【短編怪談】まぜてもらってもいいですか

久保

まぜてもらってもいいですか

10月上旬の中央自動車道を、1台の軽自動車が滑るように走っていた。

フロントガラスの向こうには、うっすらと靄の残る山並みが広がる。朝の光はまだ冷たく、白く硬い。


「今日、何とか雨降らなさそうでよかったねー。」


「ほんとに。あたし超雨女だから天気心配だったんだけど、玲奈の晴れ女パワーが勝ったのかも。」


助手席の桐宮菜月は、ハンドルを握る玲奈に微笑み返した。

久しぶりの友人との小旅行。

窓の外を流れる空気には、都会ではもう感じられない清涼な匂いが混じっていた。


社会人にとって、貴重な三連休。

普段はインドア派の二人だったが、玲奈の「今度人生経験でさ、一回くらいはちゃんとしたキャンプってやつ、挑戦してみない?」という何気ない一言が、すべての始まりだった。


「だけどあたしたち、ちゃんとキャンプできるかな?」


「大丈夫、あたしちゃんとテントの張り方とか焚火の組み方とかリサーチしてきた。YouTubeでばっちり。」


「まじで。菜月さすがすぎるって。」


二人の笑い声が狭い車内に弾ける。


その時、カーナビの画面の隅で、赤い旗が一瞬ちらりと揺れた。

二人とも、その微かな変化にはまだ気づいていなかった。


***


中央自動車道を降り、市街地を抜ける。

山の中に入っていくにつれ、電波が少しずつ不安定になっていく。


「あ、また圏外になった。携帯のマップ使えないや。」


「おっけー。カーナビだと…あともう少しかな?いよいよ山の中って感じだね。」


玲奈が微笑みながらウィンカーを出す。

山道に入ると、舗装が途切れ、タイヤが砂利を噛む音が車内に響いた。


「……結構辺鄙な場所にあるんだね。」


「まぁキャンプ場ってそんなもんなんじゃない?…あ、あれかな?」


木々のトンネルを抜けた先に、ぽつんと開けた広場が見えた。


簡単な木製の看板に、

《 キャンプ場はこちら

    ようこそ 桐宮様 大津様 》

とペンキで書かれている。


「え、うちらの名前書いてくれてんだけど。すごくない?テンション上がるー。」

玲奈の明るく屈託のない声が、静かな空気を破る。


「…ほんとだね、すごい。」

菜月はいつまでも子供のようにはしゃげる玲奈のことを羨ましいな、と思った。


車を降りると、湿った風が肌を撫でた。

木々の隙間から、薄い霧が流れてくる。鳥の声が、遠くで小さく鳴った。


「着いた~。いやー、まさに大自然って感じだねー。」


玲奈が両手を広げて笑っている。


菜月は一歩遅れてその背中を見つめる。

視界の端には、整えられすぎた地面。

焚き火跡も足跡もなく、テントを張るための場所だけがきれいに均されていた。


「…他のお客さんたちって、まだ来てないのかな?」


「そうみたいだね。予報だと天気悪かったし、もしかしたらキャンセルとかしてるのかも。もう、貸し切りみたいなもんじゃん!

