優等生のレール(短編)
比絽斗
境界線
高校3年生の夏を境に、恋人は単なる顔見知りになった
佐倉 悠太と高遠 葵は、高校2年2組のクラスメイトだった。
悠太はサッカー部のレギュラーで、クラスの中心にいる「陽」の人間
成績は下から数えた方が早く、将来は地元の工場で働きながら、いつかこの海沿いの街を出ることを漠然と夢見ていた。
一方の葵は、成績トップの図書委員。「優等生」のレールを外れることは許されない、厳格な家庭の期待を背負っていた。
彼女の未来は、既に決められていた。
二人の間にあるのは、「顔見知り」という、挨拶すらしない薄い境界線だけ。それが、8月の猛暑が始まるまでの二人の関係だった。
潮風とガソリンの匂い
8月20日
地元の小さなロックフェス。
悠太が友人と離れ、海辺のベンチで涼んでいた時、酔っぱらいに絡まれる葵の姿を見つけた。
いつも完璧な彼女が、珍しく弱った顔で俯いていた。
悠太は反射的に間に割って入り、相手を追い払った。
葵は、冷たい潮風の中で、初めて悠太の前で泣いた。
その涙は、
彼女が背負う重い「レール」の緊張から解き放たれた、一時的な解放の印だった。
その夜、
誰もいない砂浜で、彼女からの初めてのキスがあった。
塩気と、祭りの熱気と、ガソリンのような、青春の危うい匂いが混ざったキス。
夏休みだけの「アトランティス」
その日から、二人の秘密の夏が始まった。
悠太は、父がもうすぐ廃車にする予定のボロいブルーバードのキーを、父の目を盗んで持ち出した。
車検切れが近く、公道は走れない。
だが、悠太は、父の「エンジンをかけとけ」という言葉を盾に、夜中に自宅から車を出し、人目につかないベイサイド・ドライブインの廃墟まで、無免許運転というリスクを冒して移動させた。
彼らが車内で過ごした時間は、誰にも見つからない、水面に浮かんだ「アトランティス」だった。
古いカセットテープのオールディーズを聴き、窓を開けて潮風を受け、将来の夢と、叶わない恋の話をした。
しかし、このアトランティスには、期限があった。
「学校が始まったら、一旦元に戻ろう。…私たちが壊れる前に」
葵の瞳には、いつも切なさと諦めが混じっていた。
フェンス越しのアトランティス
8月31日
夏休み最後の日
深夜1時
校庭のフェンスにもたれ、悠太は葵に訊いた。
「明日から、どうするつもり?俺がお前に話しかけても、無視するのか?」
「…そうなる。私は、あなたのことを見て見ぬふりをする。あなたは、私のことを見ても何も感じないフリをする。それが、私たちの約束」
葵は、小さなマッチ箱を取り出し、言った。
「夏の思い出を、この火で全部焼いて、灰にして、風に乗せよう」
悠太は、燃やすことを拒否した。彼は地面に落ちたマッチ箱を拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。
「アトランティスは燃やさない。沈めるんだ。俺が、この箱と一緒に持っていく」
葵は驚きながらも、冷たく言い放った。
「…勝手にすれば。でも、忘れないで。明日から私たちは、顔見知りよ」
彼女は、振り返らずに去った。悠太は確信していた。この夏、俺たちは、単なる顔見知りには戻れない場所まで行ってしまったのだと。
フェンスを隔てた距離
9月1日
新学期初日
葵は、完璧な「高遠 葵」に戻り
悠太の机から10歩の距離。
彼女の横顔には、あの夏の熱の痕跡はなかった。
悠太と視線がぶつかると、すぐに逸らされた。
昼休み、悠太は屋上へ向かった。
「…そんなところで、何してるんだ、高遠」
「…どうして私に話しかけたの?約束、忘れたの?」
悠太はマッチ棒を二つに折り、彼女に突きつけた。
「アトランティスは燃やさない。沈めるんだ。俺が、この夏を、お前の人生の『荷物』にでもなんでもしてやる」
葵は涙をこらえ、本音を漏らした。
「理由を作ったら、あの夏が、アトランティスじゃなくなる」
彼女は、二度目の拒絶を突きつけ、冷たい「クラスメイトの表情」に戻って去っていった。
葵のレールの軋み
数日後
葵の「建前」は、第三者の介入によって軋み始める。
サッカー部キャプテンの工藤 健人が、葵に話しかけてきた。
彼は、悠太と葵の間にある
「終わったもの」に気づき始めていた。
「佐倉、夏休み明けから、やけに車に詳しくなってさ。…何か、高遠さんに関係あるのか?」
