第6話

 暗闇の中、一筋の焔が立ち上っていた。上へ上へと火の粉を舞い上げて、周囲を赤一色に染め上げている。火の粉を纏った蛾は灯りに吸い寄せられたかのように舞い踊り続けていた。其の下で、焼け焦げた兵士は項垂れたまま、火傷で腫れ上がった太腿を掴む。然し、焦げた指は動かず、引っ付いているだけの物体となっていた。淋巴液でベタベタとする全身と、毛のない頭。徐々に焦げる香り。それでも無慈悲に、嗤う様に舞い続けている頭上の蛾を眺め、思わず眼を閉じた。瞼の奥に焼きついた焔の赤みを直視したまま、蝶なら良かったのにと薄く笑う。屍体の黒い煙が風に吹かれて、海へ海へと流れていった。

 鮮明に傷口が見える高演色LED照明の下で、エヴァンは紅玉からメスを貰う。眼の前には壊死して黒くなった腕が力無く垂れ、象牙色の膿を纏っている。皮膚は変色して腫れ上がり、乾燥してジリジリになっている。顔も洗ったが焦げて黒い。

「脳外に腕を切らせるとは」

 呆れの声を上げて、プスリと壊死している部分より上に刃を入れる。ジンワリと血が滲んで、サクサクと周囲を切り裂いていった。黄色い脂肪や紅い筋。筋肉がプツプツと音を立てて切れてゆく。最後に骨鋸で骨を容赦なく切断した。紅玉が其の腕を重そうに抱えて何処かへ持っていく。其の間に少し短く切断した骨を包み込むように皮膚を縫合器で糸を通して、結んで剪刀で切る。脳神経、脊髄と違う緊張感が漂い、何度も鱗で硬い手を揺らしたりして調子を確かめて居た。

「ねえ、瑪瑙先生ってサーフィーの兄ちゃん?」

 暗闇から紅玉の声がする。エヴァンは着けていた手袋を剥がして替えながら、意外そうに眼を開いた。

「そうだ。弟の事、知っているのか」

「私、学生の時サーフィーに拾われて育ったから知ってる」

 紅玉もパチパチと手袋を交換して、器具もさっと替えられる。悪運が強いのか重症患者はほぼ全員治療して、病室に移動されていた。しないはずの屍体の焦げた匂いが鼻腔の奥を通り抜ける。胸の奥を素手で触られた様な感覚に純粋な笑みを浮かべ、また口角を下げた。

「名前は」

「エキドナ」

 エヴァンが口端に軽蔑の含んだ皺を寄せる。希臘神話に出てくる下半身が蛇で上半身が美女の怪物を思い浮かべたのだ。

「下半身が蛇でも無いのに、エキドナか」

「変な名前でしょ」

 紅玉、すなわちエキドナが呆れて眼を逸らす。其の眼尻にある青い模様にふと古い記憶が揺らいだ。濃紺の鱗、同じく眼尻に滲んだ化粧の様な模様。翠眼で角が瑪瑙に似て山羊の如く伸びている。

「苗字はガルシアか。父の弟子にノエル・ガルシアという毒竜が居た。白内障手術が天才的に上手かった記憶がある」

 円状に切り抜いて眼内レンズを素早く挿入する姿が脳裏に浮かぶ。エキドナは恥ずかしそうに頬を染めて、また外方を向いた。

「嬉しくないけど、その通り」

「娘さんに会えるなんて名誉な事だ。弟とは何処で出会った?」

 また手を開いたり閉じたりした。手袋越しに鉤爪が苦しそうにしている。エキドナは少し悩んで眉間に皺を寄せると、運ばれてきた患者を横眼で見て言った。

「話すと長くなる。終わってから話さない?」

「そうするか」相槌を打って、準備を始める。熱消毒済みの器具も並べられた。麻酔を掛けた患者を手術台に乗せると、銀の鋭い光を煌めかせてサァッとメスを入れ込む。薄紅や白い筋を分けて、切り口から出ている影を鑷子で慎重に掴むと、硬い粒の様な鉄の塊が出てきた。弾丸だ。膿盆の上に転がる塊を数えると合計で八つも入り込んでいた。一つ一つの裂け眼を縫い合わせ、焦げた負傷兵の行列を怒涛の勢いで切り裂いた。