 …あ!てかあれじゃない?うちらのエリア」


玲奈が指さす先を見ると、《 桐宮様 大津様 》と書かれた札の近くに、二人分のキャンプ道具が、きちんと整列して置かれていた。


「えーっと、テントに…寝袋…薪とか木炭とか着火剤もちゃんとあるね。

 食材とか、飲み物まで入ってる!すごい、至れり尽くせりってやつだ。」


「これ、受付とかしなくていいのかな?スタッフの人、どこにいるんだろ…」


「きっと人件費削減だよ。世知辛いね~。さ、さっそく組み立てちゃお!」


菜月の不安もお構いなしに、玲奈はせっせと説明書を開いていく。


菜月は小さく息を吐き、視線を空へ向けた。

いつの間にか、さっきまで晴れていた空に、薄い雲が一枚、静かに広がり始めていた。


***


初心者の二人がテントの組み立てや火起こしに手こずっているうちに、辺りはすっかり薄暗くなっていった。


焚き火の明かりと煙の匂いに包まれていた菜月はすっかり時間も忘れ、晴れやかな気持ちになっていた。


日も沈みきり、焚き火の赤がぼんやりと周囲を照らす。

心地よい疲労感の中で焼いた肉とビールを楽しんでいた頃、突然背後から声がした。



「こんばんは~。私たちも、まぜてもらってもいいですか?」



振り向くと、二人組の女性が立っていた。

年は菜月たちよりいくらか年上に見える。

焚き火の赤が、二人の頬を同じ角度で照らしていた。


二人とも、満面の笑みを浮かべてこちらを見つめている。

揃ってネイビー色のジャンパーと朱色のマフラーを纏っており、この時期にしてはやや厚着だ。



いつの間に近くまで来ていたんだろうか。

けれど、そんなことよりも───自分たち以外にも客がいた、それも女性客、という事実に菜月たちは安堵し、彼女たちを温かく迎え入れた。


「え、もちろんです!今日貸し切りみたいでちょっと寂しかったんですよ!」

「ぜひぜひ!まだお肉もビールも残ってるので、一緒に食べましょ!」


「ありがとうございます~。私たちもちょっと寂しかったので、つい話しかけちゃいました。嬉しいわねぇ。」

「うん、こんなに若くて綺麗な女の子に来てもらえるなんて。ねぇ、真由美。」


二人の笑顔は明るすぎるほどで、焚き火の光に照らされたその口元だけが、妙に動いて見えた。


「私、真由美っていいます。こっちは直子。お二人はお友達ですか?」


「あ、はい、そうです。大学からの友人で。あたし、玲奈です。」


「玲奈さん、お綺麗ねぇ。宮沢りえにそっくりだわ。」


「え、宮沢りえですか?初めて言われました、似てるかな?」


25歳の女子に出す例えとしてはおかしいだろ、と菜月は苦笑しつつ続けた。

「あたしは菜月っています。お二人はよくキャンプされるんですか?」


「いえ、私たちも初めてで。全然勝手が分からなくて。」


「え、うちらも初めてなんです。菜月なんてテントの組み立て方調べてきたっていうのに、いきなり間違えちゃって、最初からやり直しになって…」

「ちょっと、それ言わなくていいでしょ。」


焚き火の火花が、ぱち、と弾けた。

笑い声がそれに重なり、夜の空気に溶けていく。


「玲奈さんと菜月さんはおいくつなんですか?」

真由美が尋ねる。


「あたしたち、今25です。」


その瞬間、真由美と直子の口角がわずかに上がったような気がした。


「あら、素敵ねぇ。私たちもう30歳だから、羨ましいわぁ。」


菜月は一瞬、返事に詰まった。

というのも、二人の雰囲気や目尻の皺の深さ、喋り方から、30歳というにはあまりにも歳月を感じたからだ。


「いやいや、30歳なんてまだこれからじゃないですか~。」

その一方、玲奈は呑気に笑いながら缶ビールを傾けていた。


「それにしても、自然っていいな~。うちら普段ずっと東京にいるから、こんなおいしい空気、全然吸えないんですよ。もう、ずっとここにいたいくらい。」


玲奈の頬が赤く染まる。

菜月がふと視線を戻すと、真由美と直子の前に置いた肉もビールも、まったく減っていなかった。


「お二人は、恋人はいらっしゃるの?」


