Eclipsera-エクリプセラ-

霜月ルイ

第1話:無音の少年と光の繭

 夜と朝の境目は、いつも世界がいちばん静かになる。

 ──少なくとも、僕の周囲だけは。


 祈導庁訓練場。

 薄曇りの空の下で、隊員たちが慌ただしく装備を整えていた。

 本来なら、緊張や焦りの“祈りのざわめき”が場を満たしているはずだ。

 けれどその音は、僕には届かない。


 世界は今日も“祈りのノイズ”で満ちている。

 だが僕だけは、その音を聞くことができない。


 金属の擦れる微かな音、短い会話、呼吸の揺れ──

 遠くからは確かに聞こえる。

 なのに僕の半径数メートルだけ、空気の密度が違うように感じる。

 まるで“心だけが無音”になっているみたいだ。


 訓練生の視線が、またひとつこちらに向いた。

 すぐに逸らされる。

 恐れとも嫌悪ともつかない色が混じった目。

 慣れている。けれど、気持ちのいいものじゃない。


「……かがりってさ、やっぱり“あれ”なんだろ……?」

「近づくなよ。巻き込まれる」


 小声で交わされる会話だけは、やけに鮮明に耳に入る。

 わざとじゃない。ただ、僕の存在がそうさせてしまうだけだ。


 孤独とか、寂しさとか。

 そういう感情はもうとうに手放したつもりだった。

 けれど、ふとした瞬間に胸の奥が冷える。


 僕は淡々とストレッチをして、訓練用の手袋を締める。

 指先まで血の気が通っていく感覚だけが、かろうじて“自分が生きている証拠”だった。


 誰とも目を合わせないまま、思考だけが静かに沈んでいく。


 ──僕は、祈れない。

 他の誰かが当たり前のように持っている“心の音”が、僕には最初から欠けているのだ。


 ♢


 装備チェックを終えた頃、灰色のジャケットを羽織った上官が足早に近づいてきた。

 表情は引き締まっているが、目の奥だけがわずかに揺れている。


「篝。旧第六区域で“異常”が出た」


 短い報告。けれど周囲の空気が一瞬だけ張り詰める。

 その区域は十四年前の大災害の跡地で、今も近づく者はほとんどいない。


「感情反応が不規則に跳ねてる。……行けるのはお前だけだ」


 “感情反応”。

 それがこの世界でいう“祈り”に近い。

 誰かの願いや恐怖、後悔といった心の動きが、なぜかこの国では“数値になる”。


 誰かが心の底で強く何かを願ったとき、その痕跡は空気に焼き付くらしい。

 祈導庁はそれを“祈りの残響”なんて呼んで、機械で追いかけている。

 ただの迷信じみた言葉に聞こえるかもしれないが……

 祈りが跳ね上がる時、たいていそこでは“悪いこと”が起きる。


 だがそのすべては、僕には無縁だ。


 僕の周囲では祈りが霧のように消える。

 だから、誰も近づかない廃区域でも“僕だけは安全”だと言われている。


 上官は続ける。


「他の隊員じゃ耐えられない。……頼む」


 僕は短く頷いた。


「了解。すぐ向かいます」


 淡々と返したつもりはないが、声は驚くほど平坦だった。

 感情を込めようとしても、込め方が分からない。


 上官は少しだけ眉を寄せ、それ以上何も言わずに背を向ける。

 僕に対する恐れとも期待ともつかない表情。

 いつものことだ。


 訓練場を出る瞬間、背中越しに囁きが聞こえた。


「……祈りを無視できる奴なんて、あいつだけだよな」


 それは悪口でも称賛でもない。

 ただの事実だ。


 僕は一度も振り返らず、無音の廊下へ歩き出した。


 ♢


 旧第六区域までは、庁の無人シャトルで十五分ほどだった。

 車両を降りると、空気の温度が一段階落ちる。

 季節のせいじゃない。

 十四年前から、この街は“時間”ごと置き去りになっている。


 黒く焦げたビルが、まるで巨大な墓標のように立ち並んでいた。

 窓ガラスはほとんど残っていない。

 吹き抜けになったフロアを、白い霧がゆっくりと漂っている。


 誰も住んでいないはずなのに、

 なぜか“呼吸”のような気配だけが残っている。


 僕は足音を吸い込むように響く舗装路を進んだ。

 周囲に広がる静寂は、ただの無音とは違う。

 言いようのない重さがあった。


 ――まるで、誰かの感情がこの街に縫い付けられているみたいだ。


 焦げたコンクリートの壁に触れると、指先がざらりと震えた。

 感触だけが過去を訴えてくる。

 ここで何があったのかは、記録上曖昧にされている。

 “災害”としか言われない。

