新入社員研修、あるいはペルソナ保護フィルムについて

D野佐浦錠

新入社員研修、あるいはペルソナ保護フィルムについて

 俺、品川淳弥しながわじゅんやと同期の加藤沙苗かとうさなえは会議室で四人の新入社員の前に立っていた。

 新入社員研修ということで、社会人としての心構えについて若手社員代表として伝えてくれ、と会社から言われていた。

 知らんがな、というのが正直な気持ちだった。

 心構え以前に、「社会人」ってそもそも何だよ。俺が教えてほしいわ。


 卸売店用の野菜の保護フィルムの販売という狭い分野で、大手の一角を占めるのがうちの会社だった。日々の仕事といえば、ルートセールスと称した井戸端会議巡りと、謎の数字の羅列を表計算ソフトで作って上司に渡すだけみたいなものである。


「ええと、まあ、あれっすね。社会人っていっても同じ人間なんで、変に気負わずに、的な。ほどほどに適当な感じでやってもらったらいいですわ」


 すこぶる適当な俺の話に、四人の新入社員たちは皆同じタイミングで大袈裟にうん、うん、と頷き、感心したような表情を浮かべた。先輩社員である俺に向ける尊敬の眼差しまでも、同じような角度で放たれていた。何となく、やんわり刺されているみたいな緊張感もあって俺は苦笑する。


 沙苗が言っていたのだが、最近では動画なんかで「印象の良い相槌のうち方」とか「先輩に気に入られる表情の作り方」等のテクニックが広められているらしい。皆、真面目にそれを予習してきているわけだ。

 こういうのは所詮、身振り手振りのタイミングと表情筋の動かし方の問題であって、スポーツのようなものに過ぎない。そんな風に割り切るのが最近の考え方らしい。人間性がどうとかではなく、あくまで人に好印象を与える振る舞いをどれだけ再現できるか、というだけのことだという。

 そこまで振り切れる軽やかさが羨ましい、と思う反面、実直にそれを実践している新入社員たちは立派だとも感じる。俺なんかよりよほど「社会人としての心構え」ができているのではないか。


 実際、新入社員たちのことは今日初めて会ったばかりでよく知らないが、素直で可愛い後輩たちだ、という印象を俺は持っていた。……持たされていた、のかもしれないが。


「まあそんなわけでね。社内で困ったことがあったらいつでも相談してください。あともう私から教えることとか無いっすわ。はい、お疲れ様でした」

 ということで、新入社員研修での俺たちの役目は終わった。


「ちょっと淳弥、いくらなんでも適当すぎたんじゃない」

 と、沙苗が帰り道の廊下でこぼす。

「いやまあ、沙苗がちょいちょい綺麗にフォローしてくれてたし、いいんじゃね?」

「……もう」


 仮面を被ることだ、と沙苗は言った。

 「社会人としての心構え」の話だ。

 自分が本来どういう人間なのか、どういう思想信条を持っているのか。そういうことは、会社の社員として働いている間は仮面の下に押し込めて、会社に利益をもたらすための行動をとることを第一とする。

 企業の目的は利潤の最大化であり、企業の一員として行動する以上、それが社会人としての心構えなのだと。


「仮面、ね……」

と廊下を歩きながら呟いた俺の口を、唐突に沙苗が唇で塞いできた。

「ん……淳弥……」

「お、おい、沙苗……」

 沙苗が俺の腰に手を回して抱きついてくる。突然のキスと抱擁は、一分ばかり続いた。


「おい、業務時間中だぜ。人のいないタイミングだったから良かったけどさ」

「たまには仮面を突き破るのも、悪くないでしょ? うふふ」

「全く、悪い先輩社員だこった」

 軽い笑みを意識的に浮かべつつ、俺は沙苗と事務室に戻る。


 俺と沙苗は二ヶ月前から付き合っていた。社内にばれてるのかどうかはわからないが、二人で講師を任命されるくらいだから大丈夫だと思う。多分。

 新入社員たちにも勘付かれていないといいけど……。「ただの同期」という仮面はうまく被れていただろうか。



 仕事が終わって、ワンルームの部屋に帰った俺は、コンビニ弁当を電子レンジにかけながら缶ビールを開ける。

 今日も一日、お疲れ様でした……と独り言を呟いて、ビールを喉に流し込む。

 俺は今日も、うまく演じることができていたのかな。

 軽薄で親しみやすいキャラクターの若手社員、品川淳弥を。



 鏡が怖かった。

 お前は一体誰なんだと問い詰められそうで。

 常に耳鳴りがしていた。

 この世の全ての音が自分を責める声のように聞こえていた。

 SSRIを缶ビールで流し込む。

 駄目だってわかってる。

 でもこうでもしなければ耐えられないんだ。

 俺の頭も保護フィルムに包んでくれよ。もう包まれてる? 嘘だろ、おい。

 俺の頭はいつもずっと痛んでいる。きっともうひびが入って不良品になっちまってる。

 酔いが回って世界がおかしくなって、やっと俺と世界のおかしさが釣り合ってくるんだ。

 沙苗が好きなのは軽薄で親しみやすい俺。そういうラベルの品川淳弥で。

 風や日射しが、街行く人の声や視線が俺を突き刺す刃物みたいに思えて頭の中で叫んでいる俺じゃない。

 その「俺」は俺が妄想で作り上げた「俺」だってわかってる。俺は俺自身に対してさえ仮面を被って対峙している。何なんだよ俺は。何に対して苦しんでるんだ? 意味がわかんねえよ。

 ああ、缶ビール何本目だこれ。

 ゆらゆら揺れている。視界が、俺が、それとも俺以外の全てが……。

 ああ、さようなら。

 そしてまた明日。

 明日も元気に始業三十分前に出社します。

 これ、社会人としての心構えね、これ。

 聞いてるかな? 新入社員諸君。大事なことだからね。(了)

 

 


 

 

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