お子様ランチの旗をケチャップで汚しただけなのに

お子様ランチの旗をケチャップで汚しただけなのに

「ねえ、パパ見て!」


 高橋健太は、スマートフォンから目を離し、目の前のテーブルに視線を移した。家族で来ている郊外のファミレスは、日曜の昼時とあって賑わっている。


 妻の恵は静かにコーヒーを飲み、五歳になる娘の結衣は、運ばれてきたばかりのお子様ランチに夢中だった。


「どうした、結衣。早く食べな」


 健太がそう言うと、結衣は得意げにスプーンを掲げた。そのスプーンの先端には、小さなフライドポテトが乗っている。

 しかし、健太の視線はそのポテトの奥、チキンライスの小山に刺さった小さな日の丸の旗に釘付けになった。


 真っ白なポールの先に、紙でできた縦横三センチほどの小さな国旗。

 その中央の赤い丸、日の丸の部分が、べったりとケチャップで汚されていた。


「ケチャップだらけにしちゃったの。お空にご飯あげるの!」


 娘はそう言って、さらに旗の紙をケチャップの海に押し付け、嬉しそうに笑った。お子様ランチのケチャップは、子供にとってただの「赤いソース」だ。

 健太も、恵も、その行為に特に注意を払うことはなかった。



 数週間前、『国旗損壊罪』、正式には刑法の一部改正が施行されたばかりだ。


 国会での議論は喧々諤々だったが、「日本国の尊厳を守るため」という強い世論に押され、成立した。 内容は、「悪意をもって」日本国旗を損壊、汚損、または侮辱した者に拘禁刑または罰金を科す、というものだった。


 施行後、SNSではこの法律をめぐる冗談や、逆に国旗を過剰に守ろうとする投稿が溢れた。「国旗のついたケーキを食べたら罪になるのか?」「国旗柄のTシャツが破けたら?」――そうした問いかけは、どこか現実味のないジョークとして扱われていた。



 健太は、ケチャップまみれの日の丸を前に、ふと、そのジョークを思い出した。


「これ、写真撮ったら、ウケるかな」


 妻の恵が驚いたように顔を上げた。


「健太、やめときなさいよ。変な時代になったんだから」

「大丈夫だって。ほら、見て。子供がやったことだぞ。これに『悪意』があるわけないだろ?」


 健太は恵の制止を振り切り、スマートフォンを構えた。


 パシャリ、という軽いシャッター音。


 彼は最もコントラストが高くなる角度を選び、ケチャップでぐちゃぐちゃになった日の丸の旗と、無邪気に笑う結衣の顔を、一枚の画像に収めた。


 画像をざっと加工し、SNSの投稿画面を開く。


「うちの国の未来。日の丸にケチャップでアート(笑) #お子様ランチ #日の丸アート #悪意なし」


 彼はそう書き添えて、指先一つで、デジタルな世界へと解き放った。フォロワーからの「いいね」が即座に数件ついた。

 それを見て、健太は満足げに笑った。


「ほらな。誰も気にしないって」

「……そうかしら」


 恵は不安げに、もう一度、ケチャップまみれの国旗を見つめた。



 高橋健太は自宅のドアを激しくノックする音で叩き起こされた。

 まだ夜明け前の空気を揺らす、威圧的な音だった。


「高橋健太さんですね?  警察です。国旗損壊罪の容疑で、ご同行願います」


 健太は一瞬、何かの間違いだと思った。

 寝起きの頭で昨夜の出来事を整理する。お子様ランチ。ケチャップ。SNS投稿。


「え、ちょっと待ってください!  冗談でしょう?  娘のイタズラですよ!  誰が通報したんですか?」

「詳細は署で。任意同行です。抵抗なさらないでください」


 妻の恵が、顔面蒼白になりながら寝室から出てきた。結衣はまだ眠っている。恵は健太のTシャツの袖を掴んだ。


「健太、どういうこと? 何か悪いことしたの?」

「してない! 恵、僕はただ…ただ、あの旗の写真を上げただけだ!」


 警察官は表情一つ変えず、健太の手首に冷たいものを嵌めた。それは手錠ではなかったが、健太の心を一瞬で凍りつかせるには十分だった。


 彼はそのまま、薄暗いパトカーの後部座席に押し込まれた。


 署に着いてからの取り調べは、予想外に厳しく、そして執拗だった。


「お子様ランチの旗を汚損し、それを『アート』と称して公衆の面前に晒した。これは日本国旗に対する侮辱行為に他なりません」


「侮辱なんて、とんでもない!  あれは五歳の娘がやったことで、僕はただその『面白さ』を共有したかっただけです。ハッシュタグにも『#悪意なし』と付けたでしょう!」


 健太は机を叩いた。


「『悪意』の有無はあなたが決めることではありません。国旗損壊罪の成立には『悪意』が要件とされていますが、その『悪意』とは、単なる損壊の故意だけを指すものではない。国旗が象徴する国家への敬意を意図的に欠く行為、それもまた『悪意』と見なされます」


