あやかし境界奇譚
@obatyan1
第1話 満員電車
登場人物
律(りつ)
都内名門男子校に通う少年。他の人には見えないはずのモノに魅入られやすい。
凪原徹(なぎはら とおる)
色の抜けた白茶けた髪の茫洋とした雰囲気の青年。一見サラリーマン風だがその佇まいにはどこか「空白」を感じさせる。
…………
季節は春の残り香と、梅雨の予感の合間にあった。車窓の向こうには去年と同じ枝ぶりのまま緑が繁っている。あの枝には今年もヒヨドリが巣を作っているのだろうか。
カーブに沿って車体が揺れる。入り組んだ路線を通る古びた路面電車は揺れも多く、不慣れな乗客が大きくバランスを崩すのもいつものことだった。
吊革を持つ腕が、ふいにざわつく。
誰かのリュックが肩に触れたが、それじゃない。 そういった『普通』の、生きた人間の体温のあるような、"触れ方"ではなかった。
──湿った空気が肌にまとわりつき、指のない掌で服の下を撫でられているような、じっとりと体温が纏わりつくような。なのに、人の熱を持たない蝋の塊のような。
まるで、自分だけがどこか別の所から見つめられているような。
吊革を握る手に、じわりと汗が滲む。
それは湿気のせいだけではなかった。
たとえば、生徒会の代表として体育館に立たされたとき、 演壇の上から見えた、ざわめきの渦。
……あれに似ていた。けれど、もっと奥のほう。
見られている。暴かれている。何かを、差し出せと求められている。 それに応えてしまったら、どこか決定的に変わってしまう。 そんな気がした。
──まだ、応えてはいけない。
まだ、その目を見るべきじゃない。
人の波に揺らされ、指先が吊革から離れてしまう。ああ、いけない、"途切れて"しまう。空気が一段と重くなり、どこかに『繋がって』しまった気がした。
目を合わせてはいけない。
気づいてはいけない。
見つめてしまえば"連れていかれる"……
昔読んだ伝奇小説の一説を思い出す。図書館で見つけた古びた本の、子供向けの作り話がどこまで本当なのかは分からないけれど。
律は、窓の外を見ているふりをすることしかできなかった。
階段の手前、人の流れに押されながら、電車を降りる。
やっと逃げられる、そう思ったのに、人混みのなか一つだけ違う気配が近づいてくることに背筋に冷たいものが走る。
誰でもなく、なのに誰よりもこちらを『見て』いる。 人波にまぎれているのに、どこにも属していない。 走っても、追いつかれる確信があった。逃げられる手段は、もうない。
階段を降りようとして、足がすくんだ。
視線は前を向いている。振り返ってはいない。なのに背中に、そこにあるという感覚だけが、やたらはっきりと存在している。
湿気と熱気に混ざって、肌をなぞるもの。 それは人の形をしていなかった。肩幅がない。足音がない。匂いがない。ただ、じっとりと、『ここにいる』と言いながら纏わりついてくる。もう、逃げられない。根拠もないのに確信を持ってそう感じてしまった。
その瞬間、手を掴まれた。
背後のソレとは違う、実体を持ちしかし纏わりついてはこない、あたたかな手のひらが、確かに、律の手首を包む。 目を開けていたはずなのに、視界が一瞬だけ白く反射して、そして──
音が、消えた。
律の手を掴んでいたのは、静かな雰囲気を纏う、ひとりの青年だった。
混雑した駅のはずだった。けれど今は、アナウンスも、足音も、なかった。
まるでふたりの周りだけ、風景の音がまるごと抜き取られたみたいだった。
「……大丈夫ですか」
黒いトートを肩にかけた、ありふれたスーツ姿の男。清潔で、けれど生活感がどこか空白に沈んでいるような──
「…ごめんなさい、急に掴んで。……驚かせてしまいましたよね」
何も言えないでいる律に青年はふと手を離すと、一歩引きながら頭を下げる。
律の背に貼りついていた"それ"は、もうどこにもいなかった。
「──ちょっと、待って!」
律の声が、自分のものとは思えないくらいはっきり出た。驚いたのは律自身だった。けれど、手首に残る微かな熱が、どうしても忘れられなかった。
「……今の、なんですか」
駅の構内には人が行き交っていた。けれど、ここだけ妙に空間が余っている。 雑踏の中にぽっかりとあいた、誰にも踏み込まれない一角。 その中心で、青年──凪原透は一拍遅れて答えた。
「すみません、驚かせてしまって。危ない感じがしたので……つい、手を出してしまって」
「危ない感じ?」
律の眉がわずかに動く。 問い返す声に、敵意はなかった。ただ、本気でわからないのだ。 どうしてこの人は、あの“異物”に気づいたのか。
──どうして、振り払えたのか。
透は困ったように目線を逸らす。
「その、なんとなく、です。すみません」
「“なんとなく”で、あんなの振り払えるの?」
「……あんなの?」
律は息を呑んだ。しまった、と口元に手を当てる。 そうか──この人に見えていたとは限らない。
「……あ、いや……変なこと言ってますよね、俺も。すみません」
透は首を横に振った。
「変なことじゃないです。こっちこそ……勝手に手、掴んじゃって。申し訳ないです」
ああ、この人は本当に謝っているんだ。 社交辞令でもなく、警戒でもなく、ただ「ごめんなさい」が自然に出てくるタイプの人なのだと律は思った。
──けれど、不思議なことに。 その「自然さ」こそが、律にはいちばん得体が知れなかった
住宅街の奥、ゆるく下った坂の先に、その家はあった。
通りに面して少し引っ込んだ、背の低い石垣。その上に古びた木製の門扉が建っている。
透がその門を開くと、きい、と鈍く乾いた音がした。
「……ここ、ですか?」
律が後ろから訊く声に、透はうなずいた。
そして門をくぐるように手招きする。
敷地に一歩入った瞬間、律は思わず足を止めた。
空気が、変わった。
ざわざわと背中をなでていた人いきれの残り香が、ふと途切れる。
湿気を孕んだ風が、ここだけ透明になって流れていく。
「……なんだか、音が、」
「ええ、たまに言われます。うち、ちょっと変なんです。防音壁があるわけでもないのに、静かだって」
敷石の上を二人で進む。
道の両側には、手入れされた灌木と、祖母が残したという鉢植えが並んでいた。
「祖母が住んでいた家なんです。去年、亡くなって……それで僕が、住むことになって」
木造の平屋。
玄関の引き戸を開けると、薄く日が差し込んで、畳の匂いと、古い木の香りがふわりと押し寄せてきた。
「ここなら、落ち着けますから」
透はそう言って先に靴を脱ぎ、振り返る。
「……どうぞ」
あたたかい湯呑の茶に口をつけた律は、ようやく深く息をつくことができた。
しん、と空気の静まった部屋。遠くで、風が垣根を揺らしている音がする。
「……だいぶ顔色がよくなったかな」
透の声は、熱の引いた風のようにやさしかった。
「はい。すみません、ご迷惑をおかけして……」
律が頭を下げると、透は少しだけ首をかしげて笑った。
「祖母が亡くなって以来、こうして誰かと話すこともなかったから。僕のほうこそ、ありがとう」
「……昔から、人混みが苦手で。今日は寝坊をしてしまって。……苦手だって分かってるのに寝坊なんかするの、甘えですよね。現にこうしてご迷惑を……本当にすみません。後日、あらためてお詫びに伺います」
カチ、と湯呑を置く音がして、透がぽつりと口をひらいた。
「……生きるのって、大変だよね。僕らには寝坊すら許されない」
律は思わず顔をあげた。
透は笑っていたが、その笑みはどこか欠けた歯車のように空白を含んでいた。
──“僕ら”。
その言葉が胸の奥でひっかかる。
「……」
何かを言いかけて、言葉にならなかった。代わりに律は、膝の上で指を組み直す。
「またいつでも来て。お詫びとか、そういうのじゃなくて。」
透の声は、閉じた襖を撫でるように、律の輪郭をなぞった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます