第14話木の声と人の手と

黒心樫――。

その名に似合わず、表面は滑らかで深い焦げ茶色をしていた。

しかし、刃を入れた瞬間、キノはすぐに理解する。

この木は、ただの木ではない。


重く、硬く、意志を持つような抵抗。

刃が弾かれるたびに、手に鈍い震えが返ってくる。

それでもキノは焦らなかった。


「慌てずに。……木の呼吸に合わせるんだ」


彼女の小さな呟きは、工房の木屑と一緒に空気へ溶けていった。

周囲では職人たちが、彼女の作業を遠巻きに見ていた。


「ドワーフが黒心樫を削るだと? 普通、刃が持たねぇぞ」

「ほら、もう刃こぼれが……」


だが、キノの動きは途切れなかった。

一度刃を止めるたびに、材を撫で、呼吸を整える。

木の芯にあるわずかな軋み――そこに、削れる「隙」がある。

それを探し当てるたびに、木がわずかに“応える”ように形を変える。


やがて、夕方になる頃、木片は徐々に“器”の形を帯び始めていた。

重厚でありながら、光を吸い込むような静けさを持つ。

仕上げに指を滑らせたとき、キノはほっと息をついた。


「ありがとう。君の形を、少しだけ借りるよ」


木屑にまみれたその姿に、見ていた職人たちが息を呑む。

それは、技術というよりも――祈りのような作業だった。


***


翌日。

ギルドの広間では、工芸市への出展準備が始まっていた。

工芸市の出品は町全体の誇りであり、誰もが協力的だ。


「こっちは鍛冶ギルドの工具を貸す。仕上げに必要な細工用の刃もあるぞ」

「村の方からは、染料と布地が届いてます。梱包はこちらで」

「木箱の装飾はキノさんが見てくれるんでしょ? なら安心だ」


キノは手を止め、思わず笑みを漏らした。

「皆さん……ありがとうございます。わたしはただ、作るだけで」


「何を言うか。お前の器、見たんだよ。あれを見て手伝いたくならねぇ奴はいねぇさ」

そう言って笑うのは、鍛冶師のバルドだった。

「行商人のロランも来てるぜ。馬車の積み込みを手伝ってくれてる」


「彼がいなければ、ここまで来られませんでした」


「まったくだ。あんたら、いいコンビだな」

バルドは笑いながらも、少し真面目な表情に変わる。

「……キノ。お前、本当にこの町に馴染んじまったな」


「ええ。気づいたら、ですね」


「最初は妙な奴だと思ったよ。ドワーフのくせに木工だし、戦うより作る方が好きだって言うし」

「はは……否定はできません」

「でもな、今じゃお前がいねぇと工房の空気が締まらねぇ。まるで一本、いい梁が通ったみてぇだ」


その言葉に、キノは少し照れたように目を伏せた。

「……ありがとうございます」


***


夕暮れ。

広場の隅では、木箱や作品が次々と展示される会館に運び込まれていく。

ロランが最後の積み荷を縛りながら、キノに声をかけた。


「これで最後ですね」

「ええ。最後です。……でも、あっという間でした」


「そうでしょうね。人を喜ばせる作品を作るときは時が早いと思います」

ロランは満足げに笑い、荷を叩いた。

「キノさんが作ったものが、どんな顔を見せてくれるか楽しみです」


キノも微笑み返す。

「わたしも、少し楽しみです」


***


夜、宿の部屋に戻ったキノは、黒心樫の削り屑をひとつ手に取った。

掌の上でそれがわずかに香る。

土と雨と樹脂の混じった、深い匂い。


「……ああ、やっぱり生きてるな」


この世界に来て、半年。

戦うことも、誰かに崇められることもなく――

ただ木と語り、人と関わり、日々を紡ぐ。


その穏やかな時間こそが、彼女にとっての“生”だった。


キノはランプを消し、窓の外を見た。

見える町の灯りが、夜空の星と交じって揺れている。

あの光の向こうで、また新しい出会いが待っているのかもしれない。


そして彼女は、小さく呟いた。

「……明日も、木の声を聴こう」


***


朝の鐘が、町の屋根の上を転がるように響いた。


それは、工芸市の始まりを告げる音だった。

通りにはすでに多くの人が集まり、色とりどりの布で飾られた屋台が並んでいる。