「あ、恋バナしちゃいますー?あたし、ついこの間付き合ったばっかりなんですー。」


「あら、そうなの。それは良かったわねぇ。いい人?」


「はい、とっても優しくてステキです。」


「いいわね。」

直子が、ゆっくりと頷いた。

その笑みの角度が、焚き火に照らされてわずかにずれる。


「でも、世の中には悪い男の人もたくさんいるから、気を付けないとだめよ。」

真由美の声はやわらかいが、目の奥は焚き火の光をまったく映していない。


「えー。彼は大丈夫だと思いますけどー。」


「ふふふ。安心したわ。…菜月さんは?」


「…私は、ここ数年いないです。」


「あら、そうなの。」

真由美は口元をゆるめた。

笑っているのに、目だけが笑っていない。

「菜月さんにもきっと、いい人がいると思うわ。ふふふ。」


その声に合わせるように、直子が焚き火の炎を見つめながら小さく繰り返す。

「ええ、きっと。きっとね。ふふふ。」


真由美と直子の笑い声が、少し遅れて耳に届いた。


「お二人のお話も聞かせてくださいよ~。」


「私たちのことなんていいのよ。玲奈さんのお話をもっと聞かせて。」


火の粉がはぜるたび、その笑いが空気の奥で反響しているように感じた。

まるで、違う場所から聞こえているみたいに。


***


そこからは小一時間ほど、恋バナの他、菜月と玲奈の仕事の愚痴で軽く盛り上がった。

焚き火の火はだんだんと小さくなり、炎の先が灰色に溶けていく。


菜月はふと携帯の画面に目をやると、時刻は20時を回っていた。


その瞬間、画面の隅で通知が光った。

電波のマークが、ひとつ、ふたつ、三つ……と立ち上がる。

まるで、何かの合図のように。


電波が戻っている。そして、一通のメールが届いていたことに気が付いた。


中身を確認すると、菜月は自分の目を疑った。





《桐宮菜月様  お世話になっております。富士BASE CAMPです。

 本日10/11(土)から2名でのご宿泊で予約を承っておりましたが、まだチェックインのご確認が取れておりません。

 スタッフの方で確認もさせていただいたのですが、お二方ともまだ到着されていないようで御座います。

 尚、当日キャンセルは宿泊料金の100%を──────》





「…は?」


何度読み返しても、文章の意味が理解できない。

私たちが、まだ到着していない?何かの手違いではないか。


心臓の鼓動が高まる。いやな予感がする。


手のひらが汗で滲む。今度はマップのアプリを開く。

急いで検索欄に「富士BASE CAMP」と打ち込む。



読み込みの輪がゆっくりと回転し──やがて、止まった。





画面の中央に浮かぶ赤いピン。「富士BASE CAMP」と示されたそれは、





──────現在地から数キロも外れた場所に刺さっていた。





背筋を、氷のような感覚が這い上がる。


震える指で、「現在地」をタップする。


私たちのいる「現在地」は、周囲に何の表示もない、緑一面の中で点滅していた。


道も、施設も、何もない。


ただ、濃い緑の輪郭だけが滲むように広がっている。






─────────この付近に、キャンプ場は存在しない。






「なに、これ…」


喉が焼けるように渇いていく。

思考が次々と弾け、ばらばらに散って、また繋がり始める。




カーナビの目的地を示す旗の位置。


我々の名前だけが書かれていた看板。


三連休にも関わらず、閑散としていた広場。




いや、それだけじゃない。


ここがキャンプ場でないなら、あの二人は─────何なんだ?



声をかけられたときの光景が、急に脳裏で再生される。

焚き火の向こうから近づいてきた二人。

その笑顔。

煙の揺らめきで見え隠れする頬の影。

どこか、濡れたように光っていた。



真由美と直子は、キャンプが初めてと言っていたはずだ。


それならば、あの発言はなんだ。



──────「こんなに若くて綺麗な女の子になんて」


“来てもらえる”という響きが、遅れて胸の奥に沈み込む。

"来てもらえる"──どこへ? 誰のために?