   ♪♪♪

 獣臭い廊下を武装した行列が素早く駆ける。足音も無く、服の掠れる音だけが鳴った。倉庫に見える会議室に雪崩の如く入り込んでいくと、ほんの刹那で行列が消え去る。長机に並べられた質素な椅子に腰掛け、立った耳に付けられた機械に手を当てる。中心には護衛に囲まれたパロマと左耳の欠けた森林狼が居た。双方黒眼鏡を着けており、顔が明瞭では無い。

「従是、作戦を実行する。行け」

 マイクに向かって小声で命じる。柿毛と黒毛の混ざり合った耳をちらつかせて周囲の音を聞き逃さず集中していると、隣の森林狼が身を寄せ耳許に口を当てる。

「パロマ、俺が来て不満に見えるけど」

 沈黙したまま接吻をする素振りを見せると、悪戯っぽく笑って「金星は好き」と酷寒を極めた眼線を投げ、黒黒とした鼻先を撫でた。五臓に氷柱が下がるのを感じながら、ぶるっと毛を震わせて外方を向く。そして衣嚢から煙草の箱を覗かせて一本摘む。口許に運ぶと巻紙に任務完了と殴り書きで綴られている。一瞥して嗤うと、咥えたまま火を点けて凍った肺に吸い込む。軈て、ぷぅと白い煙を吐き出した。

 軍基地の外は爆風で硝子片と木の枝で溢れかえっている。倒れた混凝土壁の後ろに隠れて風を防いでも、間から濁流の如く流れ込んで怪我をする。毛の隙間には砂が入り込み、眼も細かい硝子が暴れて猛烈に傷んだ。隠密偵察を担当している沈丁花は熱の籠った風に当たりながら基地裏の地面を手探りした。ゆっくりと親指の腹で撫でると砂の触感が変わった。生温かい砂が中にはあり、上には周囲と変わらない砂が乗せて態とらしく広げられている。途端に片手で押さえると用意していた無線機に唇を当てた。

「出動する」

 ぐ、と爪を押し込んで持ち上げると地面だった場所が浮かび上がった。そして狭苦しそうな暗い地下には無数の階段がある。はあ、と煤の混ざった空気を肺に溜め込んだ。足を差し出し、身を屈めて下りてゆく。地面と同化していた扉らしき物を手を伸ばし戻すと、上から誰かが砂を掛ける音が聞こえた。完全に暗闇となった道は洞窟にも似て、何処か乾いている。自分の心臓の音以外は聞こえない。黒眼鏡のせいで眼も見えない。濡れた土の匂いが毛に染み付いて離れない。足を進めていくと、急に広い道に出た。両脇には地熱の光があり、其の真下に植物が植えられている。息苦しさもマシになった。地下通路を支える為の大きな柱や時々壁からちょろちょろと流れている水のお陰で殺風景では無くなった。安堵と恐れの混ざった息を一度吐き、足を速めて進む。

【地下避難所。安全区域】という看板文字を無視して逆走すると、足下に流れている排水溝を見つけた。植物の下に用意されている衣服に着替えると、躊躇する暇なく格子を外して中に入り込む。息が苦しいと藻掻いたが肺を膨らませて進む。過去に居た蛇の上官を思い出して畝りつつ息を吸う。地上が朝焼けに染まるまで地獄は続いた。

「ロザンデールはヒラールというテロ組織を持っている」

 途端、上から声が聞こえた。最早通路とは表せない水の詰まった鉄の空間から耳を澄ます。胸につけられた録音機に声が入った。

「我々は、其れを阻止する為に武力行使するのだ。殺戮を繰り返す組織は許さない。其の組織に頼る國も殺戮國だ。我々が制圧して我が國にすれば良い。部隊を出動させよう」

 しっかりと録音機を向ける。仲間らしき声が響いた。

「ロッキーバースを?」

「左様。まずはヒラールを潰さないといけない」

「あの殺戮主義達の妄想を醒ましてあげましょう。神は私達に味方している」

 GPSのついた録音機を一つ貼り付けると、耳に機械を差し込んで会話を聞きながら引き返す。蛇になりきって華麗に通路を抜けると通信した。

「データを確認せよ」

「既に確認した。部隊も出動済み」パロマの声が響く。

「了解」

 柔く答えて広い道に出ると、普段と別の通路から脱出を試みる。身を伸ばして地上に出ると、其処は森の奥だった。呼吸音も立てずに樹林に隠れて動かず居る。先刻まで潜入していた敵の拠点が枝の間から見えた。両手で機関銃を押さえぴったりと体に押し付ける。意識も薄れる内に存在ごと遮蔽して自然となった。いつでも撃てる様に警戒しつつ静まっていると、敵基地の建物裏に隠れていた真桑と甜瓜、そして黒山羊と白海豚が手で合図をした。大群がブワァッと音を立てて周囲を包囲すると、軍用機が空を覆い長い縄を投げて張った。空軍の鷲が窓から侵入したと思えば、真桑が機関銃を構えて重々しい足音と共に建物内へ入る。まるで雨粒が土瀝青を叩きつける様な乾いた銃声が降る。ダダダと夜まで続くかと思えば、前触れも無く静寂が落ちた。靴の音だけが妙に大きく響き、さぁと殺風景になる。全員を制圧してしまったかと首を傾げていると、屋上から一頭の白鷲が長い翼を広げた。黄色い曲がった嘴を突き出して爆弾を巻きつけている。暫くは無言で動かず、爆弾の重さで耐えられず、翼が歪になり体が沈んだ刹那、沈丁花は背を低くして狙うと、機関銃を固定して引いた。乾いた一発の音と雑木林の揺れる音が聞こえる。落ちてきた鷲の胸は緋色に染まっていた。

   ♪♪♪

 一方、白い鷲の屍体が運ばれ、クルルとペランサは何も言わずに刃を入れた。「何故、此処まで綺麗なのでしょう」と話を切り出したい気持ちを堪えて解剖する。心臓以外何も傷ついていない中身を見て、はあと溜息をつきたくなる。心臓を切って膿盆にボトリと落とし込む。

「鳥、出来れば猛禽の皮膚と肝臓はあるか」

 奥から声が響く。ペランサが「此処にある」と答えてツゥと腹を開いた。出血も最小限の『コレだ!』と大声を張り上げたくなる屍体。狙われていたかの様で脊髄から温度を失い冷えてゆく。喉仏だけが忙しく唾を飲んで動いた。震えに下唇を噛み、平然を装って堂々と胸を張ると必要な部分だけを丁寧に切って引き渡す。場はまた静寂に呑まれた。耳鳴りと機械音に身を委ねていると、クルルが小声で尋ねる。

「勝手に遺体から臓器を取っても許されるのか?」

「そういう遺体しか運ばれませんよ。特に軍獣は死後臓器提供の同意書を提出している事が多いので使える物が多いですね」

 何を今更、と両手を広げる。手袋を捨て、羽根を集めてまた捨ててを繰り返し、器具を熱消毒している間に別の器具を用意する。其の間にまた屍体が運ばれてきた。着替えたいのだろうが、焦げた服を纏い手袋から血を滲ませている猫が黙って引き渡す。クルルは前に立つと、頭を深く垂れた。

 皮下脂肪の黄色と細胞の薄い赤の混ざり合いをザクザクと切り、慎重に臓器などを取り出した。此の馬の屍体は唯一、骨が使えるのだ。ペランサは熊特有の大きい手に専用の手袋をして周囲の脂肪や膜を除いていく。筋肉に切り込みを入れると、組織の層によって綺麗に保存された骨が美しく輝いていた。

