玄冬の英雄

Black river

玄冬の英雄

 目を開けるといつも通り、白い天井とクリーム色のカーテンがあった。既に日は昇っているようだ。体を起こし、そっと窓を覗く。

 目覚めの色が残る空、若葉をつけた街路樹、歩道を行くサラリーマン。

 それらの上を、やや場違いな原色がスッと横切る。引っ張られるようにそちらに目を向けると、赤いマントをはためかせた後ろ姿が、遠くへ飛び去っていくところだった。

「朝早くから大変ね」

 はるか年下であるはずの彼の苦労を思い、そう呟く。かつては私も、彼と同じだった。

 悪と戦い、人を助ける。

 皆はその仕事を『ヒーロー』と呼ぶ。


 午前九時、看護師の桜井が顔を出した。

「松山さん、おはようございます。お加減いかがですか?」

「おかげさまで今日は調子が良いわ」

「良かったです。もうすぐ退院ですもんね」

 彼女はベッドの周りをてきぱきと忙しく動いて、私の脈を取り、体温を測った。

 そろそろ体調が下り坂に入る歳とはいえ、胃に腫瘍が見つかった時は驚いた。ステージが低く、リスクの少ない状況で手術できたのが不幸中の幸いだ。ヒーロー時代に加入していた保険のおかげで、医療費もそこまで高額にはならない。

 だが、そんな制度面の話はさておき、私は未だに、あの頃の自分が本当にヒーローであったのか、確証が持てない。

 かつて私は、誰にでも変身できる能力を使うヒーロー『ホワイトゴースト』として活動していた。主な仕事は、文字通り幽霊のごとくあちこちに入り込むこと。

 いくつもの犯罪組織や悪徳企業に潜入し、内側からじわじわと崩壊に導いていった。

 潜入任務専門の私は、素顔を晒すことも、表に出ることも御法度だった。

 仲間のヒーローが子ども達から羨望のまなざしを浴び、カメラのレンズを向けられる様子を物陰から見るばかり。私のヒーロー人生は、ただ粛々と、社会の暗部を葬ることだけに終始していた。

 きっと私の働きで救われた人もいたのだろう。約十数年間、ホワイトゴーストは必要とされ続けたのだから。

 だが、同時に私は孤独だった。

 誰かを助けて「ありがとう」などと言ってもらったことは、一度も無い気がする。

 その一方で、顔を知られていないからこそ、こうして平穏な入院生活を送ることができている。もう全身の細胞を操りながら誰かに成り代わる必要も無い。後はゆっくり、本来の松山千代子としての人生を全うするのみだ。

 病院はまもなく退院できそうだが、やさしい主治医や笑顔が素敵な看護師とも会えなくなるのかと思うと、なんとなく名残惜しい。

「なんなのさ!みんなして、あたしのことを馬鹿にしてるんだろ!」

 いや、前言撤回だ。やはり早く退院したい。

 何日か前に向かいのベッドに入った峰川という患者は、少々面倒だった。

 おそらく私より高齢の女性だが、看護師や医師、周りの患者への当たりがやたらとキツい。

「みんなそうやって私のこと笑ってるんだ!何もできないと思ってさ!分かってるんだよ!」

 被害妄想に取り憑かれていて、相手の些細な言動もすぐ悪い方に捉えてしまうらしい。

 一昨日部屋の入り口ですれ違った時、「今あたしを見て笑っただろ!」といきなり因縁をつけられた。たまたま通りがかった看護師が間に入ってくれたからよかったものの、会う度に怒鳴られては敵わない。

