第4話
◆◆◆第7章 逆行する命の、未来へ
ケーキ店の内装の打合せだけで、朝が来る。
64歳。肉体16歳。
眠らなくても平気だった。脳が軽い。身体も軽い。
だけど、意志だけは、まだ”60代の私”のままだった。
店名は三人で決めた。ああでもない、こうでもないと深夜2時、3時でも笑い合った。
長男はマーケ、長女はレシピ。静香はブランディング。
親子で共同経営なんて、人生のどこで想像できただろう。
「ケーキ屋」という子供の夢が、逆行の終端で復活するなんて。
人生は本当に、物語のように巻き戻るのだ。
⸻
でも、心が若返るたびに、大切なものが消えていく。
52歳で発症を知ったときは、全てが奪われる感覚だった。
記憶も、人間としての厚みも、全て消えていくと。
そして実際、そうだった。
若返りは、嫌な過去の重さも捨てていく。
家族のすれ違い、世間の目、専業主婦のコンプレックス、
夫の利害の匂い、その全部が薄れていった。
でも同時に、幸せな記憶も消えた。
長女が初めて「ママ」と呼んだ日。
長男が泣きながら抱きついてきた夜。
誠一と二人で見た富士山の夕焼け。
全部、霧の向こうに消えた。
「今なにをしたいか」だけが残ったのは事実だ。
でもそれは、自分が何者だったかを失うことと引き換えだった。
普通に老いて、皺を刻んで、記憶をちゃんと抱えたまま死にたかった。
それが本音だった。
⸻
そして、最後の真実
ケーキ屋の開店予定日は来年春。
その頃には静香は肉体13歳相当。
レシピを覚えていられるかは、正直誰にも分からない。
それでも、子供の身体で店に立ったっていい。
――そう、思い込もうとしている。
そんな折、藤木から深夜にデータが届いた。
研究室から最終報告。
Arc Ring Syndrome は
感染病だった。
発病者が「肉体50代」前後で体液接触時のみ感染する。
その時期が唯一、血中の”逆成長因子”が安定発現する。
だから世界に1000人だけ。
だから短命。
だから、
華々しく生きる人間にとっては
究極の夢の薬に変質しつつある――と。
人類が自分の命を、自分で巻き戻す手段。
欲望と市場が、それを放っておくはずはない。
静香は、薄く笑った。
「この病気、最後まで私の人生をエンタメにしたわ」
でも心の底では、一瞬こう過った。
――誠一と一緒に若返るのも幸せだったかしら、って。
スマホを握りしめ、静香はアメリカにいるはずの誠一へメッセージを送った。
「ごめんなさい。ずっと一人で走ってた。でも、本当は――」
涙が頬を伝う。
⸻
エピローグ
あと4年、生きられるかどうか。
開店したケーキ屋を、どれくらい覚えていられるかは分からない。
長女と長男が、毎日店に来てくれる。
優しく声をかけてくれる。
「お母さん、今日も手伝ってくれてありがとう」
でも――
この二人が誰なのか、時々分からなくなる。
大切な人たちだということは分かる。
心が温かくなる。
でも、彼らとどんな時間を過ごしてきたのか。
どんな言葉を交わし、どんな涙を流し、どんな笑顔を見たのか。
何も、思い出せない。
13歳の身体で、シュークリームを焼く。
香りが満ちる。幸せな気持ちになる。
でも――
「やれるとこまでやり切った人生は、時間がどの方向へ動こうと、美しいんだよ」
そう子どもたちに言った日のことを、もう覚えていない。
未来は、方向じゃない。
密度だ――と、誰かが言った気がする。
でも、密度だけが残って、時間が消えた人生に、
本当に意味はあったのだろうか。
静香は、焼きあがったシュークリームの香りを胸いっぱいに吸い込み、
13歳の身体で、65年の人生を――もう覚えていないまま、
次の朝を迎えた。
窓の外、富士山が見える。
綺麗だな、と思う。
でも、この景色を誰と見たかったのか、思い出せない。
中学生一年生のような静香は、笑った。
その時ちょっと年上の中学生の男の子が、シュークリームを買いに来た。
幸せそうに。
そして、少しだけ――
悲しそうに。
「また見つけたよ。静香」
シュークリームを一つずつ、食べる。
「美味しい?」
「うん。美味しい」
誠一は静香の手を握った。
「私ね、ずっと怖かったの。一人で消えていくのが」
「俺もだ」
「でも、あなたが一緒なら――」
「大丈夫だ」
【了】
逆行する花嫁 ─若返りの病と最後の恋 奈良まさや @masaya7174
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