」


「うん」


「信じないだろうね」


「だよね」


 坂上は、少しだけ肩をすくめた。


「でも、あなたは信じてくれてる」


「目の前で手がすり抜けたからな」


「そういう物理的な話だけ?」


「それだけじゃないけど」


 言葉を探しながら、僕は彼女を見る。


「――ここで、音を出してるのが、君だってことくらいは、分かる」


 坂上は、少しだけ目を丸くして、それからすぐに笑った。

 その笑い方は、最初に会ったときより、いくらか自然になっている気がした。


 ◇


 ある日、音楽室に行くと、ピアノの蓋が閉まっていた。


 坂上は窓際に立って、外の景色をじっと見ていた。

 夕陽は、いつもより少しだけ低い位置にあった。


「どうかした?」


「ううん」


 坂上は首を振った。


「ちょっと、思い出しただけ」


「何を」


「自分が、ここに来る前のこと。……ほんの、断片だけど」


 彼女は窓ガラスに指先を押し当てた。

 指はちゃんとガラスに触れているように見えた。

 冷たさを感じているのかどうかは、分からない。


「坂上女学院の音楽室。そっちは、もっと綺麗だった。床もピカピカで、ピアノも、もう少し黒かった」


「ピアノはどっちも黒だろ」


「そうだね。黒の光り方が違うだけ」


 彼女は目を細めた。


「でも、そこで弾いてる私の顔が、うまく思い出せないんだ。手とか、姿勢とかは出てくるんだけど。……自分の顔だけが、ぼやけてる」


 鏡の中の自分を、思い出す。

 朝、見つめても、輪郭がはっきりしない顔。


「それは、嫌か」


「うん。ちょっと、ね」


 坂上は、こちらを向いた。


「だから、あなたに頼みたいこと、もう一つ増えた」


「まだあったんだ」


「私の顔を、ちゃんと見ておいて」


 真面目な声音だった。


「私が自分を忘れちゃっても、誰かが覚えていてくれたら、少しはマシかなって」


「……分かった」


 答える。

 そう答えるしかないくらいには、彼女の表情は切実だった。


 坂上は、満足したように微笑んだ。


「ありがとう」


 その一言が、やけに現実感を伴って胸に残った。


 ◇


 その日を境に、坂上の話す内容は、少しずつ「思い出」に寄っていった。


 具体的な出来事というより、断片的な感覚の羅列のようなもの。

 風の匂い、制服の生地の感触、夜の寮の廊下の静けさ。

 誰かに名前を呼ばれた気配だけが残っていて、その誰かの顔が抜け落ちている記憶。


「生きてるときも、ちゃんと生きてなかったのかもね、私」


 あるとき、彼女はそう言った。


「毎日、きちんと授業を受けて、ピアノを弾いて、笑って。……それでも、自分の形がぼんやりしてた感じがする」


「それは、なんとなく分かる」


「あなたも?」


「似たようなもんだ」


 そう答えると、坂上は少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私たち、似た者同士なんだね」


 生きていない者と、ちゃんと生きていない者。

 似た者同士、と言われると、あまり反論できない。


 ◇


 季節は、少しずつ進んでいった。


 教室の窓から入る風の温度が変わり、制服の下に着るシャツの厚さが変わる。

 寿は相変わらずくだらない話を持ってきて、皆木は相変わらず静かな顔で本を読んでいる。


 放課後の音楽室だけが、あまり変わらない時間を保っていた。

 そこに行けば、坂上がいて、ピアノがあって、夕陽が同じような角度から差し込む。


 ――そのはずだった。


 ◇


 ある雨の日、音楽室の扉を開けると、中には誰もいなかった。


 ピアノの蓋は閉まっている。

 窓ガラスには、雨粒が細かく叩きつけられている。

 部屋の空気は、いつもより冷たかった。


「……坂上?」


 呼んでみる。返事はない。


 しばらく待ってみても、何も起こらなかった。

 ピアノも鳴らないし、背中から声が降ってくることもない。


 雨音だけが、一定のリズムで続いている。


 ふと、気づく。

 ――初めてここに来たときと、同じ光景だ、と思った。


 誰もいない部屋。沈黙。黒いピアノ。

 違うのは、その沈黙の中に、今は「不在」の気配があることだ。


 そこにいるはずの人が、たまたまいないのか。

 最初から存在しなかったのか。


 最初にここへ来たときの僕には、その違いが分からなかった。

 でも今は、はっきり分かる。


 ――いない、ということだけが、強く在る。


 僕は、ゆっくりとピアノに近づいた。

 蓋に手をかけ、そっと開く。鍵盤が現れる。

 それを見ていると、指先が勝手に動いた。


 覚えていた。

 坂上が何度も弾いていた、名前のない旋律。


 ぎこちない指で、それをなぞる。

 ところどころ音を外しながらも、どうにか最後まで弾く。


 音は、雨音に混ざって、静かに消えていった。


 誰の拍手もない。

 代わりに、胸の中の押されなかった鍵盤が、ようやく一度だけ、きちんと音を立てた気がした。


 ◇


 その日を境に、坂上には会っていない。


 噂の発端だった皆木も、音楽室の幽霊のことをいつの間にか忘れていた。


 放課後の音楽室を訪れる回数は、自然と減っていった。

 テストが近づき、寿に引っ張り回され、皆木にノートを借りるために頭を下げる日々が、いつのまにか前より少しだけ忙しくなっていた。


 それでも、ときどき四階の廊下を歩く。

 第二音楽室の前を通る。

 扉を開けることはしない。

 そこに彼女がいないことを、確かめたくないのではなく、もう確かめる必要がない気がするからだ。


 坂上優紀という幽霊が、確かにそこにいたこと。

 僕に手をすり抜けさせて笑ったこと。

 自分の顔を覚えていてと、真面目な声で頼んできたこと。


 それらの記憶は、今のところ、ちゃんと残っている。


 ◇


 朝、洗面台の鏡を見る。

 そこには相変わらず寝癖のついた顔が映っている。

 でも、その顔は前より、少しだけ自分のものに近づいた気がする。


 僕が僕であることを、誰か一人でも覚えていてくれるなら。

 僕もまた、誰か一人くらいのことを、ちゃんと覚えていられるなら。


 それだけで、平凡という言葉の平らさは、ほんの少しだけ、凹凸を持つのかもしれない。


 通学路を歩く。

 踏切の音が鳴る。

 空は、よくある色をしている。


 僕は前を向く。


 ――心のどこかで、名前のない旋律を、もう一度だけなぞりながら。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 昔作った小説を短編にしてみました。

 続きは無いです(笑)

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