もぐらの眷属E

隣乃となり

もぐらの眷属E

 三くみのユカリちゃんが結婚するらしい。

 そんなうわさを聞いてぼくが真っ先に思ったのは、まだ小学生なのに、ということだった。ぼくもユカリちゃんも鳩見第三小学校に通う十二才のこどもで、ぼくの知る限り、こどもは結婚なんてできない。けれどユカリちゃんはする、みたいで。ユカリちゃんの水色のランドセルは妹の好きなレジン工作と似たような光り方をしていたけど、大人、それもお母さんやお父さんが身につける指輪とはまったく違うものだとぼくにはわかる。ちぐはぐだったのだ。去年まではどんなに寒い日でも校庭でドッジボールをしていて、よく転んでひざに青あざを作っていたユカリちゃんが、六年生になったとたんに大人のまねごと。だれだっておかしいと思うはず。

 だけど久しぶりにろう下で見かけたユカリちゃんは、本当に誰かのおよめさんになってしまいそうな感じがした。だっ色した長いかみの毛の先、うっすらと色づいた赤ちゃんみたいなくちびるを見て、ぼくはぶるぶるとふるえが止まらない。ぼくが中受に向けて毎日塾で勉強していたこの一年の間に、ユカリちゃんはすっかり「お姉さん」になっていた。


「やほ。はるくん、ひさしぶりだね」

 手洗い場でぞうきんをぬらしてやわくしていたぼくのかたを、高い声がさわった。

「ユカリちゃん……」

 ユカリちゃんはぼくを見ないで笑って、ぞうきんを広げてじゃ口をひねる。太った水がすてんれすをなぐりつけるにぶい音は、たぶんユカリちゃんの言葉の代わりをしていた。

「ね、ねえ、ユカリちゃん」

「なあに」

 こんなふうだったかな、と思う。こんなにも話しかけるのに勇気がいる相手だっけ。でも、ユカリちゃんからする甘いにおいがうっすらおそろしくて、ぼくは上ばきをずるずると遠ざけてしまう。

「結婚するって、本当なの」

 ぼくは緊張していた。全国テストを受けるときよりも、その結果をお母さんと一緒に見るときよりも、はきそうなくらいに息苦しくて、いきぐるしくて。

 一しゅんだけ浅く息を吸い込んでから、ユカリちゃんはうなずく。その目に変な光が見えて、それがなんだかとてもいやだった。むしゃくしゃ、してしまう。

「だれとするの」

 小学生は結婚できないなんて言ったところで、きっとユカリちゃんは相手にしてくれないと思った。だからちょっとでも注意を引きたくて、ぼくは一周回って馬鹿みたいな質問をしてみる。ユカリちゃんはふわりと目を見開いて、それからぼくが世界一かわいいと思っていた笑顔のまま、言った。

「もぐら」

 え、という声はもはや引っこんでいた。ぼくにできたのは、ただ顔を引きつらせながらユカリちゃんを見つめることだけ。

 ふざけているんだって思った。井沢先生が授業中によく言うつまらないダジャレみたいな、なんの役にもたたない冗談を言っているだけなんだって思いたかった。

「こうやって言うと、みんなそういう顔をするんだ」

 どうして。どうしてそんなに悲しそうな顔をするんだろう。ぼくよりも低い背の女の子が、ぼくよりもずっとずっと大人だってことを、ぼくは信じたくない。

「法律で決められてるんだよ。その、もぐらってやつはよくわからないけど、とにかく子供には結婚なんて無理なんだ」

「ほーりつ」

 からっぽな声。まるで、やる気のないオウムみたいだ。

 ユカリちゃんのとう明なせりふとは反対に、ぼくの心はどろどろとにごりはじめていた。ユカリちゃんの体はここに、目の前にあるのに。とおく、こころが、ユカリちゃんの心だけが遠くへ行ってしまう!

「ユカリちゃん!」

 とっさに大きな声が飛び出た。ユカリちゃんがおどろきで顔をいっぱいにして、ぼくの目をのぞきこむ。

「どうしたの」

「け、結婚するってことはわかった。わかったよ……」

 わかってくれるの、と。それはそれは嬉しそうに、ユカリちゃんがほほ笑む。

「じゃあはるくんにだけ、特別に教えてあげるね。あたしの『結こん相手』」

 どく、どく、どく。耳たぶの中を血が走り回る。ぼくは何も言えない。なにも、言えない。シャトルランの後みたいにのどから水分が消え去って、ただただまっかな味がするだけだ。