 取調官は分厚い資料を広げた。

 そこには健太のSNSアカウントの投稿履歴が印刷されていた。昨夜の投稿は、すでに数千件のリツイートと、数万件の「いいね」を集めていた。

 同時に、それを遥かに上回る数の批判コメントで溢れていた。


「あなたを告発したのは、匿名の市民アカウント、そして一部の愛国的な団体です。彼らはあなたの投稿を『国体に対する冒涜』と断じている。これだけの反響を呼んでいる時点で、あなたの行為は社会に対して『悪意』と受け取られた。それは、結果として『悪意』の証明に繋がるのです」


 健太の背筋に冷たい汗が流れた。


 彼は、SNSの軽薄な承認欲求と、新法成立後の社会の過敏な空気を完全に読み誤っていた。


 そして、予想通り、健太はそのまま勾留された。会社からは即座に懲戒解雇が通達された。彼は「たかがケチャップ」の投稿で、職と自由を失った。



 健太の弁護を引き受けたのは、人権派で知られる木村弁護士だった。初対面で、木村は拘置所の面会室で開口一番こう言った。


「高橋さん。あなたの行為は、法律が意図しない表現の自由の領域にギリギリ立っています。しかし、残念ながら、世間は既にあなたを『売国奴』と断じている。それがこの裁判の難しさです」


「弁護士さん、『悪意』は本当にないんです! 娘の純粋な遊びを、侮辱だなんて…」


 健太は涙ぐんだ。

 木村弁護士は静かに資料をめくった。


「検察の論理はこうです。『公衆の面前』であるSNSに、国旗が汚れた画像を『ユーモア』として投稿した行為は、国旗の神聖性を軽んじ、その尊厳を踏みにじる意図がある、というものです」


「そんなバカな!  表現の自由はどうなるんですか?」


「まさにそこが争点です。新法が成立した社会では、『国旗への敬意』という名の公共の利益が、『個人の表現の自由』より優先されつつある。検察は、あなたの投稿が『愛国心』を蔑ろにする風潮を助長した、と主張してくるでしょう」


 裁判が始まった。世間の注目度は異常に高かった。傍聴席は満員で、その多くが健太を糾弾する視線を送っていた。


 検察側は、SNSに寄せられた何千もの批判的なコメントを証拠として提出した。


「被告の投稿は、子供の行為を言い訳にしているが、自ら『#日の丸アート』と銘打つことで、その汚損行為を肯定し、賞賛している。国旗を『アート』、すなわち『ジョークのネタ』として扱った行為は、国旗が象徴する国家と国民に対する明白な侮辱の意図、すなわち『悪意』の顕現である!」


 検察官は、新法制定の意義を熱弁した。


「この法律は、国民の『国旗に対する正しい認識』を確立するためにある。個人の軽薄な『いいね』欲求が、公共の尊厳を傷つけることは許されない」


 対する弁護側の木村弁護士は、娘の結衣を証人席に立たせることを提案した。

 裁判長はこれを却下したが、木村弁護士は別の角度から攻めた。


「被告に『悪意』はありません。投稿はわずか一晩で削除され、謝罪もされています。何より、彼の行為の源泉は『悪意』ではなく『軽率さ』です。SNSの安易な承認欲求と、社会情勢への無知。それを『悪意』と断じるなら、この国の刑法は、すべての軽率な人間を罰することになる」


 木村弁護士は、お子様ランチの旗は「国旗」としてではなく「レストランの備品」として扱われるべきであるとも主張した。

 しかし、裁判官の表情は硬いままだった。


 木村弁護士は最後に、力強く訴えた。


「国旗を汚した子供に悪意はない。その写真に『ウケる』と感じた親にも侮辱の意図はない。この裁判は、国旗を愛する自由と、ジョークを言う自由の境界線をどこに引くか、という問いです。安易に『悪意』を認め、個人を罰すれば、この国は、国旗の絵を描くことすら恐れる、萎縮の社会になるでしょう!」


