橋のこちら側で、世界を敵に回すなら
朝倉春彦
夜勤バイトの怪
おかしいんだって、この国。
そう何度も思いながら、それでもボク――ケイは、レジ前であくびを噛み殺していた。
今は二〇四五年二十三時四十八分。
かつて日本と呼ばれた国の、ほんの隅っこ。
上を見上げれば、空を飛ぶタワーマンションと、常時接続のフルダイブ・メタバースの世界が広がり…
下を見下せば、日雇いとスラムと、現実からログアウトするための違法ドラッグの海。
その中間、行き過ぎた格差が生み出す少数派である「中流層」があって、ボクはそこの階級の出だった。
そんな「平均」の象徴みたいなボクが、今はコンビニで夜勤バイト中ってわけだ。
ピッ、とスキャナの音だけがやたらと元気よく鳴る。
「……眠そうだね、ケイ」
ぽつりと、レジ横から声が落ちてきた。
黒髪ぱっつん、色素の薄い顔、フード付きの黒パーカー。
身長はボクより少し低くて、猫背気味に立ってるから、余計に小さく見える。
同じ学校の同じ学年。
ただし、ボクとは違って「下層」の出身。
バイト仲間の、ミカだ。
「そりゃ眠いだろ。学校の課題終わってから、そのままここ直行だぞ?」
「平均的中流階級様は、忙しくて大変だね」
口調は淡々としてるのに、刺はきっちり入っている。
これでも機嫌がいい方らしいから、世の中よくできてる。
「そっちは? 学校のログイン、今日はサボってたろ」
「サボりじゃない。接続エラー。電気代払えなかっただけ」
ミカはそこで言葉を切り、カウンターに頬杖をついた。
長い前髪の隙間から、じっとボクを見てくる。
「どう? かわいそうでしょ?」
「……いや、まあ……かわいそうだけど」
「そんな顔してない」
「どんな顔だよ」
「『ああ、またこいつか』って顔」
図星すぎて、言い返せない。
ミカは、小さく肩を揺らして笑った。笑ってるのに、目は全然笑ってない。
「でもさ、ケイ」
「ん」
「君は、『かわいそう』って言葉で全部終わらせる側なんだよ」
「……」
「こっちは、それで人生終わってく側」
そういうことを、平然と夜勤中のコンビニで言うなよ。
ボクが返す言葉を探している間に、自動ドアは一回も開かなかった。
深夜の住宅街のコンビニに、客なんてほとんど来ない。
代わりに、冷蔵庫のコンプレッサーだけが、ぶおんぶおんとうるさく鳴っている。
「……ゴミ出してくる」
「いってらっしゃい。襲われたらニュースに出れるよ」
「お前が見てて助けろよ」
「ライブ配信はしてあげる」
冗談とも本気ともつかないことを言って、ミカは片手をひらひら振った。
バックヤード。
発泡スチロールとダンボールの匂い。
裏口を開けると、生ぬるい夜風が顔を撫でていく。
高層ビルの上の方では、空中庭園の照明がぼんやりと浮かび、その下の路地では、ホームレスが違法テントの中で寝ている。
真ん中のボクは、店のゴミを決められたボックスに放り込むだけ。
「……平均って、便利な言葉だよな」
特別じゃない。
不幸でもない。
だから、何も起こらない。起きなくていいって、誰かが決めてる。
そんなことを考えながら、店に戻った。
自動ドアが閉まる。
店内は相変わらず静かで、レジ前には誰もいない。
「ミカ?」
返事はない。
「おい、ミカ。サボりか?」
レジ横を覗き込むと、彼女のエプロンが椅子の上に投げ出されていた。
裏のロッカールームの扉は、半分だけ開いている。
……トイレか? にしては、長い。
「様子だけ見てくるか」
ボクは何の警戒もなく、ロッカールームの扉を押し開けた。
◇ ◇ ◇
最初に、匂いが違った。
柔軟剤と油とインクの混ざった空気に、別のものが紛れ込んでいる。
甘くて、湿ってて、鼻の奥をぴりっと刺す、知らない匂い。
狭いロッカールームの真ん中に、ミカが立っていた。
ロッカーの鍵は全部開いていて、棚の上には、見たことのない植物が置かれている。
黒っぽい蔓が、蛍光灯の光を受けて、不自然なほどつややかに光っていた。
根元には、錠剤とアンプルの入った小さなケース。