 だから普段は極力カーテンを閉め、彼女と目が合わないようにして過ごしている。

 どうせ、後少しの辛抱なのだ。


 午後、気分転換に談話室に座って本を読んでいると、座っているテーブルの向かい側にふと誰かが立った。

 顔を上げると、私よりも少し年下らしい白髪混じりの男性が立っていた。

「あの、すみません。松山さんですよね?304号室の」

「そうですが、あなたは?」

 知らない男性に話しかけられ、咄嗟に少し身構える。もう引退したとはいえ、昔の因縁がある何者かが入院先を嗅ぎつけ、御礼参りにやって来ることも十分ありえた。

「僕、峰川の弟の幸太と申します。姉がご迷惑をおかけしているみたいで、すみません」

「ああ、峰川さんの」

 体中の力がスッと抜ける気がした。確かによく見ると、目元のあたりが峰川とよく似ている。

「いやぁ、参りました。姉が大声で騒ぐもんで、看護師さんからもちょっと困ってるって言われちゃって。本当に皆様には申し訳ない」

 そう言って彼は深々と頭を下げた。

「いえいえ、そんな。お気になさらないでください。入院なんてストレスのかかることですし、峰川さんがその…デリケートなところをお持ちというのも、分かってますから」

「そうですか…ありがとうございます」

 幸太は幾分ホッとしたような顔になった。

「峰川さんはその…ご自宅でも、ああやって不安定になられたりするんですか?」

「そうなんですよ。実は」

 幸太は椅子を引いて座ると、私に顔を近づけて言った。

「姉は、若い頃に娘を事故で亡くしてるんです」

「あら、それは…」

「僕も当時は別で住んでいたので、詳しいことはわからないのですが。その事故っていうのが、どうも姉が目を離したときに起こったらしいんです。それであの人は周り、主に義兄の実家からとても責められて」

「まあ、それは辛いですね」

「その時からですね。自分が誰かにずっと攻撃されているという妄想に囚われるようになったのは。しばらくの間はましだったのですが、数年前に義兄が亡くなってから、またその思考が強くなってきて」

「そんなことがあったのね」

 私に詰め寄ってきた彼女を思い返すと、高圧的なのに、どこかおどおどした印象が抜けなかったのに気づいた。

「でも、気の毒ですね。ずっと自分を責め続けてるなんて」

「ええ、もちろんそれで皆様にご迷惑をおかけするなんて、あってはならないことなのは分かっています。これ以上ひどくなるようなら、個室への移動や転院も考えていますし。でも、ずっと罪悪感に追い立てられてきた姉の気持ちも、どうかご理解いただけないでしょうか」

