游ぐ金魚
夏蜜
第1話
幼い頃、父と一緒に町の縁日へ出かけたことがある。矢鱈縞の浴衣に縮緬の帯を締めた私は、こんな夕方にどこへ連れて行ってくれるのかと、わくわくしたものである。
着いた場所では、同じく浴衣を着た人たちが大勢道に溢れていた。道端には屋台という屋台が並び、豆電球が暖簾を明るくしている。真上にはいくつも提灯がぶら下がっていて、赭色が私の瞳を魅了した。初めて見る光景に、私は物凄く興奮したことを覚えている。
私は背が低かったので、父に肩車をしてもらい、込み入った参道を行った。提灯はすぐ目の前にあり、私は片方の手を父の頭に、もう片方の手を提灯に伸ばす。届きそうで届かず、私は子供ながらに苛立ちを覚える。私はこの時、あるものと勘違いしていた。
「欲しい、あれが欲しいよ」
父は手を焼いたことだろう。ぐずつく私を降ろし、今度は手を引いて歩いていく。ある暖簾の前に来ると、父は懐からがま口財布を出し、店の主人に硬貨を数枚渡した。代わりに貰ったポイを私に握らせ、金魚をすくうよう促してくる。
三尺ばかりの青い水槽には、紅く小さな金魚がたくさん游いでいた。私はどうしたらよいのか分からず、隣で挑む女の子をちらりと窺った。女の子は私よりいくつか歳上だったが、子供とは思えない器用さで金魚をすくってはボウルに入れる。
私は見様見真似でポイを水槽に潜らせた。すると、忽ち白い紙が溶けてしまった。もう一つのポイを父から受け取ったが、金魚をすくう前に網が破れ、その枠の中を金魚が挑発するように擦り抜ける。
父は私の頭を撫で、どうするか訊いた。私は意地になり、もう一度挑戦することにした。金魚の動きを見定めてから素早くポイを沈め、破れないうちに水からすくい上げる。コツは掴んだものの、すぐには思った通りにいかない。
結局何度も失敗し、見兼ねた主人が金魚袋をくれた。それでも私は嬉しかったし、たくさん遊べて満足したのだった。
家へ帰り、父は硝子の金魚鉢に水を入れ、奥座敷の座卓に置いた。金魚鉢は底は透明だが、口に近いほど青みの増す綺麗なデザインだった。ガラス職人である父の自信作である。
私はこっそり父の工房へ入るのが好きだった。工房にいる父は引き締まった顔をしており、真摯に作品を創り上げる職人そのものだった。熱い炉に熔かした硝子を吹き竿に巻き取り、息を吹き込んで硝子を膨らませる。成形するためにくるくると回された硝子は赤く、大人になった今でもその色が目に焼きついている。
縁日へ出かけた日、私はまだ幼かったために、蝋燭の灯された提灯を熔かされた硝子と見間違えたようだった。宙吹きガラスに対する興味や好奇心が強かったのだ。
あんなに憧れていた父の仕事は、思春期に差しかかる辺りには魅力を失っていた。私は良くない人間とつるむようになり、生活は荒れ、父とも離れていく一方だった。
高校を卒業すると、田舎から逃げるように上京した。都会は派手だが、金が物を言う。そのため、出来る仕事は何でもやり、日々を食いつないだ。夢を持つことなど、とうに忘れていた。ふと生きている意味が分からなくなり、最悪な決断が脳裏を過ることもあった。
そこへ一本の電話が入った。近所の人からだった。父が亡くなったという訃報を受け、私は久しぶりに実家に帰ってきた。
この日は雨だった。玄関脇に、あの父の自信作であった金魚鉢が泥にまみれて捨てられていた。中には雨水が溜まり、落ちてくる雨によって次々に輪が作られる。水面を游ぐ金魚はどこにもいなかった。
私は地面から金魚鉢を拾い上げ、肩を震わせた。私は父が大事にしてきたものを護ろうとしなかったのだ。取り返しのつかない後悔が、頻りに涙となって溢れる。
「ごめん、ごめんなさい、お父さん」
父の葬儀が終わり落ち着いた頃、私は久々に同じ敷地内にある工房の扉を開けた。くすんだ窓、年季の入った熔解炉、徐冷窯──。
まだ工房は生きていると感じた。私は吹き竿を手に取り、硝子に息を吹き込む真似をした。かつて父に教わったように、神経を集中させて作業に取り組む。私は幼少期に抱いていた憧れが、今もあることに驚いた。私はもう、夢のない青年ではなかった。
月日が流れ、私はガラス職人としてなんとかやっていた。自作の作品を展示したり、販売する目的で、自宅の一部を改修した。もちろん、父が遺した作品もある。座卓では一匹の金魚が、青く揺れる硝子の中を優雅に游いでいた。
游ぐ金魚 夏蜜 @N-nekoko
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