誰かのいない世界

@kon_zm

誰かのいない世界

 むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが、つつましく暮らしていました。


 おじいさんとおばあさんは、お互いをとても信頼し、尊敬し合っていました。だからこそ、小さくて古いこの家での生活にも十分満足していました。


 しかし、押し寄せる大波のごとく、近代化が街を飲み込んでいきました。大きな石を縦と横に切り出して作ったかのような住宅が量産され、無駄に空に向かってそびえ立つビル群、うるさくて派手な映像広告がそこら中に溢れる繁華街の中で、二人の家はひっそりと佇んでいました。


 いえ、逆に目立っていたのかもしれません。なぜなら、通りすがる若者たちが、やたらとスマートフォンで二人の家を撮影していくからです。「なにこの家、超エモいんですけど!」

 

 それでも、おじいさんとおばあさんは幸せでした。庭の小さな畑で、自分たちが食べる分だけの野菜を作り、時間があるときは縁側でお茶を飲みながら狭くなった空を見上げました。二人はほとんど喧嘩をせず、いつも笑い合っていました。

 

 

 ある日、おじいさんが死にました。

 

 おじいさんがいなくなった途端、小さいと思っていたこの家が、なんだか氷の孤城のようにひんやりと冷たく、そして果てしなく広く、おばあさんには感じられたのでした。

 

 家の中にはおじいさんとの思い出が詰まった物がたくさんありました。


 おじいさんがいつも「お天道様の匂いがするねえ」と言いながらぬくぬくと潜っていた布団。

 「これはちょっと恥ずかしいなあ」と言いながらまんざらでもない様子で使ってくれた色違いのセーター。

 結婚したときに二人で植えた庭の柿の木。毎日のようにおじいさんが履いていたお気に入りの靴。

 

 おじいさんとの思い出の品を眺めながら、おばあさんは毎日を寂しい気持ちで過ごしました。そうしているうちに、どんどんおじいさんの顔が思い出せなくなっていきました。どんどん、おじいさんの声が思い出せなくなっていきました。

 

 おばあさんは、おじいさんと過ごした日々を忘れたくありませんでした。だから、思い出したかのように押し入れを開けて、おじいさんの面影のある物を引っ張り出します。そして亡霊のように、無意識におじいさんとの思い出の品を庭に並べます。


 それでも、おじいさんとの思い出は、どんどん遠く彼方に、色あせていくように、思い出せなくなっていきました。


 初めて一緒に出掛けた場所はどこだっけ。そこでおじいさんとどんな話をしたのだっけ。子どもがお腹に宿ったと話したとき、どんな表情をしていたのだっけ。流産したと知ったとき、なんと言って励ましてくれたのだっけ。そのとき、子どもにどんな名前を付けようと話していたのだっけ。


 どんなに思い出の物を並べても、どんなにおじいさんの名前を呼んでも、どんどん二人の思い出が薄れていってしまいます。


 そんなおばあさんの心の内とは裏腹に、おばあさんの家には近所の人たちが怖い顔をして訪れるようになりました。彼らは、口ひどく何かをおばあさんにまくし立てていましたが、おばあさんは何を言われているのかまるで理解できませんでした。おばあさんは困ったような微笑みを浮かべながら、彼らの話を聞いている振りをすることしかできませんでした。


 おばあさんは、おじいさんが恋しくてたまらなくなりました。そしてある日の深夜二時、布団に潜りながら狭い夜空に輝いているであろう星に願いました。


 彼に、会いたいです。

 

 翌朝、おばあさんは目を覚ましませんでした。


『次のニュースです。本日、所有者が死亡して放置されていた古民家が、行政の代執行により取り壊されました。この民家には、以前より大量のゴミが所狭しと放置されており、近隣住民からの苦情が絶えなかったとのことです。……』


 更地になったおじいさんとおばあさんの家の前では、近所の人たちが眉をひそめながら井戸端会議をしていました。

「やっとゴミ屋敷が取り壊された」

「あの瓦屋根がうちに崩れる前に取り壊されてよかったわ」

「年寄りが住んでたから、何かの拍子に火事にならないか毎日ひやひやだったのよ。あの家、木造だったから火の回りが早そうだったでしょう?」

 どうやら、おじいさんとおばあさんの家は、取り壊されてよかったのかもしれません。

めでたしめでたし。

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