第六章:帰還と真実
旅館の玄関に辿り着いた。引き戸を開ける。手が震えていた。
何度も取っ手を掴み損ねる。やっと開けると、中には女将が立っていた。
まるで、待っていたかのように。玄関の明かりが、女将の顔を照らしている。
「...おかえりなさい」
女将は、静かに言った。その目が、私を見ている。
そして、私の後ろを見ている。誰もいない、私の後ろを。
「お一人で、お帰りですか」
女将が聞いた。その声には、驚きも、疑問も、ない。
ただ、確認するような口調だった。
「同僚は...」
私は言いかけて、言葉が出なくなった。何と言えばいい。
同僚は、あの土俵に残してきた。獣面の人影に囲まれて。
でも、同僚は笑最後まで。「大丈夫です」と言った気がする。
「...座ってください」
女将は、そう言った。私は、広間に通された。
お茶が出された。でも、飲めなかった。手が震えていた。
湯呑みを持とうとしても、カタカタと音を立てる。
女将は、私の向かいに座った。そして、静かに聞いた。
「何が、ありましたか」
私は、話した。神社のこと。土俵のこと。神主のこと。
獣面の人影のこと。そして、同僚のこと。
女将は、黙って聞いていた。表情を変えずに。
私が話し終えると、女将は小さく頷いた。
「...そうですか」
それだけだった。驚きも、動揺も、ない。
まるで、知っていたかのように。
いや、知っていたのだろう。最初から。
「同僚は...」
私は聞いた。
「どうなるんですか」
女将は、答えなかった。ただ、窓の外を見ていた。
暗い山を。
木々が、風に揺れているのが見える。
でも、音は聞こえない。窓が閉まっているからだろうか。
それとも、本当に音がしていないのだろうか。
女将は、小さく呟いた。
「...電話をしますのでお待ちください」
誰に、と聞く前に、女将は立ち上がって、奥へ行った。
私は、一人取り残された。広間で。
お茶の湯気が、静かに立ち上っていた。
外は、相変わらず静かだった。
虫の音も、風の音も、しない。ただ、静寂だけが、そこにあった。
しばらくして、女将が戻ってきた。
「神主様に連絡しました」
「神主...?」
私は驚いた。あの神主が、まだ神社にいるのだろうか。
それとも。
「明日の朝、神社へ行きます」
女将が言った。
「村の古老たちも来てくれます」
「でも、同僚は...」
「今は、何もできません」
女将は首を振った。
「夜の神社に、近づいてはいけません」
そう言って、女将は私を見た。
その目には、何か深い悲しみのようなものがあった。
「今夜は、お部屋でお休みください」
「...はい」
私は頷いた。でも、眠れるだろうか。
あの光景が、まだ目に焼き付いている。
獣面の人影たち。土俵の冷たい砂。
全てが、鮮明に残っている。
部屋に戻った。先輩は、まだいびきをかいて寝ていた。
酒に酔って、何も知らずに。私は布団に入ったが、やはり眠れなかった。
目を閉じると、あの光景が蘇る。同僚の顔。
いや、あれはもう同僚ではなかった。何か別のものだった。
何時間が経っただろう。窓の外が、少しずつ明るくなってきた。
夜が明ける。私は、一睡もできなかった。
---
朝、女将が部屋に来た。
「準備ができました。神社へ行きましょう」
先輩も起きていた。昨夜のことを話すと、先輩は信じられないという顔をした。
でも、私の顔を見て、冗談ではないと分かったようだ。
「本当に、そんなことが...」
「本当です」
私は答えた。
玄関には、村の古老たちが集まっていた。
五人ほどだろうか。皆、七十代から八十代に見える。
杖をついている人もいる。
「行きましょう」
女将が言った。私たちは、神社へ向かった。昨夜歩いた道を、再び歩く。
でも、昼間の道は全く違って見えた。
木々は緑で、鳥が鳴いている。
普通の山道だ。昨夜の恐怖が、嘘のように思える。
鳥居をくぐる。石段を登る。百五十段。
昨夜は必死で駆け下りた石段を、今度はゆっくりと登る。
息が上がる。古老たちも、ゆっくりと登っている。
境内に着いた。
昼間の境内は、広く見えた。木々が周囲を囲み、日差しが差し込んでいる。
松明はもう消えていた。土俵も、昼間に見ると、ただの土俵だった。
しめ縄が張られた、普通の土俵。
「神主様は...」
女将が拝殿の方を見た。
私たちも、そちらを見る。
拝殿の扉が、開いていた。
「神主様」
女将が呼びかけた。でも、返事はない。
私たちは、拝殿に近づいた。そして、見た。
拝殿の前で、神主が倒れていた。
白装束が、赤く染まっている。
血だ。
大量の血が、地面に広がっている。
女将が、悲鳴を上げた。
古老たちも、駆け寄る。
私は、その場に立ち尽くしていた。
神主は、動かなかった。
目を開けたまま、倒れていた。
能面は、割れて転がっていた。
顔が見える。
老人の顔だ。
でも、その表情は、恐怖に歪んでいた。
何かに、襲われたのだろう。
傷は、爪で引き裂かれたような跡だった。
服が破れている。
その破れた服の隙間から、肉が見える。
私は、目を逸らした。
「...神主様」
女将が、泣いていた。
古老の一人が、神主の目を閉じた。
「儀式が...失敗したんじゃ」
古老が呟いた。
「あれを、鎮められなかった」
私は、土俵を見た。
しめ縄が、切れていた。
いや、切れたのではない。
内側から、引き裂かれていた。
縄の端が、ほつれている。
土俵の砂に、足跡があった。
人間の足跡ではない。
もっと大きく、爪の跡がある。
獣の足跡だ。
それが、土俵から拝殿へと続いていた。
そして、拝殿から、石段の方へ。
境内の外へ。
「...同僚さんは」
女将が私を見た。
「見つかりませんでした」
「そうですか」
女将は、また泣いた。
私は、何も言えなかった。
同僚は、どこへ行ったのだろう。
あの土俵の中に、いたはずなのに。
姿が見えない。
いや、もう同僚ではない。
あれは、別の何かだ。
獣の姿をした、何かだ。
そして、神主を...
私は、考えるのをやめた。
これ以上、考えても仕方ない。
私たちは、神社を後にした。
警察に連絡する必要がある。
でも、何と説明すればいいのだろう。
獣に襲われた、とでも言うのだろうか。
石段を降りながら、私は振り返った。
境内が、木々の間から見える。
土俵が、小さく見える。
そこに、何かが立っていた気がした。
でも、木々が邪魔をして、よく見えない。
私は、前を向いて歩き続けた。
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