ミカは、その植物の茎を、片手でそっと撫でていた。
「……何、それ」
思わず口から出た声に、ミカの肩がぴくりと動いた。
振り向いた彼女の目が――おかしい。
黒目の縁が、ぐじゅりと広がっている。
虹彩の内側に、細いひび割れみたいな模様が走っていて、まるで夜の川面に映った街灯みたいに揺れていた。
「ケイ、か」
声も、少し低い。
喉の奥で、誰か別の人間が喋ってるみたいに響いている。
「それ、もしかして……噂の、アレ?」
禁制植物。
AIによる規制網をかいくぐって、スラムと上級階層のパーティルームを行き来する新型ドラッグ。
脳と神経を一度溶かして組み替える、って物騒なキャッチコピーが出回っているやつ。
「見たことあるんだ?」
「ネットで、写真くらいは。現物は初めてだけど」
「ふーん」
ミカは植物を見つめたまま、口角だけを持ち上げた。
笑ってはいるけど、その表情はどこか、人間の筋肉の動きからずれている。
「ねえ、ケイ。 君さ、これ見ても『通報しなきゃ』って顔しないんだね」
「そこまで正義感強くないし。 それに、通報したらボクも事情聴取とか面倒だし」
「それ、平均的中流階級の、本音」
「やめろ。変なラベル貼るな」
「ふふ」
ミカは、植物から手を離した。
代わりに、自分の左手首を、ゆっくりとまくり上げる。
そこにあったのは――刺青、というには、あまりにも生々しい模様だった。
青緑色の細い線が、血管みたいに肌の内側から浮かび上がっている。
渦を巻いて、橋の欄干のような形を作り、そこから伸びる無数の線が、見えない川面に落ちていく。
「これ、隠すのめんどくさかったんだよね」
「……何、それ。タトゥー?」
「人間の、それじゃない」
ミカの瞳が、ゆっくりと細くなる。
まるで夜の川を覗き込んだ時みたいに、底が見えない。
「ねえ、ケイ。 妖怪って、信じる?」
「は?」
「AIが世界を管理し始めてから、生まれたって噂の。 人の理から外れた、人じゃない何か」
ボクは一瞬、笑おうとして――できなかった。
だって、目の前の彼女が、それを証明するみたいに、変わっていくから。
首筋。
耳の後ろ。
頬の下。
さっきまで何もなかった皮膚の下から、同じ模様がじわりと浮かび上がってくる。
橋と川と、渦と線。
灯のない欄干が、ミカの体に巻き付くみたいに広がっていく。
「ボクは――」
「君は中流階級。 学校に不自由なく通って、親は公務員で、生活は安定してる。 かわいそうでも、特別でもない。 だから、何も変えられないし、変わらない」
ミカは一歩近づいた。
距離が詰まるのと同時に、さっきの甘い匂いが、濃くなる。
「ボク、って言ったね。 君、自分を『ボク』って呼ぶんだ」
「……今、それ関係ある?」
「あるよ。 自分を子ども扱いしてれば、責任から逃げられるから」
胸ぐらを掴まれるより先に、言葉で喉を締め上げられた気がした。
「お前、今日はやけに刺してくるな」
「だって、決めたから」
「何を」
「ぶっ壊す、って」
ミカが笑った。
その瞬間、ロッカールームの蛍光灯が、バチンと音を立てて消えた。
◇ ◇ ◇
何がどうなったのか、全部は覚えていない。
ただ、暗闇の中で何かがはじけた音と、ロッカーの鉄板が歪む甲高い悲鳴と、誰かの笑い声が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
気づいた時、ボクは外にいた。
コンビニから少し離れた、小さな公園。
街路樹に囲まれていて、夜になると誰も寄り付かない、古い遊具だらけの場所。
砂場。
鉄棒。
滑り台。
ブランコ。
そのほとんどが、今はぐしゃぐしゃに壊されていた。
ブランコの鎖は捻じ切れて、支柱は根元から折れている。
滑り台のステップは、何か硬いもので殴られたみたいに曲がり、砂場の縁は粉々に砕けていた。
その真ん中に、ミカが立っていた。
フードは外れていて、髪は乱れ、目は完全に人のそれじゃない。
瞳孔は細く、虹彩のひび割れ模様は、今や淡く光っている。
「逃げるの、速かったね」
