濁流の女

推しと愛馬が

濁流の女

 河の声が聞こえる。

 身体の芯にまで響くような低い音が、私を呼ぶ。

 昔からそうだった。心が痛むたび、私の魔力は河の声に誘われてきた。どれほど耳を塞ぎ、拒絶したところで意味はない。指の先から魔力が解けて、荒ぶる波濤へと変わっていく。

 そうして私の固有魔法は何度も国土を飲み込んだ。大蛇の如き黒い波は土を削り、家屋を押し流す。水が引いた後に遺るのは、憎悪と土砂と、民の嘆き、その一滴。

 私だってこんなことしたいわけじゃない。

 止めようとすればするほど心は乱れ、同調するかの如く波は高くなっていく。こうなれば、涙が枯れるまでひとりで過ごすまで。諦めがつけば波は引く。

 孤独だ。

 河に愛される国を統べる一族が、よりによって全て押し流す濁流を固有魔法として発現し、制御できず牙を剥くなど目も当てられない。

 民が、国が、血族が、私のことを嫌っている。

 ただ愛され認められたいというささやかな願いも、この魔法がある限り、夢を見ることすら罪になる。世界のそこかしこで当たり前のように存在する愛も、肯定も、私に与えられたことはない。

 皮肉なことに、愛に飢えた私を癒すのもまた河だった。声が聴こえぬ時はただ穏やかに、心地よいせせらぎを奏で、そこにある。

 私を愛するものがこの国にいないからこそ、河だけが私を受け入れてくれるのだろう。きっと私は、その流れに身を沈めて果てるのだ。

 問えば答える、最期の時には全てが解る。何故愛されないのか、どうすれば良かったのか。答えは水底にて穏やかに微睡んでいる。

 皆そうだったと母は言う。そうしてきたと父が言う。ならばそれが正しいのだ。余分に生まれ落ちた『我ら』は、そうすることでしか存在を許されない。

 私の嘆きは大河と共に。

 深い深い河の底、黒い澱のその中で、今も静かに泣いている。



 イディ王国第四王弟、テオドールには婚約者のソフィアがいる。

 ソフィアはテオドールに愛されるために、日々きっちりめかしこむ。普段、二言目に

「ダルい」「面倒」

が出てくるテオドールも、女が綺麗になるにつれて侍女に化粧を頼むようになった。

「昔はこのようなことに、興味もございませんでしたのに」

「惚れた女に恥欠かせらんねえだろ」

そんなやりとりに、侍女たちは驚いて顔を見合わせ、すぐに作業を再開した。無言の侍女たちに

「なんだよ」

低く不機嫌な声がかけられる。

 が、沈黙は保たれたままである。この男、こういうところは変にしっかりしていた。

 デートはいつもテオドールから誘う。

 二人で中央駅前の時計広場で下車し、護衛を引き連れ街を歩くのだ。女はヒールで、石畳を歩くのは少し負担が大きい。やはりというか、ソフィアはわずかな段差に足を取られて時折ふらつくので、抱き止めてやる。そうすると、ふわりと良い香りがするのだ。

 ソフィアからはいつもオアシスに芽吹く瑞々しい草の香りがした。彼女自身の香りと相まって絶妙に甘さを増すそれは、テオドールの中に燻る暗い思いを優しく包んで癒すようで好ましい。

 王族のデートプランは限られてくるが、それでも構わなかった。共にあればなんだって、どこだって、心の底から楽しめる。

「映画でも行くか。見たいやつあるんだろ」

「いいんですか?! ぜひ!」

 足取り軽く、テオドールとソフィアは道を行く。まずは映画、そのあとはカフェにでも入って軽食がてら話をしよう。朗らかに笑う後ろ姿は、あまりに輝いていた。


 「覚えてるか?俺たちが婚約して十年だぜ」

「もちろん。節目の年ですね」

 テオドールの母国、イディ王国の南の国境付近には川幅が二百四十キロメートルを超える世界最大級の河川、『記憶の大河』が神代から横たわっている。その中洲に首都を持つ国こそが『ムト帝国』であり、ソフィアはその第三皇女である。

 ムト帝国は非常に小さい国土ながら侵略戦争を経験せず、貿易や運河の管理で栄え続けてきた多民族国家だ。

 元は北の寒冷地帯で暮らしていた遊牧民族の一部が、過酷な放浪の末に建国された。

 人を受け入れ続けて、善性を評価されるかの国において、ソフィアは大切にされることなく、皇族という立場に見合った生活は出来ていないようだった。

「初めて会った時のお前は酷いもんだったな」

「まあ、虐待されてましたからね」

 ソフィアの母は、まだ幼子であるソフィアの罪悪感や劣等感を刺激するような発言を繰り返した。当時まだまだ幼かったテオドールですら、婿入りだけは絶対に嫌だと感じたのを覚えている。

 その境遇を憂い、積極的に婚約成立に向けて動いたのはテオドールの母だ。他国の問題とはいえ、年端も行かぬ少女が健全な暮らしをできていない。それをどうして見て見ぬふりができようか。話から察するに、血を分けたはずの皇族が率先して女を蔑ろにしているのだから、手に負えない。

 きっと、長らくひとりだったのだ。テオドールと同じように。

 王妃はあれこれと理由をつけ、婚約成立時にイディ王国にソフィアを引き取ってきた。当然家臣団とは揉めたようではあった。

 しかし、それらの反発をうまく丸め込み、ほぼ一人で諸々の手続き等をこなしてしまったらしい。

「でも、お前はよく笑うようになったよ」

「みなさんのおかげです」

 王妃や王太子妃に大切に愛され、人を頼ることを覚えた女は元来の朗らかさを取り戻していった。何かあれば困った顔でこちらを見て助けを求めたり、よく笑い幸せそうに微睡む姿を隣で見て、テオドールはひとときの安寧を得る。

 女のそばはいつも、河のせせらぎを聴きながら空を見上げるような、そんな穏やかな時間が流れていた。

「アミンも懐いてるし」

「うふふ、嬉しいばかりですよ。この前なんか鬼ごっこして負けちゃいました」

「あいつ足速いからな……」

 気づけば女は王宮によく馴染み、甥のアミンだけでなく、国民からも愛されるようになった。

 誰もが二人の結婚を待っている。そろそろ、細い薬指に指輪を贈ってやりたい。

 順当に行けばそう遠くない未来に結婚となるだろう。それほど大規模な結婚式にはしない。ささやかなものでいい。王族という身分上叶わないであろうが、二人でとこしえを誓い、少し酒を飲むだけでも十分なくらいだ。

 痛みを知るソフィアは、テオドールの満たされない承認欲求からくる諦観に何も言わずに寄り添ってくれた。あの日、テオドールの兄の戴冠式すらも欠席し、彼女はテオドールの部屋を訪った。

 重たいローブを脱ぎ捨て、時間をかけて整えられた髪を解いて、ベッドの上で耳を塞いで縮こまる体を抱きしめて共に眠ってくれたのだ。あの陽だまりのような温もりをテオドールはこの先一生忘れることはない。

 いつも手を取り、一番近くで共に歩んでくれるソフィアを、テオドールはこの上なく愛している。永遠を誓い、この先ずっと共にありたいと願うのはソフィアだけだった。

 「ソフィア」

「なぁに、テオ」

テオドールの胸元にある小さな耳へ唇を寄せる。囁いた言葉は街の喧騒に溶けず、重みを伴ってソフィアの鼓膜に確と届いたらしい。花が咲き乱れるように頬を紅潮させ、ともすれば泣きそうにも見えるほどにとろけた笑顔で同じく言葉を返した。

「私も、あなたを愛しています」


 魔導文化による近代化が進んだこの世界では、王族も映画館へ足を運ぶ。

 二人が見る映画は、考古学者が助手のヒロインと共に事件に巻き込まれ、その知識を活かし解決する、といった内容でシリーズ化されて久しい作品の最新作だ。二十年近く前に第一作が放映されて依頼人気を博している。

 アクションや謎解き要素が売りの作品であり、そちらに目が行きがちだが、実は学術的な面で見ても興味深い。

 このシリーズは第一作から長く生きている妖精族を魔法の監修に起用していて、映画内で使用される魔法の半分は妖精由来の古い魔法である。神代の色を残した正真正銘、希少な妖精族の魔法だ。

 そんなものを論文や研究の中ではなく、劇中に惜しみなく使われるものだから、学者は放映のたびに腰を抜かし、魔法学校の生徒が映画館へ押し寄せる。

 ソフィアがこの映画を観たがったのも、その魔法が目的だ。ムト帝国の国歌が非常に稀有なもので、北の遊牧民族が話していた古語を現代語訳せず、そのまま使用している。その関連で、ソフィアは古い魔法に興味があった。

 カウンターで二人分のチケットとパンフレットを購入してから、売店でドリンクを注文する。運良くすぐに入れるチケットを買えたので、そのまま入場列に並んで上映を待った。

 上映が始まると、ソフィアとテオドールは自然と肘掛けの上で手を繋いだ。幼い頃から映画といえば王宮のテオドールの私室で視聴することの方が多く、ベッドの上で二人ぴったり寄り添いクッションを抱えたりするのが恒例だった。とはいえ映画館ではそれも叶わないので、自然と最大限触れ合うことを求めるとこの形に落ち着いた。

 だからこそ、気付いたというべきだろうか。

「……?」

テオドールは湿り気を帯び、ぎっちり握られた手に意識をスクリーンから引き離された。物語は中盤、主人公とヒロインの助手が川のほとりにある古城の地下室を探索するシーンだ。特に目立ったアクションや魔法の登場はなく、手に汗握るようなシーンでもない。

 それでも、何かは分からないがソフィアの繊細なところに触れたものがある。テオドールはすぐに気づいて、次第にかたかたと小さく震え始めたソフィアの手を握り返した。それからゆっくり力を抜き、親指の腹で手を撫でる。

 これで落ち着かないようであれば席を立つか、というところで持ち直したようで、手からは力が抜け、震えが止まった。

「出るか」

「いいえ、大丈夫」

 ソフィアの返答を聞き、スクリーンに向き直る。こういう時、本当に無理であればきちんと言う。我慢して悪化すれば逆に周りに迷惑をかける、とこれまでの経験で分かっているからだ。本人が平気と言うならひとまず問題はないだろう。

