第1 章(4)
――えっ、うそ。
化粧室から戻った美羽は、足を止めた。
ホールから聴こえてくるのは、シューベルトの「アベ・マリア」だった。
(また会えるなんて……しかも私の後に弾いてくれるなんて……しかも、憧れの曲……)
胸の奥でふくらむ熱を抑えるように、両手をぎゅっと握って、そっとホールを覗く。
ピアノの前に、確かに"その人”がいた。
少し影をまとった後ろ姿から、あの祈るような音が生まれている。
左手が迷いなく伴奏の和音を紡いでいく。
低音が静かに揺れ、空間に祈りの色を満たしていく。
(すごい……どうしてこんなに滑らかに……)
美羽は、胸の奥を軽く掴まれたように息を呑んだ。
シューベルトの「アベ・マリア」。
ずっと弾きたいと思っていた曲。
だけど、一人で弾こうとすると、左手の連続和音で指がもつれる。
音が途切れてしまうのが怖くて、最後まで弾けたことがなかった。
(連弾なら……ひとつの祈りを分け合うみたいに、弾けるかもしれない。この人と……弾いてみたい)
その思いが、生まれた瞬間に美羽の背中を押した。
演奏が終わり、ホールに静寂が戻る。
その人はそっと蓋を閉めようとしている。
美羽は手を握りしめたまま、気づけばその人に近づいていた。
❋❋❋
――まずい、立ち去るタイミングが間に合わない。距離を取るには走らないといけない、けど……
光流の手のひらに、一瞬で汗がにじむのもつかの間。
「あ、あの……!」
背後から声をかけられる。
光流は、びくりと肩を揺らし、恐る恐る振り向いた。
「……あの、何か?」
普段から掠れた声がさらに掠れてしまう。
目の前には、先ほどグノーのアベ・マリアを弾いていた女性がたたずんでいた。
「えっと……その……演奏、すごく素敵でした」
「ど、どうも」
光流はぎこちなく会釈し、すぐに去ろうとする。
「あっ、ちょ、ちょっと待ってください!」
彼女は自分でも自分の声に戸惑ったように一瞬目を泳がせたが、それでも続けてきた。
「私……シューベルトの『アベ・マリア』、ずっと弾きたいと思ってたんです。でも、一人だと難しくて……もしよかったら、その……連弾、してもらえませんか?」
光流は、まるで不思議な生き物でも見るように彼女を見返した。
喉がひゅっと細くなり、声が出てこない。
連弾。
あの"隣に並んで"弾くやつ。
自分が?この人と?
……無理に決まってる。
――だっていつも、自分の隣には誰もいないから……
光流の目に、一層影が落ちる。
しかし、落とした視線の先、彼女の震える手。
(……この人も、怖いんだ。でも、それでも勇気を出して言ってくれたんだ)
気づいたその瞬間、考えるより先に返事が出ていた。
「……いいですよ」
「えっ……!ほ、本当ですか!?」
彼女の顔が一気にほころぶ。
「ありがとうございます!じゃあ……連絡先、交換しませんか?打ち合わせとかするのに」
差し出されたスマホを前に、光流は一瞬戸惑ったものの、おずおずと自分のスマホを取り出した。
「あ、あの、私、七瀬美羽です。よろしくお願いします」
「自分は……光流、です」
苗字を言いかけて、飲み込む。
初対面で名乗るには、まだ距離が遠すぎた。
「……よろしくお願いします」
交換を終えると、美羽は何度も頭を下げながら去っていった。
帰り道。
光流は、状況をうまく飲み込めないまま歩いていた。
(……連弾?自分が……?あの人と?)
思い返すだけで胸がざわつく。
けれどふとスマホが震え、通知を開く。
七瀬美羽。
アイコンの下に並んだ名前を、光流は思わず二度見した。
そして、届いた短いメッセージ。
『今日はありがとうございました! これからよろしくお願いします』
その文字に、光流の口元がかすかに緩んだ。
(……よろしく、か)
その小さな笑みに自分で気づき、光流は慌てて視線をそらす。
けれど胸の奥は、さっきよりわずかに明るい音を鳴らしていた。
こうして、二人の“最初の一曲”は静かに動き出した。
祈りのアベ・マリア 音野彼方 @OtonoKanata
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