清算の後の新たな面倒

 破滅の残滓 

 SNSと虚像の崩壊

 悠太が葵との関係を清算してから、約半年が経過した。


 新しいアパートでの生活は、静かで、誰にも監視されない清々しさに満ちていた。

彼のSNSアカウント『Latency_Free』は、彼が純粋に美しいと感じた風景と、バイクの静止画だけが時々アップロードされる、

「自己満足の記録」へと変わっていた。


 悠太は、葵の現在の状況を、意図的に追うことはしなかった。しかし、世界は狭い。共通の知人や、会社の同僚を介して、断片的な情報が、彼の耳に入ってくる。


 その情報は、葵が辿り着いた「破滅」の様相を、まざまざと映し出していた。


 まず、葵は悠太との同棲解消後、実家に戻るという選択肢を取らなかった。

 彼女にとって、地元や家族は、「自分の地位」を誇示するための舞台であり、「失敗した自分」を見せる場所ではなかったからだ。彼女が選んだのは、都心の高級タワーマンション。もちろん、一括で購入できるはずもなく、新堂社長からの「援助」を当てにした、背伸びした賃貸契約だった。


しかし、

 新堂社長は、悠太との取引(「二度と葵に接触しない」という誓約)を律儀に守っていた。悠太の牽制は、新堂にとって「面倒な事業リスク」であり、葵の虚栄心よりも優先すべき対象だったからだ。


 葵は、頼みの綱である新堂社長からの連絡が途絶えると、たちまち孤立した。高級タワマンの賃貸料、維持費、そして何よりも、

「高級な生活をしている自分」という虚像を維持するための交際費。これらが、彼女のわずかな貯金を急速に食い潰していった。


 悠太が、共通の友人の結婚式の二次会で、たまたま由香と再会したとき、葵の状況を知った。


「…葵? あいつは今、タワマンの家賃も払えなくなって、とうとう夜の店で働いているって噂よ」


 由香は、冷めた口調で言った。彼女の目には、かつての親友への同情よりも、「自業自得」という冷徹な諦めが宿っていた。


「夜の店で、『元有名商社マンの彼氏を捨てて、ベンチャー社長の愛人になった女』という虚像を売ってるらしいわ。でも、男たちはみんな、『新堂社長に捨てられた女』として、面白がってるだけ」


 悠香は、悠太の目を見て、静かに言った。


「悠太。アンタは、あいつに情をかけてやらなかった。それが、あいつの破滅を早めたけど、唯一の救いだったと思うわ。情をかけていたら、アンタまで巻き込まれていた」


 悠太は、由香の話を聞いても、何の感情も湧かなかった。

それは、彼が葵を愛していなかったからではない。

 彼は、「感情的な面倒さ」を排除し、「論理的な清算」を選んだことで、葵という存在を、

「乗り越えるべき面倒な課題」として、すでに処理してしまったからだ。


 しかし、

悠太は、ある日、SNS上で、

葵の「最後の足掻き」を目撃した。


葵の旧アカウントが、『人生の再出発』と称して、タワマンのベランダから見える夜景や、高価なカクテルの写真をアップし始めたのだ。だが、その写真に写り込む手の角度や、夜景の画質は、以前の「完璧な虚像」とは違い、どこか必死で、惨めな現実を滲ませていた。


 そして、その投稿は、ある日を境に、完全に途絶えた。


 悠太は、その「沈黙」こそが、葵が「虚栄心を張るためのエネルギー」すら失った、完全な破滅を意味しているのだと理解した。

 彼女の人生は、悠太の「事なかれ主義」の殻を破らせたという、最も面倒な教訓を残し、彼の世界から物理的にも、デジタル的にも消滅した。


 悠太は、葵の破滅に、同情も、勝利の優越感も感じなかった。ただ、一つだけ感じたのは、「自分の人生に、

もう二度と、彼女のような『面倒で虚栄心に満ちた存在』を、立ち入らせてはならない」という、冷たい決意だった。


 新堂社長からの報復 最も面倒な嫌がらせ


悠太が「清々しい決着」を迎えたのも束の間、新堂社長からの報復は、悠太が最も嫌う「面倒で、根を詰める事務的な嫌がらせ」という形で始まった。

 新堂は、悠太を「感情で動く男」ではなく、「論理で動く男」だと理解した上で、最も効果的な方法を選んだのだ。


報復は、悠太の「平穏な日常」と「仕事上の評価」を乱すことを目的としていた。


 まず、悠太が担当するプロジェクトの取引先に対し、匿名によるネガティブキャンペーンが仕掛けられた。内容は、悠太の「過去の女性問題」や、「業務における些細なミス」を針小棒紙的に拡大し、「藤崎悠太は信用できない人物である」と喧伝するものだった。


