歌劇『井戸端の境界』初演レポート

伊藤優作

歌劇『井戸端の境界』初演レポート

 じゅんぐり歌劇団による新作『井戸端の境界』の公演はわたしを楽しませている。

 たった6人で編成された歌劇集団、じゅんぐり歌劇団のことはご存知だろうか。2019年、コロナ禍直前に誕生したじゅんぐり歌劇団は、テノール、バリトン、バスとソプラノがそれぞれひとりずつ、それにピアニストふたりの合わせて6人によって構成されており、いつも調律の微妙に狂ったアップライトピアノ1台を荷台に載せて、軽トラとジムニーで全国各地を巡回している。ピアノが心配だ。雨の日はどうしているのだろうか。

「オペラの復興」を掲げるじゅんぐり歌劇団は、彼ら自身の合作であるオリジナル作品しかやらないのだが、一度観た者は二度と彼らのことを忘れられないだろう。なにせ歌手たちの歌っているメロディーは楽譜に書いていないのだ。というか楽譜がない。上演前に客に配られるうっすい脚本を見ても音符はひとつも書いていない。ピアニストたちは歌手らが台詞から即興で生みだすメロディーへ必死に伴奏をつけようとするのだが、弾ける方のピアニストにはどうやら絶対音感がないらしく、解決しようとしてもいつも歌手たちのそれとズレてしまう。もうひとりのピアニストに至ってはいつまでたっても素人で、椅子に座っている弾ける方の周りをうろうろしながら、独自の哲学に従い(従っているように思える)、鍵盤をときたま手で叩くのだ。あれは弾くとは呼べない。しかしピアノを弾くときのあの動きを「はじく」とも読む「弾く」と表記するのが果たしてどれほど正しいことなのか、彼らに出会ってから私はわからなくなってしまった。押すでもなければ叩くでもない気がする。より近いのは鍵盤に「弾かれる」という言い方ではないか。特にグランドピアノの構造は「弾かれる」をより素直に表現しているように思う。

 ともかく彼らの「オペラ」は極めて即興的で、そして巨大だ。毎回のように歌手たちは体力の限界まで歌い、いつもギリギリのところで終わる。今回の『井戸端の境界』はA4用紙に裏表1枚でおさまるという簡素さだが、その薄さを今も感じさせない。『井戸端の境界』は全2幕構成で、第1幕は舞台中央に用意されたピアノを井戸に見立て、その周囲を村の男女たちがひたすらぐるぐる回る。歌手たちはほとんど囁くばかりで、なにを言っているかは聞き取れない。時折「まあ!」や「ええっ」がフォルテで歌われるが、むしろここでは井戸が主役となり、ささやきがいっそうピアノへの集中を高めることに貢献していた。台本にはピアノへ「死んだように澄み切り続けて、もうこれ以上死ねなくなったら鐘を打ち鳴らすこと」という指示が書かれており、弾ける方のピアニスト藤井清はおよそ3時間ひとりで音数の少ない即興演奏を繰り広げた。ガワだけを取り出せば音=時間そのものを前景化させるモートン・フェルドマンの影響を見る人もいるだろうが、わたしはそうは思わなかった。むしろエリック・サティの徹底的に怜悧な理性の系譜にある演奏だと感じた。あまりに間延びしているので聞き取りにくいが、そこでの注意は音それ自体の物理的特性というより、音から音への継起が作り出すリズムに向けられていたと思う。素人のピアニスト山村公平はその間、不可視の妖精としてパントマイムを繰り広げたり、舞台に降りては観客に話しかけては最近の近況などを聞き取っていたが、鋭敏に舞台の終わりを察知すると舞台に戻って鐘の役割を引き受けた。その音が妙に濁らずにいたのは、左手で白鍵、右手で黒鍵と決め打ちしていたからだろうか。村人たちは舞台袖へ帰っていった。

 さて、正直ここまではいつものじゅんぐり歌劇団といったところで、それなりに楽しんだものの「いつもより楽をしていないか」と思ったのも事実だ。たとえばまだ脚本が分厚かった2020年の『いまここにある裁き』は、劇中を通じてバスの田中光輝が原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』から「大審問官」の部分をひたすら節をつけて朗読するのだが、その最後、「Dixi(わしの話は終りだ)」が即興のままアリアに変貌していくさまは今でも忘れられない。とはいっても歌詞は「Dixi」だけなのだが、いつものふざけっぷりならダジャレそのままにディキシーランド・ジャズのスタイルに流れることもありそうなところ、緊張感を持続させたまま歌いきった田中に観客は惜しみない拍手を贈った。あの記憶があると、どうしても第1幕の素直な終わり方には不完全燃焼の感があった。

 だが第2幕に入って「緩んでいるな」という印象はガラリと変わった。第2幕の脚本には「噂話をして」と「と〇〇は言った」の間に様々なスケッチのようなものが書かれていた。蜘蛛の巣を散らしたような図や(子ではない、ほんとうにそうとしか言いようがない図だ)、エッシャーの無限階段から棒人間たちが飛び降り、羽の生えた者が舞い上がる絵などが散りばめられている。こういった表現はじゅんぐり歌劇団の脚本によく見られるのだが、テノールにして団長の田原軍事郎によれば、これらの図は解釈されるために描かれているというよりも、「舞台で停滞する予兆が感じられた時に推進力を取り戻すきっかけとなるイメージの灯台」として描き込まれているそうだ。

 今回の公演では、この「と〇〇は言った」が鍵だった。最初はどうということはないネットニュースの話題などから始まったのがやがて話題はバリトンの古谷剛の借金事情に集中していき(口火を切ったソプラノ鞠川絢に敬意を表したい)、追い詰められた古谷が「と〇〇は言った」で逃げ切ろうとするくだりは、即興ながら舞台を一気にヴェリズモ・オペラの血の世界へと引きずり込んだ。どこまでが嘘でどこまでが本当かわからないのだが、古谷を除く歌手3人が総じて「返せ! 金を返せ!」と合唱するに至り山村が観客席を煽り、観客も即興的なコロスとなって「返せ! 返せ!」の大絶叫となった(わたしは2022年『藁から掴む』の最終盤で巻き起こった「もうやめてくれ!」の大合唱を思い出した)。このコロスの最高潮で古谷が放った「ああ! うんざりだ!」の叫びが一気に流れを変えた。ここから古谷は一切楽音を発することなく、ただただ言葉のおもむくままに台詞をまくしたてると、「今日辞める! 今ここで辞める!」と言って袖にはけてしまった。わたしはあまりに興奮してしまい、最後まで舞台の上を観続けることなく下手に駆け込んで古谷の行方を追った。その後ろから田原による「と古谷は言った」のテノールが聞こえた。このオペラに限らずじゅんぐり歌劇団のオペラは俳優名がそのまま役名になるのだが、舞台の空気が変わったことはわかった。だがわたしは狭い意味での舞台だけに注目しているわけにはいかなかった。それどころではなかった。いまオペラがとんでもないことになっているのだ。

 現在わたしは古谷の隣の部屋に住んでいる。

 あれから古谷はその足で実家に戻り、市の中心部に近いところにアパートを借り、デイケアセンターでアルバイトを始めた。オペラ歌手とはとても思えない振る舞いが逆に『井戸端の境界』の雰囲気にマッチしている。日によっては利用者みんながピアノを囲んで歌を歌う場面もあるのだが、古谷はかたくなに歌わない。ピアノも弾かない。徹底したプロ意識だ。わたしもそのプロ意識に応えようと思い、部屋を突き止めて隣の部屋を借りた、というわけだ。

 古谷があの舞台から「今日辞める! 今ここで辞める!」の絶唱とともに飛び出してから2ヶ月が経つ。いつ古谷が『井戸端の境界』に戻るのか、最初は楽しみにしていた。だがそういうことではないのかもしれない。オペラに限らず、あらゆる演劇や音楽が終わってきた。それに耐えられなくなったとき、時間で永遠を考えるのではなく空間で永遠を考えるという選択肢に古谷が気づけたのは、空間を本質的な要素として抱え込むことになった音楽であるオペラに携わってきたからこそだったかもしれない。古谷が舞台に帰らない限り、『井戸端の境界』は終わることがないだろう。そしてわたしはその永遠の破局すらも心の何処かで希望しているのに気づいている。つまりわたしはどちらにしても、これからしばらくは『井戸端の境界』を楽しみ続けることができるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歌劇『井戸端の境界』初演レポート 伊藤優作 @Itou_Cocoon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る