推し(1836年・パリ)
霧原ミハウ(Mironow)
推し――1836年・パリ
パリの冬は、黒い蜜蝋の匂いがする。曇った硝子、薄氷の石畳、遠くで馬車鈴が滲む。
オルタンスは手袋の端を噛み、楽譜屋のショーウィンドウに額を寄せた。
――新刊 バラード第一番。
インクはまだ若く、紙は軋む。値札は、父の眉間の皺より鋭い。
「オルタンス、その楽譜は先週買った」
言い終えるより早く、娘は店内へ消え、ほどなく楽譜を抱えて戻った。
「またそれかい」
帰り道、父は眼鏡を持ち上げた。
「一つ買えば十分だろう」
「先週のはレッスン用。これはコレクション。ねえ、お願い、お父様。私にピアノを習わせて」
「金の無駄だ、と言っただろう」
「無駄じゃありません、お父様」
「お前のレッスン代で家計簿を赤字にはせんよ」
「でも、ママンがいいって言ったわ」
「それならお向かいのドブレ夫人に習うんだ」
「いや。私の先生はただ一人」
「だめだ。お前のその先生は『高すぎる』」
話を聞いた母は笑い、砂糖たっぷりの紅茶を置いて言った。
「サロンなら招待状が来ているわ。右岸の……なんとか伯爵の晩餐会。ほら」
プログラムを覗き込む。
「ピアノの方も出るって」
「ピアノの方!? ――それ、ショパン先生です!」
サロンの晩は来て、そして、夢のほうが遅れて到着した。
ショパンがピアノに向かい、指先で空気を震わせたあの夜。三列目で扇子を握りしめたオルタンスは、息の仕方を忘れた。
けれど話しかける勇気はなかった。むしろ――話しかけてはいけない、と思った。
あの繊細な音を生む人に、凡庸な自分の声を届かせることは、冒涜のように感じられたから。
ざわめきの海で、ひと瞬き、彼の視線がこちらを掠めた気がした。幻かもしれない。
翌日、友人たちが「奇跡だったわ」と口々に言うのを横で聞きながら、オルタンスはひとり、「奇跡の音が届いても、私は誰でもなかった」という痛みを噛みしめた。
その夜、彼女はピアノの前に座る。
――せめて音で、彼の世界に触れたい。
譜面台に新品の楽譜――《バラード第1番》。
弾き始める。両手で、初見で。うっとりする音階。あの方が一音一音を書き下ろしたと想像するだけで、夢はたちまち過飽和になる。
「ああ、素敵……」
だが、弾けば弾くほど世界は遠のいた。
音を外すたび、音楽はかすかな悲鳴を上げる。弾き直すたびに、その回数があの方に数えられているような気がする。
「姉さん、才能がないんだよ」
クッキーを齧りながら弟が言う。
「持っているのは楽譜だけ」
「あなたに芸術のなにがわかるの」
「砂糖の配分ならわかる」
夜。蝋燭の火を近づけてノートを開く。
白いページは白い雪野。足跡は、彼女が最初につける。
現実で橋が架からないなら、物語で架ければいい――。
――――――――――――――――――――
小説『伯爵と先生』 オルタンス作
ある伯爵がいた。名は伏すが、杖の銀頭は獅子、胸の趣味は音楽、財布の趣味は散財である。
伯爵はショパンの作品を愛してやまない。作品だけならまだしも、その人についても、やまない。
やまない結果、伯爵は決めた。招聘する、と。
夕暮れ、先生がレッスンを終えて外套の襟を立てたとき、伯爵の従僕たちが馬車の扉を開いた。
「どうか今宵だけ、我らの主のサロンへ」
丁寧、迅速、やや強引。先生は驚いて瞬き、それからひとつ溜息。
「今宵だけです」
郊外の邸は、豪奢というより、豪奢を越えて少しばかばかしい。
蜜蝋と香水の匂いが舞い、壁の鏡が笑い、部屋の中央で黒いピアノが黙する。
「一か月」伯爵は朗々と宣言した。「ここで私に《バラード第1番》を教えたまえ」
「今宵だけ、と申し上げました」
「ならば、今宵から一か月ということで」
先生は眉を寄せ、ピアノに視線を落とす。
「この響きなら、まあ……一晩弾く価値はあります」
初回のレッスン。伯爵は胸を張って腰を下ろした。
一音目で獅子の杖頭が泣いた。二音目で、絨毯がため息をつく。
そして三音目――先生は思ったより優しく言った。
「まず、呼吸を」
「私は呼吸している」
「音の呼吸です」
ここからは細部の天国――いや、細部の地獄。
重心、手首、打鍵の深さ。右手の問いに左手の答え。
伯爵は額に汗を浮かべ、「私は貴族だ」と心のどこかで繰り返しながら、冒頭の音階を迷った。三日、五日、一週間。
「先生、私は進んでいるのか?」
「ええ、円を描くように」
二週目の終わり、伯爵は絶望の床に座り込む。
「私を慰めてくれ、先生。音楽でなくてもいい」
「音楽以外に、私が何を」
「勇気づける言葉とか」
「チェルニー三十番」
「それは慰めではない」
「救済です」
三週目、夜の十一時。
先生は黙って、伯爵の手の甲に自分の指をそっと添えた。
「重さを、ただ置く。それから、間を聴いて」
伯爵の手が鍵盤に降り、先生の指が、わずかに重さの方向を変える。
右手と左手、二人三脚。音が、はじめて立ち上がる。
伯爵は自分の音に驚き、そして少し泣いた。
「先生、いまのは――」
「あなたの音です。私は合図をしただけ」
奇跡は、少しずつ現実になる。
四週目、廊下の猫が三度目の主題の再現で耳を動かした。
午後の光、粉塵、時計の針。すべてが伴奏に回る。
最終夜。最後の和音が部屋の隅に静かに沈む。
「先生、私は貴族だが、今は生徒だ」
「それは、まずまずの貴族ですね」
帰り支度の先生のポケットへ、伯爵は革袋を押し込んだ。
「礼だ。金貨だ。重いが、良い音がする」
「音は鳴りません」
「私には鳴る」
先生は軽く礼をし、邸を後にする。
翌日、伯爵の右手には小さな豆、左の胸にはなぜか誇りができていた。
(fin)
――――――――――――――――――――
羽根ペンを置いたオルタンスの唇から、ひとりでに声が零れた。
「やった!」
部屋の隅の使用人がびくりと肩を揺らす。
「お嬢様、どうなさいました?」
「これ、写してちょうだい。百部」
「百……」
「いえ、とりあえず百部」
翌週、薄い冊子は友人から友人へ、サロンの絨毯から絨毯へ、紅茶の皿から皿へ。
「読んだ?」
「読んだ! 伯爵が愛おしい」
「『手を添える』ところで三回息を止めた」
「私は四回」
「わたし五回。勝ったわ!」
推し友の午後は、花と菓子と紙片でできている。
オルタンスは二刷を決めた。「さらに百部。増刷よ」
母はため息をつき、「蜜蝋が足りなくなるわね」。父は「紙代」を計算して眉を寄せる。
オルタンスは両親に向かい、背筋を伸ばして言った。
「すべて芸術のためです」
ときどき想像した。どれか一冊が、先生の指に触れる瞬間を。
冬の散歩、ふいに渡される薄い冊子。先生は眉を上げ、口の端だけで笑うかもしれない。
読まなくていい。触れてくださるだけでいい。推し活とは、だいたいそういうものだ。
季節は丸く回り、年がいくつか重なった。
社交と学び、いくばくかの失敗。主題が凱旋して戻る場所は相変わらず橋の向こう側だが、彼女はもう落胆しない。
橋を架ける手段はひとつとは限らない――少なくとも紙の上では。
十九世紀の末、古い音楽新聞の片隅に、小さな記事が載った。
曰く、「某伯爵、名手を邸に引き止め一月の指導を受く。最終夜、ついに難曲を弾き切り、金貨を贈る」。
誰が最初に書き、誰が最初に信じたのか。新聞の紙は薄く、活字はわずかに欠けている。
紙面には指の脂が古い光を残し、読むたびに冷えが指先へ移る。
遠い読者はそれを逸話と呼び、近い誰かはそれを思い出と呼んだ。
記事の切り抜きは、やがてパリの一軒の家で古い木箱に収められた。
その上に楽譜の束、さらにその上に、誰かのノートが――白いページが――静かに伏せられる。
夜になると階段室は冷え、肖像画は目を伏せ、蝋燭の煤が天井の隅を黒くする。
ページの間を、乾いた薔薇の花弁が移動するたび、かすかな音がする。
窓の霜は譜線のように走り、遠くで礼拝堂の鐘が二度だけ鳴る。
オルタンスは知らない。けれど、知らなくてもいい。
彼女の推しは、とっくに伝説になっていたから。
そして夜ごと、彼女はまた蝋燭を近づけ、白いページをめくる。
主題が凱旋して戻る橋は、今日もそこにある。
紙の上では、もう何度でも渡れる――あちら側の静けさへ。
(了)
――――
【付記】
本作に挿入した「伯爵と先生」は、Józef Kleczyński,Chopin’s Greater Works: How They Should Be Understood(Lecture II;London: W. Reeves; New York: Scribner, 1896)に紹介される、《バラード第1番》の劇的性格を象徴する伝説に拠ります。
同逸話には異本があり、英紳士の婚約者による解放が動機となる版や、婚約者が出ない版など複数のヴァリアントが伝わります。本エピソードは実証的伝記には見られず、ロマン主義時代の創作神話とみなされます。作中の「伯爵と先生」は、当該伝説を踏まえつつ物語効果を優先して再構成しています。
推し(1836年・パリ) 霧原ミハウ(Mironow) @mironow
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます