第2話 初恋の葉
登場人物
律(りつ)
都内名門男子校に通う少年。他の人には見えないはずのモノに魅入られやすい。
凪原徹(なぎはら とおる)
色の抜けた白茶けた髪の茫洋とした雰囲気の青年。一見サラリーマン風だがその佇まいにはどこか「空白」を感じさせる。
…………
この街には、千年を超える王朝が層になっている。
舗装を剥がせばすぐに遺構や細工物、はたまた土器までも顔を出す。この場所では過去は、まだ生きている。
今律が立っている辻も、例外ではない。
格子戸が並ぶ古い町並みに、不釣り合いなオレンジ色の三角コーンがいくつも並べられていた。
再開発のお知らせ。老朽化した水道管だか配線だか、何かを修繕するのだったか。数日前から看板が立っていたのをすっかり忘れ、足を踏み込んでしまったことを、律は今さらながら後悔した。
道路の真ん中、注意を引くための赤い電球に照らされ三角コーンとブルーシートで囲われた真四角な穴から、誰の視線もないはずなのに、声が聞こえる。
「あのね、あのね……どうしよう、言えないよ」
しまった。
何十年も前に風に乗り損ねた『聞かれなかった音』が、するりと耳の奥に入り込んでしまう。恨みでも呪いでもなく、あまりに純粋でささやかな声は、悪意がないからこそ拒めない。
僕にどうしろと言うんだ。
律は心の中で叫ぶ。
「あのね、あのね……」
自分の気持ちなんて、相手に伝えれば終わりだろうに。
律は理不尽に腹が立った。
伝えもせずに未練にして、こうやって他人の境界線まで侵して、ずっとここに溜め込んで……その結果を、どうして僕が聞かなきゃならないんだ。
律は、その可愛らしいのに過剰すぎる音の奔流から逃れるように、半ば無意識に歩を進めた。
――静寂。
ざわめきが止まる。
ゆるく下った坂の先、低い石垣に建つ古びた木製の門扉が目に入った。
律が門の前に辿り着いたちょうどそのとき、門の向こうから、黒いトートを肩にかけた凪原透が現れた。
「……律くん」
透は、色の抜けた白茶けた髪を夜風に揺らし、いつも通り静謐な佇まいだ。彼は律のただ事ではない顔色を見て、一瞬だけ表情を曇らせた。
「どうしたんですか。また『拾って』しまったのかな」
律は何も言えない。工事中の掘り起こされた地面から、昔の誰かの想いが聞こえて、つきまとまれている。こんなことをどう説明すればいいのか皆目見当がつかなかった。
透は律を責めることなく、静かに門を開けた。
「どうぞ、入って。ここなら、『入って』きませんから」
透が手招きする。敷地に一歩入った瞬間、律の耳に届いていた「声」は完全に途絶えた。
湿気を孕んだ夜の風が、ここだけ透明になって流れていく。
「さあ。冷えた麦茶でいいかな?」
――律は、またこの家に救われた。
玄関で靴を脱ぎ、透に促されるまま奥の座敷へ向かう。しん、と空気の静まった部屋。畳の匂いが、神経を張り詰めていた律の体に、ようやく安堵を与える。
透は台所へ向かう前に、ふと足を止めた。
「律くん」
透の指先が、律の黒い髪の毛にそっと触れた。
「髪に」
透が手に取ったのは、季節外れに黄色く染まった銀杏の葉だった。
「……ああ、すみません」
律が慌てて頭を下げる。
透はその小さな葉を掌の上で転がしながら、言った。
「また、ずいぶん可愛らしいモノに気に入られたね」
――可愛らしいモノ。
透の手の中にある銀杏の葉は、初夏を迎えようとしている今の季節にはそぐわない秋の色をしていた。
律はようやく深く息をつくことができた。しん、と空気の静まった部屋。ここには、聞きたくない言葉は届かない。
小さな扇の形をした黄色い葉は、今は静かに机の上に置かれている。
「君の級友くらいの年頃の女の子の黒髪に、よく似合うだろうね」