これらの情報は、もちろん新堂社長が葵から聞き出した、悠太の「私的な弱み」に基づいていた。


 悠太の仕事は、一気に「面倒な根回しと弁明」の泥沼に陥った。彼は、取引先や関係部署に頭を下げ、匿名情報の「信憑性のなさ」を、膨大な資料と論理的な説明で証明しなければならなかった。


(これが、奴の報復か。最も面倒で、最も地味な攻撃だ)


悠太は、怒りよりも、疲弊を感じた。彼は、「一度決めたらヤル」という反骨精神でこの問題に立ち向かったが、その精神力は、「論理の組み立て」と「人間関係の調整」という、彼の事なかれ主義が最も嫌う作業で、消耗していった。


この報復の泥沼から悠太を救ったのは、他でもない神崎麗子課長だった。


「藤崎。あなたの敵は、『感情的復讐』という陳腐な手段を選ばなかったわ。新堂社長は、あなたの『事なかれ主義』という弱点を突いてきた。これが、ビジネスよ」


 神崎課長は、冷徹に状況を分析した上で、悠太に具体的な指示を出した。


「あなたは、技術的な論理と証拠で反論しなさい。感情的な弁明は、私が引き受ける。この攻撃は、あなたの『反骨精神』が、『社会的な信用』を勝ち取るための試練だと思いなさい」


 神崎課長は、自身の政治力と論理的な弁舌を使い、悠太へのネガティブキャンペーンが「競合他社による悪質な情報操作」であるという、公的なストーリーを社内と取引先に展開した。


新堂の報復は、巧妙ではあったが、悠太と神崎課長の「公私混同のパートナーシップ」という鉄壁の論理によって、次第にその効果を失っていった。


 報復の嵐が収束した後、悠太は、心から安堵した。彼は、バイクを駆り、海沿いの道を走った。


(決着をつけることは、面倒ではない。だが、その後の平穏を維持することは、常に面倒な努力を伴うのか)


 悠太は、バイクの上で、「事なかれ主義」という名の安穏は、「面倒な現実」を排除するための、終わりのない面倒な努力によってしか守られないことを学んだ。新堂社長からの報復は、悠太の反骨精神を、「問題解決」から「問題の予防と維持」という、より成熟した領域へと進化させたのだった。


 神崎課長との関係の進展 

公私のパートナーシップ

新堂社長からの報復という「面倒な試練」を乗り越えたことで、悠太と神崎課長の関係は、完全に「公私のパートナーシップ」へと進化を遂げた。


それは、葵との関係のような「依存と虚栄心」に基づくものでも、一般的な上司と部下のような「階層的な指示系統」に基づくものでもなかった。それは、「互いの論理的思考と反骨精神を評価し、相互に利用し合う」という、極めてドライで、しかし強固な関係だった。


 神崎課長は、悠太の「一度決めたらヤル」という反骨精神を、誰よりも高く評価していた。彼女は、悠太を、単なる優秀なプログラマーとしてではなく、「面倒なリスクを排除し、論理的な結論を導き出す道具」として、信頼していた。


ある夜、二人は会社近くの、静かなバーで飲んでいた。もはや、この密談は、仕事上の根回しというより、「戦略会議」の様相を呈していた。


「藤崎。新堂の件、ご苦労様。あなたの『事なかれ主義が故の冷徹さ』が、報復を最小限に抑えたわ」


神崎課長は、カクテルグラスを揺らしながら言った。


「課長も、俺を完璧に『利用』しましたね。公的なストーリーで、俺の窮地を救ってくれた」


「当然よ。あなたは、私の『人を見る目』の正当性を証明してくれた。それが、私の最大の利益よ。私は、感情的な浪費を最も嫌う。あなたは、無駄な感情に流されず、最も効率的な決着を選んだ。それが、私の評価よ」


 神崎課長は、悠太に、新しいプロジェクトのリーダーの座を提案した。

 それは、社内の面倒な政治的な問題を伴う、「火中の栗」のようなプロジェクトだった。


「これは、誰もやりたがらない、最も面倒なプロジェクトよ。しかし、成功すれば、あなたのキャリアは、葵さんが求めていた以上のステータスを得ることになる」


悠太は、微笑んだ。以前の彼なら、迷わず「面倒くさい」と断っていたはずだ。しかし、今の彼は違った。


「その面倒な問題を、最も効率的に、論理的に解決する。それが、俺の反骨精神が選んだ道です」


 悠太は、プロジェクトの提案を受け入れたのは、

 神崎課長との関係を、「互いの利益のための相互利用」と定義し、その関係性の中で、自分の存在意義と自由を見出していた。


神崎課長は、悠太を見て、満足げに言った。


「素晴らしいわ。ところで、藤崎。プライベートはどう? 葵さんのように、あなたの『安定』を求める女性は、また現れるわよ」


「もう、結構です。誰かの虚栄心を満たすための『道具』になるのは、もう面倒くさい。俺は、俺の『面倒ではない自由』を守ることに、最も面倒な努力を注ぐことに決めました」