「此の扁平骨は使えますね」

 呼吸を荒くし、興奮気味になって燥いだ。其の正面でクルルは手術衣から眼を覗かせて微妙な表情を浮かべる。解剖でもしている気分だと小声で呟いた。

「手脚が使える状態なら良いが、運ばれるのは一例を除いて全員地雷で死んでるからな。焼けてても皮膚はもう焦げてるし。どうしたもんかね」切り開かれた屍体の前で眉を寄せたまま耳を垂らす。手術帽越しにしゅんと動いた。

「運ですよ。まあ、それにしてもクルルさんは運が悪いですね。大学病院で助教してたら急に変な所に連れて来られて。俺は先輩方が来てくれて嬉しいですけど」

 ペランサが落胆しているクルルを慰めて笑いかける。

「そうか?」手を止めないまま、疑惑の眼差しを鋭く向けた。「そうですよう」と、ペランサが可笑しそうに声を上げる。冷え上がった手術室に比べると、得体の知れない熱が篭っていた。

   ♪♪♪

 ブウウーンと遠くから艦艇の声が鳴り響く。化け物の遠吠えの余韻は鼓膜の奥をくすぐって、思わず手術の手を止めて振り返った。不審に思って居たのも束の間、重々しい軍靴の音が地面を割る様に、此方へと向かってきた。金属の重なる音、恐ろしい程に濃い潮の香り。担架に乗った鯨や海竜を背に、サッサと皮膚を縫った。

「瑪瑙先生!」

 巨大な鰐が大声で叫ぶ。胸にはブランデー・クリスタと書かれていた。鰐の長い口吻からは牙が漏れ、焦っているのか地団駄を踏んでいた。

「私は此処に居る。看護師が運びに向かうから事情は扉の向こうから話せ」

 エキドナが力強く了解の合図をして、素早く誘導に向かった。地下の階段からは箱を抱えた砂滑が列を成して各部屋へと踏み込む。丸い頭とスラリとして偏りの無い身体が泳ぐ様に畝っていた。ブランデーは眼を見開いて震え、軈て俯いてはあ、と息を吐いた。

「分かった。今、ヨルガンの艦艇が原因不明の爆発を起こし多くの怪我獣が出た為、ヒラールとカポンの二國に分かれて救命する事にした。死亡は百名、重症は四十五名。主に火傷や艦艇内での負傷、過度な挫滅、頭部外傷。死因はそれに加え窒息と圧死」

「化学物質は?」

「特に検出されていない」

「軍獣にアルコールや薬品のアレルギーがある者は?」

「右手首に紙を巻いている。それと、カポン海軍将校よりも他の兵を優先しろ」

 言葉を頭から無視して、常に検査を終えて運ばれて来た海豚を前に手を動かした。まず、此は艦艇内での怪我らしい。出血多量を疑って捕液をし、ドレーンを挿した。肋骨骨折と空気が溜まる皮下気腫が起こっている。空気を抜きながら出血箇所を縫合し、蜘蛛膜下出血とLe Fort Ⅲ型骨折の最悪な状況を変える為、頭の皮膚を切り裂いた。慎重に、震えもせずに外傷箇所だけを選んで動く。頭蓋骨を取り除いて慣れた様子で出血を治めた。ぐちゃぐちゃになった、酷い姿だ。ブランデーの言葉を無視して海豚を治療していると、扉の向こうから叫び声が聞こえた。指先は動じない。

「其の患者は間も無く死ぬ。手術を中止しろ」

「名札を見つけてしまったから、中止出来ない。彼はアッセルという名らしい」

 漏れ出した血液を吸入する。ザザザという残り少ない飲み物を啜る様な音が手術室に響いた。全員を運んで帰ってきたエキドナが代わりに居た看護師と交代する。ブランデーは牙を剥いて激怒した。

