土曜日に動物園へ行く
合野(ごうの)
土曜日に動物園へ行く
理由はよくわからないがお父さんはキリンが好きだった。晩ごはんを食べ終わり全身を気だるさで包んでいたころ、お父さんが
「キリン見に動物園へ行こう」
と言いながらカーテンを閉めた。
「キリンとは何ですか」
弟が聞いた。こいつは何も知らないくせに大人のような話し方をする。
お父さんが何も言わないので代わりに私が答えた。
「動物で、哺乳類で、四つん這いで、でかくて、首が長くて、角が生えてて、黄色くて、茶色の模様がある」
「興味深いですね。是非見てみたいです」
何も知らないし何もできないくせに建前と敬語だけは使いこなし、この子はしっかりしているねとかいい子だねとか言われてきた弟が私は本当に嫌いだ。ソファに座って胡坐をかいているその横っ面にビンタを食らわせようと腕を伸ばしたが、私は身体能力が低いので容易に避けられてしまった。行き場のなくなった掌がソファの布地を叩く。
「それじゃあ決まりだ」
「うれしいです。今から準備します」
弟はわざとらしくはしゃいで、ポールハンガーを倒しながら緑のナップサックを持ってきた。ファスナーが開けられると、ダルマやハサミや新聞紙や動かないカブトムシや木のかけらがドサドサ出てきた。夏休みに訪れた祖父母の家の土産だろう。私は顔をしかめた。
「動物園行くっつったらだいたい週末だろうが」
ナップサックを爪先で蹴った。さらに饅頭が転げ落ちてきた。腐っているに違いない。
「そうなんですか。良いことを知ったな」
弟は驚いたような顔をしてみせた。こんなこと言ったところでどうせこいつは週末になったら忘れてる。
「で、何持ってきたんだよ」
動物園へ向かう車の中で脇腹を小突きながら尋ねた。
「ええと……そこらへんにあったもの入れてきたから、あんまり覚えてないんですけど」弟は膝に置いたナップサックの中を覗いた。「なんか、こういうものが」
「あっ」
出てきたのは、私が二週間くらい前になくしたと思っていた電子辞書だった。月のシールが貼ってあるので、私のもので間違いない。
「なんですか」
「お前盗んだだろ」
私は弟の手から電子辞書を毟り取った。
「盗んでないですよ」
弟は困ったように眉を下げて言った。その顔に無性に腹が立って、死んでしまえと思いながら機械の角を頭に向けて振り落とした。
あっさり避けられ、フロアに落ちた電子辞書から乾電池が飛び出した。
「あんまり暴れるな。事故るぞ」
「だってこいつが私の物盗むんだもん」
「盗んでないです」
「そうか。元気でいいな」
せめて今日お母さんが来ていればもう少しマシだったかもしれない。なのに、サルが怖いと言ってお母さんは頑なに家を出なかった。私だって、動物園は臭いし、中学生にもなって週末に家族で動物園なんて子どもみたいだから嫌だと言ったのに、そんなわけないと押し切られてこの車に乗ってしまったのだった。すでにそのことを後悔していた。
「そうだ」信号で一度停止したとき、お父さんが振り返って座席の隙間から私たちに赤いマフラーを渡してきた。「これを巻いていきなさい」
「なんで?」
季節はまだ秋の半ばで、私はパーカーだったし、弟に至っては半そでのシャツだった。マフラーはまだ暑いだろうと思った。
「キリンの首が長いって話は聞いたか?」
「そうなんですか?」
「言っただろ馬鹿」
「なんでキリンの首が長いか知ってるか?周りの動物の首を持っていくんだよ。勝手に。だから持ってかれないようにキリンの前では首を隠した方がいいんだ」
「知りませんでした。すごいですね」
「キリンって草食べるために首長くなったんじゃないの」
「草なんて地面にいくらでも生えてるだろ」
「は?」
車がゆっくり動き出した。
弟は渡されたマフラーを首元にぐちゃぐちゃに巻いた。私はどうせすぐ外すことになると思って、ショルダーバッグにしまおうとした。でも入りきらないので、ファスナーが開いたままの緑のナップサックに押し込んだ。
「楽しみだなあ。だってキリンが見られるんだぞ。先生や社長よりずっとすごいんだ」
「すごい!楽しみです」
「本当に死ね」
土曜日の道路は混んでいて、私たちみたいなつまらない家族が群れのように平行移動しているんだろうと思った。お父さんと弟の会話が嫌だったので私はスマホで画像や文字をたくさん見ることにした。
「すげえ、全然空いてないぞ」
という声で私は現実へ戻ってきた。
駐車場についたのだと分かった。似たような車が規則的に並んでいた。確かにパズルなら完成という感じだった。
「向こうにも駐車場あるらしいですよ」
「めんどくさいなあ」
「え、空いてるとこあんじゃん」
「本当か」
「あそこの赤い車と痛車の間」
「痛車の隣かあ」
お父さんはぶつぶつ言いつつも、私が指さしたところへ車両を滑り込ませた。降りて私は、ここの座標について考えた。ショッピングモールの大きな駐車場に停めるときなんかは、うちの車を見失ってしまったらと不安になり、盤面のどこにピンが立っているかなるべく詳細に覚えるよう努めていた。でも赤い車と痛車の間なら大丈夫そうだと思った。
「あ!動物園の入り口ですよ」
誰でも見ればわかるゲートをわざわざ指さして弟は走り出した。私は足を出して転ばせようとしたが、造作なく避けられた。天気は薄曇りだった。
「ほら、チケット買うから待ちなさい」
私たちは荷物の少ないお父さんがチケット売り場に並んでいるのを遠巻きに眺め、薄ピンクの小さな紙を手渡され、すぐさまそれをゲートにいる職員に渡した。
「久しぶりに来たけど、こんなに広かったかな。前に来たときはお前たち小さかったのにな」
入ったすぐのところに積まれているマップを手に取り、硬い紙の折り目の強さに手こずりながら広げていった。
「キリンはどこですか」
「奥のほうだな。この辺りを通って、キリン見て、こっちから帰れば良い感じにまんべんなく回れるが」
「いいんじゃない、それで」
「いいですね」
土曜日の動物園には親子連れが多く、家族の写真素材のようだった。甲高い笑い声が聞こえたと思えば五人の中学生の集団がいた。もしかしたらクラスメイトや知り合いが来ているかもしれないと思ったら心臓がギュッとなった。だってこのお父さんに弟。横目でちらりとスキャンして、近くに知った顔のないことに安心した。
「よし、ヤギのとこまで行ったら食堂入ろう。好きなもの頼んでいいぞ」
「やった!魯肉飯食べたいです」
弟が言いながらマフラーの端をぶんぶん回した。
「食ったことねえだろ、馬鹿」
「食べたことないもの食べたくなったって良いだろ」
「は?」
「お前いちいちうるさい」
「動物園の食堂に魯肉飯あると思うような馬鹿に言われてもな!」
黙らせたくて声を張ると少し前を歩いていたお父さんが振り返った。「何してんだ。早く行くぞ」
「……」
私は大股歩きでその背中に追いついた。
そのあとはつまらない時間ばかり続いた。弟とお父さんがサイやよくわからんイタチ科を見ながらお手本のような歓声を上げたりどこかで聞いた動物知識を披露しているところの少し後ろでつかず離れず関係ない影だった。
私は動物を見ているようでずっと人間ばかり見ていたし、もし知り合いと会ったらなんて言おうかとか、紺のパーカーより黒のスウェットのほうが大人っぽかったかなとか、小学生の頃この動物園に遠足で来て行動班からはぐれて迷子扱いされた苦い思い出のこととか、頭が勝手に考えては自分を落ち込ませていた。
そうしていると本当に早く家に帰りたいと思ってきた。どうして私は土曜日にこんなところへ来てしまったんだろう。部屋でベッドに寝転がりながらスマホ見たりマンガ読んだりしていたかった。
足元に視線を落としていたので、弟の「わあ!」という声で顔を上げた。見ると弟は転んだようだった。
「おい、マフラーをちゃんと巻いていないから」
お父さんがあきれたように言った。どうやら首からぶら下げていた赤い布に躓いたらしい。
「うう……膝をすりむきました」
弟がその目に涙を溜めて訴えるのを見て、私は無性に腹が立った。うずくまる弟にずんずん近寄り、シャツの襟元をつかんで無理やり立たせた。