金属の輝き、染め布の匂い、焼き立てのパンの香ばしい香り――

それらが渦を巻くように空気を満たし、町全体がひとつの祭りのように息づいていた。


「まるで生きているみたいですね」

キノは、行商人のロランと肩を並べながら呟いた。


「町の人々にとっては、年に一度の大舞台だからですね。王都の職人も視察に来るし、腕を見せるにはもってこいの機会です」

ロランは馬の手綱を引きながら笑う。

「キノさんの木器も、きっと誰かの目に留まるでしょう」


「……そうなるでしょうか」

キノは少しだけ苦笑した。

彼女の出品物は、例の黒心樫で作った器と、それに合わせた匙(さじ)や皿などの小品。

どれも質素だが、触れた者がわずかに温もりを感じるような造形をしていた。


町の中央広場にある会館の展示区画に、キノの作品が並ぶ。

陽の光を受けた木肌が、しっとりとした艶を放っている。


「おい、見てみろ。この黒い器……まるで石みたいだ」

「違うな、これは木だ。……信じられん、どうやって削ったんだ?」

通りすがりの職人や貴婦人たちが足を止め、ざわめきが広がる。


その反応を、キノは少し離れた場所から静かに見つめていた。

「……にぎやかですね」

「キノさん、出品者なんですから、堂々と立ってはどうでしょう」

ロランが笑うが、キノは首を横に振る。

「わたしは、作った“だけ”ですから。あとは、作品が語ってくれます」


***


昼が近づくと、人の波はさらに厚くなった。

貴族らしき服装の男が、キノの作品の前で立ち止まり、長く見入っている。

やがて彼は店番をしていたギルドの若者に声をかけた。


「この器、どこの職人のものだ?」

「はい、ドワーフのキノ殿の作品です」

「ドワーフ……? 鍛冶ではなく木工とな?」

「はい。少し変わった方でして」


男は目を細め、器を手に取る。

掌に伝わる微かな震えと、木の柔らかい香り。

「……不思議なものだな。これは“生きている”感触だ」

そう呟き、彼は器を静かに戻した。


その様子を、キノは遠くから見ていた。

少しの誇らしさと、ほんの少しの戸惑い。

作品が人の心を動かす――それは、戦場での勝利よりも静かで、温かい感覚だった。


「キノさん」

ロランが隣に立つ。

「村の外に出て、工芸市に参加してみてどうでしたか」


「存外、悪くないですね」


キノは空を見上げた。

雲の隙間から射す光が、工芸市の通りを照らしている。


「作ることの楽しさを知れましたから」


***


夕暮れ。

祭りのような賑わいが少しずつ落ち着き、職人たちは出品物を片づけ始めていた。

キノの前に、一人の少年が立っていた。


「これ、触ってもいいですか?」

「どうぞ」


少年は恐る恐る黒心樫の器に手を触れた。

「……あったかい」

「木は、息をしていますから」

キノの言葉に、少年は目を輝かせた。


「僕、大きくなったらこういうの作る人になりたい!」

その声に、キノはゆっくりと微笑んだ。

「ええ、きっとなれますよ」


ロランが後ろから見ていて、にやりと笑う。

「人気物ですね、彼は弟子第一号に?」

「困りましたね……まだ、弟子を取るほどの職人じゃないのに」


「いや、キノさんはもう立派な職人です。

 人の手を止めさせるものを作る。それが何よりの証拠でしょう」


沈みゆく夕陽の中、工芸市の灯りがひとつ、またひとつと灯っていく。

その光を見つめながら、キノは思った。


――プレイヤーとしてゲームをしていた生きた日々も、確かに自分の一部だ。

だが、今の自分を支えているのは“強くなること”ではなく、“創り続ける日々”だ。


掌に残る木の感触が、静かにそれを肯定していた。



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彼方のアバター―静かな異世界譚― @ru-deruhasukokku

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