春曙三世抄 第二部現世「戯曲 とりの空音」

めぐみ

とりの空音

蝉の声。時折遠くを車が走る音。緑の森の側。

上手から二人の男が歩いてくる。初老の男と若い眼鏡の男。

若い男は書類鞄を持って初老の男の少し後ろを付いていく。


若い男「それにしても参りましたね。まさか鹿が入り込んで列車が遅れるとは」

初老の男「春日の使つかいを傷つけるわけにもいくまいし、待つくらいは仕方がないだろう。誰のせいという訳でもないのだから、我々が遅れたところでそう気にすることでもあるまい。急いで戻らねばならないことはあらかた済んだのが幸いだったな」

若い男「代わりの車はじきに来ると思いますが、駅前でお待ちにならなくてよろしゅうございますか」

初老の男「まさかここで停まるとは思っていなかったのでな。ついでに少し寄ってみたいところがある。気にせず駅で待っていて構わないのだが」

若い男「いえ、お気遣いなく。新帝の即位礼も先の帝の大喪礼もつつがなく終わりましたし、おっしゃるとおり多少帰りが遅れましても大事ございますまい。

いやしかしまあ、大仕事でございましたね。先帝が御年七歳で即位なさったのが三十三年前。先の即位礼にご奉仕した者もその時の即位礼は高御座の不浄の穢れが出たと申しますから、それに比べましたら多少の不手際があっても何ほどのものでもないことでしょうけれども。しかし、関白さまにおかれましては、新帝の即位礼よりも中宮様腹の二の親王みこさまの立太子の儀が無事に済めばよろしいのでしょうが」

初老の男「その辺にしておいた方がいい。心で思うのと口に出すのは違う。中宮様と我々とでは立場が違うぞ」

若い男「これは出過ぎたことを申しまして。(冗談めかした真面目さで)わたくし、五代前の先祖は上達部かんだちめの末席を汚したと申しましても、今は藤原の傍流も傍流、私の代なぞは無位無冠で過ごすものと放埒に文章生を務めておりましたもので、随分口さがなくなりまして。下賤のもののたわ言とお聞き流しくだされば幸いでございます」

初老の男「(苦笑しつつ)氏長者を逃したは我が家も同じことだ」

若い男「そうはおっしゃいましても、父方のお祖父さまは謙徳公と諡を号せられた摂政藤原これただ公。母方のお祖父さまは二世の源氏源やすみつさま。ご自身は先々帝花山院のご従兄弟であらせられます。わたくしのような木っ端役人とは血筋がちがいましょう」

初老の男「祖父が誰それ、帝との血縁がどうと言っても、師輔公の氏長者を継いだのは三男であらせられた東三条殿兼家公、花山の帝もわずか二年で御位をお下りにならせられた。所詮、この世は飛鳥川のふちよ。深きも浅きも一日で変わりゆく」

若い男「さてさて、諸行無常に造詣の深い蔵人頭がいらっしゃったおかげで、口さがなき文章生にも蔵人に任ぜられる僥倖に恵まれました訳で。

(少し声を潜めて)東三条殿とうさんじょうどのが氏長者を継がなければと思われたことはないのですか。そうすれば少なくとも花山院の御代が二年で変わられることもございませんでしたでしょうに」

初老の男「その話はやめておけ。先々帝の御退位に難をつけるということは、先帝の御即位に難をつけるということだ。先帝が正統に三種の神器を譲られあそばした帝ではないとなれば、我々の『帝に仕えまつるえある蔵人くろうど』という名誉も幻と消えるぞ。もう誰も語らぬのだ、その話は。東三条殿は狸寝入りをなさった。たかくらの穢れはお耳に入らなかったことになった。たとえ誰もが知っていたとしても、もう誰も語らぬ」

若い男 「(自分の口元を封じる仕草をして一礼する。威儀を改めて)語られぬことはなかったことになりましょうか」

初老の男「語られぬことも書かれぬことも、それを覚えている者がいなくなればなかったことになろう。ただ、『語られなかった』『書かれなかった』という事実だけは残る。積まれた巻物の中からいちじくだけ抜き出しても、しばらくはそこに隙間が残るようにな。やがて積まれた巻物全てが崩れてしまうまで、『語られなかった』という事実は確かにある。

