最終話 風の音が聞こえる場所

 春の阿蘇は、今年もやさしく芽吹いていた。

 図書館の裏庭には、ホトケノザとレンゲが咲き、風がページをめくるように草花を揺らしていた。

 シャーロット・アシュフォード=式部は、カウンターの奥で貸出処理をしていた。

 その指先の動きは軽やかで、かつてよりもずっと日本語に馴染み、来館者とのやりとりも自然な笑顔に満ちていた。

 ジュリアが喉を鳴らした。

「今日もジュリアはご機嫌ですね」

「ええ。春になると、彼女は少しだけ甘えん坊になるのです」

 ジュリアは、今も変わらず図書館の名物猫として、座布団の上で静かに丸くなっていた。

 白い毛並みは少し年を重ねたが、その瞳の穏やかさは変わらない。

 —

 紫郎は、図書館の新しい司書たちに業務を教えていた。

 彼は今、図書館の運営を支える主任司書として働いている。

 ホテルマンとしての丁寧さと、図書館で培った静けさが、彼の背中に自然と滲んでいた。

 昼休み、裏庭のベンチで二人は並んで座った。

 桜の花びらが、風に乗って舞い落ちる。

「式部さん……いえ、紫郎さん。あの日、私がこの図書館に来たことは、偶然ではなかったのかもしれません」

「ええ。きっと、あなたのお兄さんが、風に乗せて導いてくれたのだと思います」

 シャーロットは、そっと手を重ねた。

 その手には、銀色のしおりが光っていた。

 サファイア色の小さな石は、今も彼女の本の間に挟まれている。

 —

 その日、図書館では小さな朗読会が開かれた。

 今では恒例となった「風のあとに残るもの」の会。

 来館者の中には、かつての子どもたちが大人になって戻ってくる姿もあった。

 シャーロットの声が、静かに響く。


 風が去ったあとに

 ひとつだけ残ったもの

 それは、あなたが見ていた空の色


 紫郎は、その声を聞きながら、そっと目を閉じた。

 そして、心の中で呟いた。

“この場所が、誰かの記憶になっていくように。

 この静けさが、誰かの明日を支えるように”

 —

 図書館の窓の外では、ジュリアが日向ぼっこをしていた。

 風がページをめくり、光が文字を照らす。

 そして、物語は続いていく。

 静かに、やさしく、風の音とともに——

(了)

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土曜日の図書館、サファイアの午後 橘 瑞樹 @tachibana7788

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