 その後もテオドールはソフィアの様子を伺いながらスクリーンを見ていたが、ライトが点灯されるまで席にいることができた。

「立てるか?大丈夫なんだろうな」

「心配性すぎますよ、もう平気です」

いまだ抱え込む癖があるのは知っているのだ。この女にかぎっていえば、心配なんかいくらしたって足りない。

 映画館を出たソフィアとテオドールは近くのカフェに入った。年代物の蓄音機からクラシックが流れる古い店で、日当たりも良く落ち着けるため、二人の行きつけとなっている。

 一番奥の目立たないソファ席に腰掛け、テオドールはブラックコーヒーにクロックマダム、ソフィアはアールグレイのストレートにワッフルを頼んだ。食欲もあるようでようやく安心し、映画の感想について語り合った。

 ソフィアの笑顔や表情に曇りはない。きっと、昔のことを思い出して動揺したのだろう。劇中登場したあの城は、彼女の実家たるティリエール宮殿に似ている。おそらく建造時期が近いのだ。決して良い思い出があるとは言えない、あの城を想起させたのだ。

 とはいえ、あの城にソフィアが戻ることはもうない。この十年、ムト皇家とはイディ王宮宛に届く公的な文書のやり取りのみだ。

 途中、両国には王族の誕生式典、戴冠式など大きな行事もいくつかあったが、そのどれにもソフィアは呼び出されていない。兄姉たちと個人的に連絡をとっている様子もなく、だからこそソフィアは家のことを忘れて王宮に馴染めたのだろう。

 テオドールと結婚してしまえば、国同士の繋がりはともかくとして、ソフィアと皇家との縁は今度こそ切れるはずだ。ムト帝国はもうソフィア個人には関わってこない。ソフィアが憂うようなことはもうないのだ。


 運ばれてきたワッフルにソフィアが小さく感嘆の声を上げた。添えられたアイスが焼きたての生地の熱で溶け、輪郭を滲ませる様を見て目を細める。美しい所作で切り分け、口に運ぶたび美味そうな顔をするソフィアを眺め、テオドールもつられて微笑んだ。

「美味いか」

「とっても!」

「良かったな」

 好いた女のほくほくとした笑顔を見て、テオドールはようやく自分の目の前に置かれたクロックマダムにナイフを入れた。とろ、と溢れた黄身に内心感動しながら、ひとくち。

「あ、うま」

「うふふ」

 時刻はそろそろ午後三時。コーヒー香るカフェの片隅で、陽だまり色の幸せが微笑んでいる。

 

 テオドールとソフィアは夜になると、テオドールの部屋で就寝する。歩き回って疲れた婚約者をエスコートしながら部屋に向かうのも慣れたもので、日も暮れる頃にはテオドールの腕に体を預け、満足そうに深く息をするソフィアを見られる。

 部屋に入ってからは穏やかに眠る日が多い。疲労と眠気に抗えず、むにゃむにゃ言い始めるソフィアの世話をして、同じベッドで寝る時間は心底愛おしい。普段は面倒この上ないため、侍女に身の回りの世話を全てさせているが、ソフィアの世話ならなんでもできそうだった。

 テオドールの腕の中、信頼しきって無防備に眠る年上の婚約者の顔を、一番近くで見られるのは、言葉にならない喜びがある。

 今日は映画館の一件でやや消耗したのだろう。テオドールが端末で治水の論文を見ながら話しているうちに、グラスを持ったまま寝落ちしていた。

 会話に返事がなくなったな。テオドールが顔を上げると、器用にグラスの水平を保ったままテーブルに頭をぶつけかけていたので、慌てて受け止めてやった。腕の中項垂れる婚約者は、ぷうぷうと小さく寝息を立てていた。

 疲れているなら起こす理由もない。ひょいとソフィアを抱えたテオドールはソフィアを風呂に入れてやり、服を着せて髪を乾かしスキンケアも終わらせる。疲れが明日に響かないよう、少しマッサージをしてやってから同じベッドで就寝した。


 深夜。

 控えめに響いたバイブレーションと端末の画面が表示された光でテオドールの意識が浮上する。ぼやける視界に映るのはソフィアの端末だ。短いフレーズが一度響いただけで、恐らくはアラームの音ではない、メールがメッセージアプリの通知だろう。

 ぱちぱちと二度瞬いて視界が幾分か鮮明になると、テオドールは導かれるように端末に手を伸ばした。

 普段ならば絶対にこんなことはしない。灯と音で目覚めてもすぐに微睡へ引き返しただろうし、いくら家族よりずっと信頼する人間のものであろうと、許可なく端末を見たりなんかしない。

 ベッケンバウアーの一族が持つ、鋭い感覚のうちの何かが反応したのか、経験からくる何かだったのかは、テオドール自身わからない。

 だが、今見ておかねばならないと漠然とした思いがあった。

 ソフィアの端末のロック画面はテオドールと公務で訪れた海辺の街での自由時間、ふらりと寄った店先で撮ったツーショットだ。弾けるような笑顔で笑うソフィアと己の顔の少し下、ウィジェットに表示されたアイコンはメール。その送り主の名を見てしまえば、常夏の国での思い出に浸ることはできなかった。

(アレク、サンドル……)

 表示された名は丁寧にフルネームだった。アレクサンドル・マアルボレッド。それはソフィアの二番目の兄にしてムト帝国第二皇弟の名であった。件名も本文も表示されていないため、何のやりとりかはわからないが、テオドールに衝撃を与えるにはそれだけで十分だった。

 この十年、ソフィアとムト皇家がやりとりをしているだなんてテオドールは一切知らなかった。互いにパスコードを教え合い、実際許可を得て使うこともあったが、実家に関わる連絡先がなかったのは見ていた。そも実家からの個人的な連絡とあればソフィアは何かしらアクションをしたはずだ。

 だがそれらしい動きは一切見たことがない。

 いや、ソフィアが見せなかった。隠し通したのだ、今の今まで。現にこうして実家から連絡が来ているのだし、少なくともソフィア個人の端末のアドレスを向こうは知っている。

 いつから、何のために連絡を取っていたのだろう。それは、ソフィアにとって辛いものではないのだろうか。テオドールには、言えないことだったのだろうか。

(……情報が少ない。今考えるのは得策じゃあない)

朝起きれば真面目なソフィアは日課として、一度届いたメールに目を通す。その時の様子を観察しておこうとテオドールは無理やり思考を振り払って目を閉じた。

 暗闇から聞こえるソフィアの寝息は深く一定で、ぐっすり寝入っているのがよく分かる。昔のようにうなされることもなく、安心して眠れているのなら深刻に考えなくてもいいのかもしれない。

 細い体を抱きしめぴったり寄り添う。柔らかな髪から香る花の香りに誘われるように、テオドールの意識は夢へと落ちた。


 次の日、テオドールが目を覚ますとソフィアは既に身支度を終えていた。白に青の羽、イディ王国の王族用紋様が刺繍されたドレスは、ソフィアによく似合う。イディのために生きると誓ったものの服だ。

「おはようございます、テオ」

「はよ……」

 くぁ、とあくびをしながら、テオドールはしくじったと内心舌を打った。ソフィアの端末は枕元にない。チャットやメールはもう確認し終わったであろう。様子を見損ねた。こんな時に自分の惰眠を貪る癖が憎くなる。眠たくなるのは仕方ないとして、寝すぎるのはもうやめた方がいいかもしれない。

 ベッドから起き上がり、クローゼットから引っ張り出したイディ王国の伝統衣装に身を包む。普段着はもっぱらこれだ。貫頭衣がベースなので着やすいし、気温の高いイディでは涼しい。サッと着て、髪をローポニーに纏める。長く艶のある黒髪はソフィアが手入れを勧めて以来伸ばされている。

 椅子に着席すると、ソフィアがうきうきと化粧品を持ってやってきた。テオドールは顔が整っているから、化粧が楽しいらしい。とは言っても、することは必要最低限だ。眉を整えて、パウダーを叩く。それから、軽くリップを塗って終わる。

 少しでも自分の手で好きな男の顔を整え、満足したソフィアはテオドールの手を引いて外に出た。公務の時間だ。

 テオドールとソフィアは主にインフラ整備について担当している。まだまだ発展途上のイディ王国ではスラムも多く、なにもかも行き届いていない地区ばかりだ。それらを改善し、国民の生活水準を底上げするのが二人の役目である。

 二人は黙々と仕事をした。テオドールはチラチラとソフィアの様子を伺ったが、特に動揺した様子も、精神が不安定な様子も見受けられない。杞憂だったか、でも……とテオドールは不安を拭いきれないまま、公務を進めた。

 

 それから数日後、テオドールの不安は的中した。

 結婚準備があるからと、ソフィア実家に戻ると言い始めたのだ。

「なぜ帰るの?結婚の日程だってまだ決まってないのに」

「何かイディに不満があったかい?」

「……申し訳ありませんが、帰ります」

ソフィアはそういうと、本当に帰国してしまった。

 テオドールは慌てて後を追う手続きをした。が、返答は芳しくない。

「国の重要な祭りの期間のため、来国はご遠慮願う」

正規のルートでは入国出来なくなってしまった。

 ではどうするか?

 王族として一番やりたくないのだが、ソフィアを思えばなりふり構ってもいられない。テオドールは国際問題覚悟で密入国することにした。

 宮廷魔術師のオドゥオールを一般人として入国させ、深夜の河辺で水鏡を利用し、テオドールが転移するための入り口を作る。

「必ずソフィア様を救いましょう。かの人を失えばテオドール様のような捻くれ者と番う奇人など居らねば」

オドゥオールは年長者故少し無礼だったが、この際目を瞑る。

 オドゥオールが無事に渡航すると、テオドールは水鏡で呼び出された。高度な術式を組む必要がある水鏡を、即席でなしてしまうのだからオドゥオールの魔術は素晴らしい。しかしここで褒めると調子に乗るのがわかっていたため、テオドールは何も言わなかった。返ったら存分に褒めてやる。

 テオドールは一番高台に建設された、ムト帝国のティリエール宮殿を見つめる。ソフィアは必ずあそこにいる。オドゥオールを連れ、テオドールは歩き出す。必ず伴侶を救うという決意を胸に。