冷たいものが、喉から腹の底へと落ちていく。


菜月は、無意識に玲奈を呼んだ。


「ねぇ玲奈、これやばいかも…」

顔を上げた瞬間、息が詰まった。




焚き火の向こうで、真由美と直子がこちらを見ていた。



二人は、全く同じ角度で首を傾けていた。



焚き火の炎が、その顔を下から照らす。

その光の中で、二人は“笑っていた”。


けれど、それは笑顔ではなかった。


唇は裂けるほどに吊り上がり、頬の筋肉は微動だにしない。

口角が引きつって、皮膚の下で筋が浮かび上がっている。


まばたきを忘れた目は、乾いた硝子のように白く濁っていた。

炎の赤を反射した歯が、ぬめりを帯びて光る。



まるで、笑った瞬間の顔だけが時間から切り取られたみたいに、そこに、貼りついていた。



菜月は咄嗟に玲奈の手を掴み、立ち上がった。


「ねぇ、どうしたの」

「いいから、逃げないとやばい」


思考より先に身体が動いていた。

椅子を倒し、足をもつれさせながら玲奈の手を掴む。二人は闇の中へ駆け出した。


風を切る音、枝を踏む音、荒い呼吸。

背後から、誰かの笑い声が重なって追いかけてくる。

低く、湿った声。


まるで、森全体が笑っているようだった。


どれだけ走ったか、分からない。

背中に冷たい風がまとわりつき、肺が千切れそうになる。



そのとき──玲奈が急に前のめりに倒れた。


「玲奈っ!」


菜月は息を切らしながら駆け寄る。

手を差し伸べようとした瞬間、足元の地面に違和感を覚えた。


靴の先が、何か硬いものを蹴った。見下ろす。




──白。




灰と月光の狭間で、それは静かに光っていた。


形を保ちきれないほど崩れかけた────────人間の骨。

片腕が土から突き出し、まるで助けを求めるように空を掴んでいる。



「……なに、これ……」


玲奈の唇が震えた。



その骨の奥、黒く空いた頭蓋の隙間に──朱色の布が絡まっていた。


菜月の脳裏に、あの朱色のマフラーがよぎる。


次の瞬間、耳元で声がした。




「ありがとねぇ……来てくれて。」




反射的に振り向いた。


闇の中に、真由美と直子が立っていた。


先ほどと変わらぬ笑顔。ただ、その笑顔が、月光の中でわずかに軋んでいる。


歩いてくる。音もなく。霧のように。


あの朱色のマフラーは、もうしていなかった。


────その代わり、二人の首筋には、指の形をした深い痣が浮かんでいた。

皮膚の下から滲む黒い血の色が、夜気に透けて見える。




「私たちねぇ…昔、ここで殺されたの。」




声が、笑っているのに泣いているようだった。

風の音とも、息の音ともつかない、湿った響き。

闇の温度が、少しずつ近づいてくる。


「直子と二人で旅行に来ていたの。

 でも……途中で、知らない人たちに捕まって。 ここに連れてこられてね。

 何が何だか分からないまま、殴られて、縛られて、踏みにじられて……そのまま、殺されたの。」


その声が、どこから聞こえるのか分からない。

前からも、後ろからも、頭の中からも。


まるで、空気そのものが語っているようだった。


「ひどい話だと思わない?私たち、何も悪いことしてないのよ。

 誰にも迷惑かけないで、普通に生きて、普通に暮らしていただけ。

 それだけだったのに。


 なのに──どうして私たちだけが、こんな目に遭わなきゃいけなかったんだろうねぇ。」


風が吹いた。枯れ葉が舞い上がり、二人の足元を通り抜けて消える。

だがその身体は微動だにしない。


「もっと生きたかった。美味しいものも食べたかったし、恋だって、もっとしてみたかった。

 …私たちの未練が強すぎたのかしら。

 どういう理屈か分からないけどね、魂も、肉体も、この世に置き去りにされてしまったの。」


真由美と直子の笑顔が、焚き火の残光に照らされて赤く歪む。

熱を持たないはずの炎が、二人の顔の内側で燃えているようだった。


「でも、今のままじゃどうすることもできない。この場所からも出られない。

 ただ、時間だけが過ぎていく。誰も来ないまま、何十年も。



 …だから、必死に願ったわ。"代わりになってくれる誰か"が来てくれないか、って。

 あれからずっと。

 ずーっと。

 ずぅーっと。」



その目が、菜月たちをまっすぐに射抜く。

白目が炎を映し、そこに小さな二人の姿が揺れていた。

光と影の境界で、笑みと涙が溶け合っていく。


「…神様、最後の最後は、私たちを見捨てなかったのね。

 こんなに、若くて綺麗な女の子を導いてくださるなんて。」


二人の笑みがゆっくりと崩れ、肌の色が紙のように白く変わっていく。

唇が裂ける音が、静かに夜を切り裂いた。



「本当に、来てくれて、ありがとねぇ。」



菜月は何かを叫ぼうとしたが、声が出なかった。

代わりに、胸の奥へ氷のような冷気が流れ込んでくる。

それは血管を伝い、心臓の奥をゆっくりと冷やしていった。



「あなたたちの人生──私たちが、幸せに生きてあげるからねぇ。

 直子。私、菜月さんにするわ。すごく賢そうだし。


 …それに、あなたたちもずっとこの場所にいたいんでしょ?

 お互いに、幸せねぇ。」



その声はもう、耳からではなく、頭の中で響いていた。


闇が、口の中まで満ちていく。


焚き火の残光が最後の一度だけ弾け、

火花が、夜空の奥に吸い込まれた。


世界が静かに、暗転した。


***


山梨県のキャンプ場に一台のミニバンが入っていった。

柳井和希は、妻と娘の日奈を連れて久々の家族旅行に来ていた。


「パパ、今日ってあたしたちだけなのかな?」

日奈が、テントを組み立てながらつぶやく。


「うーん、そんなことないと思うよ。連休だし、もう少ししたら他の人も来るさ。」


風が木々の間を抜けていく。

澄んだ空気の中に、どこか焦げたような匂いが混じっていた。


和希は鼻をひくつかせながらも、特に気に留めなかった。

そのとき、背後で小さな声がした。



「……こんにちは~。」



振り向くと、すぐ近くに二人の女性が立っていた。

二人とも、同じネイビーのジャンパーを羽織り、焚き火の赤を映したような満面の笑みを浮かべている。


笑顔の形が、どこか奇妙に似通っていた。

頬の筋肉が動かず、目だけが静かに、まばたきもせずこちらを見ている。





「私たちも、まぜてもらってもいいですか?」



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