「戦場にも出ない医者風情が軍獣様に口答えをするな」

「ふうん」

 硬膜から飛び出ている脳と、名前の通り帽子の形をしているはずの帽状腱膜が完全に切れた様を眺め、有茎弁を移植する事に決めた。そして邪魔である骨の破片を膿盆にカタカタと入れる。お前に構っている暇はない、話しかけるなと言いたくなったが徹夜と足腰の疲労で脱力していた。

「医者風情に言わせてもらうと、私達は君達の尻拭いをさせて頂いている。勝手に戦場に出ているせいだ」

 ぼそっと呟く。エキドナが噛み潰した様な笑いを上げて、器具を両手に持ち渡す。エヴァンがメッツェンを持ち、鑷子で血管を掴んだまま間に入れて剥がしてゆく。背後で愚かな鰐が扉を蹴り開けた。

「不潔だ。病原体が入り込むな」

 穿孔機を激しく回転させて、劈く様な音を立てながら其れを向けた。微かに露出した構造色の鱗に一瞬戸惑う。鋭い紅紫と玉蟲色に心臓がドッと跳ねて鳴いた。

「う、煩い。撤回しろ」

「しない。そういえば一頭で此の手術は疲れるから助手を四頭と外回りを呼べ。隣に居る鹿に似た麒麟と月輪熊をまず引っ張ってきて欲しい」

 にいと爬虫の眼を震わせて細めた。笑い掛けているのではなく、疲労で瞼が痙攣している。

「はは、一頭で手術も出来ないのか」

 ブランデーが皮肉っぽく口角を吊り上げる。此処の連中で気持ちのいい奴は誰も居ないなあと眼を強く瞑った。瞼裏には割れた頭蓋骨の隙間から見える赤い塊がある。青い物を見ないと気が狂いそうだ、と初めて心の底から青豹を求めた。だが何度も瞬きして「立ち話してる暇があるなら、早く動いてみると良い」と助言をした。

   ♪♪♪

 静まった手術室で淡々と手を動かす。艦艇の沈没、爆破による怪我獣が次々と送られる中、屍体の需要は高まっていた。陸軍に比べると同種が多い為、鯨科の肝臓や肺が必要だったのだ。つねにカチャカチャと絡み合う金属音と、外からする破裂音で賑やかである。ペランサは慣れた様子で胸を切り開き、固定しつつ北叟笑んだ。

「此れ、脳震盪で死んでるから外傷が殆どありませんよ」

 説明に似た言葉を投げて、直ぐに視線を胸へと移す。心臓の動脈、静脈を切断して虚脱させた。大動脈を遮断して心筋保護液を注入する。ふにゃんと柔らかくなった心臓を持ち上げて肺動脈をパチパチと切る。組織も鋏で切離して氷冷生食水で洗った。心腔内を保存液で置換し、心臓そのものを漬けたパックの空気を抜いて、二重に浸す。其の光景は作業そのものだ。

「君子曰、學不可以已。青取之於藍、而青於藍、冰、水爲之、而寒於水」

 勧学という東國の書物に載っていた言葉をサラリと言う。嘗ては西欧ではなく東の大陸に居て書物を読む日々を繰り返していたのだ。麒麟だからか、時間にも囚われずのんびりと。微かに残った竹藪の香りを言葉に染みさせて、はあと小さく息を吐いた。ペランサは一瞬驚いた様な顔をしたが、胸を縫合しつつ弱く笑った。

「いやあ、まだ全然染まっていません。薄いどころか褪せてますよ」

「謙虚で良い」

 クスッと表情を柔らかくした。すると扉の奥から大声で「エヴァンからのお呼び出しだ。至急、手術の助手をしろとの事である」と野太い声が響く。二頭は顔を見合わせて、さっと汚れた手袋を捨てた。

   ♪♪♪

 ペアン鉗子で組織を掴み、止血する。そして緋色で汚れた脳を洗浄液で洗い流した。兎に角、出血箇所は鉗子などで止血して縫う。言葉に表せない正確さと丁寧さがある。だが状況は一刻を争う為、素早かった。

「先生、獣工頭蓋骨は手配済みですから直ぐに来ますよ。DICですね。濃厚赤血球液の輸注しました?」

 フンワリと苦い檸檬の匂いが通り抜けた。果実を擦り潰したみたいに、頭へ眼へと上ってくる。ツン、とした若干の痛みを感じるがエヴァンはもう慣れていた。例の悪漢、すなわち青豹も檸檬に似た嫌な香りを染みつけていたのだ。はあと一瞬呆れて頷く。

「先にした。抗凝固薬も投与しているから後は頼みたい。既に脳の処置は終わったが再出血する可能性がある。頭蓋骨以外に腰、肩などを骨折しているが重症ではないからCMで良い」説明しつつ手袋を剥ぐ。

「了解です。心拍も正常ですね。先生はやっぱり綺麗な縫い方だから見易くて助かります」

 縫合された血管を覗き込むと、恍惚として顔を赤らめた。恋する少女か冬に熱いスープを飲んだ様に熱が籠っている。熱が冷めない内に、手術の形跡を一つ一つ眼で辿った。

「縫合能力はどうでも良い。私はこっちで重症患者の手術を行うから何かあったら呼べ」

「了解しました。でも疲れたら眼にも身体にも良くないので気軽に声掛けてくださいね」

 器具を受け取って微笑み掛ける。エヴァンは顔を合わせないまま曖昧な返事をして体の向きを変える。鱗のせいか隣の痩せ細った熊より筋肉質で、古代の神殿にある彫刻か絵画を思わせる体躯をしている。弟と通ずる美にエキドナが眼を見開いた。

 真横の殺風景な手術台に移動すると、せっせと検査を終えた海竜が運ばれてきた。熱帯に生息するからか尾鰭は鯨と瓜二つだが、顔は火山地帯と似てゴツゴツとしている。肌は鮫に似て、白い腹をしていた。唸り声か、鳴き声か判断の出来ないくぐもった呻き声を上げて何かを主張している。容姿は擦り傷や煤で汚れているだけだが、蜥蜴の看護師に耳打ちされて納得する。然し、途端に心の奥底から這い上がってきた言葉が吃逆の様に溢れた。

「俺を何医だと思っている。耳、聞こえていますか」

 難聴だった友人の為に覚えていた手話を流暢に使いこなす。海竜は取り乱して青褪めたまま嗄れた声を絞り出した。其の姿は暗闇に放り出された赤子だ。

「聞こえ、ない。聞こえない。何て言ってんだ。みみ、耳が、耳が痛い」

 文字を壊して散らした様な震えた声。喋る度に奥がツウンと痛んで耐えられないと付け加えて涙を流した。

「鼓膜穿孔だ。音で破れたらしい」ペランサの耳許で囁いて「鼓膜が破れているので、麻酔を掛けて手術をします」とゆっくり手を動かす。

 耳に向かって麻酔液に浸した脱脂綿を使って局所麻酔を掛けた。知識としてはあるが急に実践する事になるとは、と静寂の中メスを握る。すると、扉越しに「宜しいかな?」と声が響いた。其の刹那、扉が開いて手術衣を纏った斑雪の様な羽毛を持つ白梟と、病弱そうな色素の薄い大鹿が入り込んでくる。青緑の手術衣で三頭はPLAの医者だと察した。

「助手として配置された水星マーキュリーである。まだ戦場では未熟者だが宜しく頼む」

 黄色く真ん丸い眼を煌めかせる。エヴァンが「私も戦場じゃ雛鳥だ」と胸の底で呟いていると、水星の背後から色素の薄い大鹿が大胆に腰を折って挨拶した。片脚が曲がり、震え、義足の脚は妙に安定している。

「自分も助手として配置されました。冥王星プルトゥーンと申します。雑用として扱ってください」

 焦茶と薄い灰色を混ぜて割った様な毛色が眼許から見て分かる。肝心の眼は焦茶で、気弱そうな声とは真逆に力強い。

「ふうん、隊員が惑星の名前なら、指導者は太陽か」

「いいや、指導者は北極星ポラールだ」

 北國の呼び方か、と違和感を持ちながらフーンと声を鳴らす。すると水星が隣に立って鼓膜を覗き込んだ。エヴァンはいつの間にか思想の偏りが少なそうな指導者を思い浮かべて「其れは良さそうだ」と返した。視線を移し、手を細かく動かして鼓膜をメスで切り除く。学んだ通り膜は薄く張っている。音で破けても仕方が無いなと納得してしまう。水星が小声を上げた。

「ほう、上手ではないか。流石あの弟の兄だ」

 感嘆の言葉を漏らす。気にせずに鼓膜再生を促す薬剤を含ませたゼラチンスポンジを入れた。そして組織接着剤をつける。

「弟は私の誇りだ。兄弟として誰よりも尊敬している」

 器具を置いて、じっと細長い瞳孔を向けた。眸の中にある硝子玉の様な模様が澄んでいる。ほんの僅かに焦燥の色を残して、さっと眼を逸らした。

「何かが飛んだ」

 手術台から離れて耳を澄ました。遠くからは避難する獣の足音とキイインという余韻が轟いている。生き物の様に焔が広がり、頭蓋骨が圧で粉々になる音まで明瞭だ。耳鳴りに混ざって教会がハラハラと地面に倒れ込み、砂と瓦礫の破片で道が塞がる。攀じ登るペタペタという肉の音と、尻尾を打ちつける音。逃げると地雷が破裂して水が噴き出す。然し、手術室は静寂に呑まれ、何も聞こえない。そんな中で水星だけが軽く頭を傾けた。

「今のは危ない。重要患者の輸送は済んでいるから安心したまえ」

 エキドナに片手で回復室へ移すように命じる。彼女は其れに不機嫌そうに返事して、尻尾を横に揺らしながら患者を輸送用ベッドに移す。別の看護師と眼が合うと「早く手伝え」と牙を剥いた。

「重要患者とは?」エヴァンが器具を置いて訊く。

「議員や軍獣だ」あっさりと答えた。

「一般市民は?」

「少しの犠牲は仕方が無いだろう?」

 眉を顰めて軽蔑した視線を投げる。短い嘴が布の下で動いた。冥王星が「まあ、戦場ですから。全員は守れませんよ」と分厚い毛の間に笑窪を浮かべる。嫌に長く掌の様な角をへし折ってやろうか、とペランサが身を寄せたが乾燥して燻んだ声色にふと止まる。外でも死にたく無い、なんて叫ぶ人は居なかった。皆、「子供だけは」とか「弟だけでも」と大切な人ばかり心配する。犠牲にしてでも、という眼の眩む程に美化された本能が輝かしく周囲に溢れ返っていた。どうにも責め立てるには可哀想だという空気の中、エヴァンは背を向けて手袋を外した。

「頭が痛い」途端に沈黙が落ちた。

   ♪♪♪

 木は赤々とした実を抱き、落とし、枯れてまた花を咲かせた。世界からの寄付金は数々の花束に変わり、街の至る所に写真立てと共に置かれている。向日葵畑だった場所は墓場になり、赤白青に盾の國旗が淋しい風に吹かれて靡いていた。海豚の写真も岩の上に立てられ、青玉よりと書かれた胡蝶蘭が添えられている。瓦礫を持ち上げて運ぶ象や、布や石を使って外で言語を学ぶ鴉が並んでいた。戦車や軍用機が帰還し、花を投げたり囀りで歓迎する中、病棟であった場所は片付けられ、静まっている。

 燦々と太陽が輝きを増す午後一時十五分、突然仮眠室にパロマが来た。毛は自分で切り落としたのか不恰好で、軍帽を深く被っている。

「撤退」とだけ告げられ、彼らは万年筆を拾う暇もなく連れて行かれた。色褪せた擬装網をぶら下げて燻んだ黄褐色の薄暗い車に乗る。泥が床に乾いてへばりついて軍靴が並べられている。クルルは疲労で口も開けず、ただ上を向いていた。汗の混ざった獣臭に嫌気が差して鼻を覆う。

「手術室に居たから何があったか分からない」

「海軍の将校死んだらしいね」

 遮って悲しそうに耳を倒した。クルルが胸糞悪そうに角を向けたまま眼を向ける。嫌悪か、厭な部分を爪で突かれている様で何とも言えぬ気持ち悪さが嘔吐と混ざって出そうになる。ただ正常心を保とうとエヴァンの横顔を眺めるが、哀愁が漂って淋しそうな艶を鱗に残していた。追い討ちを掛けるが如くパロマが顔を寄せる。狼らしい長い口吻が接吻寸前まで近寄る。毛、一本一本が隅々まで見えた。黒毛と柿毛が混ざり合い斑模様が耳の端まで広がっている。

「手術したんだろ?」

「……ボニファーツに監視しろと命令されたのか」

 項垂れて淡い眼を向けた。絶望でも無く、ただ滾滾と水が湧く様に疑問が流れてゆく。重々しく垂れていた尻尾が縦に揺れを刻んだ。パロマは耳をピンと立てて意外そうな顔をすると、麻呂眉を寄せて瞼を閉じた。

「軍では基本的に、どんな僅かな情報でも報告は全て受ける。網羅的にね、アンタの情報も、亡くなっている両親の情報も、恩師や友人、親戚、知人、生徒、生徒の親戚、生徒の知人、生徒の友人、元恋獣、好み、性格、患者、患者に関する獣、教授。ぜーんぶ伝わってる」

「気持ちが悪い」

 唖然としてクルルが吐き捨てた。パロマは一瞬だけ牙を覗かせると、唇の間から言葉を溢そうとして態とらしく笑う。声も立てずに薄い皺だけを残して、鼻をスルッと撫でた。口吻を指腹でなぞって、眉間を軽く押す。彼女の癖だ、とエヴァンが頭を上げる。

「そうよ、気持ち悪いのよ。そういう事をして、何も知らない顔して生きてるのがヒラールの連中だから」

「それで、海軍将校を暗殺したのか」

 金剛石を感じさせる硬い声である。だからと言って普段通りの冷えも無く、熱も無く、疑惑と暗い焔が眸の奥底で揺れている。パロマは唾を呑んで、じっと眼を合わせた。

「違う」

「神に誓って違うと言える」

 グッとエヴァンの掌を両手で包み込んだ。疲労を抱えた鱗の並列、一枚一枚は硬く、鉤爪は真っ白で先端から桔梗を滲ませた色をしている。傷こそ無いが、老人の手でも握る様な気分に浸った。暫く頭を傾けて撫でていると、「俺の努力不足だ」と呟く。

「はあ、アンタ悪くないでしょ。あれは屍体同然の物だった」

 溜息混じりに言って、パッと手を離した。不貞腐れて文句を漏らしているクルルの口を塞ぎながらエヴァンが口角をギュッと下げる。口周りの薄鱗の皺も同時に下がった。

「屍を生かすのが医者の責務だ」

 口吻を掴まれたクルルもそうだとばかりに強く頭を振る。パロマは乾いた笑みを浮かべて、また鼻を撫でる素振りを繰り返す。毛並みが鼻ばかり整っていた。

「でも美辞麗句を連ねてるだけじゃないか。まず命には優先順位がある。位で価値が分かれてるんだから」

 エヴァンはうーんと顎下に親指を添えて瞳孔をチラチラさせる。

「なら政治家とボニファーツが居たら政治家を助けないとな」

「ふーん。ウチなら優先順位関係無くそうするけどね」

 脚を伸ばして大きな口を開くと喉奥を見せて欠伸した。戦車は木の葉に紛れ、泥に汚れた道を淡々と進んでゆく。

 山は連なり聳え、雲を突き抜けて万年雪を山頂に残している。削られた窪地に溜まる濃浅葱の氷河湖は冴えた色を残し、薄く雲を纏っていた。青い青い氷が湖から空を見ている。黒黒とした煙の立ち昇る空を。

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