ラウンジの片隅で

ヒロ

ラウンジの片隅で

「こっちにおいで……もういいよね」


その言葉が、俺にとっての現実だった。


そして、最後だった。







1. ラウンジにて


時計の針は10時を回っていた。

パソコンを閉じると、オフィスは沈黙に包まれた。


コートを羽織り、エレベーターに乗る。

そのまま下の階を押し、地下のラウンジに降りた。


今日も田口は、いつものように、残った案件を放り出して18時きっかりに帰った。

「すみません、これ明日やりますんで」とか言いながら笑いながらオフィスを出ていった。

その"明日"が、いつまで経っても"今日"になることはない。

その事実だけは知っていた。

本当に、嫌気が差すほどに…。


「少し落ち着こうと思っただけだ」


誰にともなく、心の中でつぶやく。


この休憩スペースは、ビルの地下にあるラウンジ。

照明はいつも落ち気味。

いつものように自販機の紙コップを取り出し、ソファに腰を下ろす。


「ここのコーヒー、やっぱり薄いな」


湯気の向こうで、紙コップを見つめながらつぶやいた。


「コンビニの方がまだマシですよね」

「ああ、そうだな」


朱莉は隣に座りながら、小さく笑った。

人懐っこい笑顔だった。

俺はふと彼女の顔を見た。

その笑顔に、ほんの少しだけ胸が鳴った。


「最近、ここによく来るの?」

「ええ、仕事帰りに。なんとなく落ち着く場所で…。山根さんは?」

「俺もそう。ここなら誰にも邪魔されないし」

「ですよね、私もです」


朱莉は小さくうなずいた。


「なんか……落ち着くんですよね、このソファも。くたびれてるけど」

「たしかに。沈み込みすぎて、もう立ち上がる気がなくなるな」


俺は笑いながら身を預け直す。


「それ、わかります」


朱莉も同じように、背もたれに体を沈めた。


間があいた。紙コップから、ふわりとコーヒーの湯気が立ちのぼる。


「……お疲れさまでした」


朱莉が言った。


「……ああ。そっちも」


朱莉は、うん、とだけ頷いた。

言葉は少ないのに、どこかあたたかかった。

彼女がぽつりと言ったその言葉が、いつになく胸に響いた。

まるで、それだけでこの孤独な夜が、少しだけ救われた気がした。


※※※


帰りの電車のドアが閉まり、ホームの灯りが後ろへ流れていく。

車内にはほどよい空気が漂っていて、吊り革が揺れている。


——「お疲れさまでした」


たったそれだけの言葉が、まだ胸に残っていた。

最近は自分に声をかけてくれる人などいなかった。

なぜかその一言だけで、少しだけ気が軽くなった。


俺が朱莉とちゃんと話したのは、いつ以来だっただろう。


ふとノイズが入る。田口の顔が浮かぶ。

もはや苦々しさというより、ただの空虚。

怒る気力も、呆れる感情も、どこかに置き忘れてきたみたいだった。


それでも——今日は、悪くなかった。


ラウンジのコーヒーの匂いと、あの柔らかいソファの感触が、まだ身体に残っている。

朱莉の笑顔は、どこか懐かしいものだった。

けど、また話せたら…そう思った。

ほんの少しだけ前を向けるような、そんな気がしていた。


電車が最寄り駅に着く。

夜風が吹き込んできて、俺は襟を立てた。


※※※


今日もラウンジに入ると、朱莉がいた。

