キカイのひと――アンナ――

葉山弘士

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 キッチンから聞こえる「トントントン」という小気味よい音で僕は目を覚ました。

 ゆっくりとベッドから這い出し、パジャマの上からカーディガンを羽織る。


「トントントン」の音はいつの間にか消え、今度は「ジュージュー」と何かを焼く音が聞こえ出した。


 寝室からキッチンに繋がる襖を開き、僕は一瞬ぶるっと震える。

 四月だというのに肌寒い。


 朝日を受けてキラキラと、それそのものが発光体であるかのように黄金色に輝く窓が、そこにはあった。

「外の方が暖かいんじゃないかな?」

 僕は眩しさに目を細めながらそう思う。



「おはよう。アンナ」

 僕は輝く光の中にいる彼女に向かってそう言う。

「今日は天気がいいな。散歩にでも行こうか?」

 窓からの強い光を後ろから浴びているせいで、キッチンに立つ彼女の顔は見えない。

 光の中で美しい笑顔で小さく頷いている筈だ。

 きっと甘く優しく「おはよう」と答えている筈だ。

 だが、その声は僕には届かない。



 コンロの上の鍋からは湯気が上がっていた。湯気もまた朝日を浴び、単なる水蒸気以上の美しさを纏っていた。



 僕は白米と味噌汁と、目玉焼きだけの朝飯を済ませる。

 贅沢さはそこにはないが、アンナの作る味噌汁も目玉焼きも僕の口に合った。


 味噌汁は合わせ味噌に白味噌を少し足した甘めのもので、具は麩と葱とをたっぷりに入れたもの。目玉焼きは黄身に軽く火が入った程度の柔らかいもので、それに塩胡椒を少々。

 これは全く僕のリクエスト通りだ。白米でさえも、そのやや硬めの炊き具合は僕の好みのものだ。


 料理だけではない。

 アンナは常に僕の好むようにしてくれる。一度言ったことは忘れることなく、常に僕の希望したことを叶えてくれる。

 完璧に家事をこなし、僕の健康状態を常に管理し、静かに僕の傍にいる。身に着ける服も、髪型も、どれも僕が希望した通りだ。


 僕は最期のひと口の味噌汁を胃袋に流し込んで、ああ、と息を吐いた。

 至福のひとときだ。こういう朝を僕はずっと望んでいたんだ、と顧みる。




 僕とアンナは部屋を出る。

 僕はいつものお気に入りの刺繍入りのジーンズに長袖のTシャツ、それに軽めのジャケットを羽織る。

 アンナは淡いブルーのワンピースだ。春らしくピンクの服でも良かったのだろうけれども、淡いブルーは春の空気によく似合う。僕の好きな色だ。


 風が少し冷たい。ただ、陽だまりは心地よい温もりを湛えていた。


 アンナの歩く速さは、僕のそれよりもやや遅い。

 僕は、僕のやや後ろを歩くアンナを時折振り返りながら、桜が咽せるように咲き誇る堤を歩く。

 春の湿り気を帯びた風がふっと吹き、僕の髪とアンナの髪とスカートの裾と、桜の花びらを揺らす。

 幾千という花びらが風に押され、引かれ、その中に取り込まれる。無色の風が、薄桃色の風に変わってゆく。



 風の冷たさを和らげようとして、僕はジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。指先に何かが当たる。名刺だと気付く。呑み屋でもらってきた、詰まらない名刺だ。