先帝の即位礼の際に、三種の神器のお譲りがなかったことに次の典礼の者が気がつかなければ良いがな。新しい帝も春宮さまも未だお若い。春宮さまが御即位なさるまでに時がたつことを祈るしかないな」

若い男 「巻物の山が崩れるのを待つのでございますね」

初老の男「そうだ。(ふと思い出したように)お前も真ん中の一軸だけ抜き出すのはやめにせよ。他の者が後の整理が大変だとぼやいていたぞ」

若い男 「(誤魔化すような明るさで)それにしても、こちらは随分と由緒がありそうなお社でございますね」

初老の男「今は人通りも少ないがな。ここが関の明神、かつての逢坂の関だ」

若い男 「これは不見識なことで。三関と言われた逢坂の関も境内に線路まで通って、これはまた誰でも通れそうな、……おっと、これはまた失礼を」

初老の男「(苦笑しつつ)いや、気を遣われると却って、な。まあ、その通りだ。今は誰でも通れる、そんな所だ。(早足に舞台中央まで歩きながら)手向山ではないが明神に拝礼だけしようかと(声を遮るように遮断機の音、若い男を振り返りながら)あぁ、やはり駅で待っていてくれ」


遮断機の音がとまると同時に蝉の声が止む。

若い男のいた場所は暗がりで見えない。

森の緑が一層濃くなっている。初老の男は困惑気味に辺りを一周する。

無音のまま舞台から若い男はいなくなっており、暗がりも緑の森の中になっている。

上手から手桶と柄杓を持った初老の女が出てくる。薄手の長い羽織り物を何枚も重ね着している。上がモスグリーン。下に行くほどに淡い色になり、一番下は白いシャツを着ている。手水場で手を清め、手桶に水を酌む。

女は舞台の上手奥から下手奥、下手手前上手手前と移動しながら重ね着した薄衣を一枚ずつ脱ぎ、舞台に丸めて置く。一枚脱ぐごとに女は若返って軽やかな華やぎがこぼれていく。最後の一枚だけ羽織ったまま舞台を一周する。置かれた服の塊を花に見立てて柄杓で水をやりながらもう一回りする。水をやり終わると女はすっかり若返った雰囲気になっている。

はしゃいだ犬の声と足音がする。


女「まあまあ、おきなまろ。そんなにはしゃいで。わたくしにまで泥がはねるではないの」


女の声にハッとする男。女を凝視して、言葉を詰まらせて喘ぐ。

女は犬と戯れている。男は体を女の方に向け、数歩よろめくように近づく。


女「ふふふ。どこを通ってきたの? こんなに葉っぱをくっつけて」


男は何度か深呼吸して、ゆっくりと、しかしはっきりとした声で女に問いかける。


初老の男「それはたれぞ」


女はすぐに答えず犬を撫でている。


女「よしよし、いい子ね。あちらへお行き。ほら、今度は猫を追いかけたりしないで帰るのよ」


女は男の方にゆっくりと振り返る。若い女の声で答える。


女「少納言、さぶらふなり」


鳴り響く能管の音。カカリ。男と女は舞台の対角線上を端から中央に向かって駆け出す。コンテンポラリーダンスめいた足取り。舞台の真ん中で男は女に触れようとするが、女は受け止めるように見えて触れないぎりぎりの所ですり抜けて行ってしまう。引き留めようとする男を女は受け容れそうに見えてすんでの所で男の手をすり抜けていく。床の薄物が舞い上がり、二人の視界と進路を遮る。男は薄物を掻き分けながら進み、女は舞い上がった薄物を受け止めて翻してはまた宙に放る。二人は触れ合わないまま舞台を交錯することを繰り返す。舞い上げられた薄物が一枚一枚舞台からなくなってゆき、全てなくなって、二人は舞台の中央で対峙する。


男「(男も女と同年代まで若返っている。男の方が少し若い雰囲気がある。混乱した様子でしどろもどろと)やはりあなたは。どうして。なぜあなたがここに。あの犬は翁丸なのですか。あの、翁丸ですか」

清少納言「(犬の走っていった先を見やって)あの犬の名は翁丸でございますわ。私がそう呼んでいるだけですけれども、あの子は翁丸です」

藤原行成「(やはり落ち着きなく)いえ、そうではなく。私が聞きたかったのはそうではなくて。私は犬よりもあなたが。どうしてあなたがここに」

清少納言「そうですわね。(少し考え込んで下手を指さす)ほら、あちらに見える陽炎かげろうのような。あるかなきかの理由でここにおりますわ。あの犬があの翁丸かどうかと同じ。ここはそういうところですもの。行くも帰るも逢っては別れるところ、関の明神のましますところです。あなたこそ、どうしてここに」


男は困惑した様子で話しながらよろめきつつ一歩ずつ女に近づいていく。


藤原行成「(まだ困惑した様子で)私は、私はあなたにお会いしたいと、いや、お会いしなければならないと思っていました。ここならあなたと会えるのではないかと。だから、私は、(きっぱりと)私はここならあなたにお会いしなくて済むと思ってここに来たのです」

清少納言「まぁ、行成さまは盾と矛をひさぐのがお上手そうですわね」

藤原行成「(少し顔を背けて)我ながらひとのようなことを申し上げていると思っていますよ。でも他に言いようがないんです。あなたに会いたかった。あなたに会いたくなかった。あなたとはここでしか会えないと思った。だからここに来た。今日ここであなたに会えなければ、今生でもう二度とお会いすることはないと思った」


女は幼子を慈しむように男の頬にそっと手を伸ばす。


清少納言「たとしへなきもの。思ふ人と憎む人と。同じ人ながらも心ざしある折とかはりたる折、まことにことひととぞおぼゆる」


男は女の手を振り払うことなく顔を向けて見つめ返す。心細気な子どものような表情。


藤原行成「『比べようもなく違っているもの。愛する人と憎む人と。同じ人物であっても愛情がある時と変わった時とでは、本当に別人と思われる。』(女の手の届かない位置まですっと身を引いて半分背を向ける)ええ、本当に異人と思われても仕方のないことをしたと思っていますよ」

清少納言「ごめんなさい、いじめるつもりは、(小首を傾げながら)……少しはありましたわね。(視線を男に戻して)ねえ行成さま、鶏の空音で関はひらきますのよ」

藤原行成「(少し拗ねて子供っぽく)あなたはあのとき許さないとおっしゃったのに」

清少納言「(楽しげに)許しておりませんわよ。行成さまが赦されたくないと思っていらっしゃるから、わたくし、それをお伝えしに参りましたの。許しておりませんって。(顔をのぞき込もうとしながら)どうです、少しはお気が晴れまして?」

藤原行成「許さないと言われて気が晴れる人間がどこにいます? 普通は許されて気が晴れるものでしょう」

清少納言「(舞台に置いたままの柄杓を手にして弄びながら)さあ、それはどうでしょう。他人が許しても己が赦せなければ気が晴れないものではございません? 己で己が赦せないのなら、他人に許されない方がいっそ気楽じゃございませんこと?」

藤原行成「それは私のことを仰っているのですか? あなたが私の心の内をそんなにも思ってくださるとは思えないな。(自分の動揺を隠すように攻撃性をわずかに込めて)私のことのようでご自分のことをおっしゃっているのでは」

清少納言「まあ、いじわるね。行成さまはいつも取り繕わずに本当のことだけおっしゃるから女房たちに不人気なのよ。わたくし、ちゃんと行成さまの胸の内を察して差し上げておりましてよ。

(懐かしそうに)『いみじう見え聞こえて、をかしき筋など立てたる事はなう、ただありなるやうなるを、みなひとのみ知りたるに、なほ奥深き心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など御前にも啓し、また然、知ろし召したるを、常に、「『女はおのれをよろこぶ者のために顔づくりす、士はおのれを知る者のために死ぬ』となむ言ひたる」と言ひ合はせたまひつつ、よう知りたまへり』。」


清少納言の話を聞きながら、行成は頭を振って清少納言から離れていく。


藤原行成「『ことさら耳目を集めて、風流な方面を押し立てることはなく、ただ飾り気もないような頭の弁の様子を、皆はそういう人だとばかり理解しているのだが、私はより奥深い心ざまを見知っているので、「並ひと通りの方ではない」などと中宮様にも申し上げ、また中宮様もそう理解してくださっているが、常に「『女は己を愛する者のために化粧する、男は己を理解する者のために死ぬ』と『史記』では言っていること」と私たちに重ねておっしゃりつつ、頭の弁も事情をよく分かっておいでのようだった。』

あなたが余りに私のことを褒めて書いてくださるものだから、私はすっかり自分はそういう人間だと思い込んでしまいましたよ。いや、そうではないな。あなたが書かれた私の有様が本当だったらいいと思ったんです。あなたが書いたような人間だと周りはすっかり思い込みました。それはとても居心地がいいものだった。だから私はあなたが書いたような人間でいたかった。そうあろうとし続けてきた。

私は生まれてすぐ祖父藤原伊尹に引き取られるも、祖父と父を相次いで亡くし、母方の祖父源保光に育てられました。祖父は醍醐天皇の孫でありながら文章生となったことを屈辱に思っていましたよ。源の姓を賜ったことはまだしも、皇孫たる自分が文章生などとね。民部大輔、式部大輔に昇進したのは己の努力もさりながら、醍醐天皇の血にこそあると思っていました。血のにじむような努力よりも、実際にその身に流れる血筋に価値がある。そう思っていた祖父は私を帝を頂点とする皇族に仕えるものとして漢学の手ほどきをしました。

私は藤原でありながら源として育てられた。皇族を至高の存在として支える者として。藤原としての私は、それでも謙徳公伊尹の血筋の者として東三条殿から氏長者を取り戻したかった。あの頃の私は自分を何者か決めかねていました。そんなときにあなたの草子が世に出回った。皆そこに書かれた私を信じました。当の私でさえも」

清少納言「わたくしの草子は誤りでしたでしょうか?」

藤原行成「いいえ。あなたが分かってくれた私も、また本当の私だったのでしょう。ただ、私はそこから外れまいとした。あなたの草子を信じている者たちに、あなたの草子に書かれた私のように振る舞いました。ずっとそうしてきました。それは辛いことではなかった。私にはっきり道を示してくれた。自分がそういう人間に生まれついたような顔をして生きてきました。これまではそうして来られたんです。」

清少納言「今は違いますの?」

藤原行成「(目尻を乱暴に拭いながら自嘲気味に笑って清少納言を見てまた顔を逸らす)違うと思ったから会いにいらっしゃったのではないのですか。てっきりあなたのお耳にも入っているのだと思いましたよ、わたしのしたことは。(清少納言を振り返って)あなたはきっと赦さないだろうと思っていました。」

清少納言「(言い聞かせるように)申しましたでしょう? わたくしはあなたが会いたくないと思ってらっしゃるから参りましたのよ」

藤原行成「(少し責めるように)それは許していないということとは違うんですか。私の罪を忘れさせないためではないのですか」

清少納言「(母親が子どもから聞き出すような口調で)行成様はいったい、何をご自身の罪だとお考えなのです?」

藤原行成「小馬こまの命婦みょうぶから聞いてはいないのですか。彼女はまだ周りに請われてあなたの草子を書き写しては広めていますよ」

清少納言「あの子には『好きなように宮仕えなさい』とだけ言っておりましたわ。どうせわたくしの子という肩書きが重しになるでしょうし、道長さまが求められたのも『清少納言の娘』という肩書きの女房でございましょうし。折々の文のやりとりで、わたくしの筆のすさびを書き付けたものをあの子が書き写してお見せしたこともあるようですけれど」

藤原行成「(目をすがめて本心を探るように)中宮様の元からあなたの草子が出回るのは意図的だと思っていましたよ。たまたま小馬命婦が個人的にしたことだと?」

清少納言「(本心の見えない微笑みを浮かべながら)わたくしがそうさせる意味がありまして? 最初にあの草子を奉った方はもういらっしゃいませんのよ。わたくしが表に出す必要はもうなくなりました」

藤原行成「(きっぱりと)いいえ、まだ一の親王みこ様がいらっしゃいました。内大臣であった伊周様が長徳の変で失脚した後に皇后様がお産みになった親王様が。皇后腹にお生まれになって立太子なさらなかった一の親王はお若くして亡くなられた方ひとりです。だからこそ、帝も一の親王様を春宮になさることをお望みになられた。まだ皇后様がお産みになった親王様が立太子なさる目はあった。しかしそれには強力な後ろ盾が必要です。伊周様が復官なさっても誰もが納得するだけの理由が必要だった。あなたの草子の、亡き皇后様と先の帝と伊周様の仲睦まじくも教養や学識に溢れたやりとり。あれを読んで才気煥発な青年だった頃の伊周様を思い出した者も多くおります。実際には七光りでの異例の出世を妬んでいた者の方が多かったものですが。光があれば影ができる。あなたは影を書かなかった。ひたすら光り輝く中関白家だけを書いた。あれだけのことをなさった伊周様が復位なさったのは東三条殿の恩赦や帝のご意向だけではありません。あなたの草子がなければ帝とて殿上人を納得させられはしなかったでしょう」

清少納言「(終始相手にしていない優しげな口調で)随分と買ってくださりますのね。わたくしごときの草子がまつりごとを動かし得ると?」

藤原行成「私があのようなことをしなければそうなったかもしれない。中宮様は皇后様亡き後から養い子として慈しまれた一の親王様の立太子を望んでいらっしゃいました。ご自身のお腹を痛められた二の親王様よりも先に。にもかかわらず二の親王様を立太子させるよう帝に進言したのは私です。氏長者たる道長様に言われるがままに帝を説得申し上げた。いえ、もしかしたら道長様よりも私の方が二の親王様の立太子を望んでいたのかもしれません。強力な後ろ盾のない先々帝は結局は御出家に追い込まれ、一夜にして全てがひっくり返った。後を追って多くの者が世を捨てるしかなかったあの恐ろしさを心のどこかで思い出したのか。とにかく私は病床の帝を必死に説得しました。帝は苦しげなお顔でそれを受け入れられた」


顔を覆ってしゃがみ込む行成。清少納言はその側に同じようにしゃがみ、そっと背中に手を添える。


清少納言「(掛けねのない優しさを込めて。諦めきった人間の口調で)悲しまないで。わたくしの草子、結局は何も変えられなかったでしょう? 立太子なさったのは道長様のおんまごの二の親王様。一の親王様ではなかった。一の内親王ひめみこ様も道長様の元から叔父君隆家様のお屋敷に移られました。中関白家の世はもう来ません」

藤原行成「では、どうして私はこんなに苦しいのです? 皇后様は私を指して『士はおのれを知る者のために死ぬ』とおっしゃられた。あなたが内裏を去ってからは、私が命をかけるべきお方は帝ただお一人であらせられたのに。帝が身罷られる前にあの方のお望みをかなえて差し上げることもできなかった。

『露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事そ悲しき』。帝が皇后様に宛てて詠まれた辞世です。ご在位中に崩御なされた帝はみささぎに葬られますが、ご譲位後に崩御なされた上皇は荼毘にふされます。ご譲位がお済みになれば鳥辺野の陵に皇后様を残して世を去られることになる。あの方を悲しみの中で逝かせてしまった。あの方が目指された帝ご自身による政が実現する前に。お亡くなりになった後も皇后様と同じく陵に葬って差し上げることも出来なかった。私がまことの士であるなら、あの方のごしんきんに殉じるべきであったのに。私はその道を選ばなかった。

あなたの草子が帝の御側にあればこそ、お隠れになる直前まで皇后様との睦まじい日々を思い続けなさった。あなたの草子に書かれたからこそ私は奥深き心ざまを持つものであろうとした。あなたの草子がもっと嘘なら良かったのに。誰も信じなければ良かったのに。今はそんな恨み言さえ抱いてしまう」

清少納言「行成様はわたくしのせいで変わってしまったとおっしゃるのね」

藤原行成「あなたのお書きになったような私に、すっかり変わってしまえたらどんなに良かっただろう。そう思います、今となっては」

清少納言「わたくしの書いたことは本当のことではなかったとお思い?」

藤原行成「いいえ、あなたの書いたことではなく、あなたの書かれなかったことが私の胸をさいなむのです。帝と皇后様の睦まじいご様子や中関白家の方々の輝かしい日々。それらが過ぎ去った後の日々をも、あなたは苦しいものとして書かなかった。常ならぬ状況でも賑やかで才知溢れる女房たちと彼女たちを導く聡明な皇后様を書き続けた。道長様を始め、あなた方を苦難に追いやった殿上人は多かったというのに。あなたはそれに触れないか、書いても笑い話として語った。」

清少納言「あれはあれで楽しいこともございましたわよ。行成様はしき御曹司みぞうしにもよくお越しくださいましたし」

藤原行成「あなたがそうやって楽しげに語るものだから、私たちは内心ではどんなにお辛くお過ごしだろうとおいたわしく思うのです。ご兄弟が失脚なさり、ご自身も出家あそばされたにも関わらず帝が皇后様を御側に留め置かれた当時は、上達部から殿上人てんじょうびとに至るまで快く思う者はおりませんでした。それはあなたも身をもってご存知でしょう。あなたの草子が皆の心を動かし、皇后様をこの上なく素晴らしい女人として認めさせた」

清少納言「そんな大層なことではございませんわ。ただの筆のすさび、一時のお慰めになればと思ってしたためた由無し事ですわ。(はぐらかすそぶりをやめて向き直る)行成様は書かれたことより書かれなかったことの方を信じておいでですの?」

藤原行成「(少し言葉に詰まって)それは、私があなた方に何が起きたか知っているからです。起きたのに書かれなかったことは気になるものでしょう?」

清少納言「『男もすなるといふものを女もしてみむとてするなり』。(淡々と問いただす)身分ある殿方は日記をつけるものでございますけれども、殿方はあったことはみな正直にお書きになりますの?」

藤原行成「(いぶかしげながらも丁寧に言葉を探す)日記というのは正確さが大切ですから、できるだけつまびらかに書くように心がけておりますよ。私は父も祖父も早くに亡くしましたから、儀礼官に任ぜられても手ほどきをしてくれる者はもうおりません。我が子にはそうした思いをさせまいと思って日記を書くようにしております」

清少納言「それでは行成様の日記には起きたことはみな書かれてありますの?起きたのに書かれなかったことがございませんの? ……例えば私と逢坂の関を越えたことなどは」

藤原行成「(渋面で押し黙った後に)あなたのことを日記に書いたことはありません」

清少納言「(少し楽しげに)それはなぜですの?」

藤原行成「日記はいずれ息子たちが読むものですから、子のために必要なことを書きしるすようにしております。(気まずげに)それに日記は本宅にありますから妻が読まないとも限りません」

清少納言「(笑いをかみ殺しながら)日記に北の方が『見つ』とお書きになるかもしれませんものね」

藤原行成「『蜻蛉日記』ですか。東三条殿が他の女に宛てた文を置き忘れたことはうかつなことをなさったと思いますよ。どちらの妻に対しても心遣いというものがない」

清少納言「行成様はご自分が日記に書かれなかったことは心遣いだと思っていらっしゃるのね。私が草子に書かなかったことはそう思われないのに。私が道長様への心遣いで書かなかったとは思われませんの? あんなにも容易く物怪をお信じになって辞職を奏上なさる方が『お恨み申し上げる人間の多いこと』などと書かれたものをお読みになったら、それこそ生霊を恐れてご出家なさってしまうかもしれませんわ」

藤原行成「道長様がそう単純な方でないことはあなたもよくご存知のはず。皇后様が中宮であらせられた時に中宮大夫としてお仕えしていたのですから。物怪をおそれる心と、物怪を払うように邪魔者を切り捨てる心を同時にお持ちの方だ。あなたが書かなかったのはそんな心遣いからではないでしょう」

清少納言「随分とこだわられますのね。わたくしが書いたことと書かなかったことに。わたくしが書いたことが行成様を縛ってしまったから? 『な一つ落としそ』と言われて書かざるを得なかったことと、わたくしの筆が乗ったから書いたことと。それだけではいけませんか? 書かなかったことを詮索なさるのはもう止めにいたしましょうよ」

藤原行成「こだわられているのはあなたの方だ。なぜそんなにはぐらかされるのです。『障りがあって書けなかった』、『書かなかった恨み言がある』、そう本音をおっしゃればよろしいではありませんか」

清少納言「(向きを変え遠くを見やって)わたくしは、書かなかったことのことはもう良いのです。書くことと書かなかったことを分けている時は何か思うことがあったのやもしれませんが、わたくしはそれよりもずっと、どうしてあんなことを書いたのだろうと思っているのです。皇后様がお亡くなりなってから、ずっと」