 けれど、普通の災害でこうはならない。


 ひび割れた道路の向こうで、空気がゆらりと揺れた。

 熱でも風でもない。

 光の屈折だけが、不自然に波打っている。


「……やっぱり、残ってるか」


 僕の声は、吸い込まれるように空へ溶けた。


 この街には十四年前の“強すぎた何か”が、まだ漂っている。

 怒りか、悲しみか、孤独か──

 名前のつかない感情の残り香。


 足を踏み出すたび、砂埃が舞い上がる。

 人の形をかろうじて保つ廃墟は、今にも崩れてしまいそうだった。


 胸の奥に、微かなざわつきが走る。

 不安ではない。

 “記憶の影”のような、正体のない薄闇。


「……気配が重い。

 誰かの……感情が、まだこの街に残っているみたいだ」


 口に出した瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなった。

 僕は“祈り”を感じないはずだ。

 なのにこの街は、あまりに静かで、あまりに重すぎて──

 心のどこかがざわりと揺れる。


 空気の歪みは、歩くほどに濃くなっていく。

 普通なら気味悪がって足を止めるだろう。

 でも僕は、逆にその中心へ吸い寄せられていった。


 理由は分からない。

 ただ、ここに“何かが眠っている”という確信だけが胸にあった。


 ♢


 崩れたビルの隙間から、地下へ降りる階段を見つけた。

 鉄製の手すりは溶け落ち、段差は半分以上崩れている。

 誰かが最近通った形跡はない。

 けれど──空気だけが、確かに“生きていた”。


 一段、また一段と降りるたび、周囲の温度が下がっていく。

 地下は本来こもった空気が重いはずなのに、ここは逆だ。

 冷たい湖の底に沈んでいくような、静かで澄んだ空気。


 音がひとつ、またひとつ消えていった。


 コツ、と靴を鳴らす音。

 呼吸の湿った響き。

 衣服が擦れる小さな気配。


 すべてが、少しずつ遠ざかっていく。


「……ここだけ、世界が呼吸を止めてる」


 思わず呟いた声すら、霧のように吸い込まれた。


 階段を降り切ると、

 そこはかつて研究施設だったらしい広いフロアだった。

 壁には焼け焦げた手形がいくつも残り、

 天井はところどころ陥没している。

 ガラスケースは粉々に砕け、

 機材は溶けた金属の塊になって床に広がっていた。


 しかし──不思議と埃は積もっていない。

 まるで、つい最近まで誰かがこちらで作業をしていたかのようだった。


 中央部へ進む。

 そこだけ空間が、光でも影でもない色で満たされていた。


 いや──色ではない。

 “存在の揺らぎ”みたいなものだった。


 ゆらゆらと波打つ空気の膜。

 近づくほど、胸がざわつく。

 懐かしさと恐怖が同時に押し寄せてくる、不思議な感覚。


 そして、膜の奥に──それはあった。


 半透明の殻に包まれた、巨大な光の繭。

 薄い光の粒が、ゆっくりと回転している。

 星雲の中心のように、淡い炎のように、静かに脈動していた。


 僕は思わず、歩みを止めた。


「……なんだ、これ……」


 殻の内側には、

 人影のような輪郭がぼんやりと浮かんでいる。


 肩、腕、細い首。

 立っているのか、眠っているのかも判別できない。

 ただ、確かに“人型”だった。


 心臓の鼓動のようなものが聞こえる。

 しかしそれは、音ではなく振動のイメージに近い。

 自分の心臓とは逆方向から、世界の奥底から響いてくるような、

 低くて深い脈動。


 僕は無意識に一歩踏み出した。


 この施設のどこかの景色──

 焼け焦げた壁も、崩れ落ちた天井も、

 全部が“知っている何か”に似ている気がしていた。

 けれど、その理由は思い出せない。


 思い出そうとした瞬間、頭の奥で鈍い痛みが弾ける。


「……っ」


 額に手を当てて目を閉じる。

 痛みはすぐに消えた。

 だが、代わりに意味不明な確信だけが残った。


 ──この繭の中には、目を覚ましちゃいけない“何か”が眠っている。


 それでも、足はゆっくりと前へ進む。

 理由は分からない。

 まるで引き寄せられるように。


 あと数歩で、手が届く距離になる。


 その瞬間、繭の内部で“何か”がかすかに動いた。


 ♢


 繭の表面に、ひび割れのような光が走った。

 ピシッ──と乾いた音を最後に、殻が弾ける。


