秘密のチカラが使えても……
糸井桜
時計の針は止まらない
【時計の針は止まらない】
――土曜の夜が、大っ嫌いだ。
俺は、丹和木 針(にわき しん)は昔からそうだった。
金曜日の夜は『あと二日もある』。日曜日の夜には『諦めがつく』。でも土曜日だけはダメだ。
明日はまだ休み。そんな未練がましい希望が残っているせいで諦めきれず、『時間が止まればいいのに』なんて役に立たない思考を搔き立てる。そんなことを考えているのが、一番ムダな時間だと分かっていても。
そう、ムダなのだ。どれだけ天に願っても時計の針は止まらないのだから。人生は諦めが何より肝心。それが、四半世紀の人生でやっと知った処世術。
……だった。今までは。
俺は閉じていたまぶたを、ゆっくりと開く。
六月のくせに腹立たしいほど晴れた無風の空と、見渡す限りの硬直しきった笑顔。
スーツ姿の若い男たちに、ドレス姿の若い女たち。彼らが宙に撒いた花びらは香りもせずに、まだ浮いている。
汗ばんできた左手を開くと――俺の手からも花びらが落ちた。しかしそれすらも、すぐに何もない空間で静止した。
時間が、止まっている。
……いや。自覚はないが、きっと俺が止めているのだろう。だがそんなことは問題の内じゃない。
問題は『止まっている』ことじゃないのだ。問題は――『動かす方法が分からない』ということなのだ。
華やかな式場は、その幸せムードに似合わない沈黙で、俺を責め立てる。
ざり。と、革靴が庭の石畳を擦った。その音が、どこまでも響いていく気がした。
諦めが何より肝心。と言っても、こればっかりは諦めるわけにはいかない。諦めたところで、誰も、時間でさえもこの問題を解決してはくれないのだから。
「くそっ、なんでこんなことに……」
確実なことはただ一つ。何もかも、始まりは"昨夜"だということ。
もう一度まぶたを閉じる……やっぱり土曜の夜なんて、大っ嫌いだ。
憂鬱な土曜日の夜はさっさと寝てしまい、日曜日を有意義に過ごす。それが最近の俺のルーティンだ。だから昨日も九時前には布団に入って、ぐっすりと眠っていた。
そんな昨夜に、俺はインターホンの音で目を覚ました。
頭の重さと喉の渇きを覚えながら、俺は枕元のスマホを取り上げた。眩んだ目が慣れてくると、映ったのは『00:00』の文字だった。
夜中の十二時……土曜の夜とはいえ、そんな時間に訪ねてくる知り合いなどいない。とすると、さっきの音は夢か。
俺はため息と安堵とともに、スマホを枕元に伏せ直した。
そして布団を被り直そうとした――その時。再びインターホンが鳴った。
夢じゃ、ない。
呼吸が止まった。とたんに、見慣れた部屋の暗闇に何かが潜んでいるように思えた。きぃ、とベッドが軋む音が、うるさい。
少しずつ息を吸いながら、首だけを動かして辺りを見回す。
キッチン横の小さなモニターが光っていた。インターホンが押されると、自動で外の様子が映し出される仕組みだ。
しかしベッドから画面は見えない。俺は数秒考えた後、できるだけ足音を立てないようモニターへ向かった。
するとそこには……スーツ姿の女性が一人で映っていた。
左手にカバンを提げ、姿勢正しくカメラの中央に映る彼女は、時折左右を気にしている様子だった。顔を隠す素振りもないが――しかし、知らない女性だ。
拍子抜け。だが何であれ、こんな時間の訪問者がマトモなはずはなかった。
人並みの好奇心はそそられた。が、家を間違ってるとか酔っぱらってるとか、どうせそんなとこだろう。そう諦めることにした。
それに最近は物騒だとか言うし。カメラの外に屈強な男が隠れてるかもしれない。ここは安全第一、命を大事に、動かないのが吉。ということで。
俺は居留守を心に決め、そおっとモニターから離れようとする……と、三回目のインターホンが鳴った。
「あのぉ……丹和木さん、いらっしゃいますよね?」
玄関の向こうから、くぐもった声が聞こえた。それは、なんというか、隣の布団に「もう寝た?」と問いかけるような声だった。
「……はい」
悩んだ末。俺はモニターの通話ボタンを押していた。
『あっ丹和木さん。よかった……あのぉ、夜分にすみません。私、このアパートの三〇二号室のトビタという者です。実はベランダから物を落としてしまいまして』
この部屋は二〇二号室だから、ちょうど真上の部屋ということになる。
なんだそんなオチかと思い、俺はモニターに向かって答えた。
「ああ、そうですか。じゃあ取ってきます」
『あ、待って! あの、それがあまり見られたくない物で――せ、洗濯物なんです。私に、自分で取らせていただけないでしょうか?』
ベランダから落とした、見られたくない洗濯物……まあ、下着しかないか。
正直、見られたくないと言われたせいで興味は出た。が、『いや俺が取ります』と答えられるほど体面がどうでもよくはない。
俺は「あー、はい」とだけ答えて部屋の電気を点けると、軽く顔を引き締めてから玄関を開けた。
「すみません……お邪魔します」
申し訳なげに頭を下げながら革靴を脱いだ若い女性は、モニターで見るよりも丸顔で、ふっくらとしていた。
「わあ、広くていいお部屋ですね」整頓されているとは言いがたい部屋を見回して、彼女が言った。
どこにでもあるワンルームに『広い』とは、ずいぶんとおべっか慣れしているようだ。……と、思ったところで、違和感に気が付いた。
「いや、上の階も同じ間取りじゃないんですか?」
口に出すと、さらに気が付いた。
……この人、なんで革靴履いてたんだ?
スーツは、仕事帰りでまだ着替えてないって可能性もある。だが革靴はそうじゃない。自分の部屋に入る時に一度脱いだはず。じゃなきゃベランダから洗濯物を落とすのは不可能だ。
下の部屋を訪ねるのに、わざわざ革靴を履く。そんな人間がいるだろうか?
背筋が冷たくなった。扉を開けたこと、そして今さっきの質問を後悔していると――彼女は振り返って、豹変することなく言った。
「あ、ごめんなさい。さっきの話は全部ウソです。とにかく部屋の中に入りたくって」
俺は一歩後ずさった。
「ちょちょ、待ってください! そんなに警戒しなくて大丈夫ですから!」
彼女は両腕を上げて手のひらを見せた。手には何も持っておらず少し安心する。さすがに男と女の対格差だ。力勝負になれば負けることはないだろう。
「ウソを吐いたのはゴメンなさい、でも理由があるんです! こんな時間に『お話がある』って言っても、普通、家に入れてくれないから。だから仕方なくって」
「……話?」
訊くと、彼女はカバンから名刺入れを取り出し、きれいな動作で名刺を差し出した。
名刺には『師走市役所 地域振興課 跳田メイ子』という文字と電話番号。そして猪のイラストが印刷されていた。
「あっ、それ、なんで猪なのか分かります? 実は干支なんですって。ほら"師走"って十二月のことで、猪は干支の十二番目でしょ? だから猪! 面白くないですか?」
「えー……つまりええと、跳田さん? は、その師走市の職員ってことですか」
「はい、そうですけど本当は違います」
「……はあ?」
とうとう声に出ていた。
「"師走市"という市は実在しないんです。国が作ったダミーの市なんですよ。だから私も名簿では師走市役所の職員ですけど、本当は違うんです」
出てくる感想は一つだけ。
……この女は、さっきから何を言ってるんだろうか?
「つまりですね、公にできない仕事をしている人たちは"師走市役所"に所属させられるんです。じゃないとお給料とか、シトフメーキンになっちゃいますから」
彼女の言葉には、濁りも冗談めかした様子もなかった。もしかして……別の意味で関わらないほうがいい人だったか。
存在は知っているが、こういうタイプは田舎にはいなかった。さて、一体どうしたものだろう。とりあえず俺は喋らせることにした。
「えーっと。じゃあ、跳田さんは、公にできない仕事をしてるんすか?」
「はい、実はそうなんです」彼女はこっくりと頷いた。
「――それで、ここからが本題なんです。私のその仕事というのがですね、国民の皆さんに"マル能"を体験してもらうことで」
「マル能?」
「あ、"丸秘能力"の略です」
と、言われても。知らない。
「マル能はですね、ええと、つまり……」彼女は胸の前で腕を組んだまま、しばらく考えた。「……丹和木さんって、マンガとか読みます?」
「まあ、少年マンガなら多少」
答えると、跳田の顔がぱあっと明るくなった。「じゃあ簡単ですね!」
「少年マンガってほら、不思議な力が出てくるのあるじゃないですか。一人に一能力! みたいな。マル能はあれなんですよ。誰にでも秘められてる不思議な力なんです」
「へえ、そうなんすね」
「信じてないですね?」
「いやあ……まあ」
「いいんですよ、信じられないのが普通ですし。私もこういうのは論より証拠って教わってますから」
「論より証拠、ですか。へえ、じゃあ証拠を見せてくれるとか?」
俺は顔で薄く笑ってみせながら。実際のところ、心の隅で期待していた。
彼女は「もちろん」と答えると、一歩近づき、両手で俺の左手を包み込んだ。
「それじゃあ――丹和木さんには、エベレストを見せてあげます」
そう、跳田という女。昨夜、俺の部屋に現れたあの女だ。
ぽっちゃりではないが全体的に丸く見えるあの女は――どう考えても怪しいのに、警戒するのがあほらしくなる雰囲気の持ち主だった。
だから『証拠を見せる』と左手を握られた時も、驚きはあったが、『いいって言うまで目をつぶっててくださいね』という言葉に疑問を抱くこともなく。
目を開いた時――俺は、ホテルの一室らしき部屋に立っていた。
服装も体調も目前の女も変わってはいなかった。だが、視界と匂いと空気の感触は一変していた。
立ちすくむ俺の手を放して、跳田は窓辺まで歩いた。カーテンを掴んで一気に開くと――そこから見えたのは、"エベレスト"
……だったのかは、正直よく分からなかったが。カーテン横の得意顔に『ごめん、エベレストって見てもピンとこねーや』とはさすがに言えなかった。
「少し落ち着きました? それじゃあご説明しますね」
ご説明されるまでもなかったが、今のが"マル能"であり、瞬間移動の一種だという。
東京のアパートからエベレスト……かどうかは分からないが。少なくとも雪山の見える部屋まで一瞬で移動してしまった。百聞は一見に如かず。これ以上の"証拠"もないだろう。
それにしても、瞬間移動。なんて魅惑的な響きだろう。マル能という名前はダサいがこの際構わない。
だって彼女はさっき『マル能を体験してもらう』と言ったのだ。つまり、これから自分もマル能が使える。そう思うと胸が――
胸が。躍っていたのだ。
少なくともその時は。
俺は……まぶたを開き、現実の光景を窺う。
ここは地元の結婚式場。東京から電車を乗り継いで4時間弱。教会が併設された、地元で一番大きな結婚式場の、庭。
正装の男女たちは、見覚えのある顔が半分弱。と言っても高校時代に見たような見なかったような、という程度だが。
時間が止まってしまう直前……その参列者たちは、花びらの入った小さなカゴを持ち、道の両脇に二列で並んでいた。花びらを撒いて新郎新婦を祝福する演出。『フラワーシャワー』というらしい。
