噛めば、ほどける
うしき
懐かしい味
昼下がりのレストラン。奥の厨房からは油が弾ける音が子気味良く響く。肉が焼ける香ばしい匂いが店内に漂う。料理が運ばれてくるのを待つ間、佐久間は店内の様子をシャッターに収めた。タウン誌の取材で訪れた小さなフレンチの店だ。同行した中年の編集者は、クリスマス特集の記事を書くためにメモを取っている。
一通り店内を撮ると、佐久間は手にしたカメラを眺める。以前の物より小さく、軽いがフリーのカメラマンにしては高額な買い物だった。
さっそく付いた小傷に眉をひそめていると、編集が声を上げた。
「わぁ、おいしそう。ね、佐久間さん。ほらほら」
中年男の声援を受けながら、メインディッシュが運ばれてきた。地元産牛肉のステーキ。「他の料理もお持ちしますね」と言ってシェフが下がる。ファインダー越しに赤く艶めかしい輝きを放つ肉汁を覗き込むと、レンズの向こう側から濃厚な香りが漂う。
前にこんな料理を食べたな。ずいぶんと昔の話だが、あれは妻と出かけた時。やはりクリスマスディナーだったかな。
佐久間がぼんやりと思いを馳せている間に、テーブルの上には次々と料理が運ばれてくる。この店のクリスマスディナーのコース料理だ。メインのステーキを取り囲むように、色とりどりの料理が行儀よく収まっていく。
「佐久間さん、こっちからも撮って。あ、このバゲットも少しアップで」
指示を受けながら佐久間はシャッターを切る。だが、カメラが発するその音は、どこか味気ない。被写体に対して、あまりに無関心なようにすら聞こえた。
佐久間の手ごたえとは裏腹に、液晶に映し出された料理はまずまず美味しそうに見える。編集に確認を取ると「美味しそうに撮れてる。さっきお昼ご飯食べたのに、お腹すいてきた」と返事に満面の笑みを添えてきた。
「よろしければ、こちらはお二人で召し上がってください」
シェフがそう言うと「いいんですか」と編集はわざとらしく驚きながらナイフとフォークを手に取った。味見も取材のうち、と言わんばかりだ。
「佐久間さん、お肉食べる?」
「いや、昼飯食ったばかりなんでそんなには……。どうぞ、食べてください」
その言葉を聞いて、編集は口角を上げて肉にかぶりついた。「おいしい、柔らかい」その声だけで、十分に味わいが伝わってきた。このままではワインまでねだりかねないな、と佐久間は苦笑いを浮かべた。
佐久間の言葉は半分は本当だが、半分は嘘だった。確かに満腹ではあったが、この旨そうな肉が入らない程ではない。ただ、何となく気が乗らなかったのだ。
コース料理の大半を平らげ、上機嫌の編集とともに店を後にする。外は午後の日差しがまぶしく、西日を受けて銀杏の葉がきらきらと輝いていた。レトロな外車のトランクを開けて機材を放り込む。
「会社に向かって良いですか?」
「ああ、いつも通りで」
助手席の編集は、スマホを見ながら答える。外注でやってるんだから、これくらいの送迎はいつものことだ。
「佐久間さん、この車に乗ってずいぶん経つよね」
「えぇ、まぁ。愛着があって、なかなか手放せないんですよ」
秋風の中で愛車を走らせながら、佐久間は答える。だが、それも半分は嘘だ。
食い意地の張った同乗者を降ろしてから、今度は自分の事務所へと向かう。事務所と言えば聞こえは良いが、倉庫兼寝床と言うのが実情だ。名刺にはスタジオと印刷されているが、実際は安いテナント物件に少し手を入れただけだ。
帰り着いた事務所には、昼の熱がまだ残っていた。ブラインドの隙間から入ってくる緋色の光線が、ビニールの床に模様を描いている。
カップにインスタントコーヒーを入れる。ポットのお湯は朝に沸かしたっきり、すっかり冷めているが気にせずに注ぐ。わずかに湯気が立つものの、香りのしないコーヒーを佐久間はすする。苦味だけが舌に残った。
応接用のソファに腰掛け、室内を見渡す。壁に掛けられたカレンダーは、未だに先月を生きていた。ブライドの向こう側で、風に揺れる木が見える。
真正面から射す陽の光に目を細めながら、佐久間は昔の事を思い返していた。オレンジ色の秋の日差しは、何故か古い記憶を呼び起こす。
淡く暖かな照明の中で、あんなステーキを食べたんだ。大した店じゃなかった。でもドレスコードを気にして、ネクタイまでした姿を見て、あいつは笑ってた。「カッコつけすぎじゃない」って。