藤原行成「(清少納言の見る方向と清少納言の顔を交互に見ながら)皇后様のお心をお慰めし、皇后様の素晴らしさを広く世にお伝えするためではないのですか。筆一つでそれを成し遂げた。なかなか出来ることではありません。あなたこそ『奥深き心ざま』の持ち主でしょう」

清少納言「(行成を見向きもせず)皇后様がご存命の時から、わたくし何度も道長様にお誘いを受けました。中関白家を出て道長様の土御門邸に出仕せよと。周りの女房たちから何度も疑いの目をかけられました。わたくし、そのどちらにも背を向けて皇后様の一番お辛い時に里に籠もりましたわ。そんなわたくしに『奥深き心ざま』などありましょうか。本当にそんなものがあれば、筆の限り皇后様のお苦しみの理由を書き尽くしてご無念を晴らしていたのでは? (行成に向き直って)書かなかったことなど、所詮は忘れられていくことではありませんか。書いて残ったものが全てでは?」

藤原行成「(狼狽えて)それでもあなたは皇后様にまことを尽くしました。あなたの持てる全てをあのお方にお捧げしました。

(また清少納言から離れながら)私は私がどなたにお仕えしていたと申し上げるのか分からない。もちろん、一天四海の主はたかくらします方ただお一人。私の主人と言うべきは帝であるべきです。それでも私は藤原の者として氏の長者たる道長様のご胸中に添うべく働いた。宮仕えの男というものは不自由なものです。何層にも重なり合った主従の縁を、その時々によって主と呼ぶべき相手を選ばなければ、そもそも己の家の主であることができない。家の主という己がおり、その上に氏長者を主とし、万乗の君として帝にお仕えする。(清少納言に向かって絶望をこらえた口調で)たった一人を主としてまことを尽くすことが出来ない」

清少納言「(目を閉じ首を振って)まこと、とはなんでしょう。わたくしは確かにあの方への忠誠をあの草子にしたためたのでしょう。でも、それは真実だったのでしょうか。忠義だったのでしょうか。わたくしにも、もう分からないのです。

(雲居を見やりながら)万乗の君が全ての方策をもってしてもお支え出来なかったあの高貴な方を、わたくしの筆をもってしてお慰めできると思うことは、忠義と呼ばれるより不敬のそしりを受けるべきではないのでしょうか。『みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける』と詠んでくださったことを書き残したことに、傲慢の心がないと言えるでしょうか。わたくしが、わたくしだけがあのお方のお心に寄り添うことができると世に知らしめたいという驕慢がなかったと、誰に証明できましょう? 

(胸の前で慈しむべき何かを抱えている手つき。その何かを見つめながら)あの方のお言葉をわたくしの胸のうちに留めたい。あのお方のお言葉を自分ひとりのものにしてしまいたい。打ちひしがれたあのお方のお姿を知っているのはわたくし一人でありたい。お慰めする言葉がどのようなものであったのか誰にも知られたくない。

(行成の顔を見る)けれども、そう思う以上に一時ひとときでもわたくしの言葉が、わたくしの行いがあのお方のお心を占めていたことを、わたくしは世に広めた。書くことをやめなかった。果たしてそこにまことはあったのでございましょうか?」

藤原行成「あなたが先ほどおっしゃった、どうしてあんなことを書いたのだろうとはそのことですか」

清少納言「ええ。わたくしには書かなかったことはもう良いのです。わたくしが書くと決めたことの方が、どうしてそうしようと思ったのか、わたくしにももう分からない。行成様は私が書いた行成様をまことの行成様と思って、そう生きようと思って生きてこられた。私は逆です。わたくしの書くわたくしは、書いた端からわたくしとは思われない別の人間になっていくように思えます。」

藤原行成「でも、それでも私にはあの草子のあなたはとてもあなたらしく思えますよ。読み返す度にあの頃が鮮明に思い起こされる。あなたはこういう方だったと懐かしさで胸が苦しくなる。私の記憶の中のあなたは確かにあの草子の中にいらっしゃる」

清少納言「(軽く首を振って)産んだ赤子がみるみる育って親に似てはいても別の人間になるように、わたくしにはわたくしの草子に書かれたわたくしはどこか別の人のように思いますわ。