もっとも出席を伝えなかった俺のカゴはなく。一人手ぶらな自分をみじめだな、なんて思っていると、気を利かせた女性が友人とともに花びらを分けてくれた。
おかげで俺は――むき出しの花びらを左手に積んで、尚更みじめな姿になった。
ともあれ。
しばらくすると新郎新婦が教会の扉から現れた。列の先頭は早速花びらを投げ始めて、庭が散らかされていく。
新婦たちに向かって右側、最奥の後列でそれを眺めながら。俺は「いつ投げるか?」だけを考えていた。
その次だった。深い紅色のドレスを着た女性が列から出て
「トメ子。結婚お」
――と、そこで言葉が止まった。
新婦と抱擁しようとしたのか、伸ばされた左腕は空中で静止。一方の新婦も、繋いでいた手を離して女性を向いたところで固まる。
花びらさえも宙に浮かんだまま。庭全体が静まって、止まっていた。
だが、焦りはあまりなかった。
すぐに『時間が止まっている』と気が付いたからだ。なぜなら、それが俺の"マル能"なのだ。止め方も動かし方も、止まった時間のルールも既に把握している。
しかし……違和感があった。
俺は急いで、懐からトイカメラを取り出す。手の平に簡単に収まってしまう虹色のトイカメラだ。
まあ虹色と言っても実際はたったの四色で、押し入れの段ボール箱に入っていた古い子供騙しのトイカメラ、でしかないのだが。
これで時間を止められると、跳田がそう言ったのだ。
そして、実際その通りだった。電源を入れずにシャッターボタンを押せば時間が止まる。シャッターボタンを長押しすれば時間が動く。その力は本物だ。
だが……さっき、俺は何も押してない。カメラを出してさえいなかった。だから時間が止まるはずがない、のに。
疑いようもなく、時間は止まっている。
家の鍵がいつものポケットにないような――そんな漠然とした不安を覚えながら、俺はシャッターボタンを長く押し込んだ。
「……ウソ、だろ。なんだよ、なんで動かないんだよ!」
声に出た。一度でダメなら二度と試してみてもやっぱりダメで。押してダメなら引こうにも、シャッターボタンを引けはしない。
そうして俺は、今も止まった時間の中で立ち尽くしている。というわけだった。
「……ハァ」そうしてため息を吐いたのも、もう何度目だろうか。
俺はトイカメラを左手に持ち替えて、手弄る。もういっそ、このままでいい……わけ、ないよなぁ。
時間が止まっていると言っても、俺だけは違う。腹も空くし喉も乾くし、歳もとる。この世界で誰にも気付かれずに死んでいく、なんて、想像するだけでぞっとした。
諦めが何より肝心なのは、それで問題が有耶無耶になったり、考え事が減ったりして人生を楽しめるからだ。
その"人生"が、こんなんじゃ……なあ。
はあ。と、またため息を一つ追加しようとした。その時。
不意に左手から、トイカメラがつるりと落ちた。
「やばっ」
カシャンと音を立てて、一メートルくらい先で止まる。
子供用のトイカメラなので丈夫だろうけど、言っても唯一の手がかりだ。万が一のことがあれば絶望的な状況になる。
いや、既に絶望的な状況ではあるけど。もっと絶望的になる。――それだけはマズい。
俺は慌てて拾い上げようと――動かした右足で、トイカメラを蹴っ飛ばした。
「あああっ!!」
カラフルな小箱はくるくると回転しながら、参列者の股下を滑っていった。俺は地面に膝をついて行き先を追う。
すると、すぐに見つかった。止まった場所は――列を抜けた先の、
……新婦の、足元だ。
ああマズい、最悪だ。
立ち上がって人の隙間から新婦を窺った。大丈夫、顔はこちらへ向ききっていない。たぶん見ているのは、列を飛び出たあの深い紅色のドレスの――
――じゃない。そもそも時間が止まってるんだから、見られてるわけないだろ。何をビビってるんだ、俺は。
落ち着け。そうだ、時間だけはいくらでもあるんだ。一度冷静になれ、俺。
深呼吸を、一つする。
辺りを見回す。とにかくトイカメラは拾いに行かなければならない。だが正面には人の壁が、教会から隙間なく並んでいて通れない。まさか自分も股下をくぐるわけにはいかないし。
となると……あそこしかない。
顔を向けたのは列の終点だった。そこでは晴れの日の二人を正面から捉えるために、カメラマンがしゃがんでいる。
人を避けて通れるとしたら、あそこしかない。俺はゆっくりと列を離れ、カメラマンの後ろまで回り込んだ。
「……くそっ、思ったより狭いな」
大股で立つカメラマンの左側には子供たちが立っていて、元から隙間はない。しかし右側には誰もいなかった、はずなのに。タイミング悪くよろけたのか、列からはみ出た参列者の体がそこにあった。
ここが、どこよりもスペースがあることは間違いない。だが……これ、本当に通れるのか?
他に方法がないか、もっと考えたほうがいいだろうか。たとえば台を持ってきて、参列者の頭を飛び越える――いやダメか。それじゃあトイカメラを拾えても戻ってこれない。
やっぱり、この狭い隙間を通るしかない。
……けど、もし体がぶつかりでもしたら。
カメラマンの後ろで逡巡する。しばらくそうしていたが、とうとう「やっぱ、行くしかない」と覚悟を口にした。その瞬間――
宙に浮いた色とりどりの花びらが、一斉に散り始めた。
「――めでとう!」
「えっ」という俺の声は喉の奥でかき消えた。展開に追いつけない脳が揺れて、足が後ろへ動く。
止まっていた言葉の続きが、式場のBGMが、喧騒が、耳に飛び込んでくる。
時間が動いた? なんで? 俺は何もしてない。今やトイカメラを持ってもないのに。
理由は分からないが――それよりマズい。今、俺は時間停止中に"移動"してしまったのだ。
急いで周囲を見回す。しかし参列者の目は新郎新婦に釘付けだ。カメラマンも集中しているのか、後ろに現れた俺に気付いた様子はない。
ほっ、と息を吐いた。
誰かが「人が瞬間移動した」とでも騒いでたらオシマイだった。でも一安心。なんとも静かなもの
…………静か?
もう一度。ゆっくりと視線を動かす。
色とりどりの花びらは……まだ宙に浮かんだまま。落ちる様子はない。
その庭はまた俺だけを、幸せな時間の外へと追い出してしまったのだった。
「どうでしたか? 丹和木さん」
彼女が俺の左手を放した。それを合図に目を開いた俺の視界には、自分の部屋と、朗らかな笑顔が映った。
「ホントに……夢じゃないんすね」
「はい、現実なんです。もちろん疑うのも当たり前ですけどね」
そう言った跳田は手でぱたぱたと自分を扇いでいた。よく見れば顔は赤くなり、呼吸もやや乱れている。
「――あ、お気になさらず。今みたいに移動すると、ちょっと疲れるんです。校舎を軽く一周走ったくらいですかね」
視線に気付くと彼女は笑ってごまかした。『校舎一周』って学校によるし、例えるならせめて校庭だろう。
さては学生時代は運動部だな。なんて考えながら、俺は部屋唯一のチェアをくるりと回転させて彼女に向けた。
「どうぞ。今、お茶も持ってきます。麦茶ですけど」
「あっいや、そういう意味で言ったわけじゃ……スミマセン、ありがとうございます」
ちょこんとチェアに座った彼女を通り過ぎて、俺は冷蔵庫から出したペットボトルを、あまり気に入っていないマグカップへと傾けた。
「――ところで、丹和木さんは何のお仕事をされてるんですか?」
「俺ですか? あー、まー、ライターってやつですかね」
「えっ、作家さんなんですか? すごい!」
「や、そんなんじゃないっすよ。半フリーランスのWEBライターなんで、書けって言われたモンを書いてるだけです」
「いやいや私とかはもう、昔っから文章書くのも読むのも苦手で、いっつも作文とか居残りして書いてたんですよ。だからこう、長い文章をババっと書けちゃう人ってほんとすごいと思います!」
……まあ得意そうではないな。と、心の中で思った。
「あ。じゃあこれがお仕事道具なんですね?」
彼女はデスク上のノートパソコンに視線を向けた。「パソコンを使うお仕事って、なんかかっこいいですよねぇ」
美術品でも見るように閉じたパソコンを眺める跳田の前に、マグカップを置いた。
「どうぞ」
「あっどうも、ありがとうございます」
置かれたマグカップに警戒する様子もなく口を付けるのを見届けてから、俺はベッドの縁に腰掛けた。
「ふぅ。……ええっと、それでどこまでお話ししましたっけ?」
「"丸秘能力"でしたっけ? それで、エベレストを見せてもらったとこまでです」
「ああそうでした。では、さっきのでどこまで信じてもらえたかは分からないですけど……ひとまずマル能のことを説明しますね」
手に持っていたマグカップをデスクへと置いてこちらを向き、跳田は背中をぴんと伸ばした。お堅い公務員というよりは、面接会場の学生のようだったが。
そして――彼女が説明した内容は、大体次の通りだ。
一つ。マル能とは本来すべての人間に生まれつき備わっている力。しかしその力は体の奥底で深く眠っていて、普段は使えない。
ちなみに"丸秘能力"というネーミングも『体に秘められた力』という意味だそうだ。
二つ。マル能の種類は個人によって全く違うが、多くは本人の願いに沿った能力である。
ただしどんな能力だろうと必ず使うための『条件』があり、さらに、今さっき跳田の息が上がっていたような『反動』がある。
そして、三つ――
「マル能の存在は、決して人に知られてはいけません」
「それは、どうして?」
「それは……たとえば私の瞬間移動の能力だって、その気になればいくらでも悪いことに使えます。だから、もし悪用しようする人が何人も出てきたら……世界がどうなるか分からないからです」
俺は、少し指先が冷たくなったのを感じた。
"世界"という言葉は、決して誇張ではないだろう。実際、彼女は簡単に国を越えてしまった。そこにはパスポートも所持品検査もない。
「でも、マル能のことを知ったからって使えるようになるわけじゃないんですよね? 『普段は使えない』って言ってましたし」
「はい。今のところマル能を使えるようにする方法は、ほんの少しの人しか知りません。でも……もし誰かが偶然その方法に気付いたら。その日が『この世界の終わり』になってもおかしくない。その可能性を少しでも減らしたいんです」
彼女は俺を脅かすためというよりも、自分自身、本当に恐怖している様子だった。
「――まっ、いや、でも待ってください。よく分かんないんですけど、マル能がそんな危ないもんなら、なんで跳田さんは俺に教えに来たんすか?」
「ですから、それはマル能を体験してもらうためですよ。どれだけ隠してもいつかはバレる。だったらその前に色んな人に使ってもらってデータを集めて、なんとか制御できるものにする。国はそういう方針なんです。だから私たちがこうして、夜な夜な皆さんを訪ねているんです」
「でもなんで俺が? 自分で言うのもナンですけど、俺そんなに口固い方じゃないすよ?」
「それは……すみません、気になる気持ちは分かるんですけど。私、そこまでは知らないんです。実を言うと『この住所の誰々の所に行ってこい』って指示を受けてるだけで……」
それもそうか。言動を見る限り本当に国に雇われているだけのようだし、知らないのも無理はない。居心地悪そうに目を伏せる彼女に、俺は質問を続けた。