ふふ、と佐久間の口元が緩む。懐かしい、まだ自分自身が光を放っていた頃の思い出だ。もう十年も経つだろうか。
カメラマンとして独り立ちした頃、たまたま大きなコンテストで入賞して、それを見た大手の出版社からたまたま仕事を貰えた。それに気をよくして、車も買ったし、結婚もした。結婚する直前のクリスマス、あいつをサプライズでディナーに連れて行った。あの頃はいつだって胸が弾んでいた。
その後しばらくは上手くいって、この事務所も構えた。だけど、たまたまなんて物はそう続かない。今じゃ細々と食つなぐのが精一杯だった。自分自身の凋落から目を背けるように、佐久間が妻と連絡を取らなくなって一年近い時が流れていた。
あの日々の中で、妻はなんと言っていたっけ。佐久間はもう一口、コーヒーをすすった。
「あなた、写真を撮るのに夢中で、ご飯も食べないんだから」
ふわっと漂った苦味と共に、妻の声がふいに頭の中で響いた。笑顔を見せる妻は、続けてこう言う。
「私は、あなたのご飯作って、待ってるわよ」
妻は、美咲はいつもそう言っていた。子どもみたいにカメラに没頭して、いつまでも帰らない佐久間を笑顔で見守りながら。
美咲は、まだそう思ってくれているだろうか。
佐久間はおもむろにスマホを取り出して、履歴の遥か後方へと追いやられたその名前を手繰り寄せる。この時間はまだ仕事中だろうか。一瞬、指先は宙で弧を描くが、意を決して発信と書かれた場所を押した。
コール音が一回、二回「もしもし」思いがけず飛び出した美咲の声に、佐久間は反応できない。「あ、え」なんて、言葉の出来損ないが口元を行き来するのが精一杯だった。
「もしもし。どうしたの」
心臓の鼓動が、佐久間の耳にうるさい程響く。唾を飲み込み、口を開く。
「今日は、仕事じゃ、なかったのか」
「今日は有休とったの。ちょっと用があったから」
佐久間がなんとか絞り出したセリフを、美咲は軽々と打ち返す。
「あなたの方こそ、どうしたの」
「あ、いや。あのさ」その後が続かない。佐久間は笑顔とも苦悶ともつかない表情になる。その間、美咲は黙って次の言葉を待っている。
「今日、帰ってもいいかな」
肝心の気持ちが、ようやく声になる。
「いいわよ。あなたの家じゃない」
美咲はさも当然のように答える。佐久間の心が、すっと澄んだ。
「じゃあ、荷物片づけたら帰る」
「わかった。待ってるわ」そう美咲は返事をした。そして、少しの沈黙。
「あのさ」佐久間は外の傾いた太陽を見ながら切り出した。「今日の夕飯、何かな」
「そうね」美咲が逡巡する顔が浮かぶ。佐久間は何となく顔がほころぶ。
「ハンバーグ」その声を聞き、また佐久間の口元が緩んだ。
「わかった、楽しみにしておく」
「じゃ、あとでね」
久方ぶりの夫婦の会話は、それで終わった。スマホを置いて、佐久間はカップに残ったコーヒーを飲み干した。そして美咲の作るハンバーグを思い出して、笑みを浮かべた。
あのハンバーグは玉ねぎが大きいんだ。ごろっとして食べ応えがあって。肉汁と玉ねぎの甘さが良く合う。そして何よりも。
佐久間は空になったカップをもう一度口元へ運ぶ。そして名残惜しむようにして、最後の一滴を飲み込んだ。
美咲のハンバーグは、何よりも量が多いんだ。皿いっぱい。何段にも積み上げられたハンバーグを思い出して、佐久間はふふ、と笑った。それでも、どれだけだろうと食べられる気がした。
機材の片付けも早々に、佐久間は事務所を出た。暖かさの消えた風に身を切られながら車に乗り込むと、助手席にカメラを放り投げた。今日は何となく持っていたかった。
最近は通ることも無かった自宅へと続く道を走る。遠くの山は、頂に薄っすらと白い物を被せている。冬は近い。
その途中、佐久間は「お」と声を出し、思わずブレーキを踏んだ。後ろを走っていた車がクラクションが鳴らしながら、横を走り抜けていく。
カメラを握りしめ、佐久間は車から降りた。その眼前に広がっていたのは、遅咲きのコスモスだった。紅葉の山々を背景に、濃淡様々な花が咲く風景。佐久間はゆっくりと、静かにファインダーを覗く。
いつだったか、こんな景色を見ていた気がする。ふと、頭をよぎるが、心地いいシャッター音がそれをかき消した。佐久間はシャッターを切り、景色を切り取った。何度も、何度も。
噛めば、ほどける うしき @usikey
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