以前と違って、不思議と落ち着かない。


今日の朱莉は、ほんの少しだけ違って見えた。

ただの後輩、ただの同僚のはずなのに——。


「今日はどうでした? 少し疲れてるみたいですね」

「まあ、毎日同じことの繰り返しだよ。言うこと聞かない奴ばっかで、イライラしてた」

「そっか……お互いお疲れですね」


朱莉はそう言って、俺の言葉をただ、静かに受け止めてくれた。


互いに、それ以上は言わなかった。

言葉にするのが惜しいような、寂しいような。

そんな“間”が、そこにはあった。


いつもと変わらないはずのラウンジの片隅で。

ただ一つ、自分の中にだけ、小さな変化が起きていることを、俺は確かに感じていた。



2. 車窓にて


朝の通勤電車。

吊り革につかまったまま、車窓の外に視線を投げる。

何も見ていないのに、風景が胸にぶつかってくるようだった。


隣の乗客が動いた拍子に、服に染み付いたコーヒーの残り香がふわりと漂った。

その匂いに、なんとなく懐かしさを覚える。

いつものラウンジでの朱莉との会話が、ぼんやりと思い浮かんだ。


※※※


職場では、今日も田口の席が空いていた。


「また休みか?」


そう呟いたのは、誰だったろう。

部長か、あるいはほかの誰かか。

先週の金曜日、駐車場で田口と口論になったことを思い出す。


そういや、その日は雨が降っていた。

田口の言葉が、まだ耳に残っている。


「もう帰りますんで」


あの時の田口の表情。

面倒くさそうな、うんざりしたような顔。


でも、もういい。

やり取りは、いつも堂々巡りだった。

ちゃんと向き合おうとすればするほど、空虚さだけが残る。


田口の机には、変わらず書類が積まれたままだった。


「最近、田口君見ないな。体調でも崩したんですかね?」

「そうですね……」

「そういえば、この間の夜、山根さん、女の子とラウンジで楽しそうに話してませんでした? なんか楽しそうだっなぁって」

「ああ、見ていたんですね……」


会社の誰かと話したその会話が、なぜか妙に遠く感じた。


※※※


仕事が終わった後、気がつけば足が地下のラウンジへ向かっていた。


あのソファ。あの間接照明。あのコーヒー。

そして、朱莉の声。

それだけが、まだ俺に優しさをくれる世界だった。


「……ねえ、山根さん本当に顔色がよくないみたい。大丈夫?」


ラウンジのソファに腰を下ろすと、朱莉がそっと俺の顔を覗き込んできた。

けれど、ほんの一瞬だけ違和感を感じた。


「やっぱり分かる?」

「うん。山根さんと最近よくここで会うから……」


朱莉は、少し心配そうな顔でそう言った。


コーヒーの湯気が、静かに鼻先をくすぐる。

あたたかさに包まれながら、言葉が少しずつほどけていく。


「田口のやつがさ……いや、なんでもない」

「どうしたの?」

「いや……朱莉は自分のこと、どう思ってる?

どうしていつも、こんな男に付き合ってくれるんだ?」


朱莉は、ほんの少しだけ視線を伏せて——言った。


「あなたのこと、大切だと思っているから…」


その言葉が胸に届くまで、少し時間がかかった。

喉の奥がつかえる。


——うん、これでいい。


目を閉じれば、彼女の声が、ちゃんとそこにある。

それだけで、少しだけ息ができる気がした。


(どうしてだろう)