口元から血を拭いながら、ミカが言う。
誰の血かは、考えたくない。
「……お前が、投げたんだろ。ボクのこと」
「そうだね。 ロッカーに叩きつけて、その勢いで裏口から飛んでった」
「人をゴミみたいに」
「ゴミならよかったのに」
ミカの足元で、折れたブランコの鎖がじゃらりと鳴る。
「ねえケイ。 君、自分が『平均』だって、ちゃんとわかってる?」
「今それ、確認するタイミング?」
「大事だよ」
ミカは一歩、ボクに近づいた。
その一歩で、彼女との距離が一気に詰まった気がする。
「平均ってさ。 何も選ばなくて済む立場なんだよ。 上みたいに、誰かを踏みつけなくてもいい。 下みたいに、誰かを恨まなくてもいい」
砂を踏む音が、近づいてくる。
「だから君たちは、全部見て見ぬふりをする」
「勝手にまとめるなよ」
「まとめるよ」
ミカはもう一歩踏み出し、その瞬間に視界から消えた。
と思った次の瞬間には、ボクのすぐ目の前にいた。
残像だけが、風みたいに頬を撫でる。
腕が振り上げられる。
何かが空を裂く。
ボクは、とっさに身を捻って、それを避けた。
背後で、コンクリートが砕ける音がした。
振り向くと、さっきまでボクの頭があったあたりの地面に、深いひびが走っていた。
ミカの細い腕が、そこに突き刺さった形跡だけを残している。
「……は?」
「うん。 今の、当たってたら死んでたね」
ミカは、軽く肩を回した。
笑いながら、まるでウォーミングアップでもしているみたいに。
ボクは、一歩、後ずさった。
足が砂に埋まって、うまく動かない。
「ねえケイ。 死ぬの、怖い?」
「当たり前だろ」
「いいね。それが普通」
ミカの足が、砂を蹴る。
視界が揺れる。
次の瞬間には、彼女の手がボクの胸倉を掴んでいた。
背中が、鉄棒に叩きつけられる。
肺の中の空気が、一瞬で全部抜けた。
「がっ……!」
「君さ」
ミカの顔が、すぐ近くにある。
瞳孔の細さまで数えられそうな距離。
甘い匂いと、さっきから鼻を刺す植物の匂いが混ざって、頭がくらくらする。
「授業で、習わなかった? 『負の感情が一定値を超えた時、人は妖怪になる可能性がある』って」
「都市伝説だろ、それ」
「現実だよ」
ミカの左手首の模様が、ぼうっと光る。
橋。
川。
闇。
「私は、橋姫と呼ばれる存在らしい。 嫉妬と憎悪で川に沈んだ女が、夜の橋に戻ってきた、って……そういう話の、現代版」
「意味わからん……何に嫉妬して、誰を恨んで、何でそんなことに――」
「全部だよ」
ミカの指が、ボクの胸元の制服をぎゅっと掴む。
「君みたいな『普通』にも、上の連中にも、何もしてくれない制度にも、 親にも、家族にも、自分の運の悪さにも」
「……」
「でもね、今はもう違う」
ふっと、ミカの力が抜けた。
鉄棒からずり落ちるボクの体を、彼女はそのまま上から押さえ込む形で倒れ込んでくる。
夜の公園の真ん中で、ボクはミカにのしかかられたまま、息を整えることしかできなかった。
「……ごめん」
耳元で、小さな声が落ちた。
振り向くと、ミカが泣いていた。
さっきまでの狂気じみた光は消えていて、代わりに必死に歯を食いしばっている。
唇が震えて、うまく言葉になっていない。
「止まらないんだよ、これ。 怒りとか、憎しみとか、妬みとか……全部がさ、勝手に膨らんで、勝手に燃える」
「さっきのも、その……?」
「そう。 ケイのこと、嫌いなわけじゃないのに。 むしろ……」
そこで言葉を濁し、ミカは自分の額をボクの胸に押し付ける。
肩が震える。
涙が、制服に落ちる。
「どうでもよかったはずの世界のことまで、一緒に憎くなるんだよ。 上の連中も、君ら中流も、全部まとめて沈めてやりたくなる」
「……」
「だからね」
ミカは顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった目が、もう一度、あのひび割れ模様に変わっていく。
「終わらせる。 この国も、この世界も。 AIに管理されてる全部を、逆流させて、川底に沈める」