「十歳にもなってめそめそ泣くな!気持ち悪い」
耳元で叫んだ。弟は私を見ず、落ちたマフラーを拾って再び首にグルグル巻いた。
「あんまり喧嘩すると猛禽類が集まってきちゃうぞ」
「……はあい」
私は返事をして石を蹴りながら歩き出した。
「あとちょっとでキリンだからな。普段頑張ってるご褒美だな」
「何が?」
「お、レッサーパンダの檻だ」
「……」
「かわいいなあ。こいつらは立たないのか」
「……」
「実はな、パンダっていうのはもともと白黒のでかいやつらを指す名前じゃなくて、この茶色い小さいやつらの名前だったんだ。それが……」お父さんが言葉を止めて振り向いた。「あれ、あいつは?」
「あ?」
「いないけど、帰った?」
確かに弟がいなかった。どうりでうっとうしい声が聞こえないわけだ。
「車も金も根性もなしに帰れるわけ」
「仕方ない。来た道を引き返そう。それで見つけられなかったら迷子センターへ行こう。それでも見つけられなかったら警察へ」
二手先を考えるお父さんを置いて私はキリンから遠ざかっていき、二分歩いたところで人だかりを見つけた。それに近づくと人間の大きな声とともに、ギイギイと甲高い音も聞こえた。
弟捜索と関係あるのか不明なイベントに一度足を止め、遠巻きに様子を眺めると「助けてください!」子どもの鋭い声が上がり、弟があの人だかりの中にいるのだと分かった。
家族が動物園で注目を浴びているのはとても恥ずかしいことなので、下を向きながら人壁を割り、その中心へ足を踏み入れて「ほら早く行くよ」と言ったが、何かおかしいと思って目を上げると弟はうずくまり猛禽類に襲われている最中だった。
鷲と鷹の違いの分からない私には猛禽類としか言いようのない大きな鳥が大きな嘴でマフラーの端を咥え、もう一つの端を弟が握っていた。互いに引っ張りあうだけの単調な勝負かと思いきや、猛禽類は弟の顔や肩を大きな爪で引っ掻くので一枚上手だった。羽が空を切るたび土埃も舞った。動物園の土埃と言ったらなんだか汚そうだと思った。
大人たちが囲んで弟と鳥を見ていた。格闘技を見ているような野次も上げていた。
「何やってんの!」
「マフラーが取られそうなんです。助けてください」言ったそばから弟は鳥に腕を引っ掻かれて傷を増やしている。「痛い!なんでこんなことに」
「マフラーなんてどうでもいいだろ!綱引きしてないで行くよ!」
「どうでもいいか判断できません」
猛禽が羽ばたき、弟は少し引きずられた。
「スペアがお前のナップサックに入ってる!鳥とマフラーお揃いにしろ!」
「おそろいなんて照れます……」
とは言いつつ弟は手を離した。大きな鳥は音もなく飛び去り、マフラーの端が視界から消えていった。集まっていた人たちも何も言わず解散した。
「このクソ馬鹿」
「喧嘩したから猛禽が来たんです」
「何言ってんの」
「お父さんがさっき言ってました」
「ほら行くよ」
弟は手を貸してほしそうな様子だったが無視して私は歩いた。キリンを見て帰途につける道程なら早くそれを見たかった。
レッサーパンダ前まで戻ってもお父さんはいなかった。
「はぐれた?」
弟を探しに他の場所へ行ってしまったのかもしれない。お父さんはでたらめな人間なのでどこで何をしていても意外とは思わないが、遠足で迷子になったことを再度思い出し私は再度嫌な気分になった。
「ど、どうしましょう」
「お前のせいだよ」頭をはたこうとした手は空を叩いた。「まあ、……キリンのとこまで行ってみたらもう先についてるかもしんないし」
私は道の先を顎で指した。
「キリン見られるんですね!マフラー巻かなきゃ」
「ほんとに信じてんの」
「何をですか」
「キリンが……首を持っていくって話」
「何ですかその話」
馬鹿の相手をするより私は道を急ぐことにして、キリンのゾーンへ辿りついた。人はそれほど多くない。