「あーそれじゃあアレ、一応聞いときたいんすけど。もし仮に、万が一、マル能のことを俺が誰かに話したら……どうなるんすか? 逮捕されるとか?」
「え、と……」跳田は少しの間、口をつぐんだまま固まった。そして
「法律がないから、逮捕は、されないです」
「逮捕"は"?」
「……はい。でも、死んでしまう、かもしれないです。あなたも、それを知った人も」
「死――えっ?」
耳を疑う。
「そっ、どういうことですか!? まさか口封じで殺されるって言ってんですか!?」
「す、すみませんすみません! これ以上は何も話せないんです! ごめんなさいっ!」
興奮して立ち上がった俺に、彼女はぶんぶんと頭を下げた。残念ながら、どの言葉にも嘘があるようには聞こえなかった。
「分かった、分かりましたから。頭上げてください」
俺が言うと、彼女は恐る恐る頭を上げた。その目は肉食獣でも見るかのようだった。
「……そんな怯えないでくださいよ。跳田さんが悪いわけじゃないってことくらい、分かってます」
「あっ……すみません。私その、怒鳴られるっていうか、大きな声が、その。ですから丹和木さんが怖い人って思ったわけじゃなくて。つまり、えと、つまり……」
気まずい空気が流れた。先に堪えきれなくなった彼女が、後方のデスクからマグカップを取って口に付けた。
そして、マグカップを置き直すために背を向けた彼女から――「ごとん」と音が聞こえた。
「ひっ」と息を吸う音。
「え?」
「ちが、あ、これどうしっ、そ、ごめんなさい丹和木さん!」
立ち上がった跳田が慌てながら振り返って、また勢いよく頭を下げた。
見るとデスクの上でマグカップが倒れ、流れ出た麦茶がノートパソコンの下に広がっていた。
「お、お仕事のやつなのに、すみません、弁償――あ、違うその前に拭かないと! あ、あわわ」
『あわわ』とか言う人、現実にいるんだな。絵に描いたような焦り具合が面白くて、俺はしばらく見守る。
彼女はポケットから上等そうなハンカチを取り出すと、デスクを拭こうと手を伸ばし――ふと思い出した様子で、先にパソコンを持ち上げた。
皿を乗せるように右手にパソコンを乗せ、左手にハンカチを持つ。しかし彼女の細腕一本には文字通り荷が重いようで、すぐに腕が震え出していた。
これはちょっと危ないな。と、俺が口を開きかけた、その時。
不意にパソコンの下から、ひらりと紙が落ちた。その四角い紙はそのまま薄茶色の水たまりに落ちる。
「ああっ、私また……ごめんなさい」
「……あーいや、大丈夫です。それ、捨てようと思ってたやつっすから」
茶色が移り始めたその紙を、俺はひょいとつまみ上げた。
「え、そうなんですか? よかったぁ」
いつの間にかパソコンを両手に持ち替えている跳田は、ほっとした顔で俺の手を覗き込んだ。
「でも、ずいぶんオシャレなハガキですね。捨てるのがもったいない――って。あの、丹和木さん。これ……日付が今日になってますよ。明けて今日です、これ」
「え?」
俺の脳内に、数か月前の悩みが蘇る。しまった、もうとっくに終わったものと思っていたのに。よりにもよって今日だなんて。
剝がれかけのデコレーションシールで飾られた、その子供みたいなハガキ。
それは――幼馴染から俺へ宛てられた、結婚式の招待状だった。
状況は最悪だった。
いや、トイカメラを落として蹴っ飛ばした時点でもう"最悪"だったのに。今まさに、それを超えてきた。
今さっき、止まっていた時間がたった一秒ほど動いて、また止まった。理由はさっぱり分からないが、まあそれはいい。
それより俺の唯一の手がかり――新婦の足元に滑って行ったあのトイカメラが、どこにも見当たらなかったのだ。
もちろん俺は庭を這いつくばって捜しまわった。で、なんとか見つけた。見つけたのだが。ここからが最悪だ。
結果的に……トイカメラのある位置は変わってなかったのだ。ただその上に、ウェディングドレスのスカートがあって見づらくなっていただけ。
つまり、あのわずかに時間が動いた一瞬。その間に新婦の足が移動して、ちょうどトイカメラを跨ぐ状態になってしまった。というわけ。
『そんなの時間が止まっている間にスカートをめくって拾えばいい』と、普通ならそれで済むだろう。しかし事はそう単純にいかない。
一つ目の問題は、いつ時間が動き出すか分からないということ。
トイカメラのシャッターボタンさえ押さなければ時間は止まり続ける……はずが、ボタンを押しても止まったまま、挙句トイカメラを持ってもいないのに時間は動いて、また止まった。
もはやあのトイカメラは信用しきれない。少なくともさっき時間が動いた"きっかけ"が分かるまでは。
万が一、俺がトイカメラを拾おうとした瞬間に時間が動き出しでもしたら……大変なことになる。
まず注目の中心の新婦のそばに突然現れるのだから、間違いなく気付かれる。そして傍から見れば、突如現れた謎の男が新婦のスカートに手を伸ばしている状況だ。どう考えても常軌を逸している。
何はともあれ俺は変態として取り押さえられるだろう。久しぶりに帰ってきたというのに、地元中から軽蔑されることになる。
……いや。軽蔑で済むなら、そのほうがずっといい。
俺は目を閉じ、"マル能"の説明を思い出す。
跳田は、書類を挟んだクリアファイルを見ながら話していた。
「丹和木さんのマル能は――簡単に言うと『時間停止』に分類される力だそうです」
「時間停止? それってあの、マンガだとわりと最強な?」
「あ、そうですね。その最強な時間停止とほぼ同じだと思ってもらえれば大丈夫です」
跳田は簡単に頷いてみせた。
彼女がマグカップを倒した一件で、図らずも部屋の気まずい空気は霧散していた。薄茶色に染まった立派なハンカチは水洗いをして、除湿機の上に洗濯バサミで吊るしてある。
「でも……なんか普通な反応っすね。時間停止ってそんなすごくないんすか?」
「いえいえ、すごいですよ。ただ――さっきマル能には『条件と反動』があるってお話ししましたよね? すごい力ほど、その『条件と反動』も重いんです」
「え。じゃあ使いすぎると死ぬとか?」
「あはは、さすがにそれはないですよ。そもそもそんな危ないマル能だったら体験させられませんし」
それもそうかと思っていると、彼女が続けた。
「時間停止だったら、えっと、例えば『時間を止めてる間、自分も体を動かせない』とか『数秒間しか時間を止められない』とか。そういう重い条件が付いて、逆に反動は『疲れる』とか『お腹が緩くなる』とか、そういう軽いのが多いですね」
ということは、条件が軽いほど反動は重く、条件が重いほど反動は軽い。と、比例しているということだろう。
「それで、丹和木さんはと言いますと――」
彼女は書類に目を落とし、そして「えっ」と、目を丸くした。
「な、なんすか」
「えと、丹和木さん……条件は『道具使用』とだけ、書いてあります」
それの何に驚いたのか、俺には分からない。
「あっすみません、『道具使用』っていうのは、文字通りマル能を使うときに『道具を使う必要がある』って条件なんです」
「それは……重い条件、なんです?」
「めちゃめちゃ軽いですよっ!」彼女は身を乗り出して答えた。
「いいですか? 条件が『道具使用』だけってことは、時間を止める力には何の制限もないってことなんです! 好きに動き回れるのはもちろん、早い話が、十年でも百年でも時間を止めてられるってことなんです!」
「な、なるほど。百年……」
そう聞くと、さすがに理解できる。
「けど、条件が軽いってことは、その分反動が重いってことですよね。どんな反動なんすか? 聞くのも怖い気しますけど」
「あ、そうですね。ちょっと待ってください」
跳田は再び書類に目を落とした。
「えっと、ありました。丹和木さんの反動はですね――」
『解除後に、停止した分だけ金縛りになる』
つまり"一分"時間を止めたのなら、その力を解除してから"一分"の間、俺は身動き一つ取れなくなる。
この『反動』がとてもマズい。
軽蔑で済めばまだマシだ。突如として新婦のそばに現れ、取り押さえられたそいつは口も開かなければ、まばたきの一つもしないのだから。
誰かが常識外の"なにか"が起こったと気付くかもしれない。時間停止とは気付かずとも、たとえば"瞬間移動"とか。
そうなったら――それは『マル能のことを知られた』のと同義だ。俺も含め、この式場にいる全員が口封じのために"死んでしまう"かもしれない。
もっとも、曲がりなりにも国を名乗っている組織が本当にそこまでするとも思えないのだが……ないとも言い切れないのも事実だ。
だから今、どこよりも目立つあの場所に安易に近付くわけにはいかない。
これが、一つ目の問題だ。
そして二つ目の問題――こっちはもっと深刻だ。
つまるところ、トイカメラを回収するには新婦のウェディングドレスに『触る』必要がある。
俺には、それが何よりも難しい。
マル能の条件と反動について説明し終えた後、跳田は『時間停止』について話すと言った。
「少し難しい話になるんですけど。"世界の時間"というものは、この世界に一つしかないんです」
「? そりゃ、そうなんじゃないすか?」
「まあ、えと、そうなんですけど。その"世界の時間"っていうのを一つの大きな時計――『世界時計』だと考えてください。人も物も、全ての存在は自分だけの『時計』を持っています。でも普段は必ず、その『世界時計』と連動しているんです」
自信なげな彼女は時折、手に持った書類を見ていた。
「そしてその『世界時計』の針を指で押さえて止めてしまう。時間停止の力はそういうイメージです」
「はあ。なるほど」
「つまり、時間を動かすときは針を押さえてる指を外すだけなんです。極端な話をすると、もしも丹和木さんが時間停止中に死んでしまったら、針を押さえる力が消えて勝手に時間が動き出すというわけです」
「へえ、そうすか。で……それが何なんすか?」
「……さあ。何なんでしょう? 私も分かんないんですけど、これに説明しろって書いてあるんですよ」
役所仕事の"お決まり"というやつだろうか。彼女はもう隠す様子もなく、ずっと紙を読み上げていた。
「まだ続きがあるので、一応ちゃんと聞いててくださいね」跳田は居住まいを正した。
「さて、丹和木さんのマル能はあくまでも『時間を止める力』であって、『止まった時間の中を動ける力』ではありません。では、なにゆえ動けるのか? ですが」
「ちょっと待って」
「はい、質問ですか?」
「質問、っていうか。『さて』とか『なにゆえ』とか、なんか口調変わってません?」
「でも、そう書いてあるんですよ」
「……そこまで書いてあるんですか?」
「はい」と普通の顔で答えた。「じゃ、続けますね」
「結論から申し上げますと、止まった時間の中で動けるのは、丹和木さんが時間停止に『気付いている』からなのです」
「気付いているから?」
「はい。世界の時計と自分の時計がある、というイメージは既にお伝えしましたよね?」
そこまで言うと跳田は顔を上げ、黙って俺を見つめた。
……まさか、『反応があるまで待て』とでも書いてあるのか?
「そう、ですね。そのイメージはさっき聞きました」と俺が答えると、時が動き出したみたいに彼女はまた口を開いた。
「世界時計が停止したとき、通常は連動している自分の時計も停止します。しかし『世界時計の停止』に気付いた者だけは、自分の時計が動き続けます」
「なんか、逆にややこしいっすけど。要するに自分で時間を止めた俺だけが時間停止に気付けるから、自由に動き回れるってことでしょ?」
「ええっと、それは少し違くて、ですね」
跳田は一度クリアファイルから書類を出すと、紙を一枚めくって、また入れ直した。
「二つだけ、時間停止中に丹和木さん以外が動くケースがございます。一つ目は、時間を止めた時、近くにいたマル能を使える人です」
「……じゃ、もし今時間を止めても、跳田さんは動けるってこと?」
「ですね。半径一キロメートルの中にいると、丹和木さんが時間を止めたのを感じて、無意識に『世界時計の停止』に気が付くんだそうです」
と言っても、マル能を使える人なんて百人もいないですけど。と、彼女は付け足した。
「続きまして……二つ目は重要なので、よく聞いてくださいね」
「――『重要なのでよく聞いてくださいね』って、その紙に?」
「はい、波線も引いてありますよ」
そう笑顔で答えられてしまっては、からかい甲斐もない。
「いいですか丹和木さん。二つ目。時間を止めている間――丹和木さんが『触っている』ものは、時間が動きます」
ウェディングドレスの白は純潔の象徴だ。それに新郎でもない男が触れるというのは、元よりよろしい行いではないだろう。
もっとも象徴云々の前に、新婦の体に触れること自体よろしくない。そんなことが許されるのは家族か、あるいは列から飛び出た深い紅色のドレスの持ち主のように、同性で、きっと仲のよい間柄。それだけの条件をクリアした人間くらいだ。
高校の卒業式から結婚式の招待状が届くまで、七年間。一度も連絡さえ取っていない男に……その権利があるはずもない。
「でも、触んなきゃ取れねーしなぁ」
止まってしまった時の中で、俺は途方に暮れていた。
ぶっちゃけ"触れる権利"があるか、とかはどうでもいい。そうじゃなくて、問題は俺がウェディングドレスに触ると、それを着ている新婦の『時間が動く』ということだ。
地べたに腰を下ろす。と、さっき左手から落とした花びらが地面にあった。俺は数枚拾って手に乗せ、自分の顔の前で落とした。
花びらは空中で一秒ほど舞うと、浮いたまま動きを止めた。
止まってしまったものは、『世界時計の停止』に気付いた者に触れられている間だけ、相手の『時計』に連動して動く。
それが止まった時間のルールなのだと、跳田はそう言っていた。正確には離れた後も一秒ほど動き続けるようだが。
とにかく、触らなきゃトイカメラは拾えない。しかし触れば新婦の時間が動いてしまう。という状況。
拾うのは、まあ、数秒もかからないだろうが。その一瞬で俺に気付かれる可能性は……大いにある。
昔からあいつ、そういう勘は鋭かったし。
「…………」
目を伏せる。
トイカメラを落とした時から。いや、そのずっと前から。俺は、ウェディングドレスの上を直視できていなかった。
『マル能の種類は、多くは本人の願いに沿った能力になる』
それが事実だとすると、俺の願いは『時間が止まればいいのに』か? まったく。そんな願いをした覚えは、ありすぎて困る。
はあ。と息が漏れた。
諦めが、何よりも肝心。
「よし、トイカメラは諦めよう」
事実として、さっきボタンを長押ししても時間は動き出さなかったのだ。アレが手元にあったところで、この事態が解決するわけじゃない。
俺は立ち上がり、くるりと教会に背を向けた。
まずは身を隠す。それから解決策を考える。
最初に時間が止まってから、腕時計の針はもう二十分ほど進んでしまった。いま時間停止が終わったとしても俺は『反動』で、しばらく呼吸以外に何もできない。まばたきすら許されないから、目を閉じておかないと失明の危険さえあるほどだそう。
十分程度ならまだしも、さすがにこれ以上長いと誰かが『金縛り』に気付いてしまう可能性が高い。それだけでマル能のことがバレたりはしないだろうが……下手をすれば騒ぎになる。
せっかくの晴れの日に水を差すだとか。初めから、そんな気は毛頭ないのだ。
まあ……だからと言って、素直に祝福できるとも思えなかったけれど。
『だったら、どうしてここに来たのか?』
頭の中に疑問が浮かんだ。
「……ホント、なんでこんなところに来ちまったかなぁ」
来なければ。たぶん、こんな状況にもならなかったのだろう。
人の多い場所でマル能を試したかった。久々に地元に帰りたかった。招待状に返事をせずに無視していた、罪悪感。
どれも正解で、どれも言い訳じみていた。
でも、本当は……
――そうだ、跳田メイ子。全部あの女にそそのかされたせいだった。
「ここまでの説明に同意してもらえるなら、丹和木さんにマル能を体験していただけますけど。その前に質問とかはありますか?」
クリアファイルを膝の上に置いて、跳田が首を傾げた。部屋の時計は十二時二十分を過ぎていた。
「ちなみに、同意しなかったらどうなるんすか? "死んでしまう"とか?」
「まさか、そんなわけないですよ。ただ、ここ一時間の記憶を全部忘れてもらうだけです。ウチにそういう力を使える子がいまして」
試しに訊いてみただけだったが、存外面白い答えが返ってきた。
「『記憶を消す能力』ってことですか。ほんと、マンガの世界っすね」
「あ、もちろんみんながそんな凄い力じゃないんですよ。時間停止だって結構レアなほうですし。ですから、ぜひ丹和木さんも体験しておくのがよいかと!」
自然な流れで勧める彼女からは、やはり慣れを感じる。
しかし彼女はどんな経緯で"マル能"を知り、体験の勧誘をさせられることになったのか。少し興味は沸いたが、さすがにそれは訊けなかった。
「……そういえば。ずっと気になってたんですけど、なんでこんな時間に勧誘してるんですか? 夜中にスーツじゃ逆に怪しまれるでしょ」
「ああそれは」と、口にした彼女は数瞬固まった。そして自分の指を揉む仕草をする。「……ごめんなさい。まだ話してなかったですっけ」
「なにを?」
「ええと、これから丹和木さんが使えるようになるマル能はですね。その日の『夜中の十二時』で使えなくなるんですよ」
「え、俺の力なのに使えなくなるんですか?」
「丹和木さんの力だからこそ、です。さっきも言いましたけどマル能はまだ研究している最中なんです。予想外のことが起こるかもしれない状況で、いつでも使えるようにはできない。丹和木さんの安全のためにも、一日が限界なんです」
「けど、跳田さんはいつでも使えるんですよね? じゃなきゃ仕事にならないだろうし」
「いつでもっていうか……仕事中だけですよ。休みの日とかは使えないんです。なのに毎日健康診断受けさせられるし監視もされるし。普通の人より全然不自由なんですから」
彼女は口を尖らせて言った。"瞬間移動"なんて便利な力があるのに使えないとなれば、なるほど無理もない。
「まあとにかく、『夜中の十二時』で使えなくなるからにはできるだけ長い時間体験してもらいたい、ということで、夜中の十二時過ぎに訪ねる決まりになっているわけです」
「……ああ、なるほど。二十四時間じゃなく、あくまで『夜中の十二時まで』なんですね」
「はい、そうなんです。その時間になると魔法が解けるみたいに、すうっと力が使えなくなるんですよ。シンデレラの魔法みたいでしょう?」
それで"体験"か。正直『ずっと使えるわけじゃないのか』という落胆はあった。しかし納得はした。
夢のようなひと時の時間……まさにシンデレラの魔法というわけだ。いや厳密には『シンデレラがかけられた魔法』だが。
「分かりました。じゃ、もう質問もないんで同意します。人にバレないように気を付ければ別に損もなさそうだし」
「あ、本当ですか? よかったぁ。ありがとうございます」
跳田はぱあっと明るくした顔で、頭を下げた。
「ではさっそく準備しますね」
そう言って、彼女は床に置かれたカバンからラベルのない小さなペットボトルと、安っぽいピストルを取り出した。
「まずはこれを飲んでください」
と、先に渡されたのはペットボトルに少しだけ入った赤い液体だった。
「……これ、中身なんです?」
「えっ? と――何かは、私も分からないんですけど。でも安全なことは保証しますよ。……もしアレでしたら、先に私が飲んでみます?」
「……いや。大丈夫、です」
俺は目をつむり、ペットボトルの中身を一気に喉へと流し込んだ。ごくりと飲み込むと甘酸っぱいような苦味だけが口の中に残ったが、特に体に異変はない。
指先の感覚を確かめながらフタを締める。見ると、跳田はピストルを右手に持って、またクリアファイルに目を落としていた。
「ええと――喉仏と、頭のてっぺんと、眉間」
何やら不穏な言葉を唱えている。
「あの跳田さん。念のため訊きますけど。それ、本物じゃないっすよね?」
「え――ああ、当たり前じゃないですか! これはあれですよ、つまりほら、昔、引き金を引くと電気が『パチッ』ってなる銃のオモチャあったでしょう? あれの大きいやつです。これを使って脳に信号が……信号を……で、マル能を使えるようにするんです」
後半不安になる説明だったが、仕組みは詳しく話せないということだろう、と何とか自分を納得させて、黙って受け入れる。
そして跳田は宣言通りに喉仏、頭のてっぺん、眉間、と順番に銃口を押し当てて――引き金を引いた。
電気は『パチッ』というより『バチンッ!』という感じで、一発目はかなり肝が冷えた。というかこれ、見た目を銃にする必要はあったのか?
「はい、オッケーです」
彼女は俺から離れ、ペットボトルとピストル、それからクリアファイルまで全てカバンへしまった。
「え……もしかして、もう使えるってことですか?」
「はい、使えます――けど、丹和木さんは条件が『道具使用』なので、道具が必要ですね」
「道具? って、どんな」
俺は思わず彼女のカバンを覗く。半端に開いた口から見えたのはクリアファイルが二枚と、少し前に流行ったキャラもののポーチだけ。
だが、彼女の視線はカバンには向かなかった。
「道具は丹和木さんの"捨てられない物"です。この部屋に一つくらいはありませんか?」
「捨てられない物?」
そりゃあスマホとか冷蔵庫とか、いや、でも買い替えたりはするか。そういう意味では"捨てられない物"とは言えない。
意外に難しい。何かあったかな、と考える俺の頭に、不意にそれが浮かんだ。
「あ……トイカメラ、とか」
「トイカメラ? それ、いいですね! 見せてください!」
言われるがまま、俺は押し入れの段ボール箱の底からそれを取り出して、彼女に渡した。
「わあ、可愛い! 虹色なんてオシャレなカメラですねぇ」
「虹色じゃないです。たった四色ですよ、それ」
「え? あっ、ほんとだ。でもレトロでファンシーな感じで、可愛いじゃないですか」
彼女は喋りながらトイカメラをくるくると回し、シャッターボタンを押したり、電源のスイッチを押してみたりする。
しかしかれこれ七年近く押し入れで眠っていたトイカメラだ。電池が残っているはずもなく、かちかちと虚しい音を立てるだけ。起動するはずがない。
「このトイカメラ古そうですけど。あんまり使ってないんですか?」
「そりゃまあ、別に趣味ってわけでもないし、この歳になってトイカメラなんか使わないっすよ。引っ越しの時、荷物に紛れて持ってきちゃっただけです」
「なるほど。じゃあ昔使ってた思い出のトイカメラだから捨てられない、というわけですね」
「いや、そうじゃなくて……」と言葉を切ると、跳田は俺を見つめて、それから首を傾げた。
「だから、まあ、要するに。それ幼馴染の物なんすよ。あいつ使わなくなってからもいつも持ち歩いてたし、だから勝手には捨てられないなって」
「じゃあ丹和木さんの物じゃない、ってことですか」
「やっぱ、自分の物じゃないとダメっすよね。いや、前から捨てようと思ってんたすけど、何となく捨てられなくて。"捨てられない物"って言われて最初に思いついたのがこれだった、ってだけなんすけど」
「んー……」と、彼女は胸の前で腕を組んだ。「その幼馴染の方とは、どんな関係だったんですか?」
「どんなって、別に。それなんか関係あるんすか?」
「はい、たぶん。あ、でも言いたくなかったら大丈夫ですけど」
「……別に。ただの幼馴染ですよ。母親同士が仲良くて、俺が一つ年上だったから、ずっと妹――みたいに思ってて」
視界に一瞬、ハンカチの隣で干されているハガキが映った。
「なるほど。んーまあ、それならきっと大丈夫だと思います。要するに、大切な人の大切な物ってことですからね」
「いやだから大切な人とか。本当あいつとはそういうんじゃなくって!」
「えっ、なにが?」跳田は目を丸くした。
「……いや、何でもないです」
しばらく、沈黙。
「ええと……もしかして、その幼馴染さんと付き合ってた、とか?」
「付き合ってないです」
「告白したとか?」
「してないです」
「じゃあ――好きだったけど告白できなかった、とか」
「それ、マル能と関係ないですよね?」
「あ、すみません、関係ないです……けど、気になるじゃないですか。教えてくださいよぉ、私こういう話大好きなんです!」
「大好きって……流れで、失恋話だって大体分かりません?」
「失恋話も全然好きなんです」
彼女は真っ直ぐに見つめ返して言った。分かった上で、か。
あしらうのも面倒になって、俺は聞こえるようにため息を吐いてから答えた。
「失恋したのは俺じゃなくて、あっちですけどね。地元からこっちに出てくる日に『ずっと好きだった』って告られたんです」
あの日。予想よりずっと荷造りと部屋の片付けが長引いて、日が暮れかけていた駅のホーム。
朝から俺を手伝ってくれていた彼女は――会話が途切れ、あと数分で電車が来る、という時に。意を決したようにそれを言った。
「え。それで、丹和木さんはフッちゃったんですか?」
「……フってやれば、よかったんでしょうけど。何も言えないまま時間切れで、それっきりです」
"数分"は、予想外の告白を受け止め、答えを出すには短すぎた。悩んだ言葉は意味のある文章にならず、俺は乗らなきゃいけない電車に乗り込んだ。
それから先も同じだ。やらなきゃいけないことに追われ、忙しくて。メールも電話も手紙も、手段ならいくらでもあったが、考える"時間"がなかった。
そうして"時間"に追われて、そのうちに、その"時間"が俺の気持ちを風化させた。
焦りや罪悪感にも慣れて、『早く答えないと』は『今更答えても』とか『もう待ってない』という諦めに姿を変えた。それを思い出す頻度さえ減っていった。
ただ――いつの間にか荷物に紛れていた、そのトイカメラを見るたびに。レンズを俺に向けていた、いつかの笑顔を思い出してしまって。
彼女が告白した時のこと、返事を待っていた時のこと――そこまで想像しては、胸や胃や心臓が張り裂けて。『そのうち返さなきゃな』と、トイカメラを奥へとしまい直した。
何もかもが、今更だった。
そう、今更だった。
あの日駅のホームで、動き続ける針に『止まってくれ』と何度も願った。なぜ、あの時に叶わなかったのだろう。
時間さえあれば、きっと答えを伝えられたのに。
「……どうせなら、"止める"じゃなくて"戻す"ならな」
なんて。ただの冗談が口から漏れた。
するとそれが聞こえたのかは知らないが、跳田が俺の顔を見た。
「あの、丹和木さん。……向き合う気があるなら、丹和木さんは、ちゃんと向き合うべきだと思います。今からでも」
「ははっ、すごいこと言いますね? もう七年も前の話ですよ? その間あっちからも連絡なかったのに、今更『あの告白の話だけどー』とか完全にヤバい奴じゃないすか。それより、今からマル能を変える方法とかないんすか」
「近いうちに、その人に会えそうなイベントとかないんですか?」
「ないことは、ないですけど」俺は視線を動かした。「ていうか俺の話聞いてます?」
「マル能は生まれつきの力なので、変えるとかはできないです。それよりトイカメラ。『荷物に紛れて持ってきちゃった』って言ってましたけど、それって本当でしょうか?」
「? 何言ってんですか、そんな嘘吐いて何に」
「そうじゃなくて。私思うんですけど、これって幼馴染さんの物なんですよね。もしかしたら――その人がわざと紛れ込ませたんじゃないでしょうか? だってこれがあれば、会う口実ができるから」
「アホらしい、ただの想像でしょそれ。つーか何をどうしたらそんな発想になるんすか?」
「勘です。……あと、私も前にやったことあるので」
跳田は一瞬気まずげに顔を背けたが、すぐにまたこちらを向いた。
「でも、もし私の想像が当たってたとしたら。そんな口実まであるのに丹和木さんは告白の答えも、会うこともしてくれなかった。だからその人は諦めたんだと思うんです。だとしたら――全部、あなたがちゃんと向き合わなかったせいです」
「俺のせい……ですか」
ハア。と俺は大きな息を吐く。
「"仕事に関係ない"話になったら、紙なんか読まなくてもペラペラ喋れますね跳田さん。こっちのが向いてるんじゃないですか? 何に活かせるのかは知りませんけど」
「……ごめん、なさい。干渉しすぎなのは分かってます。でも今からでも向き合わないと」
「だから、向き合って何の意味があるんですか? 俺が悪いのなんてとっくに分かりきってます。でも相手はもう割り切って、どっかの誰かと結婚式挙げるって、招待状まで送ってきてんですよ。今更蒸し返して、それで誰が幸せになるって」
「丹和木さんです」
「はあ?」と、声に出た。「俺? 全然、言ってる意味が分かんないんですけど」
「私、別にその幼馴染さんがかわいそうだとかは思ってません。だって、きっと自分から連絡することもできたはずだし。でも――」
跳田は真っ直ぐに俺を見た。
「七年も前の話なのに、今もそのトイカメラを『捨てられない』んですよね?」
「……っ」
「割り切れてないのも、諦めきれてないのも、全部丹和木さんのほう。だから――今からでも向き合ったほうがいいと思うんです。じゃなきゃこの先ずっと、あなたの時間は止まったままだから」
俺は鼻で笑った。『時間は止まったまま』とは。
「ずいぶん詩的な言い回しするんすね」
「え。いえ、ステキなんて」
「"素敵"じゃなくて"詩的"。ただの皮肉です」
「そっ、あ……ごめんなさい」彼女は頬を赤くして縮こまった。
その隙に俺は立ち上がって、彼女のハンカチだけを洗濯バサミから外した。
「はい、これ。除湿機のおかげで少しは乾いたみたいですよ」
「あの……出過ぎた真似で、すみません丹和木さん。やっぱり、怒らせてしまったでしょうか」
「まさか。怒る気も失せましたよ」
彼女は「すみません」ともう一度謝ってからハンカチを受け取った。そしてポケットではなくカバンにしまうと、それを持って立ち上がった。
「えと、あの、それじゃあ私、そろそろ失礼します。次もありますので」
マル能は夜中の十二時で使えなくなること。そして、決して誰にも知られてはいけないこと。この二つを念押しして、彼女はそそくさと玄関へ向かった。
革靴を履き、立ち上がって振り返る。そしてずっと手に持っていたトイカメラを、俺に差し出した。
「ではこれ、お返ししますね。時間を止める力を使いたいときは電源を入れずにシャッターボタンを押してください。解除したいときは長押しです」
「あ、はい。止めるときは押す。動かすときは長押し。ですね」
「はい。あと、何かあったら名刺の番号に連絡してください。私が出るかは分からないですけど……事務所の誰かが出ると思いますので。そしたら名前とマル能を言ってくれれば、オッケーです」
頷くと、「あとは大丈夫かな」と、顎に手を当てて跳田が呟いた。
「それでは――お邪魔しました。今日一日だけ、"本当のあなた"をお楽しみください」
彼女はにっこりと笑ってみせて、それから深くお辞儀した。
つられて会釈をした俺が頭を上げると、彼女は――
「そうだ」と、ぱっと顔を上げた。
「結婚式、行ってあげてくださいね。きっとその人は、あなたに来てほしくて招待状を送ったんですよ」
トイレの個室で、ぱちりと目が覚めた。見慣れた家のトイレではなく、披露宴会場の小綺麗な個室だ。
考え込んでいるうちに、いつの間にか眠っていたらしい。慌てて腕時計に目を落とすと"2"にあったはずの短針が"4"に移動している。
二時間以上も意識を失っていた。異常な状況のストレスか、はたまた昨夜よく眠れなかったせいか。
「――待てよ、もしかして」
ふと気が付いて、俺は首をさすりながらトイレを出た。無意識に時間を止めてしまったのだとすると、意識を失うことで力が解除されたかもしれない。
と、思ったのだが。
庭に出てみると、相変わらずフラワーシャワーは宙に散らばったままだった。絵画の中のようで美しいと言えなくもない光景だが、俺はそろそろ現実に帰りたい。
重い足を動かし、一番最初に立っていた場所へと向かう。意味のある行為ではない。何一つ打開策は浮かんでいない。
トイレで眠ってしまう前、思いつく限りのことは全て試したのだ。『動け動け』と念じたり、声に出してみたりなんていうのはほんの序の口。
歌って叫んで、地面に手をついて懇願してみたり、腕時計の針を動かしてみたり。しまいにはトイレの壁に頭を打ち付けてみたりもしたが……それでもダメだった。
ちなみに、一番惜しかったのは『跳田に助けを求める』という手だ。もちろん時間が止まっている以上電話は通じない。跳田の時間も止まっているだろうし、それ以前に電波も止まっている。
だがそうじゃなくて。つまり電話越しじゃなくて、直接跳田を見つけることができれば、何とかなる可能性はあった。
俺は今、何も『世界から完全に切り離された』わけではないのだ。花びらを拾い上げることができたように、俺が触れば『触っている相手』だけは時間が動く。
だが当然、そんなことをしたら相手にマル能の存在をバラすのと同じことだ。この状況が解決したとして、俺もその相手も『死んでしまうかもしれない』。ゆえに誰にも触ることができないわけだが……実は例外が一つある。
それが跳田だ。そう、つまり『既にマル能を知っている相手』ならば、動かしても何の問題もないのだ。だって『既に知っている』のだから。
彼女を見つけ出して彼女の時間を動かす。そして、世界の時間を動かす方法を聞けばいい。
――と、そこまでは良い思いつきだった。
すぐに大きな壁にぶち当たった。『どうやって跳田を見つけるんだ?』と。
知っているのは"師走市"という存在しない市の役所に所属しているということだけ。事務所的なものがある口ぶりだったが、その場所も知らないし、きっと公開されてはいないだろう。
そもそも公開されていたとして、インターネットが使えないので調べようがないし。しかも俺が時間を止めたその時、跳田がそこにいたとも限らない。
悪いことに、跳田のマル能は『瞬間移動』だ。ひょっとしたらその瞬間にエベレストの山頂に居た可能性だってある。……いっそ、その可能性のほうが高そうにも思える。
そこでようやく、その思いつきが実現不可能だと理解した。バスも電車も飛行機もない世界で跳田メイ子を探し出すには、俺の寿命は短すぎる。
そうして諦めがついた時には、もう、ずいぶんと頭が重くなっていたように思う。
――のろのろと、ようやく最初に立っていた場所に辿り着いた俺は。新婦たちのほうを向いて、わざと音を立てて座った。
風の音も人の囁きも聞こえない。ただ地べたの冷たさだけを感じると、もう何もかもが手遅れで、全てを受け入れるしかない。そう思えた。
『この世界の終わり』とは、こんなふうなのだろう。
どうにもならない世界で、深く息を吐いた。どうにもならないのなら答えは簡単だ。ただ、諦めればいい。
つまり、死ねばいい。俺はこの状況から解放されるし、死ねば力は消え、世界の時間は動き出す。跳田はそう言っていた。
当然、怖い。誰にも気付かれずに一人で死ぬなんて、想像するだけでぞっとする。……それでも。せっかくの晴れの日に水を差すだとか。初めからそんな気はないのだから。
「だからまあ……お幸せに」
俺は背中を向けて立ち上がった。結局、最後まで顔は見れなかった。
割り切れてないのも、諦めきれてないのも、全部俺のほう、か。まったく、人畜無害そうな顔をして、痛いところを突いてくる。
けれど、トイカメラは返せた。これでもう、ようやく、『土曜の夜』は終わったのだ。
だから――振り向かないまま、出口へ向かって歩き出す。
その瞬間、後ろから風が吹き抜けた。
「えっ?」
と、今度は声に出た。
しかし慌てて振り返れば、何事もなかったかのように時間は止まっている。
――まただ。また時間が動いた。
見回してみるが、大きな変化は何もない。それもそのはず、一度目は一秒ほど動いたが、今回は一秒にも満たない一瞬のこと。何かが変わるはずもない。
じゃあ一体どうして、何のために時間は動いたのか?
……分からない。ただ一つ、時間が動いたのは、さっきも今も俺が動こうとした瞬間だった。おそらくなにかの『きっかけ』で時間が動いたのだ。しかも、そのきっかけは俺の行動に関係している。
「なんなんだよ、くそっ」
時間を動かす方法はない。もうそれでいいって言ってんだ、俺は、諦めて現実を受け入れたんだ。だからもう、未練がましい希望を抱かせないでくれ。
そうだ、このまま時間が"止まったまま"でいてくれたら、俺はそれで、
『だから――今からでも向き合ったほうがいいと思うんです。じゃなきゃこの先ずっと、あなたの時間は"止まったまま"だから』
不意に、跳田の言葉が頭をよぎった。
……馬鹿馬鹿しい。ただの言葉遊びだ。関係ない、関係あるはずがない。大体、今止まっているのは俺の時間じゃなく世界の時間だ。それに、そもそも相手の時間が止まっているのに、どう向き合うっていうんだ。
俺は視線を上げることはしない。今もまだ、トイカメラを隠しているスカートを見つめたままだ。
"向き合う"だなんて、馬鹿馬鹿しい。そんなことで時間が動くはずがない。無意味に決まっているのだ。……しかし。まあ、万が一ということはある。
それに、どうせ最後だ。花びらに飾られた、一番美しい日のその顔。試しに拝んでやるくらいどうってことないさ。
俺は重い頭を上げて、ゆっくりと、純白のドレスの上を見た。
それは何一つ――少し丸い輪郭も、顎の形もほくろの位置も、気の抜けた柔らかい目元も、変わってない。あの頃のままの川本乙女(かわもと おとめ)。トメ子だった。
だから、見たくなかったのに。すぐに後悔が襲ってきた。
そして俺は――七年ぶりに。今、彼女と目が合ったのだった。
――嬉しくなかったわけじゃない。
そういう目で見たことがなかった、なんてカッコつける気もない。
俺はただ、昔から慎重で、一度立ち止まらなきゃ決められなかった。感情に任せて動くくらいなら、"何もしなかった罰"のほうを受け入れた。
あの時も同じだっただけだ。これから滅多に会えなくなる人間が告白を受け入れて、トメ子は本当に幸せなのか? と、頭によぎった。だからすぐに答えを出せなかった。
『本当に好きなら、迷わず告白を受け入れるはず』
その理論は分かる。『考える』『迷う』ということは、どこかに否定の気持ちがあるということだ。という理論。
幼稚な理論だ。だがあの時は、答られなかったことが大罪に思えた。俺も、トメ子も、決して大人じゃなかった。だから俺はずっと『罰』か『許し』を待っていたのだろう。
そして、待って。ただ待っていた。今日までずっと。
時間は止まったままだ。まばたきもしないトメ子の黒目が、じいっと俺を見つめる。その目は何かを訴えるようだ。
分かってる。どんな答えが返ってきたとしても、七年も連絡を取らないなんてあいつは望まなかったはず。こんな状況を生んだのは、俺だ。
好きと答えるのも好きじゃないと答えるのも、関係が変わってしまうのが嫌だった。
何もかも、今のままで"止まって"くれればそれで充分なのに。そう思っていた。
あいつは……トメ子は、"止まったまま"が嫌で、あの駅で覚悟を決めたというのに。
「ハァ」
息を吐いた。
分かっていたことだが、時間の止まった人間と見つめ合っていても意味がない。
俺は視線を逸らし、もう一度背を向けて――
ん?
俺は振り返った。
待て、ちょっと待てよ。何かおかしくないか。
俺が立っているのは最初に立っていた位置。つまり列の最奥の後列だ。トメ子から一番遠い位置、どうしてこの位置で"目が合う"?
隣を歩く新郎でもなく、花びらを投げた列の先頭でもなく、列を飛び出た深紅のドレスの女性でもなく。トメ子は、間違いなくこちらを見ている。
少なくとも最初に時間が止まった時、列を飛び出た女性を向いていたのは確かだ。ならば、たった二回、わずかに時間が動いた間にこちらを見たということ。
――まさか、俺に気付いて
いや違う。そんなはずはない。一回目に時間が動いた時、俺はカメラマンの後ろに立っていた。そしてついさっき、二回目に時間が動いた時だって、俺は立ち去ろうとしていた。
いくらなんでもほんの一瞬、七年ぶりに背中を見ただけで俺だと分かるはずがない。大方『なんであの人帰ろうとしてるんだろう』って具合に視線を向けただけだろう。
そうだ、そうに決まっている。
……けれど、何か。何かがまだ引っかかった。まだ大事なことを見落としている。そんな気がしていた。
だからもう一度思い出してみる。昨日の夜からの記憶を。俺は何を聞いた? 何が起こった?
思い出す。もう一度思い出して――
そして、気が付いた俺は、迷わずに足を動かした。
最初は跳田だった。俺の部屋に跳田メイ子が訪ねてきた。彼女は自分が存在しない『師走市役所』の職員だと話すと、それからマル能の説明をした。
マル能とは、
一つ、すべての人間に生まれつき備わっている力。
二つ、能力には『条件』と『反動』がある。
三つ、決して人に知られてはいけない。
四つ、夜中の十二時を過ぎると使えなくなる。
そして、俺のマル能は『時間停止』だ。
条件は『道具使用』。トイカメラのシャッターボタンを押すことで時間を止めたり、その力を解除することができる。
そして力を解除すると、止めていた時間と同じ分だけ『金縛り』に遭ったように体が動かせなくなる。それが反動だ。
つまりは長時間止めなければノーリスクで時間を止め放題。何とも便利な能力だ。しかしそんな時間停止が効かない場合が二つある、と跳田は言った。
一つ、力を使った時に近くにいた"マル能を使える人間"は、時間が停止しない。
二つ、時間が動いているものが"停止しているもの"に触れると、その間、触れられたものの時間が動く。
そうして説明を終えると、跳田は奇妙な飲み物とオモチャの銃を使って、俺をマル能が使える体にして。
それから、おせっかいにも『結婚式、行ってあげてくださいね』だなんて俺に勧めて。そのまま『瞬間移動』で帰っていった。
それが昨夜の出来事のほぼ全て。
そして今日、早朝、眠い目をこすりながら俺は家を出た。無責任な言葉に乗せられて、向かったのはトメ子の結婚式の会場。
道中『時間停止』を試しながら俺は地元行きの新幹線に乗った。七年ぶりの景色を懐かしむこともなく結婚式場に着くと、薄茶色のハガキで簡単に中に入れてしまい。フラワーシャワー用の花びらまで分けてもらった。
庭で待つ俺たちの前に、式を終えたトメ子と新郎が姿を見せた。花びらを投げ祝福する参列者。列から飛び出たトメ子の友人――その時、一度目の時間停止が起こった。
俺は事態が理解できなかった。とにかく時間を動かさなければと慌てて、トイカメラを落として――あろうことか蹴っ飛ばしてしまった。それもトメ子の足元に。
トイカメラを拾いに行こうにも人に触れるわけにはいかない。俺は周囲を見て、新郎新婦を正面から狙うカメラマンの横、イチかバチか、その狭いスペースを通れないかと考えた。
考えた末、覚悟を決めて――その時に、時間が動いた。
呆気にとられて声も出ないまま、見回すともう時間は止まっていた。動いたのはほんの一秒ほど。二度目の時間停止だ。
最悪だったのは、そのわずかな間にトメ子の足が動いたことだった。足元のトイカメラに、ウェディングドレスのスカートが重なっていた。
スカートに触れればトメ子の時間は動いてしまう。あいつが時間の止まった世界に気付かず、足元の俺にも気付かない――なんて、ありえない。
結局トイカメラは諦めるほかなく。俺は、トイレの個室に隠れて別の手段を考えるしかなかった。
しかしそれも、うっかり二時間も眠ってしまっただけで成果はゼロ。
そして。そう、ついさっきだ。もしや眠ったことで力が解除されたのではと庭に戻ってみたがダメで。万策尽きた俺はとうとう、最後の手段を受け入れた。
俺が死ねば、時間を止める力も消える。
死にたくない。でも、俺が死ななきゃ時間が動かないのなら……待ち望んだはずの"今日"を、いつまでも凍り付かせるのは忍びなかった。
そこから立ち去るために、俺は歩き出した。その瞬間また、時間が一瞬だけ動いて、止まった。
三度目の時間停止だった。
そして、俺は――
俺は、トメ子の前に立っていた。
すんなりとカメラマンの横を通り、近付くことができた。一秒ほど時間が進んだおかげか、列からはみ出ていた参列者は元の位置に戻っていた。
ようやく分かった。違和感の正体も、時間が動かない理由も。
俺が考えるべきだったのは、"止まった時間"の中でトメ子と目が合った理由なんかじゃない。"動いている時間"の中の出来事だった。
一度目に時間が動いた時、俺は言葉を失い、足が後ろに下がった。そして二度目、再び動き出した時間に俺は「えっ?」と声を漏らした。
――それはおかしい、そんなはずはない。だって俺のマル能は、解除すれば止めていた時間と同じ分だけ『金縛り』になる。そういう反動があるのだ。
声を出すことはおろか、まばたきもできない。もちろん『もう一度時間を止める』なんてこともできない。
じゃあ、どうして俺は足が動いて、声まで出せたのか? すぐにまた時間が止まったのか?
答えは一つしかない。つまり――
"時間を止めているのは、俺じゃない"
それで全ての辻褄が合う。『近くにいた"マル能を使える人間"は、時間が停止しない』のだから。近くの誰かが時間停止しても、俺の時間は止まらなかった。
そして、俺のマル能はあくまでも『時間を止める力』だ。だから、誰かが止めた時間を動かすことはできなかった。
問題は――その時間を止めている"誰か"の正体だ。
ぴくりとも動かないトメ子を。俺が立っていた空間を見据えたままのトメ子を。間近で、じっと見つめる。
根拠はある。確信は、ない。
もし予想が外れていたら、俺のせいでトメ子が危険な目に遭うかもしれない。そうなるくらいなら。と、思わないことはない。
『きっとその人は、あなたに来てほしくて招待状を送ったんですよ』
……跳田の、最後の言葉が頭に響く。
来てほしくて、か。
跳田メイ子が現れなかったら。こんなふうに近付くことはおろか、顔も見れなかっただろう。
俺はまた諦めて、受け入れて。そして……それに、いつまでも付き合わせたんだろう。
人生は諦めが何より肝心。それが、四半世紀の人生でやっと知った処世術。
……だった。今までは。
俺は、呼吸を止めて、
純白のウェディングドレスに手を触れた。
「……つかれた」
すっかり動き出したトメ子は、動かない庭の隅にへたり込んだ。
「そんなとこ座ったら汚れるぞ」
「いーよ別に。どうせレンタルだし」
そういえば、昔から貸した物を雑に扱う女だった。もっとも昔なら遠慮なく寝っ転がっていただろう、少しは大人になったようだ。
俺は、立ったまま彼女を見下ろす。平静を装いながらも、内心はこうして会話できる喜びを嚙みしめていた。ずっと時間の止まった世界に閉じ込められていたのだから。
だが一人ではなかった。この"時間の止まった世界"には、ずっとトメ子もいた。
俺は彼女に触れてそれを確信した。なにせ俺が触っても、トメ子は止まったまま『動かなかった』のだ。
時間が止まっても、触られている間だけは動けるのがルール。だが動かなかった。いや、動けなかった。
つまり――初めからトメ子の時間は止まってなどいなくて、ただ動けなかっただけなのだ。まるで"金縛り"のように。
「……『時間を止めてる間、自分も体を動かせない』か。そういや、そんな条件もあるって言ってたな」
「へぇ、シンちゃんそんなことまで聞いたんだ? いいなぁ。私は他の条件なんて教えてもらえなかったのに」
トメ子はちょっと口を尖らせてみせる。
その顔を見ると……助けられてよかった、と心底思う。
数分前、俺はトメ子が『動かないこと』を確認してから、ようやく事態を理解した。そしてトイカメラを回収し、合図をしたら力を解除するようにトメ子に伝えると、その場を離れてから合図を出し、すぐに、今度は俺の力で時間を止めた。
そうして自分の力を解除した彼女は、晴れてこの世界で動けるようになったというわけだ。
「――でもさ、すごい偶然だよね? シンちゃんも時間を止めるマル能なんでしょ? たまたま二人とも今日マル能が使えて、たまたま同じ力ってことでしょ。あ、もしかして昨日の夜に会った人も"トビタ"って女の人?」
「ああ、跳田メイ子だ。つか、そこまで同じなのか」
幼馴染同士、使える力と体験する日、オマケに訪ねてきた人間まで同じとは。偶然にしては出来過ぎている気もする。が、今はどうでもいい。
七年ぶりだ。七年ぶりに、文字通りの『二人だけの時間』だ。
昔話。今の話。世間話……何からどう話したものか。考えても、答えはしばらく出そうもない。
「でも、よかった」先に口を開いたのは、やはりトメ子だった。
「シンちゃんが戻ってきてくれてよかった。一回どっか行っちゃった時は、もうダメかって思ったけど」
「あれは……諦めたんじゃなくて、トイレで作戦を練ろうと」
「そうじゃなくて。さ」
トメ子は言葉を切ると、ちらりとウェディングドレスに目を落とし。地面に手を衝いて立ち上がった。
ぱん、ぱんと手に付いた砂を払う。
「今日、どうして来てくれたの?」
「お前が招待状送ったからだろ」
「返信もしてくれなかったじゃん」
「……ウェディングドレス、見ようと思って」
「ふうん。どうだった?」
「別に……想像の範囲内だったな」
答えながら、俺はもう左手のトイカメラを差し出していた。
「あと、そうだ、このカメラも返すつもりで来たんだった」
「ん? ああ、これってやっぱりあのトイカメラだったんだ? なつかしー」
彼女は俺の手から取って、ひっくり返したりボタンを押してみたりした。
その仕草がなんだか見覚えあって、ふと気が付く。ああそうか、跳田とトメ子の雰囲気は、どこか似ている。
「ねぇこれってさ、シンちゃんのマル能になんか関係あるの? 最初に私が時間止めた時もいじってたよね。で、落として蹴って焦ってた」
「それ使うのが、俺の力の"条件"なんだよ。壊れでもしたら力の解除もできない、そりゃ焦るだろ。あの時は俺が時間を止めてると思ってたしな」
「ふぅん、そんな条件なんだ。でもさ、だったら私に返しちゃダメなんじゃないの? もう時間止められなくなっちゃうじゃん」
「いいよ別に、どうせマル能が使えるのは今日だけだろ? もう当分時間なんか止めたくねーし、"反動"も面倒だし」
「……どんな"反動"なの?」
「1分半時間を止めたら、力を解除した後に1分半動けなくなる。長い間止めれば止めるほど面倒なことになるってワケ」
「でも、それだけ? ずるいな。私は時間止めてたら動けないのに、シンちゃんはこれ使うだけで動き放題なんでしょ」
トメ子はトイカメラを右手に持ち替えた。
「話聞いてたのか? 動き放題ってほど長いこと止めてらんねーんだって。動けないとこ誰かに見られたらマル能のことバレるだろ」
「でもさ。ずっと時間が止まったままなら、そんなの気にしなくていいじゃん」
「……え?」
トメ子は小さく笑い、トイカメラを高く掲げた。
「今壊れちゃったら、もう時間動かせなくなるんだよね?」
「やめ――」
「止まって!」
動き出そうとした体が、トメ子の一声で停止する。彼女の顔には、少しも冗談の色が見つからない。
「ごめん、もうちょっと離れてシンちゃん。それ以上近付いたら、ほんとに壊すから」
考えが分からない。ただ一つハッキリしていることは。
それは――あのトイカメラを失えば、今度こそ本当に『死』以外に時間を動かす方法がないということ。
言われた通りに一歩下がって、俺はトメ子を見据える。
「な、なんなんだよ急に。トメ子、壊すとか冗談だよな?」
「冗談こんなこと言うほどコドモじゃない。ていうか、これ元々私のじゃん。私の物を私が壊したって問題ある?」
「問題大アリだ! 分かってんのか!? お前だって、俺が死ぬまでこの止まった世界で生きることになんだぞ!?」
「分かってるそんなの! でも――なんで私が時間を止めたのか、シンちゃんだって知ってるでしょ!?」
トメ子の声が動かない空に、地面に、教会に吸い込まれていく。
さっきまで彼女が立ち続けていた新郎新婦のための道、そこへ視線を向けた。
列から飛び出した、深紅のドレスの女性。新婦のほうへと手を伸ばしたあの女性。
その右手には――刃の長いナイフが握られていた。
そう。事情は分からないが、彼女はトメ子を刺すつもりで列から出たのだ。気付いたトメ子は時間を止めた。が、止めたところで体を動かせないのでどうにもならない。
しかし偶然、奇跡的に、止まった時間の中を動ける人間がいた。それが俺。しかし肝心の俺が事態に気付いていなかった。だからトメ子は時間を一瞬だけ動かしたり、トイカメラをスカートで隠したり。そうして、どうにか気付かせようとした。
「シンちゃんのおかげで、助かったよ。でも……分かるでしょ、私は皆に見られてた。だから時間を動かすなら"元の場所"に戻ってからじゃなきゃダメなの。でもさ……!」
戻ったら……結局、刺されるだけだ。来ると分かっていても、慣れないウェディングドレスでナイフを避けるのは難しいだろう。
なら、時間を動かす前にあの女性をどうにかすればいい。と言いたいところだが、それも簡単じゃない。なぜなら体はもちろん、ナイフに触れただけでもあの女性の時間は動いてしまう。
他人にマル能のことを知られてしまったら、今度は"国"に殺される。それじゃあ意味がない。
避けるのも難しい。ナイフには手出しができない。ナイフとトメ子の間に物を置くとかも、周囲の人間に気付かれるからNG。
彼女が『トイカメラを壊す』と言った意味がようやく分かった。
「お前の言いたいことは分かった。でも、大丈夫だ。安心しろトメ子。こんなつまらない世界に引きこもらなくても、助かる方法はちゃんとある」
「ないよ、そんな方法」
「ある。つまり、そう、練習すればいいのさ。ウェディングドレスでナイフを避ける練習。時間ならいくらでもあるんだから」
「…………えっ」
「ダメだ、全っ然ダメ。だからのけぞるだけじゃダメって言ってんだろ? 相手はお前の動きを見てるんだから、体全体を使って避けないと」
「だからそんなの言われてもできないってぇ! 六年間美術部だったの知ってるでしょ!」
空き瓶をナイフに見立て、かれこれ一時間は避ける練習をしていた。ちなみに空き瓶を使ったのは、できるだけ凶器の丈を合わせるためだ。
「さっきから瓶が体に当たりまくって痛いし……アザになっちゃう。ねえもう諦めようよシンちゃん。避けるとか無理だって。運動とか苦手だし」
「大丈夫。アザができてもドレスの内側だから見えないだろ? 見えなきゃバレない」
「そういう問題じゃなくて……ていうか、当たり前だけどウェディングドレスって一人で着たり脱いだりするわけじゃないからね? 脱ぐ時に『何コレ!?』ってなるよ絶対」
「そこはあれだよ、披露宴の途中で転んだり体ぶつけまくって、ごまかせ」
「ヤだよそんなの! 私そういうキャラじゃないんだからね!」
「文句が多いな……だったら他の方法考えてくれよ。もっといい方法があるならこんな練習やめてもいいんだから」
「え。他の方法?」トメ子は数秒考える素振りを見せた後、顔を上げた。
「あ、じゃあ時間を動かした瞬間、あの子に上から水をバシャってかかるようにしておくのは? 驚いて止まっちゃうんじゃない?」
「却下。いきなり水が降ってくるとか不自然すぎる」
「あそっか」
「じゃあもう一回いくぞ」
「わ、ちょっと待って! えっと――分かった。練習するから、その前にちょっと休憩させて!」
腕時計に視線を送ってから、俺は頷いた。「まあ、そうだな。少し休むか」
ほっとした顔で地面に腰を下ろしたトメ子に。俺は背中を向け、少し離れた場所に腰を下ろす。
途端に、鬱陶しいほどの静寂が訪れる。背中越しに息遣いまで聞こえてきそうだった。
「……ねえ」後ろから呼ばれた。俺は答えなかったが、彼女は続けた。
「シンちゃんはさ。東京……楽しい?」
「そりゃあ、もちろん。楽しいよ。でも想像してたほどじゃない」
「そっか」
のどに言葉を詰まらせたみたいに、トメ子は間を空ける。
「……私も、上京すればよかったかなぁ」
「やめとけ。東京行けば何か変わると思ってるやつに限って、何にも変わんねーんだよ」
「アハハ、東京の人みたいなこと言ってる」
トメ子は乾いた笑いをこぼした。
「……でもさ、シンちゃんは変わったよね。こんなに私に練習させて。昔なら、とっくに諦めてたのに」
「今回は諦めて済む問題じゃねーってだけだよ。お前の晴れの日、つーか、人生がかかってんだから」
「人生、か」一瞬、声がこもって聞こえた。
「そういえばさ。シンちゃんって彼のこと知らないでしょ」
「彼?」
「うん、彼」
座ったまま振り返ってみると、彼女の視線は新郎に向いていた。
「ああ……"彼"ね。たしかに知らないな。興味もねーけど」嘘だ。本当は招待状を見た時から気になっていた。かと言って進んで知りたいとも思えなかったが。
「彼はね、大学の先輩だったんだ。たまたま職場も同じだったの」
「ふうん。職場って?」
「図書館。ほら、たまに行ってたとこだよ。私、今あそこで働いてるんだ」
ということは、司書か何かをやってるのか。昔に聞いた『なりたい職業』とはずいぶん違うが。まあ、そんなものだろう。
「彼ね、大学のころから気になってて、一緒に働いてるうちに私を好きになっちゃったんだって。で、いい人だし、すっごい積極的だから私も『もう社会人だしな』って付き合って。それから、なんとたった一年でプロポーズされたんだ」
「いい、いい。そこまで説明しなくていいから。馴れ初めなんか聞きたくもねー」
「なんで? 私のこと好きだから?」
「アホ。知り合いの恋愛事情なんか聞いても面白くねーからだ」
と口では言ったものの。内心は勝手にドキリとしていた。
「そう? 私は人の恋愛話好きだけどなー。まあいいや、とにかくそれで一年でプロポーズされたんだけどね。私……すごい迷ったんだ」
俺はふっと鼻で笑って、軽い気持ちで口を開いた。
「俺のことが好きだったからか?」
「……うん、そうかも」
「――っ」
言葉が詰まった。何もかも負けた気分だった。
トメ子は続ける。
「でもさ。相談するとみんな言うんだ。『時計の針は止まらない。時間は進み続けてる、だから過去のことは忘れな』って」
そりゃあ、当然のアドバイスだろう。五年も六年も連絡すら取っていない相手に囚われて、みすみす目の前の相手を逃すなんて馬鹿げてる。
"迷う"ということは、プロポーズを受け入れる気持ちもあるということなのだから。
過去に囚われていたら、いつまでも前には進めないのだから。
「……正直、みんなが言ってる意味は分かったよ。でも、なーんかな。しっくりこないっていうか。"過去"ってなんだろって思って。じゃあ、いつから過去のことになるの? 一日経ったら過去? 一年経ったら過去? みんなが忘れたら、もう過去のこと?」
彼女はかぶりを振った。
「私は、過去だなんて思ったことなかった。世界の時間は勝手に進んでっちゃうけどさ。私の時間は、ずっと止まったままだったよ。あのころから」
ウェディングドレスを握って「でも」と続けた。
「一年でプロポーズなんて、彼は私とのことすっごく真剣に考えてくれてるんだと思って。世界の時間は、やっぱり止まってくれないんだなぁって。だから私も、そろそろ動き出さないとなぁ、って。それで……結婚、することにしたの」
「……なんだよ、その顔は。返事もしない最低な男を過去にして新たな門出、って話だろ? 百人中百人が『正しい選択だ』って言うに決まってる。そんな暗い顔で言うことじゃねーよ」
「え、本当? 今、そんなに暗い顔だった?」
俺が頷くと、トメ子は卑屈そうに笑った。
「アハハ、そっか。やっぱ……やっぱ私、ほんとはイヤなんだ。こんな偽物の結婚式」
「偽物?」
「そう。ドレスもスーツも借り物だし、フラワーシャワーは半分造花で、あと仏滅だし。一生に一度の晴れの日なのに、お金かかるところはみーんな偽物なの。私の意見なんか何にも聞いてくれなかった」
「……擁護する気もないけどさ。そりゃあ単に倹約家ってだけだろ」
「シンちゃん、お父さんたちとおんなじこと言ってる」
小さくため息を吐かれた。
「別に、あの人は倹約家じゃないよ。焦って結婚しようとしたせいでお金がなかっただけ」
「焦って? 真剣に将来のこと考えて一年でプロポーズしたんじゃないのか?」
「だから、違ったの。彼、ずっと幼馴染に言い寄られて困ってたんだって。その幼馴染がストーカーみたいになり始めてたんだって。自分が結婚したら、さすがに諦めると思ったんだって」
つまり、結婚を言い出したのは自分のためなんかじゃなかった……というのを、共通の友人から聞いて知ったのだと、トメ子は語った。
「ん? ってことは、もしかしてあのナイフ女って――」
「彼の幼馴染。大学で同じ学年だったし、私もちょっとは仲良かったんだけど。……刺されるなんて思わなかった」
トメ子は俯いた。
『私の時間は、ずっと止まったままだった』なんて言っていたが。雑でおせっかいで騒がしくて、安心する。ただそれだけだった俺の幼馴染は、もうそこにいなかった。
「――でもさ。奪った女を刺しちゃうほど好きなんだって思うと、ちょっとだけ羨ましいよ。私は、たぶん、できないかなぁ」
「んなの、当たり前だ。好きな相手を取られたくらいで刺し殺してたら、人生がいくつあっても足んねーよ」
「ふふっ。それはそうかも」
やっと、トメ子の表情が少しだけ柔らかくなった。かと思うと、それは一瞬で終わってしまう。
「まあとにかく、さ。そういうことなの。分かったでしょ? 私の人生って、必死でナイフ避ける練習するほどの人生じゃないんだよ。時間が動いたって、これから先もずーっと。……だったら、このまま、シンちゃんとあの時間の続きがしたい。せっかく、戻ってきたんだしさ」
トメ子はトイカメラを手の上で転がす。
ケータイなんか持ってなかった時代に、唯一俺たちが持っていたマシーン。写真なんてろくすっぽ興味もないくせに、毎日のようにトメ子に借りに行った。
すると彼女はいつも渡そうとしないものだから、仕方なく、彼女自体を引きずって遊びに出かける。
そうしていつしか、それは俺たちが一緒にいるための"理由"になり、お守りのような存在になっていった。
「私、シンちゃんとやりたいことあるんだ。家も見てみたいし、修学旅行で行った所、二人で回ってみたいし、昔よく遊んだ林にも一緒に行きたい。だから……」
言葉を切って、間を置いて。いつかと同じ、まばたきもしない瞳が俺を見つめる。
「だから……お願い。もう、いいから」
俺は。立ち上がって、近付いた。手を伸ばせば届く距離まで近付いた。
深い吐息の揺れる音がハッキリと聞こえる。今も、ずっと涙を堪えているのだろう。
「分かったよ、トメ子」
「えっ?」
トメ子の子供っぽい顔が俺を見上げた。
その一瞬の隙に、俺は手からトイカメラを奪い取った。
「あっ、何すんの!?」
「引っかかったな。バーカ」
「ちょっとふざけないでよ! 私、真面目に話してたのに!」
「はあ? 真面目だったのかよ? まさか本気で『時間が止まったままでいい』とか思ってたわけ?」
「そっ、そうだよ! だって、そのほうが」
「『そのほうが楽しそうだ』って? そりゃそうだ。問題から目を逸らして何の責任も負わないで、誰の目も気にしない人生なんて、そりゃあいい。楽で楽しいさ。でも、楽しいことが人生の全てじゃないだろ?」
彼女の視線が揺れた。
俺は言葉を続ける。
「周りを見てみろよ。今日ここに集まった大勢の人間は、みんなお前たちの結婚を祝福しに来たんだぜ。時間を止めたままってことは、この人たちをみんな捨てるってことだ。そこまでしてお前は、目先の『楽しい』を優先できるのかよ」
「だ、けど」ぽつりと、呟くように言った。「だけど。このまま結婚したって、私は」
「……めんどくせ」俺は深ーく、ため息を吐いた。
「め、めんどくさいって何!? そりゃ、シンちゃんには関係ないことかもしれないけど」
「そういうことじゃなくて。……あー、もうこうなったらハッキリ言ってやる。いいかトメ子、お前がずっと長々ウダウダと悩んでんのはな――ただの"マリッジブルー"なんだよ!」
「マリッジ、ブルー?」
彼女は数秒固まった。
「ち、ちがうよ! 私のはそういうんじゃないから。ただこのまま結婚しても、幸せでいられるのか不安っていうか」
「それだよそれ! それがマリッジブルーだ!」
「え、ええ? そうなのっ?」
間の抜けたトメ子の顔に、苛立ちよりも可笑しさが勝った。
「思ったよりプロポーズが早かったとか、微妙に合わない金銭感覚とか、結婚前ってのはそういうので将来が不安になったりすんだよ。気楽な関係のほうがよかったとか思ったりして。んで、結局結婚して何事もなくうまくいったりすんだ。お決まりのパターンなんだよそれ」
「え……でもシンちゃん、結婚してないよね? 地元の結婚式も来てないし。なんでそんな詳しいの?」
「仕事で調べたことある。経験者の話も聞いた俺から見て、お前は完全に"それ"だ」
「い、いや、でも」
「『でも』も『だけど』もねーの。お前だって分かってんだろ? あの新郎だって、何も好きでもないのに結婚しようとしたわけじゃない。ただ"急いだ"だけだ。そしてお前は、急いだ理由が自分のためじゃなかったことに、それを本人の口から聞けなかったことに、腹の虫が治まらないだけだ」
言いながら考える。俺は一体、どの立場からこんなことを言ってるんだろう。もはや自分でも説明はつかない。
「ま、ブルーになるのは自由だけどさ。そんな綺麗なウェディングドレスまで着ておいて、思ってもないこと言うなよな」
「え、綺麗……? 私、いま、綺麗?」
トメ子が首を傾けた。そのまん丸の目からは、感情が全く読み取れない。
「えっ。まあ、うん。綺麗だと思うけど。似合ってると思うし」
「そっ、か」
トメ子は呆然としている、いや、何かが腑に落ちた顔か?
そして、彼女はゆっくりと口を開く。
「……シンちゃんはさ。やっぱり、私のこと好きじゃない?」
「それは――」
「恋愛的な意味で。好き……な、ワケないか」諦めたように笑った。
「時間が動いたら、私は他の人のものになっちゃうのに。それでも私と『二人だけの時間』で生きるのはイヤなんだもんね」
「……俺が、一言でも『イヤ』って言ったかよ」
「えっ」
「まあイヤだけど」
「はあっ!?」
トメ子は思った通りの反応をしてくれる。面白い。
「当たり前だろ? どうせお前はあの新郎が忘れられなくて、そのうち『やっぱり時間を動かしたいー』って泣きついてくるに決まってんだからな」
「そ、そんなこと」
「絶対にない?」
「…………」
彼女はばつが悪そうにしたまま、結局、何も答えなかった。
「さっき、お前が言った通りさ。世界の時間は止まってくれない。俺たちが止まっていようと、周りの目とか環境は変わっていって、いつか動き出さなきゃいけない時が来る」
ため息を吐いた。
「どれだけ願ったところで、時計の針は止まらない。……けど。動き続けてればいつか、針は元の場所に戻ってくるもんさ」
だから――
希望が残っているせいで諦めきれないのなら、俺ももう動き出そう。今度も、彼女と二人で。
大きく息を吸い込んで、震わせながら吐き出した。
「……告白の返事。ずっとしなくてごめんな。遅くなりすぎたけど、俺もトメ子のことが好きだ。"恋愛的な意味"で」
もう一度、息を吸った。
「だから――時間を動かそう、トメ子。それで、」
「……それで?」
言葉を詰まらせた俺に、トメ子が聞き返した。
「いや、やっぱ何でもない」
面と向かったら言う気にもなれなかった。
『幸せになれ』なんて。恥ずかしくて、腹立たしいセリフ。
「さっきからそれ、何やってるの?」
ナイフを持った女性の頭上に花びらを撒く俺に、座ったままのトメ子が訊いた。
「名案を思いついた。いきなり水が降ってきたら不自然だけどさ、このフラワーシャワーの中、"花びら"なら何枚降ってきても自然だろ?」
「……でも、花びらが降ってきても驚かなくない?」
「驚かせるのが目的じゃない。目的は目の前に花びらを散らせて視界を塞ぐことだ。つまり『避けられないなら相手に外してもらえばいい』ってワケ。で、一撃避けたら後は全力で逃げるのさ」
「でも、ウェディングドレスで逃げ切れるかな。追いつかれたらどうしよう」
「『でも』が多い。心配しなくてもこんだけ人がいるんだ。悲鳴出しながら逃げりゃ、追いつかれる前に誰かが守ってくれるよ。相手だって女でドレスだしな。――あ、言っとくけど逃げる時は正面に向かって逃げろよ? 人込みに向かって行くなよ。あと、ダメそうだったら一回時間を止めて仕切り直しだからな」
「それくらい分かってるけど。……でも。シンちゃんは守ってくれないの?」
「馬鹿。守りたくても、そん時の俺は"反動"でまばたきもできないんだっつの。情けなく目ぇ瞑ってどっか引きこもっとくから、愛しの王子様にでも守ってもらえ」
「ふふっ」と彼女が笑う。「なんか、それだけ聞くとホントに情けないね。シンちゃんってさ、肝心な時はいっつもいないよね? 結婚式にも間に合ってなかったし」
「まあ……いや。多分、本当はお前が思ってるよりずっと情けないよ」
「?」
「時間は……間に合ってたんだ。結婚式が始まる前に、この辺には着いてた。俺に招待状が届いたワケも、なんとなく分かってた」
トメ子は目を真ん丸にした。失望したって感じではない。単純に予想外って顔だった。
「そう、だったんだ」彼女はゆっくりと頷く。「ふふ。変わってないね、シンちゃん」
トメ子は笑った。俺の知っている彼女より、ずいぶんと大人びた笑顔だった。
それから、しばらくして。
手持ち無沙汰になった俺に、話題の失せたトメ子の身じろぎの音が聞こえると。「よいしょ」と、わざとらしい声を出して彼女が立ち上がった。
そしてナイフ女のそばへ――新郎の横へ、自らの足で戻ってゆく。
「ね、シンちゃん。本当にこれで良いのかな?」
「これで良かった、って思いながら生きてくしかないさ。時間は戻ってもくれないんだからな」
合図はもう決めていた。俺がトイレに隠れて、披露宴のために用意されていたクラッカーを鳴らす。その三秒後に時間を動かす。トイレから庭まで音が届くのは確認した。あとは、なるようになっていくだろう。
これで、終わり。
思ったよりも全然、胸のつかえが取れた感じはしなかった。
けれどきっと大丈夫。時間が過ぎてしまえば、日曜日の夜には『諦めがつく』のだから。
「シンちゃん!」
歩き出した俺を、トメ子の声が呼び止めた。
「ごめん! 今日、来てくれてありがと!」六月のくせに腹立たしいほど晴れた無風の空に、どこまでも響いていく柔らかい声がする。
「またね!」
人生は諦めが何より肝心だ。……分かっていても。やっぱり、土曜日の夜は憂鬱になるのだ。
俺は『決して振り返らない』と決めていた体を、くるりと翻した。
「あー……一つだけ言っておく」
「?」
「マリッジブルーを乗り越えられずに別れたカップルも、世の中には5パーセントくらいいるらしい」
「……ほんと、詳しいね?」
「言いたいことはそれだけだ」
顔を背けようとする俺に、「ぷっ」と噴き出す音が聞こえた。
「アハハ。オッケー、それじゃさ、何かあったらシンちゃんに相談に乗ってもらうおうかな。マリッジブルーを"乗り越えるコツ"も、きっと詳しいんでしょ?」
「……ああ、いつでも連絡してこいよ。今度はちゃんと返事もするから」
「ふふふっ。じゃあ、その時はよろしくね。大丈夫、女は"過去"の恋愛は引きずらないんだから」
ひとしきり楽しそうに笑って、彼女はもう一度「またね」と手を振った。
「ああ。またな」
今度こそ俺は歩いて行く。もう身じろぎの音も、息遣いも聞こえることはない。
そしてトイレの個室に閉じこもった。膝の上には俺には似合わないクラッカーと、トイカメラ。
「そういや、これ、結局俺のトコに戻ってきちまったな」
そのうち返さないと――なんて。最初はこれだけは返すつもりだったというのに。
まあ。きっと、そのうち。そう遠くない未来に。
クラッカーの紐を親指と人差し指の腹で握って。俺は、思い切り引っ張った。
『パンッ』と小気味の良い音が鳴る。紙吹雪が散っていく。
結婚、おめでとう。
3、2、1――
もう一度だけまぶたを閉じて、トイカメラのボタンを押した。
そうだな、
七年くらいは、時計の針は止めておこう。
(End)
秘密のチカラが使えても…… 糸井桜 @itoisakura2
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