エピローグ:境界線

翌日の昼、私たちは旅館を後にした。


警察が来て、事情聴取を受けた。神主の死について。

私は、できる限り事実を話した。

信じてもらえるはずがない。

ただ、「神社で同僚とはぐれた」とだけ伝えた。

警察は捜索を始めると言った。でも、見つかるだろうか。

いや、見つからない方がいいのかもしれない。


先輩が運転席に座る。私が助手席に座る。後部座席は、空いている。

昨日まで、同僚が座っていた席だ。でも、もう誰もいない。


「よし!帰るか」


先輩が言った。


「はい」


私は頷いた。


エンジンがかかる。車が動き出す。砂利を踏む音がして、旅館の駐車場を出る。

女将が、玄関で見送ってくれた。

深々と頭を下げている。私も、窓から手を振った。

女将は、ずっと頭を下げていた。


車は、山道を下っていく。来た時と同じ道を。

でも、景色が違って見えた。木々は同じ。

空も同じ。でも、何かが違う。

私が変わったのだろうか。それとも、この土地が変わったのだろうか。


集落を抜ける。人の姿は、やはり少ない。

商店の前に、おばあさんが立っていた。

こちらを見ている。私は、目を逸らした。


車は進む。道なりに。カーブを曲がるたびに、車体が揺れる。

私は、窓の外を見ていた。木々が流れていく。

空が見える。雲が流れている。普通の景色だ。でも、どこか不安が消えない。


そして、看板が見えた。


「ようこそ」


来た時に見た看板だ。でも、今は逆側から見ている。

つまり、出ていく側だ。別れを告げる側だ。


車は、看板を通り過ぎる。


その時だった。


看板の横に、誰かが立っていた。


作業服を着た人物だ。


私は、息を呑んだ。


「先輩、止めてください」


「ん?」


「あそこに、誰かいます」


先輩が車を減速させる。


私は、窓から外を見た。


作業服を着た人物が、こちらを見ている。


同僚だ。


いや、同僚の姿をした何かだ。


顔が見える。


同僚の顔だ。


でも、どこか違う。


目だろうか。


目の奥に、何もない。


空っぽだ。


人間の目ではない。


それが、笑っている。


口が、耳まで裂けるように開いている。


手を上げている。


こちらに向かって。


まるで、手を振っているように。


「先輩、行ってください」


私は言った。


「早く」


「お、おい」


先輩が、アクセルを踏む。


車が加速する。


私は、バックミラーを見た。


同僚の姿が、小さくなっていく。


でも、まだ立っている。


手を振っている。


ずっと、手を振っている。


笑顔のまま。


カーブを曲がると、見えなくなった。


私は、前を向いた。


心臓が、激しく打っている。


手が、震えている。


「おい、大丈夫か」


先輩が聞いてきた。


「...大丈夫です」


私は答えた。


でも、大丈夫ではない。


あれは、何だったのか。


同僚なのか。


それとも、別の何かなのか。


車は、山道を下り続ける。


やがて、平地に出た。


街が見えてくる。


普通の街だ。


ファミレスがあり、スーパーがあり、商店街がある。


人が歩いている。


車が走っている。


日常が、そこにある。


でも、私の中の不安は消えない。


---


会社に戻った私は、上司に一部始終を話した。


「同僚さんのことなんだが」


上司がいった。


「誰のことを言ってるんだ?」


「...え??」


私は驚いた。


「今回の出張は2人で行ったんだよな?」


「え?3人ですよ…先輩に確認してくださいよ」


「アイツも最初から2人だったと言ってるぞ。お前がわけわからんこと言い出したから、面倒くさくなって適当に合わせてたっていってるぞ。」


「同僚が失踪したとか一体なんのことだ?」

上司は頭を抱えながら言ってきた。

この人は真面目一辺倒で冗談をいう人ではない。


私は、言葉を失った。


いや待てよ…


そもそも同僚って…

アイツは俺のこと「先輩!」って呼んできたよな。


同僚ならそもそもタメ口のはず。

俺の記憶が混乱する。


おかしい

おかしい


何から何まで話の辻褄が合わない。

どういうことだ。


俺は幻覚をみていたのか、記憶を操作されたのか…



でも、同僚は、あの山にいるはずだ。

いや、同僚だと思っていたナニカがだ。


神社に。


土俵に。


それとも、あの看板の横に。



---


その日の夕方、会社を出ると、玄関に誰かが立っていた。


作業服を着た人物だ。


私は、立ち止まった。


遠くて、顔がよく見えない。


でも、分かる。


あの体格。


あの立ち方。


同僚だ。


いや、同僚の姿をした何かだ。


それが、こちらを見ている。


笑っている。


手を振っている。


私は、別の出口へ向かった。


走った。


後ろを振り返らずに。


ただ、走った。


駅に着くまで、走り続けた。


電車に乗る。


窓の外を見る。


都会の景色が流れていく。


ビルが、家が、人が。


全てが、いつもと同じだ。


でも、私の中の不安は消えない。


あれは、まだそこにいる。


私を見ている。


笑っている。


いつか、また会うだろう。


街角で。


駅で。


会社で。


それとも、家の前で。


私は、窓に映る自分の顔を見た。


疲れている。


目の下に、クマができている。


そして、ふと思った。


もしかして、私も。


私も、あの土俵の中にいるのではないか。


まだ、あそこにいるのではないか。


これは、夢なのではないか。


いや、違う。


そんなはずはない。


私は、自分の頬を叩いた。


痛い。


現実だ。


これは、現実だ。


電車が、駅に着く。


私は、降りた。


家に帰る。


鍵を開ける。


部屋に入る。


電気をつける。


いつもの部屋だ。


何も変わっていない。


私は、ソファに座った。


深呼吸する。


大丈夫だ。


ここは、安全だ。


でも、窓の外を見ると。


暗闇の中に。


誰かが立っている気がした。


作業服を着た。


笑顔の。


誰かが。


私は、カーテンを閉めた。


でも、その視線を感じる。


今も。


ずっと。


見られている。


笑われている。


いつか、また会う。


そう思うと。


眠れない夜が、続いている。

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N地区 サクライ @haikinn

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