 しかし、世論は、健太の行為を「不謹慎」「反国家的」として叩き続けていた。裁判所には、厳罰を求める署名が多数届いていた。



 最終弁論から数日後、判決の日が訪れた。


 裁判長は静かに、しかし厳かに判決文を読み上げた。


「……本件において争点となる『悪意』について、当裁判所は、それを『侮辱の意図』という狭い意味に限定して解釈することはできない、と判断する」


 健太は息を飲む。


「国旗は、国家の尊厳の象徴であり、国民統合の精神的な基盤である。

 被告は、この神聖な象徴がケチャップで汚損された状態を、自ら『アート』と称し、不特定多数の者が閲覧可能なSNSに公開した。


 これは、国旗が持つ精神的な価値を意図的に踏みにじる行為、すなわち『社会的に許容される国旗への敬意の著しい欠如』であり、国旗損壊罪の成立要件である『悪意』を広く解釈するならば、これに該当するものと認められる」


 裁判長の言葉が、健太の頭上で重く響いた。


「よって、被告人、高橋健太を、拘禁刑六月、および罰金五十万円に処する」


「な……」健太は崩れ落ちそうになった。

「たかがケチャップだぞ! なぜだ!」


 木村弁護士がすかさず彼の肩を抱いたが、もう遅かった。判決は下された。彼は、悪意がなくても、社会が定める『敬意の基準』を満たさなかったために、罪人となったのだ。


 法廷を出た木村弁護士は、集まった報道陣の前で、悔しさを滲ませながら語った。


「この判決は、国旗損壊罪の『悪意』の定義を際限なく広げた。今日の判決は、国民一人ひとりの自由な表現に対する静かなる脅威です。SNSに何を投稿するか、何に笑い、何に怒るか。


 そのすべてに、国旗という名の見えない監視の目が光ることになった。これは、法治国家として、非常に重い意味を持つ判決です」


 数日後、健太は収容施設へと移送された。


 恵と結衣との面会は、週に一度。結衣は父親のいない日常を少しずつ受け入れ始めていたが、時折、寂しそうに尋ねた。


「パパ、ゆいね、もうケチャップで遊ばないよ。お旗を汚すと、パパがいなくなっちゃうんでしょ?」


 その言葉を聞くたびに、健太の胸は張り裂けそうになった。


 彼は拘置所で、自身の投稿を改めて思い返す。あの時、ただスマホを仕舞っていれば。娘の無邪気な一瞬を、自分の承認欲求のために利用しなければ。


 しかし、もう遅い。彼は気づいた。

 彼を裁いたのは、法律そのものよりも、法律を盾にした社会の空気だったのだ。


 六ヵ月の拘禁刑を終えて、健太は街に戻った。


 街は何も変わっていないように見えたが、健太にとってはすべてが異なって見えた。

 彼は電車の中吊り広告にある日の丸の意匠を見るたびに、どきりとする。スーパーの特売品のチラシに描かれた国旗のイラストさえ、彼には脅威に感じられた。


 彼のSNSアカウントは、刑期中に閉鎖した。二度と、軽率な投稿はしない。いや、もはや、何一つ投稿する勇気がなかった。



 ある日、家族三人で再びあのファミレスを訪れた。結衣はお子様ランチを注文した。運ばれてきたチキンライスの小山には、例の小さな日の丸の旗が刺さっている。


 結衣はフォークを手に取り、一瞬、旗を見つめた。そして、その旗に触れることなく、チキンライスを慎重に食べ始めた。


「結衣、いいの?  旗、取っていいんだよ」恵が優しく言った。


 結衣は首を横に振った。

「ダメ。お旗はね、触っちゃいけないの。汚れたらパパがいなくなっちゃうから」


 健太は黙って、娘の小さな背中を見つめた。彼の心の中に広がったのは、晴れやかさでも、解放感でもなかった。


 それは、諦念と、国旗という名の重い重い鎖だった。彼は悪意なく、社会から罰せられた。そしてその罰は、彼だけでなく、彼の愛する娘の心にまで、「国旗は触れてはならない神聖なもの」という無言の恐怖を植え付けてしまった。


 彼は知った。この国旗損壊罪が作ったのは、敬意の心ではなく、萎縮の社会だったのだ、と。

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