彼女が微笑むとき

青川メノウ

彼女が微笑むとき

タケルは若い介護士だ。

高校の福祉科を卒業後、地元の高齢者施設Kで働き始めて、三年になる。

学校で介護の基礎は十分教わって来たから、現場に慣れるのは早くて、既に一通りの業務を、卒なくこなしている。


ただし、最近タケルは自分の仕事には、真心がこもっていないと思う時がある。

「人生の大先輩である高齢の利用者さんと接しているのに、心に寄り添うどころか、流れ作業みたいになっている」とタケルは感じてしまう。

原因は現場が人手不足で、忙しすぎることだ。


『この時間になったらトイレ誘導と、オムツ交換をする。食事が出てきたら配膳、自分で食べられない人の介助をして、食べ終わったら下膳。

テーブル拭きと床掃除を済ませ、一段落したら、カルテに記録する……』などと、施設では一日のスケジュール通りに、きちんきちんと業務を進めなければならない。


やるべき仕事はたくさんあるのに、職員の数が足りない。

利用者さんとちゃんと向き合う余裕なんて、ほとんどない。


だいたいタケル自身が、介護の仕事を、自分が本当にやりたい仕事なのか、よくわからないまま続けているという状況も、仕事に今一つ身が入らず、通り一遍のことを機械的におこなう要因になっているようだ。

タケルは、自分から進んで介護の道に入ったわけではなかった。

高校に入学する時に、希望の普通科に入れず、やむなく福祉科を選ぶしかなかったのだ。

いわばタケルにとっての介護は『仕方なく、流れで』携わることになったものだった。


「自分は一体、なにをやりたいんだろう?」


タケルは未だにそう思う。

もっとも、大半の人は若いうちから、しっかり先を見据えて行動するのが難しい。

それができるのは、たぶん少数派だろう。

だれでも小学校を卒業すれば、中学へ行かなければならない。

中学の後は高校だ。

もちろん『行かない』という選択肢もあるが、将来の夢も希望もはっきりしないうちから、敢えて『一般道を外れる』ことはないから、とりあえずみんなと同じように高校へ入る。

タケルの場合もそうだった。


タケルは、高校で三年間、福祉・介護の勉強をして、卒業後は担任の先生が薦めるままに、現在勤務する高齢者施設Kに就職した。

施設Kに入所している利用者さんは約七十名。

杖で歩ける人もいれば、車イスの人もいるし、寝たきりの人もいる。

認知症、パーキンソン病、高血圧、心不全、狭心症、脳梗塞、リウマチ、関節症など、様々な病気と障害がある。

詳しいことは全部カルテに書いてある。


ただし、カルテにあるのは、ほとんど医療やリハビリ、認知機能のこと、それから栄養面についてだ。

利用者さんが、どんな人なのかということは、僅かしか書かれていない。

その内容も、『こだわりが強い』とか『被害的になりやすい』とか『神経が繊細で気分が落ち込む傾向あり』などだ。

『こういう人間だから(介護する時は)用心して関わりなさいよ』みたいな書き方で、まるで『お取り扱い注意』のタグでもついているようだ。


「家族や本人が見たら、少し不愉快に感じるかもしれないなあ」とタケルは思う。


結局、施設の業務を滞りなく進めるという姿勢に偏れば、目の前にいる利用者さんは、ノルマそのものなのだ。

だから、効率ばかりを求めて、相手が生身の人間であることを、つい忘れてしまう。


「本来中心に置くべき利用者さんの気持ちが、ないがしろにされているのでは?」


タケルは最近、特にそうした矛盾を感じる。

利用者さんにまともに向き合えず、ただ忙しいだけの毎日に不満がある。

仕事で疲れて帰宅し、体を休ませて、翌朝また出勤。

徹底的に使われて、消耗と充電を繰り返す生活に、嫌気がさしている。

まだ上司には話していないが、仕事を辞めようかとさえ思う。


そんな味気ない毎日の中で、タケルはちょっと不思議な体験をした。


◇       ◇


その日タケルは、いつものように定時に出勤して、淡々と介護業務をおこなっていた。

タケルは、二階の202号室に入所している寝たきりの女性利用者、村田さんの体の向きを変えていた。

村田さんは、自分では寝返りが打てないから、数時間おきに体位交換をしてあげないと、褥瘡(床ずれ)ができてしまうのだ。

「すみません、村田さん。お体の向きを左に変えますね。よろしいですか?」

利用者さんに接する時は、声をかけてからというのが、基本だ。

タケルはできるだけ守っている。


タケルがせっかく声をかけたのに、村田さんは表情も乏しく、はっきりした意思表示ができないから、返事もない。

目も閉じたままで、眠っているのか、起きているのかさえわからない。

仕方ないから、相手が了解したものとして、仕事を進める。

余計なことを考えず習慣的に、やるべきことをやるだけだ。


タケルは村田さんがどんな病気でこうなって、今どういう身体状態で、どういう介護をしたらいいかはよくわかっているが、村田さんの人生については、全くと言っていいほど知らない。

だから村田さんが、生まれてからずっと、このままの姿で寝たきりでいるみたいに、錯覚することさえある。


「村田さんも病気になる前は、家で台所仕事なんかやりながら、家族と幸せに過ごしていたんだろうな」とタケルは、その様子を自分なりに想像してみた。


相手のことを詳しく知らなくても、想像力によって補える。

タケルは特別に意識したわけではなかったが、想像力は、介護において、とても大切なことだった。

それがあってこそ、思いやりや、気遣い、共感が生まれるからだ。


突然、呼出しコールが鳴った。携帯端末の表示画面を確認すると、隣の201号室だった。

201号室には、先週から山口さんという認知症の高齢男性が入所している。

認知症といっても比較的軽く、施設内を一人で歩いて、普通に生活している。

自宅での独居生活は心配だが、施設なら安心、という理由で入所してきたらしい。


タケルが山口さんの居室に行ってみると、山口さんが「窓に木の枝がかかって、景色がよく見えない。なんとかならないか」という。

かかっているのは、建物横に立っている桜の木の枝だった。

なるほど、確かに外が見えにくい。

施設Kは高台に建っていて、見晴らしの良さが売りであるから、利用者さんの訴えとあれば、枝はやはり取り除かねばならない。


タケルは枝をノコギリで切ることにした。

倉庫から、柄の長い剪定用のノコギリを持ってきて、刃先を窓から伸ばし、慎重に枝を切り落とした。

外の景色はすっきり見えるようになった。

「はい、切れましたよ」

「うむ。よく見えるようになった。ありがとう」と山口さんは喜んだ。


しかし、それから一週間もしないうちに、タケルはまた山口さんに呼ばれて、同じことを頼まれた。

「枝がかかるので、切ってくれないか」

「え、少し前に切ったばかりじゃないですか」

「また伸びたんだよ」

枝は果たして、もと通りに伸びていた。

タケルは「あれっ?」と思ったが、前と同じように、窓を開けて、ノコギリで枝を切断した。


ところが数日すると、また山口さんから同じ訴えがあった。

そしてやはり、切ったはずの枝がもと通りになっていた。

ここにきてタケルは、いよいよ『これは普通じゃないわ』と思って、薄気味悪さを覚えた。


◇       ◇


タケルがどうしたらいいだろうかと、考えあぐねていると、たまたま施設長が居室前の廊下を通りかかった。

施設長は年配で、年はタケルの父親よりも上だ。

施設ができた当初からずっと勤めていて、職場のことはなんでもよく知っている。

「施設長、お疲れさまです。すみませんが、少しよろしいですか」

タケルは施設長に声を掛けて、事の次第を説明した。

「なるほど、そうだったか。しかし、その桜は切っちゃいかんよ。いや、切ってもすぐに生えてくるから無駄なんだ」

と施設長は言って、桜の木の由来を教えてくれた。


「202号室の、寝たきりになっている村田さんね、初めはずっと旦那さんと一緒に入所していたのだ。

仲睦まじいご夫婦だったが、旦那さんが先に亡くなってね。

もう二十年近く前になるかな、ちょうど桜が満開の頃だった。

旦那さんの遺言で、そのとき部屋の花瓶に挿してあった桜の小枝を、施設の敷地のどこかに植えてほしいということで、この建物のそばに植えたのだ。

ちょうど山口さんがいる201号室の下辺りになるかな」


旦那さんは亡くなる直前まで、桜の小枝を見ながら、

『今年も桜が見られて良かった。

これが最後、見納めか。

ボクだけ先に逝くなんてできない。

天国には手をつないで一緒に行こう。

キミが旅立つ時までそばにいて、そっと見守ることにするよ』

などと、傍らの奥さんに話していたそうだ。

旦那さんが亡くなった後、何年かして、今度は奥さんの方も、重い脳梗塞を発症して、寝たきりになってしまった。


旦那さんの桜は、どんどん成長して、春に奇麗な花を咲かせるようになった。

「私は旦那さんの遺言通りに、小枝を儀礼的に土に挿しただけなんだが。

まさか、本当に根付くとは思わなかった。

枯れずに成長し始めた時は、びっくりしたよ。

旦那さんの魂が桜に乗り移ったんじゃないかと思ったものだ」

と施設長は、当時を思い出して懐かしむように言った。


「窓辺の枝に桜が咲くと、奥さんは目を開けて桜を見る。

そして微笑むんだ。

脳梗塞の後遺症で、普段はまったく無表情なのにだよ。

実に不思議じゃないか。

とにかくそうした深い事情のある桜なのだ。

枝が山口さんの部屋の窓にもかかって、文句を言うかもしれないが、無闇に切ったりしない方がいいだろう。

山口さんには私から説明しておく」

施設長はそう言い残して、山口さんの201号室に入っていった。


つまり、亡くなった旦那さんは桜になって、咲かせた花を奥さんに見せようと、二階の窓まで枝をのばしているという話なのだ。

施設長の話を聞きながら、不思議なこともあるものだと、タケルは思った。


タケルは202号室に入った。

村田さんは相変わらず、ベッドの上で目を閉じたままだ。

タケルには、ただ寝たきりの村田さんが、これまでと少し違って見えた。

施設長から聞いた桜の物語が、村田さんの印象を変えたのだろう。


当然のことながら、施設に入所している70余名の利用者さん全てに、それぞれ人生の物語がある。

それを少し意識するだけで、利用者さんとの向き合い方が変わるかもしれない。

「よし。春になって桜が咲いたら、『咲きましたよ』って、村田さんに声をかけてあげようかな」

そしてタケルは、「転職について考えるのは、村田さんの笑顔を見てからでも遅くないかな」と思った。


※関連小説 [彼女の人生のある部屋]

https://kakuyomu.jp/works/822139840861314299

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