File11.市松人形の美容院貧乏と、黒髪という名の黒字資産について
「ぎゃああああ! 九十九さん! 呪いです! 事務所が呪怨で埋め尽くされていますぅ!」
朝一番、出社した咲耶の絶叫が神保町に響き渡った。 無理もない。 事務所の床は、足の踏み場もないほど大量の「黒髪」で覆い尽くされていたからだ。
まるでホラー映画のクライマックスだ。黒く、長く、艶やかな髪の毛が、波のようにうねりながらデスクの脚に絡みついている。 だが、その中心にいるのは貞子でも伽椰子でもない。 古風な着物を着た、小さな市松人形だった。
彼女は自分から溢れ出し続ける髪の毛の山に埋もれながら、手にした電卓を叩き、深いため息をついていた。
「はぁ。今月も赤字だわ」
彼女の声は恨めしげな怨嗟ではなく、生活苦に喘ぐOLのそれだった。
「九十九さん、助けてください。私、もう破産寸前なんです」
彼女――市松人形のイチさんは、涙目で私を見上げた。その瞳はガラス玉だが、悲哀の色は本物だった。
「怪奇現象として髪が伸びる。それはいいんです。私のアイデンティティですから。 でもね、伸びるなら伸びるでメンテナンスが必要でしょう? ボサボサの幽霊みたいになるのは嫌なんです。私は由緒正しい日本人形として、常に美しい『おかっぱ』でありたい」
彼女は自分の艶やかな黒髪を指先で摘んだ。
「今の美容院代、知ってます? カットとトリートメントで一回六千円。 私の髪、一晩で30センチ伸びるんです。つまり、毎日行かないといけない。 月18万円ですよ? 家賃より高いんです」
「学校の怪談として働いていた頃はまだよかった。 でも今は少子化で廃校になって無職。 貯金を切り崩して髪を切るだけの生活……。私、一体何のために生きてるんでしょう」
切実な悩みだった。 「美しさ」を維持するためのランニングコストが家計を圧迫する。これは現代女性にも通じる「あるある」だ。
「わかりますぅ……!」
咲耶が絡みつく髪の毛をかき分けながら、猛烈に同意した。
「美容院代ってバカにならないですよね! 私も天界のカリスマ美容師に予約入れる時、お財布と相談してますもん! でも、イチさんの髪、すっごく綺麗なのに」
「綺麗でも、金食い虫ならただのゴミよ」
イチさんはハサミを取り出し、自分の前髪をジャキっと切った。 しかし切った端から、ニョキニョキとまた新しい髪が生えてくる。その再生速度は恐怖を通り越して、もはや植物の成長を見ているようだ。
「だから転生したいんです。 髪が生えない世界へ。あるいはハゲることがステータスになる世界へ。 もう美容院代に怯える夜は嫌なの」
私は床を埋め尽くす黒髪の束を拾い上げた。 しっとりとしていて強靭。カミソリでも容易には切れない強度がある。 これはただの髪ではない。高密度の魔力が繊維状に具現化したものだ。
「イチさん」
私は彼女の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは『経営難』の原因を、髪が伸びることだと思っている。 違いますよ。 あなたは自社工場から湧き出る『最高級の資源』を、お金を払って産業廃棄物として捨てているだけだ。 経営が傾くのは当たり前です」
「え……?」
「オサキ、案件番号808の資料を」
オサキが空中に映像を投影した。 そこはゴツゴツとした岩肌が広がる、荒涼とした世界だった。
「惑星『アラクネア』。 巨大な魔蟲たちが支配するこの世界では、『糸』こそが全てです。 強靭な糸を吐ける者が強固な巣を作り、獲物を捕らえ、王となる。 ですが見てください」
映像の中の魔蟲たちは、自分の糸が枯渇し弱り果てていた。 彼らの糸は有限です。吐きすぎれば死ぬ。だから彼らは常に高品質な繊維に飢えている。
私はイチさんの黒髪を引っ張ってみせた。
「あなたのこの髪は鋼鉄より硬く、絹よりしなやかだ。 しかも一晩で30センチ再生する『無限資源』。 この世界に行けば、あなたは美容院代を払う必要はない。むしろあなたの髪を欲しがる魔蟲たちが、山のような財宝を持って行列を作るでしょう」
「髪を……売る、ということですか?」
「ええ。『おかっぱ』を維持するために切り落とした髪が、そのまま最高級の『建材』になり、『武器』になり、『衣服』になる。 あなたはただ毎日優雅に髪をとかし、伸びすぎた分を『出荷』すればいい。 向こうの世界では、あなたは『無限の織姫』として女王のように崇められるはずです」
イチさんのガラスの瞳がカッと見開かれた。 電卓を叩く指が高速で動く。
「月産900センチ×髪の毛の本数……。単価を安く見積もっても……。 うそ、月商が億を超える……!?」
彼女は立ち上がった。 その瞬間、床に広がっていた髪の毛がまるで生き物のように蠢き、彼女の背後で巨大なドレスのように鎌首をもたげた。
「行きます。 美容院代を払う側から、髪の毛で城を建てる側へ。 私のこの『呪い』が、向こうでは『才能』なんですね」
彼女の顔から生活苦の陰りは消えていた。
数日後。 モニターには巨大な蜘蛛のような魔獣たちを従え、黒髪で編み上げられた壮麗な城の玉座に座るイチさんの姿があった。 彼女の髪は城全体に張り巡らされ、鉄壁の防御結界となっている。 彼女は専属の(魔獣の)美容師に髪を整えさせながら、優雅にワイングラスを傾けていた。
「たくましいですねぇ」 咲耶が感心したように言う。 「あんなに怖がっていた自分の髪を、今は武器にしてるなんて」
「コンプレックスと才能は表裏一体ですから」
オサキがテーブルに置かれた小さなハサミを指差した。今回の報酬だ。
「九十九さん、クライアントより『断絶の鋏(はさみ)』を頂戴しました」
「効果は?」
「このハサミで切ったものは、二度と『繋がらない』そうです。 腐れ縁、ストーカーとの関係、あるいは降り止まない雨雲なんかも切れるとか。 縁切りの儀式にはもってこいですね」
「なるほど。未練を断ち切るには良い道具だ」
私はそのハサミを胸ポケットに収めた。 ふと見ると、咲耶が自分の枝毛を気にしながら、そのハサミを物欲しそうに見ている。
「咲耶さん。それで枝毛を切ろうとしないように。 一度切ったら、二度と髪が生えてこなくなりますよ」
「ヒッ!」
咲耶が慌ててハサミから距離を取った。 やれやれ。美しさを保つのも命がけだ。
「さて、と」
床に散らばった髪の毛の掃除も終わったようだ。 次のクライアントは、どんな「もったいない」悩みを抱えてくるのやら。
私は温かいお茶を一口すすった。 神保町の雨は上がり、雲の切れ間から薄日が差し込んでいた。
九十九経営コンサルティング、今度は『異世界転生課』を承ります 神楽坂湊 @tanetaro
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