「そうかな。あいつら、もっと派手派手しいと思いますけど。こんな小さな飾り、すぐ埋もれてしまう」
透はわずかに目線を宙に彷徨わせた。
「そうか、今はそうなのかもしれないね。けど昔はそういうの、無かったから」
「黄八丈って知ってる?黄色と赤の格子柄の着物。」
「黄八丈……昔、母の箪笥で見たような気がします」
箪笥の下の段、紺色や栗色をした木綿や麻の太物の奥、ひっそりと覗く黄と赤の光沢は幼心に印象に残っていた。
「あれは今では落ち着いた柄に見えるけど、昔は一番鮮やかに目立つ、憧れの色だったんだよ」
透は昔の時代の様子を淡々と語る。まるで、何十年も前の、伝えられなかった女の子の切実な『憧れ』を代弁しているかのようだった。
からん、と。
麦茶の氷と切子の硝子がぶつかる、僅かな音。
掃き出し窓の外では坪庭の青楓が風を受けてささやき、遠くの通りからは、規則的な織機の音がかすかに届き、律の鼓膜をかすかに撫でた。
それらの小さな響きが、耳にまとわりついていたさきほどまでの雑音をやさしく押し流していくようだった。
「すみません、また急に押しかけてしまって」
「いいよ、お互いさまだ。」
「『この子』も、納得してくれればいいんだけどね」
透は冗談めかした声色で、座卓の上にぽつんと置かれた小さな黄色を見る。
「いっそ、神社でお焚き上げでもすればすっきりするんでしょうか。」
未練の言葉が、二度と人の耳を騒がせないよう、元の自然なサイクルに戻って消滅してしまえばいいのに。
「してみる?お焚き上げ。」
律は思わず顔を上げた。
「……透さんは、神社へ行けるんですか」
透は、ふと目線を座敷の縁へと逸らす。
「いや、正直あまり……いつ行っても『混んで』いるからね、ああいう場所は」
律の疑問に、遠回しな答えが返ってきて、透は、そこで言葉を切る。
「この小さな愛らしい葉は、もっと静かな場所で静かに受け止められることを望んでいるんじゃないかな」
「けど、どうすれば。こんなのに全てつきあっていたら、僕らは生きていけない」
不貞腐れたような律の言葉に透は苦笑する。
「そうだね。けどまあ今回はせっかくの御縁だからね。」
透の目が、座卓の上の銀杏の葉から、律の顔へと戻る。それから透はもう一度口を開いた。
「緑の屋根の商店、に、覚えはある?トタンの看板があって、たぶん角地で、脇に赤いポストがある」
律の手のひらの中の切子硝子がきしりと音を立てる。
そんな場所は知らないと、あるいは、レトロな絵葉書でみた、昔の映画の一場面だった、誤魔化すための嘘はいくらでも思いつくことができた。けれど透さんだってそれは同じだろう。わざわざ口にしなくても、気づかない振りをして季節外れな色をした一枚の葉をゴミ箱に捨てれば済んだはず。だけど彼は踏み越えた。踏み越えてくれた。
「……バネ秤の軋む音と、カゴに吊るされた小銭の音がして、上には日除けの幕が大きく突き出していて…段ボールの積み重なった乾いた音がするから、きっと八百屋でしょうね」
透は、律の言葉に目を細める。
その表情に宿るのは、かすかな安堵だろうか。
透は唐突に立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。案内してくれる?」
「…どこに」
「この葉の『持ち主』のところに。ずっと辻に留まっていた言葉を、解放してあげよう」
小さな葉と耳の奥の木霊を頼りに路地を歩き辿り着いたのは、いつも行く商店街の一角だった。
「…自分がこんなことができるなんて、思わなかった」
「ふふ、無茶振りしてしまったかな。僕は端末の地図を頼りに探し回るしかないから、律くんの耳がうらやましいよ」
バネ秤の軋む音、小銭の乾いた音、そして日除けの幕の古びた香り。律の五感が、ここが目的の場所であることを告げている。
二人の目の前にあるのは、緑のトタン屋根の、年季の入った八百屋だった。
八百屋の女将さんは、ふっくらと丸い頬に明るい笑顔を浮かべた、見るからに朗らかな女性だ。歳を重ねた肌には苦労の痕も見受けられるが、それを上回るような生命力と優しさに満ちている。
彼女は客と品物のやり取りをしながら、手慣れた様子で大根の葉を切り落としている。しかし時折、ふと店の屋根の隙間から見える空の向こうへ、一瞬だけ視線を投げかける。その横顔には、律が辻で感じた「あの音」と同じ、切実で純粋な「何か」が宿っていた。
その女将さんの姿と、律の頭の中で渦巻いていた十代の少女のささやきが重なった。
――間違いなく、あの人だ。
「あら?」
女将さんが、大根の葉を切り落とす手を止め、ふいにこちらを見た。
「お兄さんたち、何かお探し?お野菜、今日も新鮮よ!」
律が身構えるより早く、透が穏やかに一歩前に出た。
「すみません、野菜ではなくて。少しお聞きしたいことがありまして」
透は、一見何でもない観光客のように話し始めた。
「昔、この辻に何か古い目印がありませんでしたか?例えば、待ち合わせによく使われたようなものとか」
「さあねぇ……そんな昔のこと。でも、そういえば、うちのおばあちゃんが、『辻の角には昔から変わらない石がある』って言ってたわね。あれも工事で掘ったのかしら」
(石……あの音の依代だ)
律は、透の隣で、体内にまだ残っている「あのね、言えないよ」という微かな残響を感じる。その音は、女将さんの口から「石」「待ち合わせ」という言葉が出るたびに、微かに震え、力を帯びようとしているようだった。
透は穏やかな笑みを崩さない。
「ああ、やはり。懐かしいなと思いまして」
女将さんの頬が、ふっと緩んだ。
「そうねえ、あの辺り、昔はよく歩いたものだわ……待ち合わせをしたり、遊んだり。」
(ああ、言った!)
透が手に持っていた、季節外れの黄色い銀杏の葉が、さらさらと音を立て、粉のように砕け、夜風に消えていく。
律の耳の中で響いていた十代の女の子の切実な独り言が、まるで遠くのラジオのスイッチを切ったように、完全に途絶えた。
女将さんは、砕けた葉には気づかず、少しだけ涙ぐんだような、晴れやかな表情で、深く息をついた。
「あら、私としたことが。昔のこと思い出したら、急にスッキリしたわ。ありがとう、お兄さんたち」
律と透は新鮮なトマトと、女将さんがサービスで付けてくれたきゅうりを手に、八百屋を後にした。
辻の角に、オレンジ色の三角コーンはまだ立っている。あの切実な独り言は、もう聞こえない。
数日後。
律は通学路の辻を再び通った。八百屋の軒先では、いつものように女将さんが元気に声を上げている。
だがその日の女将さんは、どこか違っていた。
いつもと同じエプロン姿の首元に、眩しいほどの光沢を持つ、鮮やかな黄色のスカーフを巻いていたのだ。それは、都会の流行を思わせる、モダンで大胆な色合いだった。
銀杏の葉のくすんだ黄色とは違う、まるで光を浴びたばかりの希望のような、輝くような黄色。
律がトマトを買いに近づくと、女将さんはその黄色のスカーフに指を触れ、花が咲くように微笑んだ。
「あら、律くん。これ、似合うかしら?ずっと欲しかったんだけど、歳だからって我慢してたの。でもね、たまにはいいかって思っちゃって!」
その瞳は、今、目の前の瑞々しい野菜と、自分の新しいスカーフの鮮やかな色を、しっかりと見ていた。
「とても、似合っています」
律がそう答えると、女将さんは最高に嬉しそうな顔をした。
あやかし境界奇譚 @obatyan1
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