「じゃあ今日学校終わったら、三くみの前に来て。一緒に帰ろう」

 ぞうきんを絞ったユカリちゃんは、スキップでもしそうな勢いで教室へと吸いこまれていく。

 消える香りを気持ちだけで追いかけて、だけどつかまえられなかった。鬼ごっこはきらいなんだって、ぼくのお腹のあたりが「イカク」するのを感じる。

 びちょびちょになった指先は、ぺたりと銀にくっついていた。


 ◇


 くるって、いると思う。

 骨。山。秘密基地。このにおいを、ぼくは頭のどこかで覚えている。黒に黒を重ねて、それからまた、重ねて。そんなまっ暗やみが、ぼくとユカリちゃんの後ろにはあった。

「おそう式みたいでしょ」

 カランカランと骨の山をいじくりながら、ユカリちゃんが笑う。声が、やけにひびく。

「それで、も、もぐらって何なの」

 こんなにブキミな空間の中でもむじゃきでいられるユカリちゃんを見ていたら、ぼくがここで、こわい、帰りたいとさわぐのはものすごくダサいことなんじゃないかと思えてきた。だからなるべく声をガタつかせないように気をつけたけれど、やっぱりどうしてもかくせない。

「だいじょうぶだよ、はるくん。ちょっと暗くてはだ寒いだけだから。こわくないよ」

 でもユカリちゃんは本当に、本当にくやしいけどぼくよりもずっとお姉さんで。ついさっきまで上着を持ってこなかったことをちょっぴり後かいしていたのがウソみたいに、今のぼくは、かみの一本一本までこげそうなくらいに熱くなっている。

「こっ、こわくなんかないよ! それより早く見せてってば!」

 わかったよ、とユカリちゃんの笑顔がひかえめにはじけて、人さし指がすっとやみのおくを照らす。おいで、もぐら。作り物じゃなきゃダメなはずなのに、そう呼びかける声は本物すぎるから気持ち悪い、ドラマか何かみたいだ。そんなふうにぼくはぼうっと考える。

「もぐら、出ておいで」

 声は返ってこない。ひゅうと小さく風が吹いた後は、ぼくとユカリちゃんの呼吸の音だけがうるさくなる。

「おかしいなあ。もぐらー?」

 おかしいのははじめから、全部じゃないかとぼくは思って、そうすると段々とトイレに行きたくなってきた。変な時間だ、今日だって塾があるのに。早く帰らないとお母さんに怒られる、のに。もぐらー。もぐらー。どこにいるの、もぐらー。ユカリちゃんが声を張り上げて歩き回るのを、ぼくはつっ立ってながめている。

「ねえ、もぐらってば!」

 ユカリちゃんの、とつぜんの大声にお腹からびくっとした。はっと灰色になった空を見上げて、ざわざわとしたものにたえられなくなったぼくはいよいよ、本当にトイレに行きたくなる。

「……ご! ごめんユカリちゃん。ぼく、この後塾だから帰らないとなんだけど……」

 ぴたりと止まって、ふり返るユカリちゃんの目。何もこわいものは見つからなくて、ぼくは少しだけ安心した。

「わかった。バイバイ」

 どこか元気がない様子のユカリちゃんを、あのうす暗い場所にひとり置き去りのするのがこわくなかったと言ったらウソになる。けれど塾があるのも、遅くなるとお母さんにこっぴどくしかられるのも、どっちも本当のことだから。

 はやく足をふみ出すと、ランドセルが上下に大きく暴れる。

 ガチャガチャうるっさい金属の重なり。ああもう。今日のワークは二十ページまでだったっけ。学校で十八ページまでは終わらせたから、家についたらすぐに、お母さんにいつもより遅くなった理由を説明して、それから、それから。

 あ、って。想像しなきゃよかった。ドアを開けてすぐに目に入るのは、きっと厳しい顔をしたお母さんだ、とか。

 歩いてはいないけど走ってもいない。気持ちと体のつな引きが、ぼくが家につくまでしつこく、しつこく続いていた。


 ◇


「もぐらがいなくなっちゃった」

 そう告げるくちびるは白くかわいていて、見ていてかわいそうになってしまう。ねていないんだろうとわかるぐらぐらのまぶたを、ぼくは直視できない。

「でも今はどこかに行ってるだけで、もうすぐもどってくるはずなの」

 学校終わりの十五時七分(あと十秒で八分になるけれど)、ぼくはまたユカリちゃんに連れられて、あのどうくつに来ていた。この前はお母さんに文句を言われたから、もう寄り道はしないでおこうって決めていたのに。ユカリちゃんのまっさおなはだを見たらそんなことは全部、どうでもよくなってしまった。

「そうだよ、きっとすぐにもどってくるよ」

 ぼくはユカリちゃんのでこぼこのひとみに語りかける。結局もぐらが何なのかなんて知らないし、ここはあいかわらずブキミだと思ってしまうぼくだけど、ユカリちゃんが苦しそうな表情をするのはいやだ、と思う。 

「そうだよね。帰ってくる。もぐらは帰ってくるの」

 遠くの空におせっきょうをする、ユカリちゃん。ぼくは何か言いたくて、言いたくてしょうがなくて、でも今のユカリちゃんに声をかけるのがこわかったからぎゅ、ってだまる。

「はるくん」

 積みあがった白い、骨だ。ユカリちゃんがひとつ拾い上げたすべすべの骨が、ぼくの鼻先に近づけられる。

「かんで」

「え?」

「かんで、この骨」

 ぽかんとするぼくの頭の上でユカリちゃんはさみしそうに口を閉じる。けれどすぐに舌が見えて、ぼくはえ、なんて思って。

 ぼくがそれを声にするより先に、ユカリちゃんの歯がやせた骨に、ふれた。ぎり、ぎりって音。冬の木の枝みたいな棒を、このしゅん間ユカリちゃんはかみくだこうとしている。

「ゆ、ユカリちゃん」

「……これはね! もぐらがごはんを食べた後の、残りものなの」

 ぺってはき出して、黒目も白目もなみだにおおわれているのに、ユカリちゃんはちっともつらそうじゃなかった。ユカリちゃんのよだれできらきらする骨に、細くて小さい線がたくさんつけられている。

「もぐらの気持ちを知りたい。だからもぐらの食べ残しを飲みこんだら、あたしにももぐらのことがわかるかなって」

 もしかしたら。ユカリちゃんにとってのもぐらは、ぼくにとってのユカリちゃんなのかな、とか思ってしまう。顔を見るだけでドキドキしてものすごく熱くなって、できれば笑わせたくて、それに明日も学校で会いたい。絶対に。

「ぼ、ぼくもかむ。かんでみる」

 ユカリちゃんの手のひらから骨を受けとって、すぐにぼくはそれにかぶりついた。骨と、それからぼくの前歯のぶつかる音が鳴る。かたいし、舌がくっつくと当然まずいし、鼻にのぼってくるにおいも気持ち悪くて本当ならがまんしたくなんかない。

 だけどぼくはユカリちゃんの気持ちが知りたかった。知りたかったから、こうしてヘンテコな場所でヘンテコなことをして、それなのにどうしてか泣きそうになっている。

 止まらないおそう式の風をかぐ。むかしお母さんの「じゅず」をおもちゃにして怒られたことなんかを思い出して、口の中がちょっぴり苦くなった。


「忘れないでおこうね、さっきの味」

 赤い目玉のユカリちゃんは言った。水とうのルイボスティーで舌を洗いながら、ぼくは軽くうなずいてあげる。ぼくが骨をはいた後で、とうとう泣き出したユカリちゃん。悲しいんだなとぼくはきちんと読みとれる。

「死んでも」

 ユカリちゃんがつけ足した。

 好きな人がいなくなっちゃうってどんな感じ。ぼくは知らないけど、まだ小学生なのにそういうことも経験するユカリちゃんはやっぱり大人みたいだなって、そういえばはじめて、すなおに思った。


 ◇


 ハイ、ゼア。嫌いなものだけ増えていくわな。

 嫌いなものだけ、増えていくわな。


 肉の焼ける音と、インディーズバンドのニューEPの表題曲は、同時に存在することができる。

 つい二日前にプレイリストに追加した曲が、新堂しんどう遥斗はるとの脳内で延々と再生されていた。新堂の目の前に立ち昇るのは極薄の煙。その根本では温色に照ったハラミが、裏返される瞬間をいまかいまかと待ち侘びている。

 何の変哲もない平日の夜にも拘わらず、焼肉屋特有の賑わいは健在だった。黒いTシャツに身を包んだバイトたちが忙しなく歩き回り、店内のあちこちで満ち足りた声が浮遊している。わーだのきゃーだの一際騒がしい座敷席の客を一瞥してから、新堂は向かいに座る石川いしかわに声をかけた。

「……そういえば。小学生の時に好きだった子が恋リアに出てた話って、もうしましたっけ」

「れんりあ?」

「恋愛リアリティショーですよ。そっか、先輩あんまそういうの見ないっすよね」

「おれは見ないねえ」

 石川はトングで肉の端をわずかにめくっては、戻す。まだ焼けていないと呟くとすぐに、新堂に視線を送って続きを促した。

瀬古せこ友香里ゆかりっていう子なんすよ。知ってます?」

「知らん」

「まーそうだよなあ。芸能活動とかそんなにやってなさそうなんですよね、彼女」

「ふうん」

 熱のない返事だった。石川は瞳に赤橙を浮かべながら、ハラミの脂が金網をつたい落ちるさまをじっと見つめていた。ぱち、ぱち、ちちちち。激しく変化する火炎の背丈を観察しているうちに、程よく焦げの混じった香気が二人の鼻腔を撫でるようになる。

「よし」

 石川は一度ハラミを裏返し焼き目を確認すると、新堂の皿に乗せた。光沢のある身が熱い湯気に包まれ、先客であるタレを既にじゅんわりと吸い込み始めている。思わず、彼らの喉が鳴った。

「ほら、先食ってていいぞ」

「あざすぅ。てか、なんかすいません。本来なら俺が焼くべきなんですけど」

「いいんだよ。おれは焼くの好きだから」

 じゃあ、と新堂は仰々しく頭を下げながら手を合わせる。

「お言葉に甘えて、いただきます」

 彼は重みのある金属箸をあやつり、数秒の間、肉をとろみのあるタレの表面で遊泳させた。白胡麻まで丹念に絡ませて、口に運ぶ。

「ん」

 食らう者の歯を愉快にさせる程よい弾力。噛むと浸み出す肉汁が、甘辛いタレに溶け込んで新堂の味蕾を潤した。外れがない、焼肉というものに本当に外れはないなあと、彼は大きく首肯したい気持ちになる。

「美味い?」

 トング片手に尋ねる石川の声は低く無愛想だが、同時にどこか優しくもあった。うまいっす、と当然のように答える新堂に、もうひとつ声を掛ける。

「ていうか、本当に肉だけで良かったのかよ。おれはビビンバ頼んだけど、お前は飯系なんもないじゃん」

「いやあ、今月結構厳しいんですよ」

「どうせおれの金なんだから、食えばいいのに」

 その言葉に、新堂がぱあっと面を輝かせる。

「えーじゃあ俺、ユッケジャンラーメンがいいな」

 いっそう機嫌を良くする無邪気な後輩を眺めて、ふっと、石川は笑みをこぼした。

 十九時三十八分。針を持たぬ電子時計が静かに告げた頃。店内の熱は疑う余地もないほどに健康的である。

 肉とアルコールに骨抜きにされた二人の若い男たちは、既にその熱に融かされつつあった――


 ◇


 木枯らし一号の後続部隊が寄せ来る夜はハーシュだったが、人々は極めて朗らかな様子で繁華街を歩いていた。生産性のない平坦な会話と、酒臭い吐息が彼らを包み込んでいる。

 しかし、新堂だけが違った。彼は、彼だけは満たされた腹に対して罪悪感を抱いているかのように目を伏せ、アルコールが入り饒舌になった石川の隣で微かに愛想笑いをしている。そうすることで、辛うじて空気の汚染を食い止めているのだ。しかし酒を飲んで感傷的になったわけではない。むしろ彼の頭はやけに冴えていた。会計の際にもらったミントガムの過剰な清涼感のせいなのか、はたまた酔っ払うと救えないほどに退屈な話をする石川のせいなのか。あるいは店にいたときにはまだ熱を持っていた心が、風に当たったせいで急速に冷却された、それだけの話なのかもしれない。


 幼い頃より守り抜いてきた脳内へなちょこワンルームの中で、新堂はひとり、録画映像と題した苦い記憶を視聴する。

「ゆかりです。インフルエンサーをやってます。久しぶりに、恋愛しに来ちゃいました」

 声が反響する。長い茶髪を靡かせる水着姿の美女は、もうランドセルを背負っていない。

「んー、私ははるとくんが気になってます。背高いし、紳士的なところとか、すっごくタイプ」

 瀬古友香里がツーショットに誘ったのは、偶然にも新堂と同じ名前の男だった。言うまでもなく彼は、徹頭徹尾、新堂とはかけ離れた端麗なかおと雄偉な肉体の持ち主である。それどころか、「はると」は何気ない仕草にも人の良さが滲む優しい男なのだということを、新堂は見るたびに思い知らされる羽目になった。

 新堂がこういったまだるい自傷行為を辞めることができない理由は、実際のところ彼自身も分かりかねている。彼からすればはおままごと同然の恋だったはずだ。小学生の恋愛というのはどこまでも健全で小規模で、そしていつだってアバウトな諦念を伴うものだから、と。少なくとも、新堂はそう考えていた。

「嫉妬、なのかなあ」

「え?」

「あ、いや……」

 頭を掻いて、新堂は苦笑する。そういえば石川の語りはまだ続いていたのだと思い出す。

「どうしたんだよ、さっきから浮かねー顔して」

 話は壊滅的につまらないが、石川が理想的な先輩であることは確かだった。俺は恵まれているのだ。そんなふうに、新堂は何かにつけて自分自身に言い聞かせる。今まで一万日弱を惰性で踏み付けてきた彼だったが、それ自体、殆ど奇跡のようなものなのかもしれない。思えば彼が中学受験に失敗したときから、起伏のない生活の予感は常に彼の身に纏わりついていた。三年前に実母と事実上の絶縁をして人生における大半のよすがを失った彼にとっては、現在の生活はあまりに綺麗で、上手く行きすぎているくらいであった。

 なら、なぜ。新堂は必死に思考を巡らせる。

 インフルエンサーだと名乗っていた友香里を、一度もSNSで見たことがなかったから?

 自分は勝てないと思ってしまったからだろうか。指先まで、生成AIの最高傑作かと錯覚するほどに隙が無かったから?

 じゃあ、彼女が、大人になっても自分より先に進んでいるように感じたから?それは違う。俺が落ちぶれただけなのだと、新堂は顔を顰める。

「あーあ、俺だって!」

 叫ぶ。新堂は叫んでしまう。ぎょっとした表情の石川を置いてけぼりにして、彼は路地を駆けていく。吸気は不快な冷たさを孕んで、ミントの余計な爽やかさが新堂を不気味な心地にさせる。

「俺だって、こんなはずじゃなかったのに。阪大にだって合格できたはずだし、恋人もできて、親を温泉旅行に連れて行けたはずだ。今頃は絵馬に高次欲求を書いているはずだったんだよ、俺は。俺は!」

 平日の晩はいかれた輩が多いというのは周知の事実だが、すれ違う通行人にすれば、新堂はまさしくその一人だった。ブツブツと独り言を撒きながら走る彼は、傍から見れば発狂した気の毒な青年である。

 そんな新堂の前に、突然、一人の女が立ち塞がった。ピンクのカーディガンが目を引く、茶髪の女だった。


 ◇


「友香里……さん?」

 瀬古、友香里。俺の中ですっかり「ゆかり(25)」という表記が馴染み深くなっていた彼女が、今目の前にいる。インフルエンサーを騙る、俺の好きだった女の子が。

「なんか、その呼び方やだな。昔みたいにユカリちゃんって呼んでよ」

 微笑む彼女はもうランドセルを背負っていない。背負っていない。

 けれど、彼女の背にはそれがあるように感じた。あの頃と何も変わらないピカピカの革の端を毎朝撫でる、そういう生活をしているのではないかと思ってしまう。そんな、目つきをしていた。

「ね、はるくん。良いニュースだよ。もぐらが見つかったの! 見つかったから、はるくんもいっしょに会いに行こうよ!」

 ああ、だからか、と思う。俺がどれだけ傷ついても画面の中の友香里を見ることを辞められなかったのは、あのことを覚えていたからなのだ。死の舌触りが、いつまでも彼女を呪っている。

「……もう、やめたほうがいいよ。何にもならない」

 友香里が涙を流しはじめたから、俺はそれ以上言葉を紡げなかった。デジャヴだって思う。ぼろぼろ零れ落ちていく涙は星屑みたいに暴力的だ。それもあの頃と、同じ。

「もう、はるくんしかいなかったのに。なんでみんなそうやってわたしを拒絶するの。いい大人なんだからやめなって言わないでよ。私は大人なんかじゃない。大人なんかじゃないのに!」

 俺よりもうんとお姉さんだった女の子は、いつの間にか俺なんかが憐れむことができるくらいに弱っていた。友香里の嗚咽は、俺の宇宙とは違う場所を棲み処にしている。本当は彼女が羨ましい。もぐらに会いに行こうよ。キラキラしながらそういうことを言えてしまう人間に、俺は一生なれない。


 記憶。

「忘れないでおこうね、さっきの味」

 ごめんなさい。俺はとっくにどこかに置いてきてしまった。あの骨の味だけがもう長い間、本当に思い出せないでいる。だから彼女に覚えていてほしい。獣とハッカの味に悪さをされている俺のことなんか、絶対に知らないふりをして。


 もぐらはどういう生き物で、どういうふうに彼女を愛したのだろうか。

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もぐらの眷属E 隣乃となり @mizunoyurei

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