ただ、あの草子の中であの方のことだけがわたくしが見たあの方そのものなのです。あの方の光り輝くようなお姿や、良家の姫君にははしたないとされるような時に大胆で凜々しいお振る舞い、漢学にも和歌にも通じた才知に溢れるお言葉の数々。あの方のことは何一つ嘘偽りなく、真実その通りの方であったと思うのです。けれど、あの草子の中のわたくしが、あの方を見るわたくしの心が、わたくしとは別の人間に見えてくるのです。

『ませ越しに麦はむ駒のはるばるに及ばぬ恋も我はするかな』。二の内親王ひめみこ様を身ごもられてお辛そうにしていらしたあの方に、さっぱりとした麦の菓子を献上する時、わたくしはどうしてあの歌を引いたのでしょう。

思えばわたくしたちが引き歌にした歌はいつもどこか恋の気配のするものでした。わたくしのあの方への思いは恋ではない。恋ではないけれど恋のことばでなければわたくしの気持ちに足らない、あの方への心ざしを言い尽くせないと思っていました。でも、あの方への気持ちを恋というには、あの方はあまりにも眩しすぎました。まるで物語の中の天女のようで。わたくしはあの方のいらっしゃる高見に上り詰めたいと切に思いました。葛城の神のように醜く凡庸な女を、あの方は優しく手を取ってご自分がご覧になっていらっしゃる世界まで引き上げてくださった。あの方と一つの和歌で、あるいは一つの漢詩で気持ちが通じ合ったと思った時の昂揚感をなんと言えばいいのでしょう。あれは恋ではなかった。どんな公達きんだちとの間にもあんな身を焦がすような幸福感はありませんでした。あの方の世界にわたくしもいる。わたくしの世界が千里のほかまで広がっていく。その望外の歓びをなんと言えば良かったのでしょう。

わたくしがあの方に語る言葉は、いつもわたくしの心に追いつかなかった。だからでしょうか、草子の中のわたくしがわたくしと思われないのは。書くとは、文字にするとは全てそうしたものなのでしょうか。水面に映るおのが影が常に揺れて見定められないように、書かれたものは書いたものとは別の何かになるのでしょうか。わたくしにはもう分からない。

だからきっとここにいるのですわ、このあわいに。たとしへなきものがすれ違い続けるこの逢坂に。書いたわたくしと書かれたわたくしがどうしようもなく別れてしまったから」

藤原行成「そんな、そのようなことはおっしゃらないでください。私はあなたの草子の中の私を本当の私にしようと生きてきたのに。あなたがそんなことをおっしゃっては私のしてきた努力はなんだったのです。お願いですから、そんなことはおっしゃらないでください。どれだけの人間が皇后様の身の不幸を嘆いたでしょう。その死に際して出家を図るものも出るほどに。どれだけの人間があなたの草子の中のお幸せな皇后様の姿に救われたでしょう。あなたのように主君に忠義であろうと思っているものがどれほどいると思いますか。どうかそんなふうにおっしゃるのは止めてください。あの草子はまことのこと。みなそう思っているのですから。私とともにここを出ましょう、あなたはもうここにいてはいけない。ここを出て、あなたご自身の目と心で何がまことであったか、もう一度確かめれば良いではありませんか。私と一緒に来てください」


幼子がだだをこねるように清少納言に詰め寄る行成。清少納言の手を取って縋るように跪いて請う。


清少納言「(横から手を伸ばし行成の頬に添えて自分の方に斜めに顔を上げさせる。突き放したような、何も気にしていないような声で)お可哀そうな行成さま」


切り裂くような遮断器の警告音が鳴り響く。一瞬の暗転の後に背景に緑の照明。鎮守の森が戻ってきている。清少納言は姿を消している。跪いたまま呆然と正面を見つめる行成。喧しいほどの蝉の声が降りそそぐ。

顔が曇る(能面に影が落ちる)くらいの角度で行成が俯きながら立ち上がる。森の緑の照明以外が次第に暗くなるのに合わせて、行成はすり足でゆっくりと後ずさっていく。行成が下がっていくのに合わせて、蝉の声が遠くなっていくが蝉の声自体は喧しいままである。遮断器の音は鳴り続けている。

行成の背中が壁にぶつかるタイミングでガチャンと金属的な落下音。蝉の声が止み、舞台全体が一律に明るく照らされる。緞帳がサッと下りる。

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春曙三世抄 第二部現世「戯曲 とりの空音」 めぐみ @potelian

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