「鉄路断章」第1話「白旗喪失論」

秋定弦司

「人の目が見ていたもの」

 私、かつて列車見張員の端くれでございました。


 手にしていた旗は二種。

 赤は、止めるため。

 白は、伝えるため。

 ……緑旗などという高貴な色は、我々のような末端が振るものではございません。


 我々は、ひたすら赤と白のあいだで命を繋いでおりました。


 白旗とは、実に不思議なものでございます。

 あれを振る者にとっては「危険への報告」。

 見る者にとっては「安堵への証」。


 運転席の窓越しに見えるその白の一閃が、人の息をひとつ繋ぐのです。

 ピッ、ピッ。

 汽笛が短く返る。


 互いに無言のうなずき。

 安全とは、書類ではなく、視線の交錯によって成立するもの。


 旗の作法もまた、実に几帳面でございました。


 円を描けば「配置完了」。

 縦に振れば「列車接近」。

 横に振れば「待避完了」。


 旗を見た者は、必ず同じ動作で返す。

 往復して初めて、意味が完成する。

 まるで古い舞踏の型のように。


 旗が動けば人が動き、旗が止まれば列車が動く。

 理屈ではなく、身体がそう覚えておりました。


 ある日、無線が沈黙いたしました。

 どなたかがスイッチを押しっぱなしになさったのでしょう。


 電波は発されておりましたが、言葉は届かず。

 沈黙の中で、全員が旗を取りました。


 後方が縦、前方が横。

 命を救ったのは、結局この手の動きでございました。


 昼礼の折、私は声を荒げて申し上げました。


 「無線より信頼、電波より目視」。


 怒りではなく、祈りでございます。


 便利さに溺れた瞬間に、人は自らを見失う。


 今や見張員の所持品は、赤旗と炎管(発炎筒)のみ。

 退避完了は片手の水平上げで示す。


 簡素、合理的、そして不安。

 運転士殿から見える保証など、どこにもございません。


 かつて白旗を横に振れば、百メートル先でも伝わった。

「もう逃げているな」と、あちらが理解できた。


 安全は成立しても、安心が成立していない今――


 我々は数字の上でのみ救われているのです。


 雪国では、赤も炎も視界に溶けます。

 その時期だけ、黄色旗を使ったことがありました。


 吹雪の中に浮かぶ一抹の光。

 現場判断という、人間の柔軟な叡智の名残。


 今、その黄色もまた見ません。


 白旗が消えてから、私はしばしば考えます。


 あの布切れは、安全のために失われたのか。

 それとも、人間を信じる力が失われたのか。


 機械は、確かに見張ってくれます。

 だが、安心というものは、人の頷きの中にしか存在いたしません。


 旗が消え、「確認」が「信仰」に変わった。

 合理という神が、人間の感覚を御座敷の外へ追いやった。


 便利で清潔、だが冷たい時代でございます。


 それでも私は、旗を振ります。


 もう手の中にはない旗を、心の中で。


 「退避完了」「列車接近」「配置完了」。

 その一つひとつを、言葉でなぞる。


 言葉が、私の列車見張員としての合図でございます。


 合理の御時世において、「見えない安全」こそが正義と称されます。

 けれど、安全とは「見えること」から始まるもの。


 人が旗を振り、人がそれを見て安心する――。

 それが人の営みでございました。


 今日も私は、見えぬ旗を掲げます。


 誰も死なせぬために。

 誰も忘れぬために。


 ――白旗は消えました。


 されど、その布は今も、私の胸の内で風を孕んでおります。

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「鉄路断章」第1話「白旗喪失論」 秋定弦司 @RASCHACKROUGHNEX

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