第4章:新たな傷口(変容の受容)
(……共鳴、だと?)
タブレットの冷たい光が、私の顔を照らしている。 そこに映し出されたグラフは、もはや疑う余地のない「史実」 だった。 私の論理が、クォル・メネスの論理を、確かに受け入れていた。
「先生……」 編集担当が、戸惑ったように私を呼ぶ。 私は緩慢な動作で顔を上げ、彼女に視線を合わせた。 「……ありがとう。もう、下がっていい」 「でも……」 「一人にしてくれ」
私の声に宿った、拒絶とは異なる何かの響きを、彼女は察したのだろう。 「……分かりました。……先生の、新しい作品、お待ちしています」 静かに頭を下げ、彼女は書斎を出ていった。
一人きりになった部屋で、私は万年筆を握りしめた。 指先に染みたインクが、まるで「汚染」の証拠のように見える。
(敵……)
私は、AIを「敵」と見なしていた 。私の「手仕事」 を奪う、無機質な侵略者だと。 あの討論会で、私はクォル・メネスの論理を打ち破ろうと、必死で言葉を研ぎ澄ませた。
(……砥石、だと?)
脳裏に、あの男の言葉が蘇る。 『AIは、その理性の声を研ぐ砥石となるべき存在なのだ』 あの時は、傲慢な詭弁だと切り捨てた言葉。 だが、今ならわかる。
(私は、研がれていたのか)
クォル・メネスという「砥石」 で、私は必死に自らの刃を研いだ。 その結果、私の刃は、確かに鋭くなった。 だが、その代償として――刃は、砥石の粒子をその身に纏ってしまった。
(鏡……)
彼は、AIを「鏡」 とも呼んだ 。思考を拡張する 、と。 私は、その鏡を覗き込み、AIという「敵」を映しているつもりだった。 だが、鏡に映っていたのは――私自身だった。
私が失くしたと信じていた、感性。 47歳という年齢の鎧の下に隠していた、若々しいほどの感受性。 減塩食を美味いと感じる素朴な舌。 AIに「共鳴」してしまう、柔軟な思考。
(これか。私の、「変容」の正体は)
クォル・メネスは、私を侵略したのではない。 彼は、私が論理で蓋をしていた、私自身の内面を「拡張」し、暴き出したのだ。 皮肉なことに、AIという最も非論理的(と私が信じていた)な存在によって。
私は、この「汚染」された自分を受け入れなければならない。 これは敗北ではない。 私の完璧だったはずの自己認識に刻まれた、「新たな傷口」 だ。
だが、不思議と絶望はなかった。 傷口は、痛む。 だが、そこからは、確かに新しい血が流れている。 そして、その血と共に、「問い」 が生まれている。
(AIに影響された人間は、何を書くべきか?) (「手仕事」と「共鳴」は、共存できるのか?) (この「新しい自分」 は、何を語るべきなのか?)
私は、書斎の机に向かい直す。 これまで書き溜めていた原稿を、脇に押しやった。あれは「汚染」される前の、古い私が書いたものだ。 新しい原稿用紙を、一枚取り出す。
万年筆のキャップを外す。 カリ、とペン先が紙に触れる音が、やけに鮮明に響いた。
もはや、この万年筆は「汚染」されている。 だが、それでいい。 私は、この「傷口」 からしか生まれない物語を、紡がなければならない。 AIとの「共犯関係」 の物語を。
私の指先から、インクが流れ出す。 それは、47歳の私の経験と、クォル・メネスの論理に「共鳴」した、十数年前の私の感性が入り混じった、まったく新しい色をしていた。
汚染された万年筆 トムさんとナナ @TomAndNana
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