 あふれ出た光は、霧になって床を滑り、

 空気に触れた瞬間に溶けて消えた。

 残ったのは、ひとりの少女だった。


 長い淡金の髪が、ふわりと宙に浮く。

 火の粉の残響のように、先端がかすかに揺れている。


 その髪に照らされるように、少女の肌は滑らかな琥珀色を帯びていた。

 光を吸い、同時に返すような深みのある褐色。

 温度を感じさせながら、どこか金属のような神秘的な艶をまとっている。


 黒を基調とした布地は炎を模した金のラインで縁取られ、

 露出の多い戦闘装束でありながら、

 下品さはなく、むしろ儀式の巫女のような気高さがあった。

 腰から伸びる黒い布は薄いベールのように揺れ、

 褐色の脚に巻かれた金のバンドが、脈動する光を反射した。


 そして、何より印象的だったのは頭に飾られた獅子の意匠。

 まるで神獣の頭骨を象ったようなその装飾が、

 少女をただの「人間」ではないと一目で告げている。


 その下の瞳は──

 紅を溶かした琥珀のような色。

 強い意志を宿した光と、

 人のものではない静謐さが同時に宿っていた。


 肌には淡く光る紋様が走り、

 呼吸に合わせて浮かんだり消えたりする。

 まるで“世界にまだ馴染みきれていない光”が、

 身体の奥から漏れているようだった。


 少女は、一歩、ふらりと踏み出す。

 細い足に力が入らないのか、

 黒いヒールがカツ、と弱く音を鳴らした。


 戦うために生まれたような姿でありながら──

 その一歩は、初めて世界に触れた子どものように危うかった。


「……ここは……暗いのね」


 声は澄んでいて、柔らかい。

 そのくせ、言葉の端に“祈りの残響”のような響きが混じっている。

 聞いた瞬間、胸の奥がざわりとした。


 少女は、まっすぐに僕を見つめる。


「あなたは……誰……?」


 問いかけは幼いのに、

 視線は神のように静かだった。


 この時点で、僕は悟る。

 ──この少女は「人間」ではない。


 でも同時に、

 この廃墟のどこよりも“生きている”存在だった。


 ♢


 少女の問いに、僕は咄嗟に数歩後退した。

 距離を取らなければいけない──そんな直感があった。

 この存在は危険だ。

 理性はそう叫んでいる。


 だが、彼女は僕の後退を見て、

 まるで胸を刺されたように目を見開いた。


 次の瞬間、

 あの強気そうな瞳が、かすかに震えた。


「……待って」


 声が細い。

 さっきまでの透明な響きが、途端に弱くなる。


 少女は両手を胸の前で掴むように押さえ、

 怖がるように一歩こちらへ足を出した。

 黒い布が揺れて、炎のような紋様が明滅する。


「ひとりに、しないで……」


 その言葉は──

 この廃墟で聞くにはあまりに脆くて、

 あまりに幼い懇願だった。


 喉がひゅっと鳴った。

 僕自身が驚いたからだ。


 危険視しているはずなのに、

 なぜかその震えが胸の奥に突き刺さる。


「……君は、何者なんだ?」


 問いかけると、少女は小さく首を振った。

 長い金の髪がふわりと揺れる。


「わからない……思い出せないの。

 でも……」


 少女は、迷子のような目で僕を見た。

 そこには敵意も計算もなく、

 ただ、“必死に何かを掴もうとする”感情だけがある。


「あなたのそばは……怖くない」


 その一言に、背筋が冷えた。

 僕が“祈りの音”を持たないせいか。

 それとも別の理由か。


 この少女は、世界より先に──

 まず僕に惹き寄せられている。


 理由は分からない。

 けれど、確かにそれは本能的な反応だった。


 彼女の指が、空気を掴むように揺れた。

 “触れてもいいか”と問いかけるように。


 僕は無意識のうちに一歩だけ前に出ていた。


 ♢


 そのとき、腰の端末が小さく震えた。

 表示された文字列を見た瞬間、胸の奥が冷える。


【緊急通達:旧第六区域にて“未登録存在”を観測】

【対象の確保を最優先とする。殺傷許可:灰】

【近隣部隊が収束中。篝黎は現場指揮権を一時移譲──】


 ……やっぱりか。


 背後で、遠くの地面が揺れた。

 廃ビルの屋上に、人影がひらりと飛び移る。

 祈導庁の特殊班──

 訓練で何度も見た黒装備の影だ。


 包囲が、もう始まっていた。


 僕が端末を見る間に、

 少女は、不安を押し殺すように僕を見上げていた。


「……どうしたの……?