 *


 「ソフィア、戻りました」

暗く澱んだ声に、高い声がヒステリックに声を上げる。

「いやだわ、相変わらず陰気臭い! 」

「そう言うな、ココ。あれはそういうふうにつくられたモノだ。」

「アレクサンドルお兄様は少し甘いのだわ、自分の立場をわからせないとつけ上がります! 」

ココが机を叩いて抗議すると、ソフィアがびくりと体を縮こませる。それを見たココは意地悪く笑って罵った。

「随分イディでは良くしてもらったそうじゃない? それが当たり前と思わないことよ、ソフィア」

 ばしゃり、ソフィアの頭に、手元にあったグラスの中身をぶちまける。水に濡れたソフィアはすっかり黙り込み、目を伏せた。その目は絶望に濡れている。

「うるさいですよ、ココ」

「品がない」

部屋の左右から双子の長兄、長姉が現れる。兄をジェームズ、姉をサビーナという。現ムト帝国の皇帝と女帝だ。

 この国に王は二人いる。幼い頃からなんでも同じだけできた二人は、分け隔てなく王として育てられた。先代皇帝は、ジェームズとサビーナに遺言を遺し亡くなった。

「二人でムトを統治せよ」

そうして、二人は皇帝として戴冠したのである。

 「ソフィア、呼び出された理由はわかりますね」

「はい、国土の防衛陣が弱まったとアレクサンドルお兄様からお聞きしています」

 ムト帝国はその大河の中洲にあるから誰にも攻められてこなかった。それは一つ事実だが、隠された秘密があった。人柱による国土防衛陣の発動である。

 強い魔力を生まれ持った者を虐げ、負の感情を蓄積させる。心の中でぐるぐる渦巻く負の感情は、爆発するとそれは強大なエネルギーとなった。ティリエール宮殿の地下の陣の上で苦しみの涙を流すと、国土を覆い尽くし一つの術式となる。それが敵意を持って触れるものを殺すマアルボレッドの呪いの陣。

 記憶の大河の魔力を吸って百年単位で維持されるそれが、弱まっている。

「よろしい。お前の存在意義を果たす時だ」

「国のために死になさい」

 今代、兄妹の中で最も魔力が強く、固有魔法を発動させたのはソフィアだった。ソフィアの嘆きの一滴(ラメンタブル・ドロップ)は泥水による濁流を生み出す死の魔法。あらゆる物を押し流し、更地に還す大災害。水に守られる反面、水によって苦しんできたムトの中洲に生まれるには、あまりに皮肉な固有魔法。

 ソフィアの固有魔法の発現は早かった。まだ物心着く前から水を生み出し、泣きじゃくるたびに宮殿を水浸しにした。生まれたばかりの赤子が、魔法で広い宮殿を飲み込みかけるほどの水を出す。それだけでソフィアは畏怖の対象であり、両親はすぐに贄として育てることを決めた。

 彼女の両親は、人として我が子を見てはいなかったのだ。

 「帝王陛下の、お望みのままに……」

「あなたはこれから陣の上で過ごしなさい」

「安心せよ、テオドール殿との婚約は上手く破棄しておく」

「承知しました」

双子の皇帝はそれだけ言うと部屋から出ていった。それに合わせ、アレクサンドルとココも部屋から出ていった。ソフィアは絶望に打ちひしがれ、

「かみさま」

と呟いた。

 救いを求める声は、誰にも届かなかった。



 深夜のティリエール宮殿は不気味な静謐に包まれ、幽霊屋敷のようだった。建築されてからかなり時が経っているため、ところどころ苔むし蔦が張っている。音が響くためオドゥオールに無音魔法を展開させ、静かに城内を探索する。探索と言っても、テオドールの足取りは澱みなく、スタスタと歩いていく。

「迷いがありませんな、道をご存知で?」

「こういう城は造りが決まってんだ。ある程度どこに何があるかわかる」

「おお……生き字引……」

 テオドールは宰相となるよう育てられた。褒められるたび嬉しくて、良く学び良く考えて生きてきた半生だ。イディ王国の生き字引とまで呼ばれるようになったテオドールは、故にインフラ整備という重要な政務を任せられている。

 だが、テオドールは知っている。人々が自分に求めているのは王たる長兄のサポーターであり、自分自身ではないことを。何をしても兄以上には褒められないことを。調子に乗ってはいけない、抑圧されてきた人生だ。そうして、面倒くさがりのテオドールが生まれた。実力を発揮するだけ虚しいのなら、適当にやっていたい。

 そんな彼を変えたのがソフィアだった。ありのままを受容し、愛したのは彼女だけだった。テオドールはソフィアに救われたのだ。だから、今何か抱えているなら力になりたい。困っているなら救いたい。今度は自分の番だ。

 テオドールは進む。ティリエール宮殿のまとわりつくような闇を振り払い、進む。


 最深部まで進むと、テオドール達は地下への扉を見つけた。施錠されていたため魔法で開錠し、ゆっくりと階段を降りていく。下に進むにつれて階段は濡れ、ごうごうと川の音が響き始めた。地下で川と繋がっているのだ。

「そろそろソフィアがいるところに着く」

「なぜお分かりになるので?」

「直感だ」

「ベッケンバウアーの直感、ですな。受け継がれているようで何よりです」

 テオドールの連なるベッケンバウアー一族は皆何かに秀でている。武芸、教養、統治。その中でも、直感、判断力に優れるものが多いため『ベッケンバウアーの直感』と呼ばれるのだ。

「腐っても王族だぜ」

「ご自身をあまり卑下なさるな。あなたは腐ってなどおりませぬよ」

 階段を降り切ると、また扉がある。テオドールがドアノブに手をかけた瞬間、オドゥオールは姿くらましの魔法をかけた。判断の早い老獪なる魔術師を連れてきてよかった。テオドールはそうっと扉を開け、中の様子を伺う。

 そこに、ソフィアがいた。周りにはソフィアの兄妹達のほか、ムトの宮廷魔術師と思われるもの達が並び、何事やら呟き続けている。

「呪いの詠唱に聞こえますな」

「ソフィアに何やってんだ」

「違いますよ、ソフィア様を核に呪いを作っているのです」

「ふぅん、いい度胸だ」

 テオドールは一気に扉を開けて地下の大儀式場に突入した。腰に携えた剣も、脇のガンホルスターに仕込んだ銃も抜いて、戦う準備は万端だ。オドゥオールはテオドールがソフィアのそばに辿り着くと、姿くらましの術を解いた。同時に、魔法障壁を張る。

 「テオドール! 」

「久しぶりだなアレクサンドルオニーサマ。俺のソフィアに変なことしやがって」

「なんでイディの田舎男がこんなところにいるのよ! 」

ココが喚くと宮廷魔術師達が攻撃を始めた。それをオドゥオール一人で受け、テオドールは屈んでソフィアへ声をかけた。

「ソフィア、俺だ。テオドールだ」

「……」

 やつれて泣き濡れた顔がテオドールを見る。焦点の合わない瞳が、それでも声で婚約者を認識してくしゃりと歪んだ。

「どうして来たの」

「あんなお前を放っておくほど馬鹿じゃねえ」

そう言うと、ソフィアは静かにテオドールに縋った。もう泣き喚く力も無いらしい。脱力しているソフィアを抱え上げ、オドゥオールに声をかけようとした。

 瞬間。

「河よ、応えよ」

ムトの宮廷魔術師の一人が嗄れた声で床を杖で勢いよく突いた。

 ソフィアの胸を黒い水の刃が貫く。

 ざくり。

 刹那、音も、時も。

 呼吸さえも止まった気がした。

「かっ……! 」

 水の刃は止まらない。次々と床から出現し、ソフィアを貫いていく。あまりの量の刃にテオドールの手を離れ、空中に持ち上がるソフィアの体を、水の渦が包んだ。

「波濤せよ! 」

蕾む河の水が花開く。

 ソフィアを磔にした、流体の魔物が目を覚ました。

水が花びらのように蠢き、呪文がソフィアを拘束する。

「なんだ……ありゃ」

「わかりません、人の体を使った禁術であることは確かです」

 テオドールが手に持った剣を強く握る。人の婚約者を使って禁術だのなんだの、好き放題しやがって。相手は人だ、人間なのだ。奥歯を噛み締め怒りをおさめようとしても髪が逆立つ。こんな激情を覚えるのは初めてだった。

「術式の解析はできるか」

「無論です」

「俺の装備に魔法をかけて、あれと戦えるようにしろ」

「承知しました」

 オドゥオールはテオドールの剣に闇を切り裂く魔法を、銃には弾丸に光を纏わせる魔法を使った。大抵の呪いには効くだろう。

「行きなさい、背中は私めが守ります故」

「頼むぜ」

 テオドールが駆け出すと、魔物の前にアレクサンドルが立ちはだかる。彼もまた剣の使い手だ。ニヤニヤといやらしい笑みで剣の鞘を捨て、テオドールに牙を向く。

「王弟殿下が密入国とは聞いて呆れますなぁ! 」

「皇族がこの現代に贄を使った呪いとか、聞いて呆れるぜ」

 ギィン、刃がぶつかり高い金属音と振動による余韻を残す。テオドールはアレクサンドルの邪魔が鬱陶しくて仕方なく、力技で押し切ることにした。

「俺の前に立つな! 」

「ぐっ……?! 」

 一度後退して間合いをとった後、剣を振りかぶるふりをして、アレクサンドルの鳩尾に膝を入れる。無駄に戦う必要はない。衝撃で落とした剣を素早く拾い上げ、テオドールはアレクサンドルの服を刺し床に縫い付けた。これでしばらくは動けまい。

 テオドールはそこから再び魔物に向かって駆け出す。

「ソフィア! 」

呼びかけに返答はない。代わりに、魔物はテオドールを見て咆哮した。水の花弁を振り上げ、横から吹き飛ばそうとするのを剣で切り裂く。オドゥオールの魔法は効果があった。

 戦える。

 そう確信したテオドールは魔物の懐に入った。体勢を低くして襲いくる花弁や蔦を剣で弾き、切り裂き、核となるソフィアを引き剥がしにかかる。呪いは強固で、剣で切り裂くだけでは表層一枚しか剥がせなかった。そこで、テオドールは銃で撃ち抜き剣を入れる隙間を作ることにした。

「ソフィア、聞こえるか。己を保て! 河に呑まれるな! 」

 テオドールの呼びかけにソフィアは反応しない。代わりに、魔物が一層高く咆哮する。

「くそっ! 」

花弁がテオドールの背中を打つ。痛みに悶える暇もなく、蔦が胴に巻きつき引き剥がされた。

 こんな時、自分も魔法が使えれば。そうすれば──。

 テオドールは魔法が使えない。この世界で魔法が発現するものは人口の五割ほどで、科学と魔法の進歩著しい現代において、いまだ解明されていない謎の一つだ。その発現しない五割になったテオドールは、これまでの人生不便を感じていなかったが、こんな時ばかりは己の性質を呪う。

 愛するものを助けられずしてどうする。

 それでもテオドールは諦めない。諦めたらそこで全て終わってしまう。再び駆け出したテオドールは花弁を切り裂き、蔦を弾き飛ばし、またソフィアの元へ辿り着く。

「……テ、オ……」

「ソフィア! 」

 わずかにソフィアの意識がある! 

 風の鳴き声ではない、空耳ではない、確実にソフィアの声で、テオドールを呼んだ。テオドールは無我夢中になって剣を振るい、銃を撃ち、呪いを手でむしり取ってソフィアの解放を急ぐ。

 その時、魔物が血を這う低い声で詠唱をした。

『私は渦、全てを飲み込む、底なき絶望』

不味い。ソフィアの固有魔法を使う気だ。

「オドゥオール! 飛べ! 」

 テオドールがソフィアの身体に抱きつき、オドゥオールが浮遊魔法を使ったその時だった。

『嘆きの、一滴(ラメンタブル・ドロップ)』

魔物の足元から澱んだ河の水が溢れ出す。渦を描いて急激に水嵩を増し、その場にいる全ての人間を飲み込んだ。

ココも、アレクサンドルも、ムトの宮廷魔術師達も逃げる間もなく飲みこみ、渦は魔物に収束していく。

 「なんと……強大な……」

「オドゥオール! 無事か?! 」

「テオドール様! あなたこそご無事ですか! 」

「平気だ! 」

水が引き、魔物が攻撃してこないのを確認して、オドゥオールが加勢に入る。光魔法を使って呪いを引き剥がし、魔法障壁を張って花弁や蔦の攻撃を凌ぐ。

 「厄介です。あの老魔術師、これほど細かな術式を構築していたなんて……」

「てめぇもジジィだろ」

「ジジィですが現役です。光よ! 」

オドゥオールが虹色の光を発すると、呪いがじわじわと溶け始めた。溶けたのは表層二、三枚ではあったが、それでも十分助けになる。

「右腕とれたぞ! 」

「左脚、解放にございます」

 ソフィアの四肢を呪う呪文を剥がし続け、二人はゆっくりとその体を魔物から取り除いた。すると、魔物はびしゃりと水に戻り、石畳を濡らした。

「終わった、のか……?」

「またです。ソフィア様に残った呪いがございますので、それも解呪します」

 オドゥオールが手持ちのチョークで陣を描き、陣の中心に意識を失ったままのソフィアを横にして、テオドールが細い手を握る。

「テオドール様はお気付きではないかもしれませんが、あなたは触れたものの呪いを無効化する能力をお待ちです。手を握っていてください」

 そう言うと、オドゥオールは長い長い詠唱を始めた。最後の重要な場面に、テオドールの手に自然と汗が滲む。

「還りたまえ、還りたまえ。水は河に、人は地に。光よ、呪われしものの眠りを覚ませ。息吹よ! 」

カン、オドゥオールが杖で陣を突くと、陣が発光しソフィアに巻き付いていた呪いを解いていく。水に還っていく呪い達は静かに石畳の隙間に消え、青白かったソフィアの顔色が健康的な桃色に戻った。

 「ん……」

「ソフィア!」

オアシス色の瞳が目を覚ます。ぱちぱちと瞬きをした後、テオドールの補助を得てゆっくりと起き上がった。

「私……ああ……」

キョロキョロと何もなくなった大儀式場を見て、ソフィアは痛々しそうに目を瞑った。解放されたと言うより、自身の魔術の暴走に心を痛めているらしい。どこまでも心優しい女だ。それに気づいて、テオドールはきつくきつくソフィアを抱きしめた。

「お前は何も悪くない。悪いのはお前の周りにいた奴らだ」

「でも私……国を守るために……」

「誰かを犠牲にしなきゃ守れない国なんか滅んじまえ」

「テオ……」

泣き出したソフィアをテオドールは抱き上げ、地下の大儀式場を出た。今は何を言うより、ソフィア自身に感情の整理をさせた方がいい。

 三人は地上まで登る。長い階段を登るたび、ソフィアは感情の揺らぎが落ち着いて、呼吸が穏やかになった。これでもう大丈夫、帰ってカウンセラーなどにケアをさせてやれば落ち着くだろう。

 そう思ったのも束の間、地上への扉を開けると、そこには二人の皇帝が待ち構えていた。

「お前には失望しました、ソフィア」

「我が国はこれで、今後百年侵略に怯えなくてはならない」

 ソフィアが目を伏せた瞬間、テオドールが獅子のように吠えた。

「馬鹿野郎っ! 侵略戦争を起こさせないための外交で、そのための王だろうが! 」

「これは我が国の問題です。他国の密入国者に言われる筋合いはありません」

「禁術使って国を守ってました、なんて他国に知られたら針の筵だぜ」

「密入国をしたあなたも国際問題になりかねない。弁えよ。テオドール・ベッケンバウアー殿」

「お前らに比べたらかわいいもんだろ」

「我々のような小国はこのくらいせねば、あっという間に押しつぶされます。国は理想で動きませんことよ、テオドール様」

 テオドールが舌を打つ。ソフィアをこんなにも弱らせたマアルボレッド家には、言い過ぎなくらいが丁度いい。

「恐れながら、皇帝陛下に申し上げます。発言をお許しください」

 見かねたオドゥオールが助け舟を出す。深々と礼をして、跪いた。

「許しましょう、イディの魔術師」

「何事か申してみよ」

「我らがイディ王国の宮廷魔術師は、国境に光の防衛陣を張っております。善きものを通し、悪きものは弾く虹の魔法なれば。その魔術をご提供できます。ここはどうか穏便に済ませてくださいませんでしょうか」

 その言葉を聞き、ジェームズとサビーナは二人揃ってテオドールを見た。

「可能だ。手配できる。俺から王に進言して、新しい宮廷魔術師が揃うまでこちらの魔術師を派遣することも約束する」

今度は二人顔を見合わせて、わずかに微笑みながら頷いた。ジェームズとサビーナが初めて見せた笑顔だった。

 「よろしい。受け入れましょう。その術があるならばソフィアはもう自由の身です」

「そちらで役立てると良い。生来聡明な女なれば、あなたの伴侶としてよく働くだろう」

テオドールとソフィアは抱き合って喜んだ。テオドールはオドゥオールの出した提案に

「流石だ」

と言って背中を叩いた。

 テオドールとソフィアの頬に光が差す。

 朝日が昇ったのだ。

「それでは失礼いたします」

「テオドール・ベッケンバウアー殿、帰国のための船を手配する。密出国はなさらぬよう」

「おう」

苦笑したテオドールは、ソフィアを連れて河岸へ向かった。三人で帰国する船の準備は整えられていて、快適な船旅を二時間過ごしたのち、三人はイディ王国宮殿へと帰り着いた。

 長く、短い旅だった。



 ソフィアとテオドールはあまりの疲れに、丸一日を寝て過ごした。起きて支度を済ませた二人は慌てて王に対し、今回の一件について正直に報告を上げた。王の執務室に緊張した顔で入った二人は始め怪訝な顔で見られたが、訳を話せばテオドールはそれはそれはこっぴどく叱られ、ソフィアも

「家族なのになぜ相談してくれなかったのか」

と王妃がソフィアの手を握って、泣きながら叱られた。

 二人が今後のムト帝国との外交案として提出した『宮殿魔術師の派遣と国境に張る魔術の提供』も受け入れられ、直ちに準備が進められた。宮廷魔術師が派遣された後、ムト帝国からは礼として、ソフィアの結婚に必要な礼服など一式が贈られた。ムトの伝統工芸品である布に、イディの青い羽の刺繍が入ったドレスに、テオドールとソフィアは微笑んだ。ムト帝国の二人の皇帝は、二人の結婚を認めたのだ。

 バタバタと日々が過ぎていく。寝ている間に溜まった政務をこなし、ムト帝国とのやりとりも同時に進めなくてはならない。忙しい日々がしばらく続いた。

 二週間も経てばそんな日々も落ち着き、二人には日常が戻ってきた。今日は久々に公務を休めると、テオドールの部屋でのんびりとしていた時だった。

「その、テオ」

「ん? 」

もじもじとしてなかなか物を言わないソフィアに、テオドールはピンときた。

 抱いて欲しいのだ。

 そういえば、ここ一月はソフィアの家のこともあり、伴侶らしいことはデートくらいしかできていなかった。

「するか」

「……うん」

頬を染めて下を向く。その仕草に愛しさが募る。この愛らしく、慕わしい命が俺のもの。テオドールはソフィアを抱きしめ、シーツに溺れた。

 互いの瞳を見つめる。

 そこにはただただ、愛があった。



 河の声が聞こえる。

 身体の芯にまで響くような低い音が、私を呼ぶ。昔からそうだった。心が痛むたび、私の魔力は河の声に誘われてきた。どれほど耳を塞ぎ拒絶したところで意味はなく、指の先から魔力が解けて荒ぶる波濤へと変わっていく。

 でも、今は愛する人がいる。愛する家族がいる。

 この魔力は使い方を覚えた。宮廷魔術師が上手く使えば飲み水にもなる。飢えた人々に一時の潤いを与えることも可能だ。私の感情の奔流は、誰かを傷つけるものではなくなった。

 何千年もそこにあり、多くを見送り、彷徨う魂を鎮め、歴史を見守ってきた記憶の大河。どれだけ母国を離れようといつかは必ず帰り着き、最期はその流れに身を沈めて果てるのだろう。でも、今の私には笑い声に聞こえる。河は私を誘うのをやめ、楽しげに笑っている。きっと本来、河はずっと慈しみ、笑っていたのだ。

 問えば答える、触れれば見える、最期の時には全てが解る。記憶の大河とはそういうものだ。答えは水底にて穏やかに微睡んでいる。

 私の喜びもは大河と共に。深い深い河の底、眠りについた歴史のその中で、今も静かに笑っている。

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