向日葵は、誰のために咲くか ― 哀歌の夜に (Elegy of the Night) ―

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第1話:向日葵は、冬の夜に歌う

 冬、夜の帳が下りた。

 敷地内の母屋は暗く、離れの窓から漏れるわずかな灯りだけが揺れている。静けさの中で、ひとつの声だけが絶え間なく鳴っていた。


 妻、美枝子が歌っている。

 低く、細く、それでいて部屋を満たす。最初は枕元で口ずさんでいるだけのように聞こえた。だが、時間を追うごとにその旋律は厚みを増し、やがて家全体を包むようになった。


 曲名はない。だがどこか古い教え歌のような、祭りの残り香のような、馴染み深い調べだった。祈りにも、呪いにも聞こえた。


 もう深夜二時を回っている。薫も紗季も毛布を頭まで引き上げ、寝息を殺している。


 私は離れのリビングのソファに沈み、ただその声を聴いていた。息を詰めて聴くのではない。観察するように、音の形を辿るだけだ。


 彼女は笑っているのか、泣いているのか、判然としない。目は虚ろで、口元はよく笑うあの表情を残している。だがその笑いがどこか不自然で、光の裏側にある影まで明るく浮かび上がらせているようだった。


 手の甲が離れの白い壁を叩く規則的な音が、歌に拍を与えている。


 叩くたびに白い壁に赤い線が走り、それが夜の闇の中で乾いていく。血は鮮やかで、生のリズムを刻んでいた。


 美枝子の手はやがて、叩くことそのものに放心しているかのように見えた。痛みさえも歌の一部になっているのだろうか、と私は思った。


 「リラックスのために歌ってるだけよ」——以前、美枝子はそう言ったことがある。


 心が落ち着かないときに口ずさむ、それが彼女の処方箋だった。だが今のそれは、まるで治療ではなく儀式だ。明るさが過剰で、眩しさが刺さるように痛い。


 私は立ち上がり、近づこうとした。声をかければ彼女を現実に戻せるのではないかと考えたからだ。


 だが足は砂のように重く、動かなかった。

動かせなかった、ただ言葉を投げれば彼女の世界を壊してしまうのではないか――そんな思いが突然、胸をよぎった。


 だから私はその場で、静かに座り直した。観察は、時に守りそのものになる。


 「出ていけ」——また鋭い声が廊下の奥から響いた。


 美枝子の叫びだと思った。だがその直後、彼女の顔は不思議に柔らかく変わった。誰もいない壁に向かって、穏やかに囁く。


 「そうね、低い波動はこの家には合わないわ。私たちは、もっと高い次元で生きるの。だから、同じ世界にはいられないのよ」


 言葉は滑らかで、どこか儀礼めいていた。抗議でも罵倒でもなく、自分を守るための作法のように聞こえた。外部の争いを“高次元の論理”に置き換えることで、自らの尊厳を取り繕う。


 私はそのとき、あの声がただの錯乱ではなく、防衛の最終形だと直感した。だが防衛の言葉が、現実を止めるわけではない。再び、叫びが出る。生の声が、引きつる。


 「出ていけ!」


 私は、自分の声が、ここではどれだけ弱く映るかを知っていた。美枝子の言葉は家族の深い構造に根ざしていた。母屋の空気は血と土地で結ばれている。余所者である私がそこにいること自体が、既に折り合いのつかない問題なのだ。理屈は、いつも後からついてくる。


 廊下の板がきしむ音が、静かな反抗のように聞こえた。薫と紗季の寝息の奥で、美枝子はまだ歌っている。


 私は一度だけ彼女の方を向いた。笑いながら壁を叩く手。白い肌に赤い拍が走っている。かつての、向日葵の様に陽気で笑顔に満ちた彼女の影は、そこに確かにあった。だがその影は、今や何層にも重なった仮面の一つにすぎない。


 歌い始めてから、もう時間がどれほど経ったのか分からない。私は携帯を取り、救急の問い合わせ番号に指を伸ばした。


 呼吸は乱れていない。だがこの状態が続けば、確実に体は蝕まれていくだろう。救急車を呼ぶ──その判断をするには、もう躊躇はない。ためらいは、もはや子どもたちの安全を守る上で罪になる。


 受話器の向こうで、オペレーターの声が落ち着いて応答する。住所、状況、症状説明。私は淡々と事実を告げる。


 妻、美枝子が歌い、壁を叩き、血が出ていること。以前にも救急搬送されたことがあると伝えた。なにより、娘達、薫と紗季が同じ家にいること。助けが必要だと、私は何度も言った。言葉に震えはなかった。ただ、決意だけが固かった。


 電話を切ったあと、母屋の方角に赤い光が遠くに揺れるのが見えた。救急車ではないかもしれない。だが遠くで何かが近づいている気配がある。私の胸の中で、夜の歌が少しだけ囁き方を変えた。誰かの声としてではなく、時間そのものが鳴っているようだった。


 私はジャケットを羽織り、離れの玄関のドアを開けた。冷たい風が頬を刺す。外の空気は夜の匂いを帯びていて、家の中の音が遠くなるのを感じた。


 振り返ると、リビングの窓越しに美枝子の姿が見えた。歌い続ける背中。壁を叩く手。白い壁に刻まれる赤。


 扉を閉める直前、私はもう一度だけ薫と紗季の寝室の方向を見た。そこにいる彼女たちの顔を確かめるまでは、私は外に出るつもりはなかった。小さな寝顔に灯る街灯の影が、微かに揺れていた。


 ドアを閉める音が小さく家に響いた。外の夜は深く、静かだ。遠くから、たしかにサイレンのような音が聞こえ始める。私はそれを聴きながら、胸に一つの決意を固めた——ここで何が起ころうとも、子どもたちを守るために動く。声に出して言う言葉はなかった。ただ足を前に進めるだけだった。


 向日葵の歌は、まだ続いていた。

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