ほんの少し、胸の奥の温度が下がった気がした。



3. 駐車場にて


金曜日の夜は、雨だった。


俺が残業している間に、田口は18時きっかりにオフィスを出ていった。

田口のデスクに残された仕事を、俺はひとつひとつ片付けた。

山積みにされた処理待ちの書類。チェック漏れのある稟議。

俺が直さなければ、誰も気づかないミス。


駐車場に出たのは、20時をまわった頃だった。

雨脚が強くなり始めていて、アスファルトに跳ね返る雫の音が夜の静寂を破っていた。


田口の車がまだあった。

何してるんだ、と思った次の瞬間、彼が角の陰から歩いてきた。

スマホをいじりながら…。


「……田口」


俺の声に、彼は顔を上げた。

そして眉を少しひそめ、舌打ちをした。


「あ、すみません。まだいたんですね」


言葉は丁寧。

でも目は、俺を見ていない。

視線がわずかに外れている。

これは知っている。

確実にある。


これは——軽蔑だ。


「なあ、お前……自分の仕事、置いて帰って平気なのか?」


喉が乾いていた。

自分の声が、ずっと自分から離れていくような気がした。


「……ええ、まあ。明日やりますんで……」


さらっと言って、スマホをポケットにしまう。

その仕草がまた、俺の胸をじりじり焼いた。


「俺が処理したよ。全部」

「そうですか」


また目を逸らす。

何かを我慢するように、短く舌打ちする。


「ちゃんと礼ぐらい言えよ」


俺は、田口の胸ぐらをつかんでいた。


田口は一瞬驚いた顔をした。

が、すぐに冷めた目に戻って、言った。


「もう帰りますんで……マジで勘弁してください」


その言い方が、すべてだった。

俺を「異常な人」と見る目。

こいつはもう、まともに話す気なんて最初からなかったんだ。


「ふざけんな」


言葉が口を突いて出た。


押したのか、押されたのか、わからない。

田口の身体が、ふっと後ろに傾いた。

コンクリートの縁に足を取られ、重力が彼を連れていく。


鈍い音。

小さく、でも確かな音。


俺は、しばらく動けなかった。


彼の顔を見ていた。

目は開いている。

だが、俺を見ていない。

どこを見ていたのか、たぶん彼自身も知らない。

口元が少し開いていた。

なにかを言おうとしていたのかも――


けれど、その言葉が出ることはなかった。


静かだった。

こんなにも、音のない世界があるんだと思った。




……俺は、なにかを、した。


した気がする。


でも、何を? 何をした?




俺は逃げた。

いや、逃げたというより、歩いた。

どこかへ。どこかへ行かなくてはと思った。


冷静だった。

でも、冷たいのとは違った。

体の芯が凍っているような冷静さ。

感情が後ろに置いてけぼりで、ついてこない。


そうだ、あそこへ行こう。


彼女に会えば、きっとわかる。

この気持ちも、なにが正しくて、なにが間違っていたのかも——



4. 星空にて


朱莉はそこにいた。

俺の言葉に、いつものように頷いてくれる。

こんな俺にも、変わらず微笑んでくれる。


ここには静かな時間がある。

やわらかな照明、落ち着いた空気。

誰も否定しない。誰にも拒まれない。


だから、また来てしまう。また会ってしまう。


「ねえ、もし、私がここから急にいなくなったら、どうする?」


会話の中でそう言った彼女の声は、いつもより少し小さく聞こえた。


「そんなこと、言わないでよ……」


笑ったつもりだった。

でも、うまく笑えなかった。


朱莉は俺の顔を見ていた。

いつもと変わらないその表情で。


「……いなくならないで」


今度は小さく、本気で言った。


朱莉はそっと、微笑んだ。

まるで夜風みたいに、静かで、やわらかい笑みだった。


「だったら、ちゃんとここにいて」

「いるよ。ずっと、ここにいる」


どちらが先に黙ったのか、もう覚えていない。

気がつけば、俺たちは静かに隣り合って座っていた。


ラウンジに流れる音楽が、いつのまにか懐かしいメロディに変わっていた。

思い出せないけど、確かに知ってる気がする——そんな音楽。


彼女の温度が、そっと伝わってくる。

そのぬくもりが、星空のように美しくて遠い、俺たちの距離をそっと示していた。


※※※


エレベーターのドアが開く。

ひんやりした空気が、額をなでる。


足が、自然とラウンジへと向かう。

もう、考えるより前に身体が動く。


田口の席が、目に入る。

相変わらず誰もいない。

空気がそこだけ濁っているよう。


確か……駐車場で……雨……。


誰かの声が耳に触れる。


「……田口さん、亡くなったって……」

「頭、打ったとか……」

「朱莉、誰……」

「警察が……」


音が薄れていく。

誰が話していたのか、もう思い出せない。

けれど、言葉だけが胸に残る。

ぬるい水のように、じわじわと、内側を濡らしていく。


それでも俺は、ラウンジへと向かう。

あの光のある場所の方へ。


自販機の明かり、沈み込むソファ、あの人の声。

そこだけは変わらずにある気がした。


足元の絨毯が、ふわりと浮かび上がるような感覚。

重力も、時間も、すべてがあいまいになっていく。


何かを忘れているのか。

それとも最初から何もなかったのか。


扉の前に立つ。

隙間から、あたたかな光が漏れている。


ほんの一瞬、胸の奥で、小さなざわめき。

何かを、間違えているような——


でも、その"何か"が、思い出せない。


扉の隙間から光が漏れている。


俺は、扉に手をかけた。



5. 境界にて


朱莉は、そこにいた。

いつも通り、穏やかに。


「来てくれて、うれしい」

「……会いたかった」


自然と声が出た。

なぜだか、涙が出そうだった。

ただ、ここにいたかった。それだけだった。


朱莉が、そっと近づいてくる。

手が触れた。そのぬくもりが、皮膚の奥にまでしみこんでいくようだった。


「よかった……あなたのこと…心配してた」

「……ずっと、一緒にいられる?」

「ええ」

「ほんとに…?」

「約束する」


俺は静かに目を閉じた。

浮かんでくるのは、決して戻れない景色。

そして、気づけば目の奥が熱くなっていた。


ここまで誰かと、心を分かち合えた感覚。

そんなものが、いままであっただろうか。


「……ありがとう」


そう呟いた瞬間、後ろのほうで「バン」と何かがはじけるような音。


「なんだ?」


振り返ると、薄暗い扉の向こうに人影。

顔は見えない。けれど、直感で分かった。


一瞬、脳が凍った。


——こいつはいないはずだ。もう、どこにも。


「気のせいよ」


朱莉が言った。

その声は、甘く優しくて、俺の混乱に蓋をするようだった。


「ここには、もう誰も来ない。誰も入れさせない」

「……でも、さっき……」

「怖がらなくていいの。あなたはもう、大丈夫」


彼女が、そっと俺の手を握った。


「でも……あいつは俺が……」


口にしかけた瞬間、また音が鳴った。

今度は、ドアを叩く音。


ドンドンッ……ドンドンッ。


音が強くなっていく。

誰かが、何かを言っている。


耳鳴りがする。心臓が速くなる。

苦しい。呼吸が、うまくできない。


「ねぇ、お願い。こっちを見て」


朱莉の声がした。


「ほら、私がいる。ここに彼はいない」

「そうだよな……」


俺は呟いた。手のひらが、朱莉の頬に触れた。


——もう、戻れない。戻らない。


満たされていたものが、溢れ出てくるのを感じた。


それでいい。


俺はもう一度、頷いた。

今度は、深く、確信をもって。


※※※


「ねえ」


俺は言った。


「俺たち、このままでいよう。永遠に」


「うん」


私は頷いた。


「あなたが望む限り、私はここにいる。あなたの声を、ずっと聞いている」


「うれしいよ」


俺は、ゆっくりと目を閉じた。

まぶたの裏に、街の明かりがやわらかく残る。

指先にある彼女のぬくもりが唯一の真実だった。


薄暗い照明に照らされた、静かな屋上ラウンジ。

風に乗って運ばれてくる音楽が、心臓の鼓動と重なるように、静かに鳴り響いていた。


ふと、足元から空気が抜けるような感覚があった。

浮遊感。身体が、わずかに傾く。

足元の絨毯はもう、ない。


屋上の片隅に立つ私たちを、夜風が包み込んだ。

それはまるで誰かに抱きとめられているように、やさしかった。


「ねえ」


私は言った。


「こっちにおいで……もういいよね」


彼は、うなずいた。

今、はじめて彼の本当の素顔を見た。


遠くで、割れるような音。

誰かが叫んだ、そんな気がした。

でも、それが何だったのか、もう何もわからない。


彼女が、微笑んだ。

いつもどおり、変わらない素顔で。

あたたかく、ずっとここにいると、そう語る顔で。


俺の掌の光に指先が触れる。

その瞬間、輪郭がぼやけていく。


彼の手が私の胸にふれる。

そのぬくもりが、身体の奥に染み込んでいく。


遠くで、誰かが俺の名前を呼んだ。


その声はもう、届かない。


溢れ出たものが、やわらかく零れ落ちる。


境界線が、そっと取り払われる。


こわくなかった。


ただ、やさしい光に包まれて――


深く、ひとつになっていった。

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