 また、暗くなった……あなたの顔」


 その声は怯えと本能的な察知で震えていた。

 彼女はまだ何も知らない。

 自分が追われる理由も、

 なぜ死の危険に晒されているのかも。


「ここにいたら危ない。少し離れる」


 そう告げると、少女は眉を寄せた。

 そして──


 すっ、と僕の腕を掴んだ。


 細い指なのに、驚くほど強い力だった。

 逃げさせまいとするように、

 本能的に“繋がり”を求めるように。


「行かないで……!」


 声は小さいのに、胸の奥を刺すほど必死だった。


 その瞬間、頭上で“キィン”と空気が震えた。

 光の矢が廃墟の床を貫き、火花を散らす。


 ……来た。


 祈導庁の狙撃手が配置についた合図だ。

 殺傷許可“灰”は、基本的に生け捕り不要を意味する。


 つまり、あの少女は──

 国家にとって存在してはいけない何か。


 彼女は怯えたまま僕の腕を掴み、離そうとしない。


「お願い……置いていかないで……

 ひとりになるのは、いや……」


 その言葉には、

 恐怖だけではなく、

 “捨てられたくない”という感情が滲んでいた。


 まだ出会って数分。

 なのに、この執着は異常だ。


 でも──


 僕は自分の口が勝手に動くのを感じた。


「……離さなくていい。ついてこい」


 あまりに自然で、

 あまりに理屈がなかった。


 ただ“この少女を殺させてはいけない”

 そう感じた。


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥で熱いものが跳ねた。


 彼女の瞳が、大きく、揺れる。


「……行く。あなたと一緒に」


 その瞬間、

 背後で建物が爆ぜた。


 追跡が完全に始まった。


 ♢


 廃ビルの入口が破裂するように吹き飛んだ。

 破片の向こうから、黒装備の隊員が一斉に突入してくる。

 光学ライフルの赤い照準が、真っ直ぐこの部屋へ伸びていた。


篝黎かがり れい、後退しろ! 対象は危険だ、拘束する!」


 上官の怒鳴り声が響く。

 これは命令ではない。

 宣告だ。


 少女は、爆音に肩を跳ねらせ、僕の腕を掴む手に力を込める。


 震える声で、

 それでも必死に、僕の名を呼ぶように。


「あなたは……私を、置いていくの……?」


 その表情には、恐怖でも不安でもない。

 もっと深い。

 “捨てられることへの絶望”に近い感情があった。


 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 逃げるべきだ。

 この存在は危険だ。

 庁を敵に回すことになる。


 頭では理解している。

 なのに──


 足が動かない。


 理由は分からない。

 ただ、この問いは僕の奥底に触れた。


「……置いていくの?」


 十四年前、

 僕が置いていかれた世界で。


 気づけば、手が伸びていた。


 少しだけ迷った。

 本当に一瞬だけだった。


 そして──

 僕は初めて“誰か”を選んだ。


「来い。ここは危険だ」


 その言葉を聞いた瞬間、

 少女の瞳に光が灯る。

 迷子が救われたように、

 炎の奥にある祈りのように。


「……うん。行く……あなたと」


 彼女は僕の手を──

 強く、強く握った。


 その瞬間だった。


 僕の周囲に広がっていた“無音の領域”が、

 かすかに揺らいだ。


 空気の振動が、

 まるで波紋のように広がって消える。


 隊員たちが一瞬だけ動きを止める。


「……なんだ今の……!?」


 その隙に、僕たちは廃墟の奥へ走り出した。

 少女はつまずきながらも離れない。

 その手は必死で、

 まるで“世界のすべてをそこに繋ぎ止める”ようだった。


 背後で上官が怒鳴る。


「篝黎! 対象と接触するな! 戻れ──!」


 けれど振り返らない。


 瓦礫を越え、闇の奥へ滑り込む。

 少女の手の温度だけが、確かにそこにあった。


 こうして、

 祈りを拒んだ僕と、世界から生まれた少女の逃走が始まった。


 行き先も、理由もまだ分からない。

 ただひとつだけ確かなのは──


 この手を離した瞬間、

 きっと世界は、本当に壊れてしまう。

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