「そう。それが、あなたの『レイテンシー・フリー(遅延のない自由)』ね」


神崎課長は、静かに笑った。彼女は、悠太の私的な領域に踏み込もうとはしなかった。彼らの関係は、仕事という公的な論理によって、私的な感情の面倒さから守られていたのだ。


悠太は、神崎課長という「公的な論理」を味方につけたことで、「孤独な自由」と「社会的な成功」という、二つの相反する要素を両立させる最も効率的な道を見つけ出したのだった。


 新しい女性との出会い 情熱という面倒さ

 新堂からの報復が収束し、

 神崎課長との新しいプロジェクトが軌道に乗り始めた初夏。

 悠太は、週末のツーリングで、新たな種類の「面倒さ」を象徴する女性と出会うことになる。


 彼の新しいバイクの旅は、自己確認の儀式となっていた。SNSには、依然として静かな風景が並ぶ。


ある日、

 悠太は、山間部のツーリングルートで、彼の愛車と同じ、型の古いバイクに乗る女性を見かけた。

 彼女は、バイクを道の脇に停め、熱心にスケッチブックに何かを描いていた。


 悠太は、通り過ぎようとしたが、彼のバイクのエンジン音が、彼女の集中を破った。


 彼女は、振り向き、悠太に手を振った。

天野 栞(あまの しおり)、三十歳。美術教師を休職し、「日本の古い文化」をテーマに、全国をスケッチしながら旅しているという。彼女は、葵のような計算された美しさではなく、日焼けした肌と、瞳に宿る剥き出しの情熱が魅力的だった。


「すみません、邪魔しちゃいましたね。この景色、どうしても描き留めたくて」


 栞は、スケッチブックを悠太に見せた。そこには、彼女が今見ていた、苔むした石段と、生命力溢れる若葉が、信じられないほどの情熱と細密さで描かれていた。


悠太は、思わず尋ねた。


「すごいですね。…これ、完成させるの、すごく面倒じゃないですか?」


栞は、悠太の言葉に、心底驚いたような表情を見せた後、大声で笑った。


「面倒? 面倒ですよ! 途中で嫌になるし、手が攣りそうになるし、蚊に刺されるし。でもね、藤崎さん。情熱って、面倒くさいんですよ。面倒くさいことを、面倒くさがらずにやり遂げることが、生きているってことじゃないですか?」


 彼女の言葉は、悠太の「事なかれ主義」を真っ向から否定し、彼の核心を突いていた。


「俺は…面倒なことを避けるのが、最も面倒ではない道だと考えてきました」


「そうね。それは、自分の感情と、他人との軋轢を避けるための、賢い処世術です。でも、藤崎さんのバイクの乗り方は、違いますよ。すごく丁寧で、速くて、でもどこか必死。本当に面倒を避けている人は、そもそもこんな重い鉄の塊に乗って、一人で旅なんてしません」


栞は、悠太の「反骨精神」と「孤独な決意」を、彼のバイクの運転から見抜いたのだ。


その日、

 悠太は、栞と共に夕焼けの山道を走り、地元の温泉宿に泊まった。二人の会話は、仕事や地位や虚栄心とは一切関係のない、「生きることの面倒くささ」と「それを楽しむ情熱」についてだった。


 栞は、自分の作品への妥協のなさ、そして描くことへの圧倒的な情熱を語った。

それは、葵が虚栄心を満たすために払った「面倒な努力」とは、全く種類の違うものだった。


悠太は、

栞といる時間が、「面倒な感情の共有」でありながら、「奇妙な清々しさ」に満ちていることに気づいた。


 別れ際。栞は、悠太に、彼を描いた小さなスケッチを手渡した。


「これは、面倒くさがりなあなたの、情熱が隠された目よ。また、面倒な旅の途中で会いましょう」


 栞との出会いは、悠太にとって、「新しい人間関係の可能性」の示唆だった。彼は、もう「誰の道具」にもならない。しかし、「誰かと面倒な情熱を共有する」という、新しい種類の自由があることを知った。


悠太は、バイクに跨り、山を下りた。彼の心は、海沿いの駐車場で神崎課長に会ったときのような**「冷徹な論理」ではなく、「面倒な感情の共有」という、温かい可能性に満たされていた。彼のバイクの旅は、「レイテンシー・フリー」という、面倒ではない自由の中で、新しい「情熱という面倒さ」を探し求める旅へと、進化を遂げたのだった。



    Completed including episodes



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レイテンシー・ホリデー 比絽斗 @motive038

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