後場

後場

ワキ〽さて逢坂に参りつつ。道中の無事なるを祈り。夜も更け方の鐘の声心もすめる折節に

ワキヅレ〽ありつる后の物語。遠くなりつる事なれども

ワキ〽供養をのべて清少納言の

ワキヅレ〽菩提を深く

ワキ〽弔ふべきなり

ワキワキヅレ〽とは思へども鳥辺野の

ワキヅレ〽とは思へども鳥辺野の

ワキワキヅレ〽露も置きたるみささぎえある時も一時ひとときの。あだにも消えしいにしへの。きさいの宮の物語。聞くにつけてもおん情け 深くめでたき心かな 深くめでたき心かな。

後シテ〽雪山も。解けて空しくなるものを。

地〽下ゆく水のわき返り

シテ〽名も清少納言と。いはで思ふ

地〽言はぬ言葉も。懐かしや

ワキ〽かくて夜も深更になり。鳥の声をさまり。詞「心すごき折ふし。ともしびの影を見れば。さも清げなる女性ニョショオ梔子くちなしうすぎぬのそばをとり。〽影の如くに見え給ふは。夢か現かおぼつかな

シテ〽くちなしとなす花色は。かさねの衣の下こがれ。山吹の色こそ見えね衣のぬし。たれかと問へども答へずも。名のらずと知ろし召されずや

ワキ〽山吹の色に出でずとあらましの。衣の主とはが事ぞ。清少納言にてましますか。

シテ〽恥かしながら我が姿

ワキ〽其面影は昨日見し

シテ〽姿に今もかはらねば

ワキ〽互に心を

シテ〽おきもせず

地〽寝もせで明かす時夜の。月も心せよ。逢坂山の鐘の聲。夢をも誘ふ風の前。消えしはそれか在りしひの后の宮の跡弔はん。

シテ〽花深衣はなぶかぎぬ色襲いろがさね

地〽山吹匂ふ。袂かな                               (イロヘ)

シテ〽それ心やすくて。身やすき処は帰する処。故郷何ぞ独り。長安に在るのみならんや。遺愛寺の鐘そばだてて 聴くは枕する清少納言。頼みをかけて香炉峰の。深雪を見すと簾上げ。心に任せて筆をふる

地〽されども終に供養を尽きせぬ悔いにより。妄執の雲も晴れ難し

シテ〽今逢ひ難き縁に向つて

地〽心中の所願をおこし。一つの巻物にうつし。春曙の眠りを覚ます。南無や后の宮の亡魂成等正覚。そもそももとめては。かかる蓮の露置かずうかりける世をば離る。それ鸚鵡話す言の葉は人の言葉を学ぶらん。ざへ多き后の宮より倭歌。唐歌の雅趣の言葉をまねび。殿上人に文の返し上達部らの付句にいらふ。雲居の月向かふ吟嘯ギンショオの鶴も良し。たまたま。仏意にあひながら。頻鳥がちやうの声に往生を願ふべし

シテ〽山鳥人に飼はれては

地〽愛別離苦の理りまぬかれ難き道とかや。唯すべからくは友を慕情す鏡の面見て。慰むらむも。心わかうていとあはれいつなれば逢ひなん 唯懐かしき御方の。菩提の道を願ふべし。唐鏡暗げなる。鏡面きょおめんの人影はゆかしきぞ映るかと。心ときめきしては。真如の月も曇るなり。御法の聲のさまざまに。吟月朗詠す心をかけて元輔の。のちと言はれぬ身は。今は千の歌もまづぞ詠むべきと。心を尽くし夜をこめて。鳥の空音は謀るともよに逢坂の関の神許さぬも今は許せよと

シテ〽あけぼのは紫の

地〽雲もたなびく山ぎはの。少し明かりて。春の夜の終り告げて。楽しみ栄えに 亡き人を思ふべしとかやこれも山鳥の身なるべし。あまびこの橋を飛び越えて。身の来迎を願ふべし。

地〽南無や西方弥陀如来。驕慢悪をふり捨てて清少納言が後の世を。助け給へと諸共に。鐘打ちならして廻向も既に終りぬ。

地ロンギ上〽げに面白や舞ひ人の。名残今はとなく鳥の夢をもかへす袂かな。

シテ〽きさいの宮の御跡おンナとを。弔ふ法の力にて。我も生まれん蓮の花の縁は頼もしや。

地〽されどかれたるあふひの挿頭かざし

シテ〽ひひな遊びの調度

地〽あはれなる文去年こぞ蝙蝠かはほり。いづれも過ぎにしも恋しきは浮世や。

キリ(ヲサメ)よくよく物を案ずるに。よくよく物を案ずるに。藤原定子と仰すは。彼の一条の后の宮。しかと此世に在り給ふ。かかる后の物語。これも語れば今日のごと。人に知らせん在りし日のげに有難き女性ぞや。思へば枕草子も。語る間は真なり語る間は真なり。


(ワキ〽それでは逢坂の関の明神に参詣し。道中が無事であるよう祈り。夜も更けて鐘の声が心を穏やかに澄み渡らせるちょうどその時に。

ワキヅレ〽かつていらっしゃった中宮様の物語は今では遠い昔の事であるけれども

ワキ〽供養をのべて清少納言の

ワキヅレ〽菩提を深く

ワキ〽弔らおうよ

ワキワキヅレ〽そうは思うけれども鳥辺野の

ワキヅレ〽そうは思うけれども鳥辺野の

ワキワキヅレ〽露もおりた陵を思うと御栄華の時も一時のこと。露が消えるように頼りなくお亡くなりになられたいにしえの。中宮様の物語を聞くにつけてもその風流を愛するお心は深く素晴らしい事であるよ深く素晴らしい事であるよ。

後シテ〽まことの山のように高く積んだ雪山も解けてなくなってしまうものを。

地〽雪解け水が地の陰を流れてゆく水が清く澄んでわき返り

シテ〽その名も清少納言と。岩のように押し黙って言葉にせずに心の中で思ってください。

地〽「言はで思ふぞ」と中宮様から送られた言葉も。懐かしいこと。

ワキ〽こうして真夜中になって、夜に啼く鳥たちも寝静まり。「心がざわめいて落ち着かないちょうどその時、高坏の灯火の光を見ると。いかにもさっぱりとした美しさの女性が梔子色の薄衣の端をつまんで立っており。

〽火影のように見えなさるのは。夢か現かおぼつかないことよ

シテ〽梔子色の花の色は山吹襲の裏の衣からその色がこぼれ出て。口無しに通じる梔子の花で染めた山吹色の衣は見えるけれどもその衣の主は見えないもの。誰だとお聞きになられるけれども答えなくとも私が名のる前に私の事を御存知でございましょう

ワキ〽梔子で染めた山吹襲の色でお分かりになれとはあれこれ思い計られることよ。衣の主はどなたでしょう。清少納言でいらっしゃいますか。

シテ〽こうして亡者の姿で現れるのは恥かしいことですが、これがまことの我が姿

ワキ〽そのお顔立ちは昨日拝見した、まさにそのお顔

シテ〽姿に今も願うことは変わらないので、昨日お願いしたように

ワキ〽互に心を

シテ〽隔てることもなく

地〽今は眠ることなく明かす時真夜中に昇る月も心して私の話を聞いてください。逢坂山に響く鐘の音が夢の中にいざなってくる風の前の灯火が消えたのは、ここがもう夢の世界だからでしょうか。さあ中宮様の菩提のお弔いをいたしましょう。

シテ〽着ている衣は花に合わせた山吹の襲色目

地〽山吹の花の香りも立ちそうな。美しい袂ですよ

シテ〽そもそも心が泰然として。身は安寧を感じる場所は自分の本来いるべき場所。故郷はどうして長安だけにあるものでしょうか。遺愛寺の鐘に耳をそばだてて聴くのは枕に頭を預けるこの清少納言。

中宮様の御心に添おうと頼みをかけて香炉峰の。深雪をご照覧あれと簾をあげたことなどを。心に任せて筆に任せて書き記しました。

地〽けれども最後まで供養を尽くしたと思い切れない後悔によって。中宮様が今もお苦しみではないかとの妄執が雲のように襲いかかって自分で晴らすことは難しいのです。

シテ〽今滅多に逢えない縁に頼って

地〽心の中の願いを言葉にして。一つの草子に書き写し。春の曙の眠りを覚ます。

南無妙法蓮華経。中宮様の亡き魂が菩薩を経て成仏なされる。そもそも求めてでも掛かって濡れたい蓮の露を差し置くことはせずいやな俗世を離れるもの。

鸚鵡が話す言葉は人の言葉を真似ると言いますが、才覚優れた中宮様より私たちお仕えする女房も和歌や漢詩の知識をどのように披露すれば機知に富んだものとなるかを教えられ、殿上人の文に返事をし、上達部の方々の付句に答えました。

雲ほどの高さの月に向かって口ずさみ詠ずる声が響く鶴のように私たち女房も宮中にその評判の高いことも良いことでした。たまたま。仏意に巡り合ったこの折。迦陵頻伽の声に極楽往生を願いましょう

シテ〽山鳥は人に飼われると

地〽愛別離苦の理を逃れることが出来ないと聞きます。唯どの山鳥も友を慕情するので鏡で自分の姿を見ては。恋しさを慰めむるというのも。世慣れておらず大層いじらしいこと。いつになれば中宮様にお逢いすることが叶うでしょう 

唯懐かしき御方の。菩提の道を願っております。

唐鏡のはっきりと映らないものは。鏡面に映る人影がもしやお逢いしたいお方が映っているのかと。心をときめかせては。執着の故に真如の月も鏡のように曇ってしまうのです。御法の聲がさまざまに響き。まるで月に向かって詩歌を口ずさんでいるかのようで。中宮様の成仏を祈願して、歌人として名高い清原元輔の。娘ならば素晴らしい歌を詠むだろうと言う人ももういなくなったこの身では。今は経の代わりに千の和歌も菩提の弔いの助けになればと何はともあれ詠みましょうと。精魂を傾けて詠んだのはあの和歌「夜がまだ明けないうちに。鳥の鳴き真似をしても決して関を開けることのない逢坂の関」けれども普段は許さぬ関の明神もさあ今こそ関を開き法の道に進むことをお許しくださいと

シテ〽あけぼのの紫の

地〽雲もたなびく山の端が。少し明るくなって。春の夜の終わりを告げて。この世での楽しみ栄えの思い出に

亡き御方を思い出さないことはなくこれも人に飼われて友を恋う山鳥の身と同じであるのだ。この身が鳥の身であるので橋はあまびこの橋と記したあまびこの橋を飛び越えて。この身の成仏を願おう。

地〽南無妙法蓮華経、西方浄土におわします弥陀如来。自慢がましいことを枕草子に綴った驕慢悪をふり捨てて清少納言が後の世を。お助けくださいと権現の社僧も清少納言と共に。鐘を打ちならして廻向も既に終わってしまった。

地ロンギ上〽本当に趣深いことよ舞人の。夜の名残は今はなくなったと啼く鳥の夢をも醒ますように翻す袂かな。

シテ〽中宮様の亡き後を。弔う法の力によって。私も僭越ながら同じように生まれ変わる蓮の花の縁は頼もしいことよ。

地〽成仏する今となっては本当に、賀茂の祭りの翌日に枯れてしまった葵の挿頭かざし

シテ〽幼子があんなに好んで使っていても成長すれば見向きもしないひひな遊びの調度

地〽雨に日の所在のない時にふと見つけ出した、ちょうどもらった折に心を動かされた手紙、去年使っていた夏扇。どれもが過ぎてしまったことが恋しく思われるように、この世も去ると思えば恋しいことであるよ。

キリ(ヲサメ)よくよく物事を思案するに、藤原定子とおっしゃる方はあの一条帝の中宮として確かにこの世にいらっしゃった。このような后の物語をこれも人に語って聞かせ書いて知らせれば今日もまだ生きていらっしゃるかのようだ。人に語って知らせよう、かつて本当にこのような方がこの世にいるものだろうかと思うほど素晴らしい女性でいらしたことを。思えば枕草子も語る間は本当に中宮様がそこに生きていらっしゃるのだ、中宮様は確かにそこで生きていらっしゃるのだ。)

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春曙三世抄 第一部前世「能 逢坂」 めぐみ @potelian

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