三頭いて、一頭は背の高いポールの上に乗せられた草を食み、一頭はゆっくりと歩き回り、一頭は脚をたたんで座っていた。キリンって座るんだと思った。生き物というより重機を見ているようだった。三キリンは目の粗いフェンスで囲われていて、その周りに低い柵があった。随分と広いスペースを用いているようだった。肩車された子供が「草食べてる!草食べてる!草食べてる!」と繰り返していた。フェンスの周囲に目を走らせたが、お父さんの姿はない。
私はため息をついて、ズボンのポケットからスマホを取り出した。電話をかけたところで出ないだろうと思いつつ「発信」を押し、果たして呼び出し音が繰り返されるだけだった。スマホを元の場所に戻して顔を上げると、キリンの一頭が私たちをのぞき込んでいた。顔が近く、体が遠かった。檻の中をぐるり歩き回っている奴だった。
「げっ」
「キリンさんがこっちに来てくれてます!」
弟は嬉しそうに大きく手を振った。
私たちとキリンは一メートルほどの距離にいた。フェンス越しでも、口まわりをなめる灰色の分厚い舌の表面がよく見えた。
キリンは存外大きな顔を完全に私たちに近づけていた。生温かい息を感じた。
「なんでマフラーしてるの?その子」
キリンが聞いてきた。突然子どもに話しかけてくるおじさんみたいな距離感だと思った。
「……」
私は無視した。おじさんが話しかけてきた時と同じやり方だった。
「なんでって聞いてるんだけども」
「こいつに聞けよ」
私は弟の肩をつかんだ。
「なんで?」
「なんででしたっけ……」
「わからないの?かわいそうに」
キリンは長い首を上下に大きく振ってうなずいた。
「ていうかなんでそんなこと知りたがんの」
「別にいいじゃない。気になるの」
「……」
お父さんが言ったでたらめを弟が信じているから、という話をよりによって動物相手にするのは気が進まなかった。もし動物に馬鹿にされたら立ち直れない。
そう思ったが、キリンの目はこちらを向いていた。草食動物の視野。
「ねえなんで?」
「……首が盗まれるからだってさ」
「ん?」
「いや、お父さんが言ってたのこいつが信じてるだけだから。私は信じてないし。当たり前じゃん」
私は早口だった。
「え?」
「こいつほんと馬鹿だから真に受けてマフラー巻いてんの。まだそんな季節でもないのに。まじで馬鹿」
「なんで知ってるの」
「いやだから私は信じてないし」
「なんで知ってるの」
「は何が?」
気づけばキリンはフェンスに顔を押し付け、黄色と茶色が模様なのかフェンスの形なのかわからなくなっていた。「怖いです」と弟が小さく言った。他の客たちも尋常でない様子の大型動物に注目し始めていた。
「どこで知ったの何で知ってるの」
「だからお父さんが言ってたんだって」おしゃべりの好きなキリンだと思った。「てかまじなの?」
「お父さんは何で知ってるの」
キリンは答えずさらに尋問を続ける。
「さあ……」「さあじゃなくて。みんなに知られるとあたし困るんだけど」「ああそう」
キリンが困っても私は困らないので、折り返しの先に進んでお父さんを探しに行こうと思った。
「ちょっと待ちなさい。無視するな。お前の首を奪ってやるよ」
「奪ってやるって言ってますよ」
「それはやめろ」
「お前の肩から直接顎が生えてる様を想像してみな。何かと不便だろうね」
「もう十分首長いんだから盗らなくていいだろ」「まだ要る」「要らんよ」
「ううん。お腹にいま子どもがいるの。その子のためにもっと首を持ってこなきゃ」
「この働き者が」「ありがとう」
「でもあれじゃない。子どもさ、首長くなくても良いんじゃない」
「良くないわよ。珍しいって見世物にされちゃう」
「もうされてるよ」
「それもそうね」
「むしろかっこいいかもよ。馬みたいで」
「馬?」
キリンは首を傾げた。こいつ案外ものを知らないんだと思った。上手く丸め込めるかもしれない。
「キリンの首短いバージョンだよ。足が速くてかっこいい」
「そんなのがいるの」
「正直キリンより人気だよ。なんたって首が短くて足が速いから」
「かっこいいです」
「そう言われてみたら悪くない気もするわね。首の短いキリン……新時代の予感……」
愉快なカラーリングの動物はうっとり言った。
「それじゃ私たち行くから」
「待って。お礼させてちょうだい」
「礼?」
「あなたのアドバイスのお返しに、首。私のぶんとお腹の子のぶん」
「要らない!」
私は叫んだ。なんでキリンの首が礼になるのか。
「じゃあそっちの子にあげる。マフラー付けてるいけ好かん子に」
「だってさ」
私は弟に目線を送った。
「いけ好かんって何ですか」「電子辞書で調べろ」
「私からのプレゼントよ。これまでコツコツ溜めてきたから大事にしてね」
「どうなんのもらったら」
「子キリンほどの長さに」「こいつの首が?要らないよ」「首をもらったら身長伸びますか?」「伸びるんじゃない?二メートルくらいに」「そんなには伸びなくていいです」
私たちはひそひそ言い、さりげなく檻から離れた。
「プレゼント、フォー、ユー!」
後ろでキリンが歌うように言った。声は緩やかに震えていた。
「おわわ」
弟が情けない声を出したので振り返った。
弟の顔はそれがあるべき所より少し高いところにあり、その分首が長くなったということだった。
「早く行かなきゃ」
私は手を強く引っ張った。首はヘチマの成長の早回しのごとくにょきにょき伸び始めていた。
「高い……」
言いながら弟は自由な方の手で頭を押さえた。首はたわんで長くなり続けた。
「早く!遠ざかれ!」
「怖い……」
弟の目線は大人より高くなっていた。私に引かれても弟は慌てふためいてその場で足踏みするばかりで、動こうとしない。私は苛立って、
「カタル!」
久しぶりにその名前を呼び、マフラーを引っ張った。
「痛い……」
弟は喚きつつも足をよろよろ動かし、首から私へ近づいた。
「ほら、とりあえず離れるよ」
マフラーの端を持ったまま、私たちは木陰のボロいベンチに座った。二人分の体重を受けると嫌な音できしんだ。
「首が戻らないです」
泣きそうな声で弟は言った。頭がどこかへ行ってしまわないよう大事に押さえていた。ここまで弱っているところを見られる機会もなかなかないのに私の心は晴れない。
私は首をとぐろに巻いてマフラーで隠そうとしたが、大きな声を上げて痛がるので上手くいかない。
「あんまり騒ぐな馬鹿!周りの人間に見られる!」
「そんなことより……救急車呼んでください……」
「馬鹿!そんなことしたら新種のキリン人間発見ってもんでバラバラに解剖されるぞ!」
「馬鹿馬鹿うるさいな」
「車戻るよ!そこでお父さん待つから」
もとより動物園なんて一つも楽しくなかったが、キリン人間と一緒となるとなおのこと呑気にうろつくわけにはいかなくなった。
私は弟の首を折り曲げて彼のTシャツの中に隠し、襟元に赤い布をぐるぐる巻いた。背中を丸めて目立たないようにしていれば気づかれないだろうと思った。大事になったらこいつは置いて自分だけで帰ろう。
速足で弟をかばいながら歩いていると何度も人にぶつかった。祭りの賑わいの中を行くときみたいだった。ぶつかるたび弟の体制は崩れ、子どもの描いた絵のようになっていった。
やっとの思いで入り口兼出口へたどり着き、なにも楽しくなかったなと思いつつ駐車場へ向かった。正午の放送が流れた。駐車場は来た時より広くなっていた。
「車どこだ」
「うう……」
弟はずっと小さいな声で泣いていた。
「そういや痛車は?」
「……」
目印にしていた車が見当たらない。赤の車もない。どちらも駐車場を出て行ったらしい。
「昼前に動物園から帰るやつがそんないるかよ」
ぶつくさ言いながら私は特徴のない白いミニバンを探した。確かここら辺にあったはずという場所の周辺をぐるぐる歩き、それっぽい車の後部座席にオレンジ色のクッションがないかのぞき込んだ。それくらいしか目印がない。ほどんどの車は空で、たまに人間や犬と目が合うと相手を脅かせてしまった。
足がすり減りそうなほど歩いたのちにのぞき込んだ車の中に手を振る人物がいた。危ない人だ!と思って威嚇するとそれはよく知った顔で、つまりお父さんだった。
「どうだった、楽しめたか?動物園は一般的に楽しい場所とされている」
ウィンドウを下げてお父さんは言った。右手にカフェオレの紙パックが握られていた。
「全然」
私はまず弟を車内に投げ込んだ。
「おお、そっちは楽しめたか。キリンはよかったか」
「……」
「それどころじゃないよ。こいつの首伸びちゃった」
「キリンみたいに?」
「キリンみたいに。てかキリンからもらちゃったみたい」
「サービス精神があるのもキリンのいいとこだな」
「どうすればいいの。このままじゃずっとキリン人間だよ」
「とりあえず見せてみろ」
運転席から振り返るお父さんに弟を見せようとすると目を瞑って動かなくなっていた。
「寝てる。気絶してるのかも」
あんなに歩いたし、と言った。私は首をシャツの中から引っ張り出した。
「ほんとに長いな。ホースみたいだ」
弟の首は後部座席のフロアを埋め尽くしていた。さっきより伸びている。
「お父さんのせいだ。マフラー巻いて行けなんて言うから」
「そうかもしれないなあ」
「あのさ真面目に考えてよ」
私はシートを掌で叩いた。
「考えてる考えてる」
言いつつもお父さんはエンジンをかけ車を走らせ始めた。
「おいちょっと」
「そうだな、あれだ、掃除機と一緒だな」
車は迷路のような駐車場をぐるぐる回っていた。
「掃除機?」
「うちの掃除機さ、コードを巻き取るボタンついてるだろ」
「知らないよ」
「そういうボタンがあるはずだ。それ押せば戻るよ」
「どこに」
「仕組みから言えば頭のどっかに。いや、体側か?でも体探すのは大変だな。キリンだし。頭を探すのがいいんじゃないか」
「テキトー言うなよ」
私は弟の頭を拾い上げ、まじまじと見た。普段は作り笑いばかり浮かべている顔が、気を失っていると年相応の子どものようだった。鼻をつまんでみたが起きない。無理やり目を開けてみても、耳たぶを引っ張っても、起きないしボタンもない。
「どうだ、見つかったか」
「ないよ」私は弟の頭を乱暴にかき回した。「……ん?」違和感を覚えて私は髪をかき分けた。「なんかあるわ」
後頭部より少し下がったところに、頭皮にしては硬い手触りがあった。髪に紛れてわかりづらいが、黒くて丸い小さなボタンだった。
「お、あったか。お前は小さなころから探し物が上手いな。それを押せば戻る」
「ほんとに?」
こんないかにも爆発しそうなボタンを押すほど私はバカじゃない、と思いつつポチ。なぜなら爆発するのと弟の首が長いままなのを比べたら、同じくらい悪いと思ったからだ。私は探し物も判断も上手い。
ボタンを押したそばから、長い首は胴体に吸い込まれるように音もなく縮んでいった。床を這う肌色の管がどんどんと体の方へと引き寄せられて消えた。最後に私の手の中の頭を軽く引っ張る感触があり、手を離せばそれは人間の頭のあるべきところへと戻った。
「上手くいったみたいだな」
お父さんがバックミラー越しに言った。車はすでに一般道を走っていた。
「おい、起きろ。首が元通りになったよ」
「……」
弟を思い切り揺さぶっても起きない。息はある。私はそのままにしておくことにして、座席に弟を立てかけた。
「こいつの胴に入ってった首はどうなったんだろ。消えたの?」
「元の持ち主のところに返されただろうな。つまりキリンが盗んだ元の体へ」
お父さんがそう言うならそうなんだろうと思った。
「……あのさ」
「ん?」
私は今日ずっと胸に溜めていた疑問を吐き出すことにした。
「なんで知ってんの、キリンが首を盗るとか、喧嘩してたら猛禽が来るとか、頭のボタン押せば元に戻るとか、そういういろんなこと」
「そりゃあ、子どものころってのはそういうもんだろ」
お父さんはいつものようにあっけらかんと言った。
「は?子どもじゃないし」
私が反射的に言い返すとお父さんは黙った。ひりつく感じがないので機嫌を損ねたわけではないのだと分かった。
窓の外はまだ知らない風景だった。私も家へ着くまで眠ることにした。そうすれば体感家路は短くなる。
それから久しぶりに夢を見て、家に着いても覚めなかった。
土曜日に動物園へ行く 合野(ごうの) @gou_no
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