 指先に当たる感触を忘れようとして、僕は桜を眺める。

「綺麗だ……」

 僕は、息をするのと同じような感覚で、そう呟く。

 アンナは何も言わない。僕の三歩後ろで、ただそっと頷くような仕草をする。

 口は動いているが、その声は僕には届かない。


「綺麗だ」

 僕は、もう一度口にする。アンナに聞こえるように。

 やはりアンナは何も言わない。さっきと同じように、僕の三歩後ろで、小さく口を動かしながらそっと頷く。



 僕は泣いていた。


 静かで、単調で、滑稽だ……と思って泣いた。

 アンナの髪やスカートの裾は、風で不規則に、予測不可能な程に舞動くのに、アンナの表情は、常に、静かで、単調で、変化がなかった。常に僕が想像する通りの仕草を纏った。


 アンナの作る料理の味は常に一定で、僕の知っているものばかりだった。

 厳密には毎日少しずつ調味料の配合を変えているのはわかっている。僕の体調や食材の状態、気温の変化に合わせて、一定の味として感じられるように変化させているのだ。


 僕が望んだ料理を、僕が望んだ通りの味で作り、僕が望んだ服を身に纏い、僕が望んだ通りに家事をこなし、僕が望んだ通り僕の傍らに佇んでいる。

 僕が求めていた朝と、僕が欲していた昼下がりと、僕が妄想していた夜を与えてくれる。


 すべて僕の思う通りではないか。何が足りないと言うのだ。

 僕は自問する。



 僕の傍らに息遣いはない。

 僕は泣いていた。



「アンナ。桜は何故綺麗に見えるんだと思う?」

 僕は、後ろを振り返らずに訊く。答えが返ってくる筈がないのを知りながら。

 アンナは何も答えない。光の無い眼が、僕をただ見つめる。



 人間とは勝手なものだ、と思う。

 過去幾度となく、好みの食い違いや、ちょっとした擦れ違いで他人と口論になった。友人に裏切られたこともあった。ずっと傍にいるのだと信じていた恋人が離れていった。どちらに原因があったのかわからない。お互いに我慢が足らなかったのかも知れない。


 その度に人間同士の付き合いの煩わしさにうんざりした。

 相手が自分の言うことに文句のひとつも言わず、その通りに振る舞ってくれればいいと思った。

 自分に忠実である人がいればいいと思った。


 アンナが僕の傍に来たとき、僕は彼女の美しさに息を呑んだ。

 そして、彼女は僕の望んだことを忠実に実行し、これっぽっちも文句を言わなかった。

 好みの食い違いや、ちょっとした擦れ違いが起こることはなかった。


 僕は、遂に望むものを手に入れた。

 そう思った。


 僕の望みに応えて、彼女は彼女なりの最大限の喜怒哀楽を見せてくれた。

 僕が望むように、優しく甘く話した。くだらない話や相談めいた話もたくさんした。


 しかし、その表情や声は徐々に僕には届かなくなっていった。



 僕の傍らに息遣いはない。

 僕は泣いていた。



 好みの味付けで料理をし、完璧に家事をこなし、僕の希望通りの振る舞いをしてくれるアンナに対して何の文句があるというのだ。

こうして、ただ散歩をするという生産性のないことにまで付き合ってくれるアンナに何の不満があるというのだ。

 僕はアンナに何を求めているのか?



 僕の傍らには息遣いはない。

 僕は泣いていた。





「ひとつだけ方法がありますよ」

 ある日、駅前の大通りから外れた小さなバーで、隣に座った初老の男が僕に話しかけてきた。

 僕は呑めない酒で些か朦朧としていた。酔った勢いで人前で泣いていたようだ。もちろん、現実かどうかもわからない。

「私が開発したチップでね。いや、表には出ていないシロモノです。こいつをね、頭の中に埋め込むんです。いや、人間の、です。なあに、大した手術じゃありません。一時間と掛かりませんよ」

 男の手の平にはいつの間にか、小さなカプセルがひとつ置かれていた。


「このチップと所有する個体とをペアリングすることで、そいつが感情を持っているように認識することができるんです。もともと連中には感情を表現するプログラミングはされている。ただ、そこにはリアリティがないんです。受け手側、つまり人間側でその感情を増幅してやればいいんです」