葵は無関心を装うが、内心はパニックだった。彼女が悠太を拒絶したのは、彼の未来のレールを邪魔しないためでもあった。
悠太が、自分との関係でリスクを冒し、周囲に動揺を与えていることに、彼女は罪悪感を覚えた。
レールの崩壊
葵の勉強の集中力が限界を迎え、成績に影響が出始め、親や先生からのプレッシャーが強まる。
夜、葵は自室で、悠太がブルーバードで聞いていたカセットテープのケースを取り出した。彼の言葉が脳裏をよぎる。
「俺の未来は、お前と一緒にいないと、何の意味もない」
カセットテープの告発
喧嘩を交わした工藤は、悠太に警告した。
「これ以上、高遠さんの周りを荒らすな。お前は、彼女の未来を邪魔する資格はない」
しかし悠太は、この関係を終わらせることを拒否した。
土曜日
午前授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始める中、教室全体に場違いな音楽が鳴り響いた。
「♪...She's got that look, that makes my world go 'round...」
それは、
二人が初めてキスをした夜に流れていた、
『ATLANTIS RADIO 1985』のオールディーズだった。
悠太は、ラジカセを使って、公衆の面前で秘密の恋を「告発」したのだ。
廊下に逃げ込んだ葵を追いかけ、悠太はマッチ箱を突きつけた。
「どうしたいんだ?俺は、もうお前をこれ以上、孤独にさせたくない。俺が、お前が守りたい『レール』を全部ぶち壊してやる」
葵の本音が噴き出す。
「怖いのは、あなたが、私と関わったせいで、夢を諦めてしまうことよ!私との恋は、あなたの荷物になる!」
悠太は、カセットテープを葵の手に握らせた。
「俺のレールは、お前が作ったんだよ」
そして彼は、最後通牒を突きつけた。
「高遠さん。放課後、いつもの場所で待ってる。来なかったら、この学校で、あのカセットテープの続きを流す」
沈まなかったアトランティス(クライマックス)
午後5時15分
葵はベイサイド・ドライブインの廃墟へ向かった。
悠太は、静かにブルーバードを停車させ、エンジンをかけたまま待っていた。
葵は、「もう二度と、この車を動かせない」と告げ、
別れを選んだ。
悠太は、マッチを擦り、火をつけた。
「全てを燃やして、本当に顔見知りとして生きるか。それとも…」
葵は、彼のマッチ箱を奪い、自分の鞄の奥深くにしまい込んだ。
「燃やさないで。…沈めて」
そして、彼女は最後の誓いを告げた。
「私たちは、明日からまた、完璧な顔見知りに戻る。
…だけど
このマッチ箱を、私が持っている限り、アトランティスは沈んだまま、消滅はしない。あなたが、いつかこの街を出て、迎えに来てくれるその時まで。
…私のレールが、あなたの唯一の目的地になるその時まで」
悠太は、彼女の決意と愛の深さに打ちのめされた。
葵は、彼に、自分の鞄から古いブルーバードのキーホルダーを抜き取り、手渡した。
「じゃあね、悠太」
彼女は、夏に見せた最も悲しい笑顔を向け、夕闇の中に消えていった。
マッチ箱の重さ
卒業までの5ヶ月
二人は、完璧な「顔見知り」として過ごした。
悠太のポケットには、葵のマッチ箱ではなく、ブルーバードのキーホルダー。
それは、彼が「迎えに行く」という夢を叶えるための、エンジンの鍵となった。
彼は、葵の愛を「燃料」にし、一心不乱に勉強し、東京の大学への合格を掴み取った。
葵の鞄の底には、マッチ箱と、折れた二本のマッチ棒。彼女の「レール」は、彼を迎え入れるためのホームとなった。
毎日、悠太の視線を避ける孤独な日々の中で、彼女の心臓は、沈んだアトランティスの目印であるマッチ箱の重さを感じ続けた。
卒業式の日。
二人は、一瞬だけ視線を交わした。
それは、「了解」という、静かな共犯関係の印。
悠太は東京行きの夜行バスへ
葵は、一人、ベイサイド・ドライブインの廃墟へ。
二人のほろ苦いラブストーリーは、「沈黙」という名の終わりを迎えた。彼らの青春は、いつか、沈んだアトランティスを再び浮上させる日を待って、静かに続いていくのだった。
優等生のレール(短編) 比絽斗 @motive038
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます