第3章 夜学のポリス
定時で現場(げんば)を上がることなど、ここ数年なかった。
郷田元は、作業着から安物のスウェットに着替え、古びた大学の校舎にいた。夜間部の、くたびれた空気。ここは、彼が20年以上前に捨てた場所だ。
「――今夜のテーマは、『公共政策の決定プロセス』です」
教壇に立つ老教授が、淡々と話している。
郷田には、半分も理解できなかった。だが、彼はトンネルの掘削と同じ集中力で、ノートに言葉を書き殴った。
「**公共政策(Public Policy)**とは、政府や自治体が、公共の問題を解決するために行う『決定』そのものです。例えば、どこに道路を作るか、どこに病院を建てるか。そして、それに『いくら』予算を配分するか」
(……予算の、配分)
ケンジの事故現場で、「コスト削減」という名目で変更された資材のスペックが、郷田の脳裏をよぎる。
「しかし、この『決定』は、真空の中では行われません。そこには必ず、多様な**利益集団(Interest Group)**が関わってきます」
老教授は、チョークで「建設業界」「医師会」「地元商店街」と書き出した。
「彼らは、自分たちの利益を最大化するため、政治家や官僚に働きかけ(ロビー活動)を行います。これが、政策が“歪む”原因ともなるのです」
講義が終わり、郷田は一人、大学の薄暗い図書館に向かった。
ケンジが死んだ「西多摩トンネル」。
その事業計画書、過去10年分の地元・西多摩市の議事録、そして古地図。
郷田は、夜学で覚えたばかりの拙い知識を総動員して、それらを並べた。
(おかしい)
郷田が、現場で図面の違和感に気づく時と同じ感覚が、背筋を走った。
「西多摩トンネル」の建設計画は、10年前、一度は「費用対効果が低い」として凍結されていた。
それが、5年前に犬飼俊蔵(いぬかい しゅんぞう)が国政選挙で当選した直後、突如として「重要インフラ整備計画」として復活している。
(なぜだ? 地質調査のデータは変わってない。むしろ、このルートは難工事になるのがわかってたはずだ……)
郷田は、古い地図と、トンネルのルート図を重ねた。
そこには、恐ろしく「不自然な構造」が浮かび上がった。
トンネルのルートは、最短距離を無視して、わざわざ犬飼代議士の親族が経営する採石場の近くを「迂回」している。
そして、トンネルの出口が接続される予定のバイパス道路。その建設予定地も、3年前に犬飼の息のかかった不動産会社が、山林を安値で買い漁っていた。
トンネルという「構造物」が、物理法則(最短距離)を無視して捻じ曲げられている。
「……これが」
郷田は、震える声で呟いた。
「**利益誘導(Pork Barrel Politics)**か」
それは、政治家が自らの選挙区に、特定の業界や地域に利益をもたらすために、公共事業の予算(樽の中の豚肉)を配分すること。
ケンジの命を奪った「スペックダウン」は、単なるコスト削減ではなかった。
この歪んだルート設計によって膨れ上がった無駄なコストを相殺するため、最も削りやすい「安全係数」が犠牲にされたのだ。
郷田は、図書館の固い机の上で、拳を握りしめた。
「安全係数が、足りてねえ」
それは、物理的な構造の話ではなかった。
この街の「政治」という名の構造そのものが、根本的に欠陥建築だった。
ロード・ビルダー:もしも土木作業員が政治学を学んだら。 もしもノベリスト @moshimo_novelist
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