ミカの右手には、いつの間にか、さっきの植物の小瓶が握られていた。
黒い蔓を刻んで乾燥させた粉末。
新型のドラッグ。
禁止指定。
所持だけで重罪。
「これは、そのための火種。 この街の水道に混ぜてもいいし、電子ドラッグに書き換えてVRサーバーにばら撒いてもいい。 上も下も関係なく、全部まとめてぶっ壊せる」
「そんなことしたら――」
「大勢死ぬ。 でも、もうとっくに死んでるのと同じでしょ、みんな」
ミカは笑った。
涙の跡を残したまま、ひどく綺麗な笑顔で。
「ケイは、どうする?」
「何が」
「君は、こっち側に来る?」
その問いに、すぐ答えられない自分がいた。
来るわけない、って即答できればよかったのに。
代わりに出てきたのは、ずっと胸の奥に沈んでいた別の感情だった。
平均から、抜け出したい。
何か「特別なもの」になりたい。
世界の背景じゃなくて、物語の中心に立ってみたい。
そんなガキっぽい欲望が、ミカの言葉に刺激されて、一気に浮かび上がってくる。
「ボクは――」
言いかけた瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
ミカの爪が、ボクの皮膚に食い込んでいた。
ほんの少し血がにじむ程度の傷。
でも、そこから何かが、じわっと流れ込んでくる。
甘くて、熱くて、少しだけ冷たい、変な感覚。
「ごめんね」
ミカが囁く。
「選ばせる時間、もうあんまりないんだ」
視界の端が、ゆっくりと暗くなっていく。
夜の公園の街灯が遠ざかり、砂場も壊れた遊具も、全部が水の底に沈んでいくみたいにぼやけていく。
最後に見たのは、ミカの顔だった。
泣きながら笑っている、どうしようもない顔。
◇ ◇ ◇
目を覚ました時、空気の匂いが変わっていた。
埃と油と鉄の匂い。
冷たい、湿ったコンクリートの感触。
遠くで、ドローンの飛ぶ羽音が反響している。
瞼を開けると、天井には剥がれかけた鉄骨と、割れた蛍光灯がぶら下がっていた。
「……どこだ、ここ」
「廃工場。 不法占拠中」
声のする方を向くと、そこにはミカがいた。
いつものパーカーのまま、だけどエプロンは外されていて、髪は乱れたまま。
一つだけ生き残った照明の下、彼女の体に浮かぶ橋の模様が、はっきり見えた。
「運ぶの、大変だったんだよ。 君、意外と重い」
「女の子に運ばれる男の気持ち、考えろよ……」
「考えるわけないでしょ」
軽口が、いつもみたいに返ってくる。
ただ、その裏にある温度は、もう以前とは違っていた。
「……ボク、何かされた?」
「ちょっとだけ、盛った」
「盛ったって、何を」
「さっきの植物。 あれを加工したやつを、一滴」
そう言って、ミカは自分の指先を見せた。
爪の先に、うっすらと黒い跡が残っている。
「安心して。 いきなり廃人になるほど強くはないから。 最初は、感情が少し薄くなるくらい」
「感情が、薄く……」
言われて、ようやく違和感の正体に気づいた。
頭の中が、やけに静かだ。
さっきまで感じていたはずの恐怖も、怒りも、ほとんど残っていない。
代わりにあるのは、妙に冷めた視点だけ。
自分が拉致されて、違法ドラッグを盛られて、テロを宣言してる女と二人きり。
客観的に見れば、とんでもない状況のはずなのに――心拍数は、そこまで上がっていない。
「……これが、薬の効果?」
「半分はね」
「じゃあ、もう半分は」
「君自身」
ミカは鉄骨にもたれかかりながら、ボクを見下ろした。
「本当に全部が嫌だったら、もっと取り乱すでしょ。 助けてくれとか、やめろとか、叫ぶでしょ」
「……」
「でも君、そこまでしない。 どこかで、『面白くなってきた』って思ってる」
図星、だった。
認めたくなかったけど、認めざるを得ない。
ボクの中のどこかが、確かに高揚している。
これまでの「平均」の生活では、絶対に出会えない種類の出来事。
世界の裏側にひっくり返される感じ。
自分だけが、物語の濃いところに踏み込んでしまった感覚。
「ねえケイ」