 幸太は骨張った両手をテーブルについて、もう一度深く頭を垂れた。


 その夜、消灯時間が過ぎても私はまんじりともせず、ベッドで天井を見上げていた。

 自分の子どもを幼くして失うというのは、どんな気分なのだろう。きっと、喪失感などという言葉では言い表せない深い穴が、心にずっと口を開けているのだろう。

 加えて夫まで失った峰川が、さらに深い穴の底に引きずり込まれそうになっていることは、想像に難くない。

 これからも彼女は孤独に、自責の念に縛られたまま生き続けるしかないのだろうか。


 その時、不意に声が聞こえた。

「…ちゃん」

 峰川の声だ。だがそれは、昼の刺々しいものとは違う、とても柔らかくて、それでいて悲しげなものだった。

 じっとしていられなくなった私は、音を立てないようそっとベッドから滑り降り、裸足のままカーテンの外に抜け出した。

 病室は廊下から差し込む非常口の常夜灯で、ぼんやりと照らされていた。

 向かい側の峰川のベッドに近づくと、そっと彼女を囲うカーテンに耳を近づける。すると、また声が聞こえた。

「…ちゃん。サエちゃん、ごめんねえ」

 サエとは、娘の名前だろうか。

 カーテンに手をかけ、恐る恐る中を覗く。

 峰川は目を閉じて眠っていた。威勢の良い声の割に小さな体躯は、大きなベッドの片隅に嬰児のようにうずくまっている。

 ふと、サイドボードの上に一枚の古い写真があることに気づいた。峰川を起こさないよう、静かに手を伸ばして、それを掴む。

 写真には若い男女と、赤いスカートを履いたおかっぱ頭の女の子が写っていた。

 若い女性には、仄かに現在の峰川の面影がある。隣の男性は亡くなったご主人だろう。ならばこの小さな女の子が、きっとサエちゃんだ。

 彼女は両親の間に挟まれて、満面の笑みを浮かべていた。

「ごめんね。おかあさんが、手を離さなかったら」

 峰川の口がまた動いた。眉の間には深い皺が寄り、時折その目蓋がすべてを拒絶するかのごとく、ギュッと収縮する。

 私はもう一度、写真のサエちゃんを見た。彼女の手はふっくらと健康的で、母親の手をしっかりと握っている。

 今の自分にできるだろうか。

 いや、やらなければならない。目の前に苦しんでいる人がいるのなら。

 だって私は、ヒーローだから。

 私は大きく息を吸い、全意識を右手に集中させた。最近皺やシミが目立ち始めた手が、徐々に白く、小さくなっていく。

 さらに力を送り続けると、やがて私の手首から先は、写真のサエちゃんの手そっくりになった。

 久しぶりに、しかも急激に力を使ったせいで目眩がする。少しでも気を抜くと元に戻ってしまいそうだ。

 私は峰川に近づくと、布団から出ていた左手を掴んだ。彼女の体がびくりと震える。

「サエちゃん?サエちゃん?」

 細い小枝のような指が撫でるように私の手の上を滑り、優しく包み込んだ。

「おかあさんを、許して」

 夢うつつのまま手に縋り付く彼女に、何か言葉をかけたかった。だが、写真を見ても声を真似ることはできない。

 だから私は老いた母親の手を、ただひたすらに握り返していた。

 峰川の手がようやく緩み、自分のベッドに帰れたときには、窓の外が白み始めていた。

 シーツの上に倒れ込んだ瞬間、私は深い眠りへと沈み込んでいった。

 その途中、どこかで「ありがとう」という声が聞こえた気がしたが、眠気がそれを飲み込み、身体を急速に満たしていった。


「…つやまさん、松山さん」

 聞き覚えのある声とともに、私は眠りの淵から一気に引き上げられた。

「松山さん!気がつかれたんですね!」

 目を開けると、涙目の桜井と目があった。

「あら、桜井さん」

「あら、じゃないです!ずっと目が覚めないから、本当に心配してたんですよ!」

「目が覚めない…何の話?」

「何の話って、いきなり昏睡状態になって、そこから三日間も眠り続けてたんですよ」

「三日…そんなに?」

 能力を使うと体力を消耗するので、長時間眠ってしまうことは現役時代もよくあったが、まさか三日とは。久しぶりの無理が祟ったというところか。

「ごめんなさいね。心配をかけて」

「いえ、いいんです。ちゃんと目を覚ましてくださって、よかったです」

 私は桜井に支えてもらいながら身を起こした。ベッドには大仰な機械が横付けされていて、腕には心電図を測る装置が巻かれている。かなり世話をかけてしまったみたいだ。

 その時、開かれたカーテンの向こうにある峰川のベッドが空になっているのに気づいた。

「あら、峰川さんは?」

 私が聞くと、桜井は目を伏せた。

「実は、松山さんが眠っておられる間に、亡くなられました」

「えっ」

 あれほど力強く腕に縋り付いてきたのに。

「松山さんが昏睡状態になった朝、私が様子を見に来た時には、もう…」

「そうなの」

「峰川さん、見たことがないほど、安らかな顔をして亡くなっておられました」

 私はふと、あの明け方、眠りに落ちる耳元で聞こえた声を思い出した。

(ありがとう)

 あの声は確かにそう言っていた。最期に娘に触れることができたから?でも、それではまるで、私が彼女の死を後押ししてしまったみたいではないか。

「峰川さんの病気は症状が悪化しやすくて、苦しみながら亡くなる方が多いんです。だから、幸せだったのかもしれません」

 寂しさと暖かさを等量ずつ交ぜたような感情が胸の中に込み上げる。私は、皺やシミだらけに戻った自分の右手を見つめた。

 峰川が掴んだ感触を思い出しながらゆっくりと手を閉じた途端、目の前の光景がぼんやりと滲んでいった。

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