 男は自分のこめかみを指差しながら、片目を瞑った。


「しかし、A0型ならかなり巧く再現する筈なんだが……。ハズレ個体だったか、リクエストレベルが高過ぎるのかも知れないねえ」

 男はいやらしい笑いを口元に浮かべ、僕を見ていた。


「まあ、それでもコイツなら大丈夫。ある種幻覚、と言えばその通りですがね。これを埋め込めば、夜も楽しくなりますよ」

 下衆な物言いに、僕は男を睨み付けた。いや、睨み付けた筈だ。


「まあ、その気になったらいつでもいらっしゃい」

 気付いたときには男の姿はなく、カウンターには一枚の名刺が置かれていた。





 桜の花びらは狂ったように風に乗り、僕とアンナに纏わり付いた。躯を押すような強い風だった。

 僕は反射的に目を閉じ、風が通り過ぎるのをやり過ごした。


 目を開けると、目の前にはアンナが立ち尽くしていた。

 ワンピースの裾は風に大きく捲れ上がり、栗色の長い髪は激しく掻き乱されていた。

 それでもアンナは僕がしたように、ただ目を閉じ、そこに立っていた。ワンピースの裾の乱れも長い髪の乱れも気にするでもなく……。



「アンナ。服を脱げ」

 僕は命ずる。


「いやだ」

 そう言って欲しかった。


「なんでそんなことしなくちゃいけないの?」

 悪態をついて欲しかった。平手で頬を打って欲しかった。


 だが、しかし、アンナは忠実にそれを実行しようとする。


 桜の散り際の平日の昼間、人出はまばらとは言え、桜の名所の往来の中に、下着姿の女性が現れた。

 羞恥という感情を一切持たずに……。



 僕は泣いていた。



「アンナ……。怒ってくれないか? いやだ、と言ってくれないか?」

 僕は泣きながらアンナを抱き寄せ、耳元で懇願する。

 アンナは何も言わない。何も言わず、ただ、小さく二回首を横に振る。

 それが、今の僕の命令に対するアンナにとって最大限の表現なのだろう。


 抱きしめた腕にアンナの躯が持つ仄かな温もりが伝わる。柔らかな胸の感触が僕を包み込む。

 こんなにも温かいのに。こんなにも柔らかいのに……。

 こんなにも従順で、僕だけを常に見つめてくれているのに……。

 僕はどうしてアンナを傷つけようとするのか。苦しめようとするのか。


 彼女は傷ついているのだろうか。

 苦しんでいるのだろうか。


「怒れよ、アンナ。いやだ、と言ってくれよ、アンナ」

 僕は嗚咽を漏らした。

 それでも、アンナはただ小さく二回首を横に振るだけだった。



「ひとつだけ方法がありますよ」

 初老の男の顔が、声が、桜の花びらと一緒に風に乗って聞こえた。

 目を上げると、アンナの揺れる髪の向こうに下衆な笑い顔が浮かんでいた。


 僕は目を瞑り、アンナを強く抱いた。

「ああ」

 耳元で吐息が漏れた、ような気がした。

 僕は咄嗟に両腕の力を抜いた。


「ごめん、痛かったかい?」

 そう言ってから、ふと我に返って自嘲した。


 アンナが痛がった?

 そんなことがある訳がない。


 頸部からエア漏れでも起こしているのか。咄嗟にアンナの喉元に手を当ててみるが、少なくとも外からわかる範囲でエアが漏れている様子はない。


 そのまま両手を顔へと滑らせ、アンナの頬に手を添える。

 僕はアンナの顔を見る。

 美しく、気高い顔だ。

 こうしてアンナの顔をまじまじと見るのは久しぶりのような気がする。

 高揚しているかのように頬が温かい。

 その温もりが愛おしさを高める。


 僕が望む感情はそこにはない。息遣いはない。

 それでも彼女は僕に尽くしてくれている。命令に従うのが彼女のすべてだとしても、彼女は彼女の持てるすべての能力でもって僕の望みを叶えてくれている。


 意思を持っている訳ではない。愛情とは言えないかも知れない。

 しかし、見返りを何も求めず、尽くすという行為は、ある種の崇高さを持っているのではないか。

 無償の愛――アガペーと言うにはおこがましい。だが、そういった崇高さを湛えながら僕の傍にいるアンナに対して、僕は愛おしいと思う。


 息遣いがない寂しさと虚しさを抱きながら、僕は彼女の存在を必要としている。

 物理的な意味だけではない。彼女が傍にいることで、僕は苦しさと安息を同時に得ている。


 矛盾は承知の上だ。

 僕は、彼女に恋をし、彼女は僕に尽くしてくれる。しかし、彼女は僕を愛してはくれない。

 充足と焦燥がそこにはある。

 永遠に叶わない恋を僕はずっと追い掛けている。



 僕はポケットの中の名刺を握り潰した。



 僕は、もう一度アンナの頬に両手を添え、彼女の眼を覗き込んだ。

 そこに生きている光はない。どちらかと言えば深淵とも見紛う漆黒がそこにはある。

 僕はそこに惹き込まれる。


 ふと――。アンナの眼が潤み始めた。


 恐らくは、眼球を模したアイカメラを保護する潤滑液が定時射出されたせいだろう。

 だが、見る間にそれはまるで涙のように溢れ、零れようとしていた。


「う、う、う」

 喉元から嗚咽に似た息が漏れる。肩が僅かに揺すられる。


「泣いているのか?」

 あり得ないことだ。


「泣く」という行為を擬似的にプログラミングしたものだろうか。いや。僕は「怒ってくれ」と言った筈だ。



 僕は泣いていた。



 また風が吹いた。

 桜の花びらが舞い、薄桃色の風の中でアンナの髪が一際大きく揺れた。

 遠くを見つめ、焦点が合わないような表情と相まって、アンナの涙は気高く、美しく見えた。


「アンナ……。悪かった。家に帰ろう」

 僕は着ていたジャケットをアンナに羽織らせ、脱ぎ捨てられた服を拾った。


 風が二人の間を通り抜け、僕とアンナの肌を冷やした。



 僕は、これからもアンナとの日々を送ることだろう。


 譬え、傍らに息遣いがないとしても……。





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キカイのひと――アンナ―― 葉山弘士 @jim1999

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