ミカが近づいてくる。
足音が、冷たい床に響く。
「君さ。 世界の敵になってみない?」
「いきなりハードル高いな」
「そう?」
「普通、『一緒に逃げて』とか『一緒に壊して』とかだろ」
「それじゃ足りない」
ミカはボクの目の前で立ち止まり、膝を折って視線を合わせてきた。
「この国は、もう壊れてる。 AIも、格差も、全部。 上の連中は、それを前提にして楽しくやってる。 下の連中は、それを前提にして諦めてる」
「中流は?」
「君らは、何も見なかったふりをして、生き延びてる」
静かな声。
怒鳴り声よりずっと強く聞こえるタイプ。
「だからさ。 壊すなら、中途半端じゃ意味ない。 どっかのテロリストごっこじゃなくて、『世界の敵』ってラベルを堂々と貼られるくらい、派手にやらないと」
「……ボクが、その片棒を担げと?」
「うん」
ミカは小さなケースを取り出した。
透明な蓋の向こうで、黒い粉末が揺れる。
「これは、ただのきっかけ。 AIのフィルタリングをすり抜けるための、穴。 君の頭の中に、その穴を広げる役目をしてくれる」
ケースを開け、中の錠剤を一つ、ミカはボクの手のひらに乗せた。
丸くて、小さくて、見た目はただの薬。
これ一粒で、人生がひっくり返るって、本当に?
「断ってもいいよ」
ミカは、あっさり言った。
「このまま飲まずに帰る? ボクのこと、通報する? それも一つの選択」
「……」
「その代わり、君は一生、『何も知らなかった』側の人間で終わる」
それを言われるのが、一番きつい。
知らないまま終わる。
平均のまま終わる。
何も選ばないまま、何も成し遂げないまま、寿命だけ消費して死ぬ。
それが、一番怖いのだと、初めて自覚した。
工場の隙間から、夜の風が吹き込む。
遠くの高速道路を走る車の音。
ドローンのプロペラ音。
全部が、妙に遠く感じる。
ボクは手の中の錠剤を見つめた。
白い指先。
少し震えている。
これを飲めば、戻れない。
飲まなければ、何も始まらない。
どちらも正しいし、どちらも間違っている。
「ケイ」
ミカが、ボクの名前を呼んだ。
その声は、コンビニのレジで聞いていたものと同じで、でもどこか違っていた。
橋の欄干から身を乗り出して、川面を覗き込んでいるみたいな、危うい声。
「君は、平均から抜け出したいんでしょ?」
そこを、突かれた。
ボクは笑った。
自嘲とも、開き直りともつかない笑いだった。
「……ズルいな、お前」
「知ってる」
ミカも、少しだけ笑った。
その笑いは、泣きそうなくらい不安定で――でも、やけに綺麗だった。
「世界の敵になるって、結構面白そうじゃない?」
「そう簡単に言うなよ」
「簡単に言わないと、やってられないでしょ」
そう言うなら、こっちも。
ボクは、手の中の錠剤を、口の中に放り込んだ。
舌の上で、わずかに苦みが広がる。
喉が、ごくりと動く。
それで終わり。
「……はい、これで、ボクも共犯」
自分で言って、自分で苦笑した。
ミカが、ほんの少し驚いた顔をして、それからニヤッと口角を上げる。
「ようこそ。橋のこちら側へ」
彼女が差し出した手を、ボクは握った。
その瞬間、世界の色が、ほんの少しだけ変わった気がした。
夜の工場の暗闇が、以前よりもはっきり見える。
遠くの音が、妙に鮮やかに聞こえる。
自分の心の中の何かが、静かに反転する。
恐怖は、もうほとんどない。
代わりにあるのは――期待だ。
この先、ボクたちは、本当に世界の敵になるかもしれない。
AIに管理された社会の、バグであり、ウイルスであり、異物になるかもしれない。
それが、どれだけの地獄を連れてくるのかなんて、今のボクには想像もつかない。
でも一つだけ、はっきりわかる。
もう、平均には戻れない。
その事実だけが、ボクの胸の中で、妙に心地よく響いていた。
橋のこちら側で、世界を敵に回すなら 朝倉春彦 @HaruhikoAsakura
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